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札幌地方裁判所 昭和53年(ワ)205号 判決

目  次

項目

当事者の表示<略>

主文

原告 中村キク ほか七〇名

被告 国 ほか一名

代理人 水原清之 畑瀬信行 木戸則幸 ほか一〇名

主文

一  被告日本電工株式会社は、別紙「認容金額一覧表」(一)、(二)記載の原告らに対し、それぞれ同表「認容金額」欄記載の各金員及びこのうち同表「慰謝料額」欄記載の各金員に対する同表「遅延損害金の起算日」欄記載の日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  別紙「認容金額一覧表」(一)、(二)記載の原告らの被告日本電工株式会社に対するその余の請求をいずれも棄却する。

三  原告らのうち別紙「認容金額一覧表」(一)、(二)記載の原告らを除くその余の原告らの被告日本電工株式会社に対する請求をいずれも棄却する。

四  原告らの被告国に対する請求をいずれも棄却する。

五1  訴訟費用中、別紙「認容金額一覧表」(一)、(二)記載の原告らと被告日本電工株式会社及び被告国との間に生じた費用は、右原告らに生じた費用の二分の一と被告日本電工株式会社に生じた費用を被告日本電工株式会社の負担とし、右原告らに生じたその余の費用と被告国に生じた費用を右原告らの負担とする。

2  訴訟費用中、原告らのうち別紙「認容金額一覧表」(一)、(二)記載の原告らを除くその余の原告らと被告日本電工株式会社との間に生じた費用は右原告らの負担とする。

3  訴訟費用中、原告らのうち別紙「認容金額一覧表」(一)、(二)記載の原告らを除くその余の原告らと被告国との間に生じた費用は右原告らの負担とする。

六  この判決は、主文第一項記載の認容金額について仮に執行することができる。

事  実〈省略〉

(証拠)<略>

理由

第一章 当事者並びに選択的併合の判断順序及び認定に供した書証の成立について

第一 当事者

一 原告ら

1 生存原告

2 遺族原告

二 被告ら

1 被告会社

2 被告国

第二 選択的請求の判断順序について

第三 認定に供した書証の成立について

第二章 栗山工場におけるクロム酸塩等の製造

第一 栗山工場の沿革及び生産品目等

第二 製造工程

第三章 栗山工場における作業環境、クロム含有粉じん、ミスト等の発生及び被暴状況〔被告会社の加害行為その一〕

第一 被告会社の加害行為に係る主張立証の構成及び加害行為の認定順序等について

一 加害行為の存否の認定とそれを超える事実関係の認定

二 被告会社の加害行為に係る主張立証の構成

三 被告会社の加害行為の認定順序

第二 栗山工場の各工程の稼動状況及び作業環境(個別的具体的観察)

一 判断方法及びいくつかの前提事項について

二 焼成工程

1 主工程の概要

2 鉱石等乾燥・粉砕、配合、造粒工程

3 焙焼工程

4 浸出工程

三 精製液工程

1 主工程の概要

2 加酸から晶出分離までの各工程

3 製品乾燥、包装工程

4 芒硝荷造り工程

四 重クロム酸カリ工程

1 主工程の概要

2 各工程の状況

五 無水クロム酸工程

1 主工程の概要

2 各工程の状況

六 酸化クロム工程

1 主工程の概要

2 各工程の状況

七 塩基性硫酸クロム工程

八 各工程に直接属さないその他の作業

1 パルプ運搬・投棄

2 営繕

3 雑役

第三 栗山工場の空気中クロム量の実測データ等

一 はじめに

二 角田、館両報告の記述内容

1 角田報告

2 館報告

三 実測値の比較等

1 空気中クロム量に関する規制値等

2 実測値の比較

四 館報告の空気中クロム量の実測値等の検討

1 はじめに

2 一般的問題点

3 分析方法の問題点(鉱石粉砕・配合、焙焼工程の実測値について)

4 加酸工程の実測値等について

5 まとめ

五 角田報告の空気中クロム量の実測値について

第四 栗山工場の作業環境に関する全体的観察等

一 鼻中隔穿孔罹患状況

二 工場建家の状況等

三 栗山工場粉じん予防対策委員会等について

四 徳島工場の新設等について

第五 まとめ

一 塩基性硫酸クロム工程以外の各工程等

二 塩基性硫酸クロム工程について

第四章 クロムによる身体障害(一般的因果関係)〔被告会社の加害行為その二〕

第一 はじめに

一 一般的因果関係(因果則)の存否の判断

二 専門家会議の検討結果報告書

第二 クロム及びその化合物

一 クロム

二 クロム及びクロム化合物の化学的性質等

1 一般的化学的性質

2 クロム酸塩等

3 その他のクロム取扱産業と本件における一般的因果関係

第三 クロムの人体に対する影響

一 人体の必須元素としてのクロム

二 クロムの毒性

三 クロムの生理作用

1 吸収

2 移動・蓄積

3 分布

4 排泄

5 急性大量摂取と慢性暴露

第四 クロムによる身体障害

一 がん以外の身体障害

1 皮膚の障害

2 上気道の障害

(一) 上気道の機能等

(二) 鼻の障害

(1) 鼻の機能等

(2) 鼻炎、鼻粘膜潰瘍等

(3) 鼻中隔穿孔

(4) 慢性副鼻腔炎

(5) 嗅覚障害

(6) 業務上疾病認定について

(三) 咽喉頭の障害

3 気管支・気管・肺の障害

(一) 気管支等の機能等

(二) じん肺

(三) 慢性気管支炎・気管炎、肺炎、肺気腫

(四) 肺機能障害

(五) 業務上疾病認定について

4 胃腸の障害

5 肝臓の障害

6 腎臓の障害

7 まとめ

二 肺及び上気道のがん

1 はじめに

2 クロムによる肺がん等に関する専門家会議の見解等及び各種法規等の規定の推移

3 被告らの認否の意義等

4 訴訟上の因果関係の立証の意義

5 専門家会議の見解の意義等

6 具体的機序解明による因果関係の立証の成否

7 クロム酸塩等製造作業者におけるクロムによる肺がんの症例報告

8 クロム酸塩等製造作業者における肺がん、上気道のがんに関する疫学的研究

(一) 疫学調査の報告例

(二) クロムによる肺がん等発症までの暴露、潜伏期間

(三) 喫煙による影響について

9 クロム化合物の発がん性に関する実験的研究

(一) クロム化合物の変異原性試験

(二) クロム化合物による発がん実験

(三) 実験的研究の評価について

(四) 要約

10 原因物質等

11 因果関係に関する考察及びまとめ

(一) 因果関係の存否自体について

(1) 各種疫学調査結果の要約

(2) 各種疫学調査の評価・検討

(3) 肺がん発症に係る因果関係

(4) 上気道のがん発症に係る因果関係

(二) 因果関係に関する限定の有無について

(三) まとめ

第五章 被告会社の生存原告及び死亡者に対する加害行為の成否(加害原因行為、個別的事実的因果関係、被害の発生)〔被告会社の加害行為その三〕

第一 はじめに

第二 生存原告

一 生存原告らのクロム酸塩等製造作業従事

二 生存原告らのクロム粉じん等の被暴、吸入

三 生存原告らの各障害の発生及びこれに係る因果関係

1 皮膚障害

2 鼻炎、鼻粘膜潰瘍等、鼻中隔穿孔

3 慢性副鼻腔炎、慢性篩骨洞炎、慢性上顎洞炎

4 嗅覚障害

5 原告中川の鼻腔腫瘍

6 鼻の機能障害及び生存原告らの自覚症状

7 じん肺、慢性気管支炎・気管炎、肺機能障害

8 その他の呼吸器関係症状

9 胃腸障害

10 肝臓障害、腎臓障害

11 まとめ

四 被告会社の生存原告らに対する加害行為のまとめ

第三 死亡者

一 死亡者に対する被告会社の加害行為(特に個別的事実的因果関係)の認定及び被告らの認否等(被告国の自白の成立)について

二 死亡者中村、同櫻庭、同中井、同佐藤、同今西、同池田、同工藤について(原告ら・被告会社間)

1 死亡者中村ら七名のクロム酸塩等製造作業従事

2 死亡者中村ら七名のクロム粉じん等の被暴、吸入

3 死亡者中村ら七名の肺がん罹患及び死亡並びにこれに係る因果関係

4 まとめ

三 死亡者小坂について(原告ら・被告会社間)

1 死亡者小坂のクロム酸塩等製造作業従事

2 死亡者小坂のクロム粉じん等の被暴、吸入

3 死亡者小坂の喉頭がん罹患及び死亡並びにこれに係る因果関係

4 まとめ

四 死亡者松浦について(原告ら・被告ら間)

1 死亡者松浦のクロム酸塩等製造作業従事及びクロム粉じん等の被暴、吸入について(原告ら・被告会社間)

2 死亡者松浦の肺がんの原発性について(原告ら・被告ら間)

(一) はじめに(死亡者松浦の死因等について)

(二) 死亡者松浦の診療経緯等

(三) 死亡者松浦の剖検所見等

(四) 死亡者松浦の肺、膵臓以外の臓器等の原発性がんの存否及び肺原発性の立証の構造

(五) 死亡者松浦のがんの存在部位

(六) がんの組織像による原発部位の判定の可否

(七) 肺がんの原発性自体に関する所見等について(原告らに有利な状況事実の存否)

(1) 死亡者松浦の診療経緯等について

(2) 左肺の孤立性の腫瘍の存在及び右肺の腫瘍の状況

(3) 左肺を中心とする直達性浸潤、病変の広がりについて一八一

(4) まとめ

(八) 肺がんの原発性自体に関する消極所見(肺門リンパ節等への腫瘍転移の状況)について

(九) 膵臓原発がんの存在に関する所見等について

(1) はじめに

(2) 死亡者松浦の剖検診断等について

(3) 膵体部の孤立性の腫瘍の存在について

(4) 腹腔内の病変の広がり方について

(5) 腹膜がん腫瘍の発生について

(6) 下大静脈等への直達性浸潤、血栓形成状況について

(7) 腫瘍の臓器間転移のデータについて

(8) まとめ

(一〇) 膵臓がんの肺転移の疑いについて

(1) 膵臓がんの肺転移の疑いに関する立証及び肺原発の肯定の可否について

(2) 状況事実の総合的判断

(3) 重複がんの成否について

(4) 肺転移の疑いに対する反対立証(がんの発生時期の先後関係)について

(一一) まとめ

3 死亡者松浦のクロム被暴、吸入と肺がん罹患の個別的事実的因果関係の不存在

五 死亡者大渕について(原告ら・被告会社間)

1 死亡者大渕のクロム酸塩等製造作業従事及びクロム粉じん等の被暴、吸入

2 死亡者大渕の肺がん罹患及び死因について

3 まとめ

六 死亡者山田について(原告ら・被告ら間)

1 死亡者山田のクロム酸塩等製造作業従事及びクロム粉じん等の被暴、吸入

2 死亡者山田の肺がん罹患及び死亡並びにこれに係る因果関係

3 まとめ

七 被告会社の死亡者らに対する加害行為のまとめ

第六章 被告らの行為義務及び責任

第一節 被告会社の不法行為責任

第一 被告会社の責任に関する判断の前提事項等

一 過失責任の主張

二 判断対象について

三 予見可能性及び結果回避可能性の不存在の判断について(被告会社の抗弁第一章との関係)

第二 被告会社の過失の内容及び構造等

一 加害行為と過失

二 被告会社の過失の構造、要件等

1 被告会社の過失の要件

2 結果回避義務違反の存在すべき時期

3 結果予見義務について

第三 被告会社の結果予見、予見可能性(因果関係認識、認識可能性)の存否

一 検討方法、因果関係認識・認識可能性の内容等及び認定に供した証拠

1 検討方法

2 因果関係認識・認識可能性の内容

3 医学情報、資料の存在と被告会社の認識可能性

4 認定に供した証拠

二 被告会社のがん以外の身体障害(認定障害)発生の因果関係の認識・認識可能性(生存原告らの係る結果予見・予見可能性)

1 被告会社の因果関係認識状況の判断が必要な時期

2 争いのない事実

3 栗山工場操業開始直後(昭和一三年)ころの状況

(一) 先進諸国における知見の状況等

(二) 皮膚障害、鼻中隔穿孔等発生の因果関係に関する被告会社の認識状況

(三) その余の鼻の障害及び気管支・気管・肺の障害発生の因果関係に関する被告会社の認識状況

(1) 因果関係の存在の推測について

(2) 各種文献について

(3) 検討

(四) 被告会社の認定障害発症の結果予見、結果予見可能性(要約)

三 被告会社の肺がん及び上気道のがん発症の因果関係の認識状況認定の基礎事実等

1 被告会社の因果関係認識状況の判断が必要な時期等

2 被告会社の認識状況、認識可能時期等に関する原告らの主張の骨子

3 外国におけるクロムによる肺がん等の研究報告状況(昭和二八年ころまで)

(一) ドイツにおける症例報告

(二) 戦後の米国における疫学的研究

(三) その他の外国文献等

(四) 動物実験等について

4 我が国におけるクロムの発がん性に関する外国の医学情報の流入等(昭和二八年ころまで)

(一) 我が国の刊行物によるドイツにおける症例報告等の紹介等

(二) ドイツ、米国の文献そのものの我が国への流入状況

四 被告会社の因果関係の認識状況(被害者たる死亡者に係る結果予見・予見可能性)の検討判断

1 被告会社の外国における医学情報、資料の獲得可能性(知見の取得可能性)

(一) 戦前のドイツにおける産業医学情報、資料

(二) 戦後(昭和二八年ころまで)の米国における産業医学情報、資料

(三) 専門家等への照会等について

2 被告会社の因果関係の認識可能性(結果予見可能性)

(一) 因果関係の存在確認の状況と認識可能性等

(二) 戦前における被告会社の因果関係認識可能性(予見可能性)

(三) 戦後における被告会社の因果関係認識可能性(結果予見可能性)

(1) 被告会社の認識の存否及び昭和二八年ころより前の認識可能性

(2) 各疫学的研究結果の資料的価値等について

(3) 肺がん発症に関する因果関係の認識可能性

(4) 上気道のがん発症に関する因果関係の認識可能性

(四) 被告会社の肺がん、上気道のがん発症の結果予見可能性(要約)

3 米国の研究結果の普遍性及び我が国の専門家等の評価等と被告会社の認識可能性等(被告会社の主張について)

(一) 被告会社の主張の要旨

(二) 米国等の疫学的研究等の発展の概観

(三) 米国の疫学的研究結果の普遍性について

(四) 我が国の専門家等の評価・認識状況等

(1) 昭和三〇年以降の国内文献の状況等

(2) 我が国の専門家等の評価・認識及び問題意識等

(五) 専門家等の評価・認識状況等と被告会社の因果関係認識可能性等

(六) 要約

4 原告ら主張の被告会社のその余の調査義務等について

(一) 戦前の状況

(二) 戦後昭和二〇年代の状況

5 まとめ

第四 被告会社の結果回避義務違反等

一 検討順序、判断の必要な被害者及び時期、認定に供した証拠

二 結果回避措置・行為の存否、内容

1 結果回避を可能にする措置等の意義等

2 結果回避措置等

三 被告会社の結果回避義務違反の存否

1 被告会社がとるべき措置等

2 被告会社の結果回避措置等の実行可能性の判断基準

(一) 被告会社主張の判断基準について

(二) 判断に当たつて考慮すべき事項等

3 被告会社の結果回避義務違反

(一) 実行可能性

(二) 被告会社の結果回避措置等実行状況

(三) 要約

四 結果回避義務違反と加害行為成立(結果発生)との因果関係

第五 まとめ

第二節 被告国の国家賠償責任

第一 国家公務員の特定及びその加害行為の態様、要件等

一 国家賠償法に基づく請求

二 国家公務員の特定及びその加害行為の態様、要件

1 国家公務員の特定

2 本件各公務員の加害行為の態様、要件

三 検討順序、認定に供した証拠

第二 被告会社の加害行為

第三 労働安全衛生に関する労基法の規定並びに国家公務員及びその権限等

一 労働安全衛生に関する労基法の規定

二 労働安全衛生に関与する国家公務員及びその権限等

1 労基法施行のための監督組織

2 監督機関たる公務員の権限等

(一) 労働大臣

(二) 労働省労働基準局長

(三) 都道府県労働基準局長

(四) 労働基準監督署長

(五) 労働基準監督官

3 労基法旧五五条及び旧一〇三条所定の権限

4 行政上の指導監督

5 労働安全衛生法制定後の状況

第四 本件各公務員の具体的な行政権限等及びその不行使

一 原告らの主張の要旨

二 検討

1 本件各公務員の具体的権能

2 各行政権限等行使と被告会社の加害行為防止・回避可能性

3 本件各公務員の行政権限行使の法的許容性(法的制約等の不存在)

4 本件各公務員の行政権限等不行使

第五 本件各公務員の作為義務

一 はじめに

二 クロム酸塩等製造に関する安全衛生法令等及び栗山工場に対する行政監督の推移等(作為義務存否の判断の基礎その一)

1 戦後の労働衛生行政の流れ(概略)

2 クロム酸塩等製造に関する労働安全衛生法令等の推移

3 栗山工場に対する行政監督の推移等

4 岩見沢労基署の陣容等

三 本件各公務員の行政権限の法的性格等(作為義務存否の判断の基礎その二)

1 労基法の公法的効力等

2 一般的法的義務の不存在及び直接の私法上の利益保護目的の欠缺

(一) 省令立法権限

(二) 命令権限等

(三) 一般的法的議務の不存在及び直接の私法上の利益保護目的の欠缺と本件各公務員の不法行為

3 本件各公務員の各権限等行使の裁量行為性

(一) 省令立法権限

(二) 命令権限

(三) 裁量行為性と本件各公務員の不法行為

四 作為義務存否の検討その一 危険状態の認識・認識可能性の意義、劣悪な作業環境の認識・認識可能性の存否等

1 危険状態の認識・認識可能性の存在の必要性等

2 本件各公務員の危険状態の認識・認識可能性の意義

3 劣悪な作業環境の認識・認識可能性

五 作為義務存否の検討その二 本件各公務員の一般的因果関係の認識・認識可能性の存否

1 因果関係認識・認識可能性の内容等

(一) 因果関係認識・認識可能性の内容

(二) 医学情報、資料の存在と本件各公務員の認識可能性

2 本件各公務員のがん以外の身体障害(認定障害)発生の因果関係の認識・認識可能性

3 本件各公務員の肺がん及び上気道のがん発症の因果関係の認識状況認定の基礎事実等

(一) 本件各公務員の因果関係認識状況の判断が必要な時期等

(二) 本件各公務員の認識状況、認識可能時期等に関する原告らの主張の骨子

(三) 外国におけるクロムによる肺がん等の研究報告状況

(四) 我が国におけるクロムの発がん性に関する外国の医学情報の流入等(昭和二八年ころまで)

4 本件各公務員の因果関係の認識状況の検討判断

(一) 本件各公務員の外国における医学情報、資料の獲得可能性(知見の取得可能性。昭和二八年ころまでの状況)

(二) 本件各公務員の因果関係の認識可能性

(三) 米国の研究結果の普遍性及び我が国の専門家等の評価等と本件各公務員の認識可能性等(被告国の主張について)

(四) 原告ら主張の本件各公務員のその余の調査義務等について

(五) 要約

5 本件各公務員の危険状態の認識、認識可能性のまとめ

六 作為義務存否の検討その三 命令権限等行使に関する具体的検討

1 命令権限等行使の作為義務に関して考慮すべき事項

(一) 命令権限等行使と労働災害の事後的救済との関係

(二) 命令権限等行使と他人の加害行為の防止・回避

2 検討

(一) 判断要素等

(二) 生存原告らとの関係

(三) 被害者たる死亡者らとの関係

七 作為義務存否の検討その四 省令立法権限に関する具体的検討

八 まとめ

第七章 損害賠償請求権の放棄及び消滅時効等の成否

第一 これまでの認定と以下の判断順序等

第二 損害賠償請求権の放棄

一 はじめに

二 死亡者中村ら五名の妻たる原告ら

三 確認書の存在、記載内容及び金員の領収等

四 合意内容の検討その一

1 確認書の記載の前提となる協定及びその適用関係について

2 確認書の記載から直接導かれる合意内容

五 合意内容の検討その二

六 まとめ

第三 消滅時効等

一 はじめに

二 民法七二四条前段の短期消滅時効

1 起算点等

2 生存原告らの損害賠償請求権に係る短期消滅時効

(一) クロムによるがん以外の身体障害の特性等

(二) 具体的検討その一

(三) 具体的検討その二

3 死亡者今西、同工藤の各遺族原告らの損害賠償請求権に係る短期消滅時効

三 民法七二四条後段の長期消滅時効

1 起算点等

2 具体的検討

四 まとめ

第八章 損害等

第一 はじめに

第二 原告らの損害状況

一 生存原告ら

二 被害者たる死亡者ら

1 肺がんの症状等

2 個別的事情

第三 具体的損害及び死亡者の相続

一 慰謝料額

二 被害者たる死亡者の相続関係

第四 損害の填補等

一 労災保険給付

二 厚生年金保険給付

三 会社支給金(法定外補償金)

第五 損害填補後の慰謝料額(認容額)及び生存原告亡水口、同高川の死亡、承継

第六 遅延損害金及び弁護士費用

第七 選択的併合請求成否の判断

第九章 結論

別紙「当事者目録」<略>

別紙「認容金額一覧表」(一)、(二)<略>

別紙「書証の成立認定一覧表」<略>

別紙一ないし五三<略>

別紙一ないし三五<略>

理由

第一章  当事者〔請求原因第一章〕並びに選択的併合の判断順序及び認定に供した書証の成立について

第一当事者

一  原告ら

1 生存原告

請求原因第一章第一の一は、原告と被告会社及び被告国との間(以下、これを「当事者間」という。)に争いがない。

2 遺族原告

同第一の二は、2のうち死亡者山田の勤務先を除いて当事者間に争いがなく、<証拠略>によれば、死亡者山田がかつて被告会社栗山工場に勤務していたことがあること自体は認めることができる。

二  被告ら

1 被告会社

同第二の一は当事者間に争いがない。

また、<証拠略>を総合すれば、被告会社が第二編第一章第一節第二の一3で主張する事実も認められる。

2 被告国

同第二の二は、関係法規に照らせば、労働行政の目的、労働省設置の趣旨は被告国が第二編第一章第二節第二の二で主張するとおりであり、その労働行政の一端として、関係法規の規定する範囲内で、国が原告ら主張のような役割をになつていることも肯定できる。

第二選択的請求の判断順序について

本件において、原告らは被告会社に対し、不法行為に基づく損害賠償請求権と安全配慮義務違反(債務不履行)に基づく損害賠償請求権とを選択的に請求しているところ、以下、右両請求については、まず、各原告の不法行為に基づく損害賠償請求の成否につき判断し、その後右請求が全部又は一部棄却される原告らについて、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求を認容し、又は右一部認容部分を超えて認容し得るか否かを検討することにする。

第三認定に供した書証の成立について

本判決理由中において認定の用に供した書証は別紙「書証の成立認定一覧表」に記載するとおりであるが、このうち当該当事者間で真正に成立したことにつき争いがないものは、同表の「成立認定の証拠等」欄にその旨示し、成立に争いのあるものについては、同欄に記載した証拠等によりその成立の真正を認めた。

したがつて、以下、書証を引用する際には当該書証番号だけを掲げる(なお、甲第一号証は「甲一号証」のように、甲第一号証の一は「甲一の一号証」のように示す。)。

第二章  栗山工場におけるクロム酸塩等の製造〔請求原因第二章〕

第一栗山工場の沿革及び生産品目等

請求原因第二章第一の一ないし三は当事者間に争いがない。

また、<証拠略>によれば、栗山工場の操業期間中同工場で製造された生産品目及びその製造期間は別添一五のとおりであること(第二編第二章第一節第一の四)が認められ、<証拠略>によれば、クロム酸塩等のより詳しい用途は被告会社が第三編第二章第一の二2(一)ないし(六)で主張する(被告国も第二編第四章第二節第一で同一主張)とおりであることが認められる。

第二製造工程

請求原因第二章第二は当事者間に争いがない。

また、<証拠略>によれば、被告会社が第二編第二章第一節第二の二7で主張する事実が認められ、右各証拠に加えて<証拠略>によれば、栗山工場において、焼成、精製液、重クロム酸カリ、無水クロム酸、酸化クロム、塩基性硫酸クロムの六工程すべてが稼動していたのは昭和三九年五月から昭和四六年八月までの間であること、右期間中は、一時期酸化クロム工程で右とは異なつた製法も併用されたことがあることを除けば、右六工程が請求原因第二章第二のとおりの稼動状況であつたこと、工程の稼動状況を各主工程ごとに図示すれば、別添(八ないし一三)のとおりであり、同工場の各工程全体を図示すれば別添(一四)のとおりになることが認められる。

第三章  栗山工場における作業環境、クロム含有粉じん、ミスト等の発生及び被暴状況〔請求原因第三章 被告会社の加害行為その一〕

第一被告会社の加害行為に係る主張立証の構成及び加害行為の認定順序等について

一  加害行為の存否の認定とそれを超える事実関係の認定

1 本件において、原告らが被告会社の加害行為として主張するのは、各生存原告及び各死亡者が栗山工場の劣悪な作業環境の下でクロム酸塩等製造作業に従事し、その際クロムを含有する粉じん、ミスト等に被暴し、これを吸入した結果、原告ら主張のような各種身体障害に罹患し、更に各死亡者は死亡するに至つたという事実である。すなわち、原告らは、右事実を被告会社の行為として把えると、被告会社において、右作業環境下で各生存原告、各死亡者がクロムに被暴し、これを吸入してその結果右各障害に罹患し、更には死亡するに至らせたのであつて、これはまさしく不法行為の要件である「権利侵害」たる加害行為に当たるとするものである。

そうすると、結局、本件では、「栗山工場の作業環境下でクロム酸塩等製造作業に従事した各生存原告、各死亡者が同工程で発生するクロムに被暴し、これを吸入したこと」(加害原因行為)と「その結果、各生存原告、各死亡者が各種身体障害罹患、更には死亡という被害を受けたこと」(個別的事実的因果関係、被害発生)という事実関係の存在が、被告会社のそれ自体で違法な加害行為と評価し得るものとして認定されれば、被告会社の不法行為の要件であり、かつ、本件各公務員の不法行為の要件でもある被告会社の加害行為の存在の立証がなされたことになると解される。

本件においては、被告会社の加害行為そのものとしては右の意味での事実関係の存在が立証されれば足りるのであつて、それを超えて、加害原因行為の内容として、殊更「同工場の作業環境が極めて劣悪であつた。」とか「大量のクロム粉じん等が発生した。」とか「被告会社が劣悪な作業環境を放置した。」などということや、被害の状況が殊更「悲惨なものであつた。」などということまで立証されなければならないわけではないのである。

2 しかし、他方、このような加害原因行為、これに起因する被害の存在自体の立証を超えて、加害行為の内容、態様、程度に関する事実が更に一層明らかにされるならば、それは、請求原因第六章で問題となる被告会社の結果回避義務違反、ひいては本件各公務員の作為義務違反の各存否の判断や同第七章で問題となる損害の状況の判断を基礎づける具体的事実となるものである。

3 したがつて、以下、第三章ないし第五章では、後記三で述べる順序で被告会社の加害行為の存否の判断に係る事実の認定をすることに加え、必要な範囲内で、それを超えて右の結果回避義務違反等の存否や損害の状況の判断の基礎事実となり得る具体的な事実関係についても認定することにする。

二  被告会社の加害行為に係る主張立証の構成

本件においても、原告らの被告会社に対する不法行為に基づく損害賠償請求ひいては被告国に対する国家賠償請求を基礎づけるためには、あくまで、各別の生存原告、死亡者に対する関係で、右一で述べたような意味での被告会社の加害行為が具体的に主張立証されなければならないことは当然であるが、本件においては、右の主張立証に関する基本的組立ては次のとおりになると理解され、前記の事実整理もこれに沿つて行つた。

すなわち、

1 まず、加害原因行為については、栗山工場のクロム酸塩等製造工程が、その作業に従事する作業員においてクロム含有粉じん、ミスト等に被暴し、これを吸入するような作業環境であつたことを示し(請求原因第三章)、これを前提として、次に、各生存原告、各死亡者が一定期間右製造工程における作業に従事したことがある旨を示す(同第五章)ことによつて、具体的に各生存原告、各死亡者が当該作業従事中にクロムに被暴し、これを吸入したことがあるという結論を導くという構成が、

2 次に、個別的事実的因果関係及び被害の発生については、まず、「クロム被暴、吸入に起因して各種身体障害が発生する。」という一般的因果関係(因果則)の存在を示し(同第四章)、次に、右1で明らかにした「個別の生存原告、死亡者のクロム酸塩等製造作業従事の際のクロム被暴、吸入」の事実(被告会社の加害原因行為)と更に「各生存原告、死亡者が右クロム被暴、吸入開始後に右各障害に罹患し、更に死亡するに至つた。」という事実(被害の発生、同第五章)に右の一般的因果関係の存在という事実を併せれば、被告会社の加害原因行為に起因して右の各被害が発生したことが明らかになるという構成が、

それぞれ、本件における原告らの主張立証の基本になつていると理解される。

三  被告会社の加害行為の認定順序

1 そこで、以下、(前記一2、3のとおり請求原因第六章、第七章の判断の基礎事実として必要なものも認定しつつ)被告会社の加害行為については、その存否の判断の前提となる事項として、〈1〉まず、この章では、請求原因第三章の栗山工場における(クロム酸塩等製造工程の)作業環境等について判断し、〈2〉次に、第四章で請求原因第四章のクロム被暴、吸入と各種身体障害発生との一般的因果関係の存否について判断した上、右〈1〉、〈2〉の判断結果を前提として、更に〈3〉第五章で、各生存原告、各死亡者のクロム被暴、吸入の事実の有無、各種障害発生の有無、個別的事実的因果関係の存否を検討するという順序で、個々の生存原告、死亡者に対する被告会社の加害行為の存否について判断する。

2 ただし、あくまで、本来の要証事実は、前記一で述べたような意味での被告会社の加害行為の存在自体であることから、右二のような立証の組立てによらずに、個別の生存原告、死亡者に対する被告会社の加害行為の存在を認定し得るならば、その旨認定することは許されるし、逆に、特に右二1に関していえることであるが、右二1のような事実関係が存していても、そこで述べたような結論を導くことを妨げるような特段の事由が存すれば、当該生存原告、死亡者との関係では「クロム被暴、吸入があつた」との結論を導くことはできないことになる。

第二栗山工場の各工程の稼動状況及び作業環境(個別的具体的観察)

一  判断方法及びいくつかの前提事項について

1 判断方法

原告らが主張する生存原告、死亡者らの栗山工場のクロム酸塩等製造作業従事期間は、別添(五、六)(請求原因第五章第一の一、第二の一)のとおり、前記第二章第一で認定した右製造工程の操業開始時である昭和一二年六月から操業廃止時である昭和四八年六月までの全操業期間にまたがつていることから、前記第一の二、三のとおり本件における最も基礎的な事実問題である被告会社の加害原因行為の存否の判断に関して、右の長期間にわたつて、右製造工程中のすべての主工程についてその作業環境が明らかにされなければならないことになるところ、被告らは右作業環境に関する原告らの事実主張のほとんどを争い、被告会社は更に詳細な反対主張(第三編第一章第一ないし第三)を行つている。

ところで、クロム酸塩等製造工程における作業環境の如き事実の認定に当たつては、粉じん等の発生箇所の有無、発生量、発生状況に関し、空気中クロム濃度、じんあい数をはじめとする各種関係事項に係る信頼すべき測定値等が示されれば最良証拠の一つになることはいうまでもない。

しかし、栗山工場のような生産工場の工程の全域にわたる各種物理化学的データを、しかも前記のような長期間にわたつて経時的に示すことは、少なくとも本件原告らのような同工場の管理支配の点においては部外者である者(この点は弁論の全趣旨から明らかである。)には不可能であることは経験則上明らかであり、現に本件でも、右のような同工場の作業環境に関するデータとしては後述の角田報告(<証拠略>)と館報告(<証拠略>)記載のものしか証拠として提出されていない。

そうして、右二報告は、いずれも昭和三四年夏に時を接してなされた調査の結果を記載しているが、その調査事項も豊富ではなく(測定地点は焼成、精製液、重クロム酸カリの三主工程の一部に限られる。)、到底これらを最大の立脚点として右の長期間かつ広範囲にわたる作業環境を明らかにし得るようなものではない。

そこで、以下、栗山工場の各工程の作業環境につき個別的具体的に観察するに当たつて、右二報告中に実測データのある工程については、その点はひとまず措いて、他の証拠によつて個別的に認定を行い、次に右認定と右の二報告の実測データとを対照させて、後者が前者を左右するようなものか、あるいはそれを補強するようなものかにつき検討することにする。

2 クロム酸塩等の生産停止期間

前記第二章第一で認定したとおり、別添一五記載のように栗山工場では、昭和一九年から昭和二一年まで重クロム酸ソーダの製造が、昭和一八年から昭和二二年まで重クロム酸カリウムの製造が停止され、その結果昭和一九年から昭和二一年までの間クロム酸塩等製造が全く行われていなかつた。

したがつて、昭和一九年から昭和二一年までの間同工場のクロム酸塩等製造工程におけるクロム含有粉じん等の発生や作業員のクロム被暴、吸入もあり得ないことになるので、以下の認定においては、特に断わらなくても、右期間中にはクロム含有粉じん等の発生や作業員のクロム被暴、吸入がないこと(更に、昭和一八年、二二年には重クロム酸カリ工程でのクロム粉じん等の発生がないこと)を前提にして記述する。

3 化学上の前提事項等

(一) 前記第二章で認定したところに加え、<証拠略>によれば、栗山工場で稼動していたクロム酸塩等製造工程は、同工場でも昭和三三年まで稼動していたフエロクロム等のクロム含有合金の生産工程とは異なり、クロムを、クロム含有原料たるクロム鉄鉱石から金属として取り出す(本来の製錬作業)のではなく、クロムと酸素が結合したクロム酸基の形で化学製品として取り出す点に特徴があること、右工程では、まず、鉱石からクロム酸基とナトリウムの結合した易溶性のクロム酸塩たるクロム酸ソーダの形でクロム分を取り出し、その後、これを中間原料として化学反応により重クロム酸ソーダ、重クロム酸カリウム、無水クロム酸、酸化クロム、塩基性硫酸クロムを生成させていたことが認められるところ、これらの化学反応や作業環境等に関する以下の認定の前提事項として、必要な範囲で右各証拠から認められる化学上の知見等を記述すれば、次のとおりとなる。

(二) すなわち、

(1) クロム酸塩とは、原子価がプラス六価のクロム原子(イオン)一個とマイナス二価の酸素原子(イオン)四個とが結合し、全体としてマイナス二価の原子価を持つクロム酸基(イオン)とナトリウムイオン、カリウムイオン等の塩基性イオンとが結合し、中和状態になつている物質(塩)のことである。

したがつて、クロム酸ソーダ(クロム酸ナトリウムの別称)は六価のクロム化合物である。

(2) 重クロム酸塩とは、原子価がプラス六価のクロム原子(イオン)二個とマイナス二価の酸素原子(イオン)七個とが結合し、全体としてマイナス二価の原子価を持つ重クロム酸イオン(重とはクロム原子が二個存するという意味)と右のような塩基性イオンとが結合し、中和状態になつている物質(塩)のことである。

したがつて、重クロム酸ソーダ(重クロム酸ナトリウムの別称)、重クロム酸カリウムは六価のクロム化合物である。

(3) 無水クロム酸は、原子価がプラス六価のクロム原子(イオン)一個とマイナス二価の酸素原子(イオン)三個とが結合した六価のクロム化合物であり、各種の酸化クロムのうちクロムが六価の原子価をとつているものにほかならない。

(4) 前記製造工程で酸化クロムと呼んでいた物質は、原子価がプラス三価のクロム原子(イオン)二個とマイナス二価の酸素原子(イオン)三個とが結合した三価クロム化合物であり、各種の酸化クロムのうち、クロムの三価の原子価をとつているもの(三・二酸化クロム)にほかならない。

(5) クロム鉄鉱石は、主として酸化第一鉄(FeO)と三・二酸化クロムとが固溶体として結合した形でクロムを含有しており、クロム鉄鉱石中のクロム成分は三価のクロムである。

(6) ある物質が「他を酸化する」というのは、もともとは、その物質が他に酸素を与えることを意味するが、より一般的には、当該物質を構成する原子又は分子が他から電子を奪う形で化学反応をすること、換言すれば、当該物質がとつていた原子価数が減る(プラスのものは絶対値が減少し、マイナスのものは絶対値が増大する)ような反応をすることである。

逆に、ある物質が「他を還元する」というのは、もともとは、その物質が他から酸素を奪うことを意味するが、より一般的には、当該物質を構成する原子又は分子が他に電子を与える形で化学反応をすること、換言すれば、当該物質がとつていた原子価数がふえる(プラスのものは絶対値が増大し、マイナスのものは絶対値が減少する)ような反応をすることである。

したがつて、クロム化合物の酸化力が強いという場合には、単に他に酸素原子を与える反応を引き起こしやすいことにとどまらず、一般的にクロムの原子価が減る方向での化学反応を引き起こしやすいことを意味する。

(7) 粉じん、ミスト、蒸気の区別については、次のとおりである。

粉じんとは、微粒固体、じんあいのことであるが、以下の記述では、いわゆるじんあいに限らず、クロム製品の結晶粉末等の「粉末」も含めて粉じんと表現する。

ミストとは、微粒液体、すなわち霧状の液体であつて、クロム酸ミストといえばクロム酸を、クロムミストといえばクロム成分をそれぞれ溶かし込んでいる霧状液体のことである。気象現象としての「霧」のような肉眼でその存在を視認できる場合のみを指すのではなく、むしろ肉眼で視認できない場合が多い。

蒸気とは、常温で通常固体又は液体の状態をとる物質が気化している状態のことをいう。水蒸気とは「湯気」とは異なり、気体の水のことであつて、クロム蒸気といえばクロム成分が気化したものをいう。

二  焼成工程

〔請求原因第三章第三の一、第二編第三章第三の一、第三編第一章第二の二1・第三の二1〕

1 主工程の概要

前記第二章で認定したところに加え、<証拠略>によれば、次のとおり認められる。

(一) この工程は、昭和一二年六月の栗山工場操業開始以来、昭和三七年以降鉱石乾燥用ドライヤー及びその付属施設が別棟に移つたことを除いて、別添一六の第一工場建家内に配置されていた(この工程が第一工場建家内に配置されていたこと自体は当事者間に争いがない。)ところ、この工程の昭和三四年当時の機械配置状況は別添(二一)のとおり、昭和四二年当時の機械配置状況は別添(一七)のとおり(この点も当事者間に争いがない。)、右当時の製造工程の概要は別添(一九)のとおりである。

(二) この工程のプロセスの概略は別添八のとおりであり、クロム鉱石、フアーストパルプ、ソーダ灰、生石灰を原料としてロータリーキルン内での加熱反応によりクロム酸ソーダを生成し、これを水溶液内に抽出するまでの作業が行われる。

すなわち、まずキルン内での反応の前段階作業として、鉱石を乾燥させた上炉内反応に適する粉末状態に加工する鉱石乾燥・粉砕工程、浸出工程で跳ね出された湿つたフアーストバルプを乾燥させるフアーストパルプ乾燥工程、右乾燥、粉砕後右二原料と他の二原料(ソーダ灰、生石灰)とを配合した上、キルン内に送り込む配合工程があり、次に、キルン内でこれら四原料を回転させながら約一一〇〇度の高温で焙焼、化学反応を生じさせ、クロム酸ソーダを生成する焙焼工程が続き、更にここで得られた、クロム酸ソーダを重量比三〇ないし四〇%含有するクリンカー(焼成物)を、水及び薄いクロム酸ソーダ溶液で洗つてクロム酸ソーダ分を抽出し、浸出残滓(パルプ)を除去する浸出工程までがこの主工程に属する。

(三) 右のプロセスには操業以来ほとんど基本的変化はなかつたが、昭和四二年以降三号ロータリーキルンの稼動に伴い、このキルンへの原料供給については、配合工程と焙焼工程との間に造粒工程が置かれ、配合後の原料に水酸化ナトリウムを添加するとともに、原料を微粒状に加工した上キルンに移送することになつた。

(四) 以上の各工程のうち化学反応を目的としているのは焙焼工程だけであり、その余は物理的作用を加えることに主眼がある。

なお、フアーストパルプとは浸出残滓のうち、クロム鉱石を必要量よりも過剰に使用して焙焼した場合に得られるクロム分を多く含む残滓であるが、結局、この場合はクロム鉱石中のクロム分を二回の焙焼によつてクロム酸ソーダの形で取り出していたことになる。

2 鉱石等乾燥・粉砕、配合、造粒工程

(一) 請求原因第三章第三の一1(一)は当事者間に争いがない。

前記二章で認定した事実、右争いのない事実に加えて<証拠略>を総合すれば、以下のとおり認められる。

(二) 取扱物質等

この工程では、前記の四原料が取り扱われていた。このうちクロム鉱石とフアーストパルプとがクロムを含有し、その余はクロム含有物質ではない。

前記のとおり、クロム鉱石中のクロム成分は三価クロムであり、フアーストパルプは六価クロムであるクロム酸ソーダを含有していた。

なお、フアーストパルプ中には、量は多くないにしろクロム酸ソーダ以外のクロム化合物も含まれていた。

(三) 昭和三七年ころまでの工程の状況

(1) 作業内容等

イ 鉱石、フアーストパルプ乾燥、鉱石粉砕

(イ) 鉱石とフアーストパルプの乾燥は第一工場建家内にあつた単一のロータリードライヤーを用いて交互に行つた。

まず、作業員が、鉱石、フアーストパルプをドラヤーのホツパー受入口(開放型)に人力で投入後、ホツパーからドライヤーにベルトコンベア(開放型)で移送した。乾燥後の右各原料はドライヤーの下流端からベルトコンベア(開放型)の上に落として、右コンベアで斜めに上昇させた後、上端から落下させて室内の一次置場(隔壁なし)に積み上げた。

(ロ) その後、乾燥鉱石は、作業員が二輪車(開放型、以下同じ。いわゆる猫車と称するもの。)で一次置場からコニカルボールミルのホツパー受入口(開放型)まで移送し、スコツプで投入した。

コニカルボールミル(密閉仕様)とは、円錐型の容器内に多数の鉄球が封入され、容器を回転させて鉄球が投入物に当たる衝撃で粉砕を行う機械である。粉砕後の鉱石粉末は、スクリユーコンベア(らせん式コンベア、密閉仕様)などによつて第一工場屋内高所にあつたコンクリート製鉱石粉末倉庫(開閉部付き、隔壁あり)内に移送した。

(ハ) 乾燥後の顆粒状、粉末状のフアーストパルプは、作業員がスコツプで二輪車に積み込んで一次置場から二次置場のベルトコンベア(開放型)まで運び、ここで再びスコツプでベルトコンベアに移し換えて斜めに上昇させた後、上端から落下させて室内の二次置場(隔壁なし)に積み上げた。

ロ 配合

(イ) 作業員が、二輪車を押して、鉱石粉末倉庫、フアーストパルプ二次置場、ソーダ灰倉庫、生石灰倉庫を一回りする間に、倉庫内に入つて鉱石粉末をかき出し、顆粒状・粉末状のフアーストパルプ、粉末状のソーダ灰・生石灰をスコツプですくつて、それぞれバケツに入れ台秤で必要量を計量した後順次二輪車に積み換えて、右四原料を積み終わつた段階でこれを配合ミルのホツパー受入口(開放型)に運び、二輪車の一端を持ち上げて投入した。

(ロ) ホツパー投入後、四原料ははスクリユーコンベア(密閉仕様)で配合ミル(密閉仕様)内に送られ、前記コニカルボールミルと同様の方法で微粉砕と混合が同時に行われた。配合後の原料は、ミルからバケツトコンベア(深いバケツ状容器付垂直移送用コンベア)に送られ、これでロータリーキルン上の高所に設置された配合粉貯槽(上部に開口部あり)内に持ち上げ移送し、ここでいつたん貯えた後、スクリユーコンベア(密閉仕様)でキルン取入口に送り込んだ。バケツトコンベアにはカバーがあつたが、接地面との間は密閉されていなかつた。

ハ この工程では、下請作業員が担当したソーダ灰、生石灰の搬入作業等を除き、遅くとも昭和三〇年代初めには三交替勤務体制が採られていた。

(2) 環境保全設備等

イ 第一工場建家の全体排気装置としては、操業開始から昭和三〇年代初めまでは屋根上に自然通風式のベンチレーターが四、五個設置されていたが、電動換気扇は設置されていなかつた。その後、屋根上に電動換気扇が設置されはじめ、昭和三七年当時には、数個(具体的な数は不明)が設置されていた。

ロ 鉱石、パルプドライヤーの系内の排気は、煙突による自然通風によつて行われ、ダストボツクスも付設されていなかつた。

ハ ドライヤーの取出口、鉱石・パルプ置場、鉱石倉庫、コニカルボールミル、配合ミル(特にホツパー部分)等には、いずれも局所排気装置等特段の環境保全機器は設置されていなかつた。

ニ この工程では、被告会社の従業員たる作業員に対しては、古くからガーゼマスク、ゴム手袋、軍手が支給又は貸与され、昭和三〇年代半ばには作業帽、作業服が貸与されていた。

ホ 第一工場建家内の休憩所には、遅くとも昭和三〇年代後半には洗眼器、軟こう、うがい薬が備え付けられていた。

(3) 粉じん等の発生状況及び作業員の被暴状況

右(二)、(三)(1)・(2)の認定事実からすれば、昭和三七年ころまでのこの工程の職場では、クロム粉じん等が発生していたと推認されるところ、更に、粉じん等の発生、作業員の被暴の具体的状況につき、次の各事実を認めることができる。

イ ドライヤーの取出口から乾燥鉱石、フアーストパルプを落下させる際、ドライヤー内部の排ガス、粉じんが落下物に随伴するなどして漏出飛散した。

ロ 乾燥フアーストパルプをドライヤー取出口のシユートに落とす時、ベルトコンベアで一次置場、二次置場に落下させて積み上げる時、スコツプで、一次置場から二輪車に積み込む時、二次置場のベルトコンベアーに移す時、二次置場からバケツに入れる時、二輪車に移す時、配合ミルのホツパーに投入する時、それぞれ相当大量のパルプの粉じんが飛散した。

ハ 作業員は粉じんが飛散する倉庫内で鉱石粉末をかき出した。倉庫は二つあり、交互に上部にある受入口から粉砕後の粉末を搬入していたが、計量の都合などによつて、作業員が、粉じんが舞い上り充満する粉末搬入中の倉庫内でかき出し作業をすることもあつた。

ニ 配合ミルは、密閉仕様で床面から一m二・三〇cm低くなつたピツトの中に設置されていたが、その作動中、ホツパーからミルに連なる部分、蓋の隙間、プレートのボルトのはずれた箇所、シヤフトの摩耗した隙間、バケツトコンベアへの接続部などから絶えず粉じんが飛散する状態であつた。配合ミルはプレートのボルトの一部脱落、隙間の発生程度では作動自体に支障はなかつた。配合ミルは故障が多く、作動不能の場合内部を開けて修理していたが、右程度の不整状態は放置されていた。

なお、修理時にはミル内外から大量の粉じんが舞い上つた。

ホ 建家の全体排気、換気装置はほとんど機能せず、窓も本来開放可能な形で存在していたが、粉末取扱作業の性質上風が入るとかえつて作業の邪魔になるので、ほとんど常に閉められたままになつていたから、職場全体の換気状態は悪く、多くの作業員が常時大量の粉じんが空気中に浮遊しているように実感した。

ヘ 職場内の床面、構築物の上面などに粉じんが積もるような形で付着し、掃除の際にはこれが舞い上つた。

ト 作業員はガーゼマスクをしても口の中がザラザラになるくらい粉じんを吸入し、鼻や耳の中、顔面など体の露出部分には粉じんが大量に付着し、汗と混じつて体の他の部位にも広がつた。

マスクは装着後短時間で黄色に変色し、長時間かけていると褐色になつた。

チ この職場で多くの粉じんが発生することは、当時被告会社側も十分に自覚していたと窺われ、昭和三四、五年以降の生産量の急増が最大の理由ではあつたものの、この粉じん発生の抑制もまた、次に述べる昭和三七年ころの配合工程の機構改変の動機となつた(右機構改変は、工場外の環境保全を目的とするスクラバー等の設置とは異なり、被告会社のなした数少ない工場内の環境保全に力点を置いた大規模な改変の一つであつた。)。

(4) 前記(二)、(三)(1)・(2)の事実に右(3)の各事実を併せ判断すると、前記当時、この工程の職場では、常時粉じん等が発生したところ、とりわけ作業員の現実の就労時において、極めて大量のクロム含有粉じん、ミスト(主として粉じん)が作業員の至近距離で発生し、これが空気中に飛散、発散、拡散して、作業員は作業中これに被暴し、吸入していたことが認められる。

なお、以上の各工程のうち、鉱石乾燥・粉砕工程自体から発生した粉じん等に含まれているのは三価クロムであり、他の工程で発生した粉じん等には六価クロムが含まれていたところ、鉱石乾燥・粉砕工程の職場は他の工程の職場と近接し、あるいはフアーストパルプ乾燥職場と重なつていたことから、鉱石粉砕・乾燥工程の職場でも六価クロムを含む大量の粉じん等が拡散、存在し、作業員がこれに被暴、吸入していたことは明らかである。

(四) 昭和三七年ころ以降の工程の状況

(1) 工程の改変

この工程では、生産量の急増に対処させることに加えて、粉じん発生を抑制するため、昭和三七年ころ工程の稼動システムが大きく改変された。

(2) 作業内容等

イ 鉱石乾燥・粉砕、移送

(イ) 鉱石乾燥は、第一工場とは別棟の建家に新たに設置された大型ロータリードライヤーで行われるようになつた。

(ロ) 乾燥後の鉱石粉砕には、従前どおりコニカルボールミルを用いたが、ミルへの鉱石送入装置としてテーブルフイーダー(回転テーブル式供給機、フード付、開放型)を付設し、ミルのホツパー(開放型)受入口から乾燥鉱石を投入し、ベルトコンベア(開放型)でテーブルフイーダーに移送するようになつた。

(ハ) 粉砕後の鉱石粉末は、密閉系のダクト(導管)を通して配合壜まで空気輸送した。

ロ フアーストパルプ乾燥

(イ) フアーストパルプ乾燥は、二号ロータリーキルンの排ガスを利用するロータリードライヤーを新設して行うようになつた。

(ロ) パルプをドライヤーのホツパー(開放型)受入口に投入した後、ベルトコンベア(開放型)で移送してドライヤー内に投入(受入口はフード付き、開放型)した。乾燥後のパルプはドライヤー取出口からシユートを経てパンコンベア(受け皿付コンベア、開放型)に落下させて受け出し、いつたん別のパンコンベアに中継した(継ぎ目部分にフードあり)後、更にそれから二個のロータリーコンベア(回転式コンベア、密閉仕様)に受け継いで(継ぎ目部分にフードあり)バケツトコンベア受入口まで運び(継目部分にフードあり)、ここに落下させ、最後にバケツトコンベアで配合壜内まで持ち上げて移送した。

ハ 配合

各原料をいつたん第一工場の二、三階部分の高所に新設された配合壜(箱形下部角錐状貯槽、密閉仕様)に各別に集め、その下部に付設された自動計量装置(密閉仕様)に受け出し、計量された各原料をスクリユーコンベア(密閉仕様)で配合ミルに移送し、配合ミルで微粉砕、混合した。配合後の原料はミルからフローコンベア(連続流送式羽根付コンベア、密閉仕様)を用いてキルン取入口に移送した。

ニ 造粒

前記のとおり昭和四二年新設の三号キルンには造粒工程が置かれた。

造粒工程では、配合壜からパンコンベア(開放型)に原料を受け出して配合ミルに送つて配合した後、ミルからスクリユーコンベア(密閉仕様)で造粒機(フード付き、開放型)に移送し、水酸化ナトリウムを加えて原料を微粒状に加工し、これをベルトコンベア(開放型)でいつたん三号キルンの排ガスを利用したロータリードライヤー内に移送して乾燥させた上、取出口からパンコンベヤー内に移送して乾燥させた上、取出口からパンコンベア(開放式)に落下させ、キルン取入口に移送した。

ホ 前記のとおりこの工程では三交替勤務体制が採られていたが、被告会社の従業員たる作業員の行う作業としては、第一工場建家内に設けられたメーター室内での機器の運転・操作が多くを占めるようになつた。

しかし、鉱石ドライヤーのダストボツクス内の推積鉱石かき出し、落下した鉱石・パルプの処理、各種機器の調整、注油、配合粉のサンプリング等作業員が機器の近辺で行う人力作業、手作業部分も少なからず残つていた。

なお、メーター室は開閉部分もあり、密閉構造ではなかつた。

ヘ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は別添(十七、十九の中で1(一)(1)、1(一)(2)、1(二)、1(三))で示すとおりである。

(3) 環境保全設備等

イ 第一工場建家の全体排気装置としては、昭和三七年以降屋根上設置の電動換気扇の数も増加し、昭和四二年ころには屋根上にベンチレーターは四、五個、電動換気扇は少なくとも一〇個は設置されていた。

ロ(イ) 鉱石乾燥用ドライヤーにはダストボツクスが付設されていたが、排気は煙突による自然通風によつた。

(ロ) コニカルボールミルの回転体と両端固定部分との接続部はグランドシール(接合面にパツキング物質を装着させて圧着させる方法)されていた。

(ハ) ミルから配合壜への鉱石粉末輸送用ダクトは、輸送系内の空気を外気から遮断して循環させ、その気流によつて粉末を壜に送り込む装置であつた。右輸送系内の空気は排風機で抜いてバツクフイルター(ろ過膜利用徴細物ろ過機)に通した上、屋外に排出した。

ハ フアーストパルプ乾燥用ドライヤーは、両端の固定部分との接続部がラビリンス(迷路)構造になつていた。ラビリンス構造とは、回転体(ドライヤー本体)と固定端との接続部を密着させない場合に、その隙間を狭くした上、接合面を凹凸の組み合わせ構造としたものである。

ニ 配合壜、自動計量装置には排風機につながるパイプを配置していた。

ホ 造粒機のフード中央には排風機につながるパイプを配管していた。

ヘ ドライヤーからバケツトコンベアまでのフアーストパルプの移送系、造粒原料移送用パンコンベア・造粒後の原料移送系には、いずれも局所排気装置等特段の環境保全機器はなかつた。

ト この工程では、昭和四二年当時には、被告会社の従業員たる作業員には、ガーゼマスク、検定マスク、ゴム長靴、軍手、ゴム手袋、作業帽、メガネ、作業着、耳栓が支給又は貸与されていた。

チ 第一工場建家内の休憩所には、昭和四二年当時には既に鼻洗器、洗眼器、軟こう、うがい薬が備え付けられていた。

(4) 粉じん等の発生状況及び作業員の被暴状況

前記(二)、(四)(1)ないし(3)の認定事実からすれば、昭和三七年以降、この工程では従前に比べ粉じん等の発生状況は改善されたが、なお職場でクロム粉じん等が発生し得る状態にあつたと推認されるところ、更に、粉じん等の発生、作業員の被暴の具体的状況につき、次の各事実を認めることができる。

イ ドライヤー取出口から乾燥鉱石やフアーストパルプが落下する際、ドライヤー内部の排ガス、粉じんが落下物に随伴するなどして漏出飛散した。

ロ 乾燥フアーストパルプ移送時のコンベアの継ぎ目には落差があり、そこでパルプが落下する際に粉じん等が発生した。継ぎ目部分にあつた鉄製フードは右粉じん発生部分の全域をカバーするものではなく、粉じんの発生、飛散を防止できなかつた。

ハ 配合ミルはほとんど常時連続運転されるようになつたが、前記(三)(3)ニで認定した状態は改善されず、従前と同様、その作動中ミルの受入口付近、蓋の隙間、プレートのボルトのはずれた箇所、シヤフトの摩耗した隙間、ミルの取出口付近などから絶えず粉じんが飛散する状態であつた。配合ミルの作動状況、故障・修理時の粉じん大量発生等にも変わりはなかつた。

ニ 建家の全体排気、換気装置は十分に機能せず、窓が閉められたままであつたことも従前と変わりがなかつた。職場全体の換気状態は悪く、多くの作業員が常時粉じんが空気中に浮遊しているように実感した。

ホ 職場内の床面、構築物の上面などに(量は減つたものの)粉じんが付着し、掃除の際にはこれが舞い上つた。

ヘ 配合壜への落とし口、バツグフイルターのケースは密閉仕様にはなつていたが、時々粉じんが漏れた。また、フイルター交換時にも高所で粉じんが飛散した。

ト 作業員はガーゼマスクをしても口の中に刺激を覚え、鼻や耳の中、顔面など体の露出部分に粉じんが付着し、汗と混じつて体の他の部位にも広がつた。マスクは、勤務終了時には黄色に変色していた。

なお、検定マスクは、息苦しくなることから、実際にはあまり利用されていなかつた。

(5) 前記、(二)、(四)(1)ないし(3)の事実に右(4)の各事実を併せ判断すると、従前に比べその程度は弱まつたものの、昭和三七年以降においても、この工程の職場ではクロム含有粉じん、ミスト(主として粉じん)が発生し、これが空気中に飛散、発散、拡散して、作業員は作業中これに被暴し、吸入していたことが認められる。

なお、鉱石乾燥・粉砕工程で発生した粉じん等には三価クロムが含まれ、他の工程で発生したものには六価クロムが含まれていたことは従前と同様であるところ、このうち鉱石乾燥工程の職場は昭和三七年別の建家に移つたので、従前と異なり、右職場には六価クロム粉じん等の拡散はなかつたと推認されるが、鉱石粉砕職場における六価クロム含有粉じんの拡散・存在、作業員の被暴、吸入については従前と同様であつたと認められる。

(五)(1) 以上のとおり認められ、前記2(一)の各証拠<証拠略>のうち、右認定に反する記載部分、供述部分は採用できず、後記第三で検討する<証拠略>中の前記角田、館両報告記載の空気中クロム量実測データとの関係は別として、他に右認定に反する証拠はない。

(2) 証人鵜川は、昭和三七年以前は栗山工場のクロス酸塩等生産量が少なく、この工程での取扱原料の量も少なかつたので粉じん等の発生も極めて少なかつたはずである旨供述するが、<証拠略>が示す同工場の年次別生産量によれば、確かに、昭和三七年以前の期間のうち昭和二五年までの期間(昭和一九年から昭和二一年までの前記生産停止期間は除く。)は、年次別生産量が一〇〇〇tを超えた年はなく、昭和三〇年の二三〇〇t余、昭和三五年の三〇〇〇t余、昭和四〇年の一万t余に比べれば生産量は「少ない」といえるのであるが、この点を考慮しても、前記2(一)の各証拠等によれば、昭和二五年までの期間についても、前記(三)(3)、(4)のように認定することは可能である。

(3) また、証人森本は、昭和四二年当時第一工場建家屋根上に設置されていた電動換気扇の単位時間当たり空気移送能力に照らせば、右換気扇によつて右建家内の空気は一時間に八回程度入れ換えられていた旨供述するが、これは、各換気扇の製造仕様上の単位時間当たり空気移送能力の一〇倍(設置個数)の数値を右建家内の容積で単純に割つた値を示しているにすぎず、屋根上に設置された換気扇が現実に室内の空気を換気する状況を規整する他の様々な要因を一切捨象しているものであつて、右供述は前記(四)(4)ニの認定を到底左右するに足りるものではない。

屋根上の換気扇については、その排出に係る空気の流路がどのように設定されるかによつて、全体の換気を有効になし得るか否かが定まることは経験則上明らかである上、更に、前記2(一)の各証拠等によれば、昭和四二年当時、第一工場建家の中には、数多くの、しかも各種作動をしている機械や構築物等が存在し、かつ、約一一〇〇度の高熱で焙焼を行う三基のロータリーキルンが作る強力な対流が存在していたことなど、全体排気装置が有効に機能することを妨げる多くの要因が存していたことも明らかなのである(このような問題が存するからこそ、特化則では局所排気装置を義務づけているのである。)。

3 焙焼工程

(一) 請求原因第三章第三の一2(一)(1)イのうちクリンカーの形状を除く部分、同2(一)(1)ロないしニ、同2(一)(2)、同2(一)(3)のうち土手落としが非常な高熱下の作業であつたこと、同2(二)(1)のうちキルンとダストボツクス間の接続部が密閉されていなかつたこと、同2(二)(3)のうち土手落とし作業がキルン内で行われたこと、同2(二)(4)ロのうち職場内で高熱のキルンが作動し、高熱のクリンカーが運搬されていたことは、当事者間に争いがない。

前記第二章で認定した事実、右争いのない事実に加えて、<証拠略>を総合すれば、以下のとおり認められる。

(二) 取扱物質等

この工程は、クロム酸塩等製造工程の基幹工程であり、前記四種類の原料をロータリーキルン内で焙焼させてクロム酸ソーダを得るという化学反応を生じさせることに主眼があつた(したがつて、ロータリーキルンが工程の主たる設備であつた。)。

右の化学反応は次のとおりである。

4FeO・Cr2O3+8Na2CO3+7O2→8Na2CrO3+2Fe2O3+8CO2

これは、酸化第一鉄と三・二酸化クロムの結合体たるクロム鉱石中のクロムを高熱下で酸素及びアルカリ源たるソーダ灰と反応させて、クロムを三価から六価に酸化させるとともに、鉄分をナトリウムと置換させるものである。生石灰は鉱石中に含まれるアルミニウム、マグネシウム、カルシウムなどの不純物を除去する作用を有する。

したがつて、焙焼後に得られるクリンカーを組成するのは、クロム酸ソーダのほか三・二酸化鉄、カルシウム・アルミニウム等の化合物など雑多な成分を有する不純物である。クロム鉱石中のクロム成分の全量がクロム酸ソーダに転換するわけではなく、量は少ないが、クロム酸ソーダ以外の形でも、三価、六価のクロム成分がクリンカーに含まれていた。

(三) 焙焼作業の作業内容等

(1) 栗山工場では昭和一二年六月の操業開始当初から一貫して焙焼作業にはロータリーキルンが用いられた。

ロータリーキリンは、耐火レンガで内張りした中空の長円筒形鉄製回転炉であり、これをやや傾斜を持たせて横に設置し、上方の円筒端から原料を送入するとともに、バーナーの炎を走らせて、ゆつくりと炉を回転させながら、原料を加熱・反応させ、反応が進むにつれ次第に融解物が生じるとともに、反応物質が下方の円筒端に向い、円筒端付近に設けられた取出口からクリンカーを取り出すという仕組になつていた。昭和四二年当時同工場に設置されていた三基のキルンの仕様は、円筒の外径二m六〇cm、内径二m一〇cm、長さ二一〇〇ないし二五〇〇cm、傾斜角三、四度、回転数約六分間に一回であつた。

回分式に原料の送入、生成物の取出しをしなければならず、かつ、その際炉内の開放を伴う反射炉と比較すれば、ロータリーキルンは連続的な原料送入、生成物取出しというプロセスを維持できるところに特色があり、また、炉外への粉じん、排ガスの漏出も相対的に少ないとされている。

(2) キルン内の温度は一一〇〇度前後を保つように調整されていた。

したがつて、クリンカーは取出口付近においては高温で赤熱化した状態になつており、融点が約七九二度であるクロム酸ソーダのほとんどは融解した状態で取り出された。しかし、前記の不純物中には融点が一一〇〇度より高いもの(主として鉄を含むもの)があつたから、取出口付近のクリンカーの形状はドロドロとした融解物と塊状、砂状、粉末状の非融解物とが混ざり合つた状態になつていた。

(3) 栗山工場では、当初一基のキルン(一号キルン)のみが稼動していたが、生産量の増大に合わせて昭和二八年二号キルンを、昭和四二年三号キルンをそれぞれ増設した。なお、二号キルン設置後も昭和三〇年代初めまでは、二基のキルンを交互に作動させていた。

焙焼用燃料は、昭和三〇年代半ばころまでは微粉炭が用いられたが、その後は重油に切り換えられた。

(4) キルンの運転自体にはほとんど人手を要せず、昭和四二年当時は一基につき一直一名の作業員が、機械操作、監視、点検、注油、清掃などに当たつていた。

(5) 焙焼作業では、遅くとも昭和三〇年代初めには三交替勤務体制が採られていた。

(四) クリンカーの取出し、移送作業の作業内容等

(1) 昭和三九年半ばころまで

イ 戦前から昭和二〇年代までは、高湿のクリンカーをキルン取出口の下で五〇kg入りバケツに受け出し、これを二名の作業員が棒でかついでクリンカー置場まで運び、そこで空けるという原始的な作業方法がとられていた。

ロ 昭和三〇年ころ作業方法が改められ、クリンカーをキルン取出口からシエーカーコンベア(鉄製の樋をやや傾斜を持たせて設置し、これを水平方向に早戻り運動させるようにして振動させて、物体を移動させる振動式コンベア。開放型)で受け出した後、パンコンベア(開放型)の上に落としてこれで二階に上げ、作業員が、パンコンベアからシユート(落下部分に小フードあり)を通して落下するクリンカーをトロツコ(開放型)に受け入れた上、トロツコを押してレールの上を走らせ、浸出槽の上でトロツコの下部を開いて直接これに投入するようになつた。

この方法は基本的には昭和三九年半ばまで変らなかつたが、途中昭和三七年ころ、浸出設備が従来の単槽単位方式から五槽(五組)一系列方式に改められたことに伴い、昭和三七年ころから昭和三九年半ばまでは、浸出槽の近くで作業員がトロツコ内のクリンカーを、一段下に置いてある別のトロツコ(開放型)に落下させて移し換え、更にこのトロツコを浸出槽の上まで運んでこれに投入するという方法がとられた。

ハ クリンカー移送作業は、ロータリーキルンが作動している間は、停止することなく繰り返し連続して行われた。

(2) 昭和三九年半ば以降

イ 昭和三九年半ば以降トロツコによるクリンカー移送は廃止され、クリンカーをシエーカーコンベアで受け出した後、まず、パンコンベア(開放型)の上に落としてこれでロータリークーラー(回転冷却機。受入、取出口以外は密閉仕様。受入、取出口周辺にフードあり。)に運び、この中を通す間にクーラー外周に水をかけてクリンカーを約一〇〇ないし一五〇度まで冷却させるようになつた。冷却されたクリンカーは、クーラーからメインフライトコンベア(羽根付コンベア、開放型)上に落下させた(落下部分にフードなし。)後、更にこれからサブフライトコンベア(開放型)に落下させて(落下部位にフードなし。)移し換えた上、浸出槽の上からこれに投入するようになつた。

ロ このように昭和三九年半ば以降は、クリンカー移送に直接人力、手作業が介在しなくなつたので、クリンカー移送に関し作業員の行う作業としては、第一工場家内に設けられたメーター室内での機器の運転・操作が多くを占めるようになつた。

しかし、各種機器の調整、注油、冷却水の通水状況の点検、落下物処理、清掃作業等作業員が機器の近辺で行う人力作業、手作業部分も少なからず残つていた。

なお、メーター室は開閉部分もあり密閉構造ではなかつた。

(3) クリンカー移送作業では、遅くとも昭和三四年ころには三交替勤務体制が採られるようになつた。

(4) 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は別添(一七、一九の中が1(四))で示すとおりである。

(五) 煙道のすすの排出作業

この工程では、作業員の手作業によつて、キルン付設のダストボツクス及び煙道に堆積、付着したすすの排出作業が行われた。

この作業は、一か月に一回から三回くらい行われ、生産量が(その後の時期と比べ相対的には)それほど多くなかつた昭和三四年ころまではキルンの作動を止めて二、三日後に、その後は約一日後に行われ、作業員が交互に右煙道等の中に入り、大型スコツプで大量のすすをかき出した。

このすすは、燃料起源の炭素成分のものだけではなく、クロム成分も多く含有する微細粉末であり、排出後のすすはキルンに投入して再利用した。なお、右煙道等の中にはスクラバーからの水が入り込んでおり、底にたまつたすすは汚泥状になつていた。

(六) ロータリーキルン内の「土手落し」(付着物除去)作業

ロータリーキルン内部で焼かれる原料の一部は融解後飴状になつて焙焼物の粉末とともにキルン内壁に付着した。この付着物を土手と呼んだが、昭和三七年ころまでは、(おそらく、微粉炭を燃料としていたことから、大量の不燃灰分が焙焼物と混じつて付着したために)土手はキルン作動に伴い徐々に厚さを増し三〇ないし四〇cmにまで達していたので、キルン取出口を塞ぐなどして円滑な焙焼の妨げとなることから、その除去作業が焙焼工程の作業員や臨時工の人力、手作業によつて行われた。

その頻度は、作業員がキルン内に入り込んでスコツプやピツクなどにより除去する大規模なものは一年に二回程度、作業員がキルン取出口から内部をのぞき込む形でレール状のものを通して除去する作業は一ヵ月四、五回は行われた。

(七) 環境保全設備等

(1) 第一工場建家の全体排気装置については前記2(三)(2)イ、2(3)イのとおりである。

(2) 焙焼作業関係

イ ロータリーキルンは、両端の固定部との接続部分がラビリンス構造になつていた。

ロ 昭和二九年まではキルンに特段の付属設備はなく、排気は煙突による自然通風によつていた。

なお、、微粉炭を燃料に用いていた昭和三〇年代半ばころには、炭じん排出のためのフアンが設置されていた。

ハ キルンには、昭和三〇年代半ばまでには排風機付レンガ製ダストボツクスが付設されたが、その後順次各種付属設備が設置され、昭和四二年には次のような設備があつた。

(イ) 一号キルンには、排気を排風機で引き、ダストボツクス、横型散水式スクラバー、竪型散水式スクラバーの順に通過させて屋外に排出する設備。

(ロ) 二、三号キルンには、排気を排風機で引き、ダストボツクス、サイクロン、竪型散水式スクラバーの順に通過させて屋外に排出する設備。

(3) クリンカー移送作業関係

イ 昭和三九年半ばより前には局所排気装置等特段の環境保全機器はなかつた。

ロ 昭和三九年半ば以降もロータリークーラーが設置されたほか右と同じ状況であつた。

(4) すすの排出、土手落とし作業関係

昭和四〇年代になつてすすの排出作業用の防火服(頭部は露出)が用意されるようになつたことを除いて、次で述べる一般の保護具以外の特別の保護具は用意されなかつた。

(5) 保護具等の状況については、この工程では耳栓が貸与されなかつたことを除き、前記2(三)(2)ニ、ホ、2(四)(3)ト、チと同じである。

(八) 粉じん等の発生状況及び作業員の被暴状況

以上(二)ないし(七)の認定事実からすれば、クリンカー移送方法が改変された昭和三九年半ばより前はもとより、それ以降においても、この工程の職場では、六価クロムを含むクロム粉じん、ミストが発生していたと推認されるところ、更に、粉じん等の発生、作業員の被暴の具体的状況につき、次の各事実を認めることができる。

(1) ロータリーキルン取出口から高温のクリンカーを取り出す際、キルン内部の排ガス、粉じんがクリンカーに随伴するなどして漏出飛散した。右の状態は、キルンに排風機による排気系が接続されていなかつた昭和二九年以前は顕著であり、その後も程度は弱まつたものの漏出飛散自体は続いた。

(2)イ 戦前から昭和二〇年代までのクリンカー移送方法では、ロータリーキルン取出口からバケツへのクリンカー投入時、クリンカー搬送時、クリンカー置場への積降し時に大量の粉じん等が舞い上つた。

ロ 昭和三〇年ころから昭和三九年半ばまでの移送方法では、シエーカーコンベアからパンコンベアに、パンコンベアからシユート、トロツコにと落下する都度その落差により粉じん等が舞い上つた。落下部分に付けられたフードは小規模で不完全であつたから、ほとんど粉じん等の発生、飛散を防止できなかつた。

また、注水はしていないが、水分が残つている浸出槽内に高温のクリンカーを投入したので、投入時に湯気や水蒸気とともに極めて大量の粉じん、ミストが舞い上つた。

右の粉じん等の発生、飛散はいずれも作業員の至近距離におけるものであつた。

ハ 昭和三九年半ば以降の移送方法でも、シエーカーコンベアからパンコンベアに、パンコンベアからロータリークーラー受入口に、同出口からメインフライトコンベアに、メインフライトコンベアからサブフライトコンベアにと落下する都度その落差により粉じん等が舞い上つた。右各落下部分のうち一部に付けられていたフードは小規模で不完全であつたから、ほとんど粉じん等の発生、飛散を防止できなかつた。

また、従前に比べ弱まつたものの浸出槽内へのクリンカー投入時の粉じん・ミスト発生もあつた。

(3) 建家の全体排気、換気状況については、前記2(三)(3)ホ、2(四)(4)ニのとおりである。

(4) 昭和三九年半ばより前は特に顕著であつたが、職場内の床面、構築物の上面などに粉じんが付着し、掃除の際にはこれが舞い上つた。

(5) これも昭和三九年半ばより前は特に顕著であつたが、作業員はガーゼマスクをしても口の中がざらついたり、刺激を覚え、鼻や耳の中、顔面など体の露出部分に粉じんが付着し、汗と混じつて体の他の部位にも広がつた。

(6) 前記(七)(2)ハのとおりロータリーキルンには各種環境保全設備が付設されたが、これらスクラバー等の装置は、屋外への排気の浄化を目的とし、工場外の公害発生を防止する機器であつて、仮にこれらが有効に作動していたとしても、工場内の作業現場の環境保全には直接結びつかないものである。

(九) 前記(二)ないし(七)の事実に右(八)の各事実を併せ判断すると、この工程の職場では、昭和三九年半ばより前は六価クロムを含む相当大量のクロム粉じん、ミスト(主として粉じん)が作業員の至近距離で発生し、昭和三九年半ば以降においても、やや程度が弱まつたもののクロム粉じん等(主として粉じん)が発生し、これが空気中に飛散、発散、拡散して作業員は作業中これに被暴し、吸入していたことが認められる。

また、すすの排出作業、土手落とし作業については、作業員は右各作業従事の際六価クロムを含む極めて大量のクロム含有粉じん、ミストに至近距離で被暴し、全身にこれを浴びて重筋高熱作業をし、マスクを着用してもこれが役に立たないような状況の下で、右粉じん等を大量に吸入したことは明らかである。

(一〇)(1) 以上のとおり認められ、前記3(一)の各証拠中、<証拠略>のうち、右認定に反する記載部分、供述部分は採用できず、後記第三で検討する<証拠略>中の前記角田、館両報告記載の空気中クロム量実測データとの関係は別として、他に右認定に反する証拠はない。

(2) 証人森本、同鵜川は、ロータリーキルン内の排気は排風機で引いていたから、キルン内には原料受入口から煙道方向に向う気流があり、外気圧より低圧に保たれていたので、この工程の作業員であつた原告本人らが供述するような、クリンカー取出しの際の取出口からの排ガス、粉じん等の漏出、飛散は原理的にあり得ない旨供述する。

しかし、前記3(一)の各証拠によれば、稼動中のキルン内の状態は、流体に関する理想的条件が設定される実験室的状態とは異なつて、大口径の管内で、高熱の化学反応が行われ、大量の熱及び二酸化炭素や各種粉じん、融解物の発生をみ、粘性のある重量物が移動しているという複雑な条件下に置かれていたのであり、右両証人がこれらの諸要因について何らの説明もしないで指摘する右原理をもつて、前記の認定を左右させることは困難である。

加えて、証人森本は、キルンと両固定端との接続部の隙間から粉じん等が漏出するので、それを防止するために環境保全措置の一つとして右部分をラビリンス構造にしたと供述するが、そうすると、右のような隙間からは粉じん等が漏出するのに、これよりもはるかに大きな開口部であり、そこからクリンカーを重力によつて下方に落下させている取出口からは粉じん等の漏出があり得ないということを合理的に説明できない限り、右両証人の前記供述部分を採用することはできないのである。

4 浸出工程

(一) 請求原因第三章第三の一3(一)(1)、同3(一)(2)のうち跳出しの所要時間、作業体制を除く点は当事者間に争いがない。

前記第二章で認定した事実、右争いのない事実に加えて、<証拠略>を総合すれば、以下のとおり認められる。

(二) 取扱物質等

この工程は、焼成工程で生成されたクリンカーを水で洗つてクロム酸ソーダ分を抽出する作業を行う。したがつて、独自の化学反応を目的とした工程ではない。

前記3(二)で認定したとおり、クリンカーには有用成分としてのクロム酸ソーダのほか、鉄、カルシウム、アルミニウム等の化合物など雑多な成分を有する不純物が含まれ、量は少ないが、クロム酸ソーダ以外の形で三価、六価のクロム成分も含まれていた。

浸出残滓(パルプ)には右不純物に加え、抽出しきれなかつたクロム酸ソーダが含まれ、このうちクロム分を多く含有するフアーストパルプは原料として再利用された。クロム分を多く含有しないセカンドパルプはそのまま棄てられた。

(三) 作業内容等

(1) 浸出作業

イ 昭和三七年ころまで

(イ) 操業開始当初から一定期間は、クロム酸ソーダの抽出法として、クリンカーをいつたん冷却させた後、コニカルボールミルで水とともに粉砕して泥漿状態に加工し、これをオートクレーブ(加熱加圧罐)に入れて加熱し、生成した混濁液をろ過機に通して浸出残滓を除去して、クロム酸ソーダ溶液を得るという方法がとられていた。

(ロ) どの時点で変更されたかは必ずしも明確ではないが、右の抽出法は、遅くとも戦後早い時期には特段の加工を施さずにクリンカーを浸出槽に投入し、水で洗つてクロム酸ソーダを抽出する方法に切り替えられたところ、昭和三七年ころまでは、底部にろ材用の金網と麻袋が敷かれた鋳鉄製円筒形タンク(直径二・四m、高さ二・二m、容積約九・六m3、開放型)を浸出槽として利用し、これにトロツコ等から高熱のクリンカーを約八時間かけて投入した後、水を注入してクロム酸ソーダを抽出した。高熱のクリンカーを直接投入することから、水を張つていない浸出槽にクリンカーを投入したが、投入時の槽内には少なからず水分が残つていた。

クロム酸ソーダの抽出は、単槽単位で行い、水を注入後抽出溶液を払い出し、抽出溶液はパイプで精製液工程に送つた。

ロ 昭和三七年ころ以降

(イ) 昭和三七年ころ浸出のシステムが単槽単位から五槽(五組)一系列単位に改められた。

(ロ) 浸浸出槽として、縦横三m、深さ一・五m又は一・八mの二様の大型鉄製タンク(開放型)と、縦三m、横一・五m、深さ一・五m又は一・八mの二様の小型角型鉄製タンク(開放型)とがあり、いずれのタンク内にも底部にろ材用の金網と麻袋が敷かれていた。

(ハ) 前記3(四)のとおり昭和三七年ころから昭和三九年半ばまではトロツコから高熱のクリンカーを末だ注水していない槽内に投入し、昭和三九年半ば以降は、クリンカーをロータリークーラーで約一〇〇ないし一五〇度まで冷却した後フライトコンベアを利用して、注水してある浸出槽に投入した。投入完了までの所要時間は大型槽の場合約八時間であつた。

(ニ) 投入後、原則として大型槽五個又は小型槽二個を一組としたものの五組をもつて一系列として、この系列単位で、後記(3)のとおり薄いクロム酸ソーダ溶液及び水でクロム酸ソーダを抽出した。

ハ 浸出作業の作業員は、主として、水や浸出液の移送のためのパルプ操作に携わり、これに加えて浸出槽内の溶液の状況の調査点検、機器の調整、注油等も行つた。バルプ操作は、隔離された室内ではなく、機械装置の近辺で行われた。

ニ 浸出作業では、遅くとも昭和三〇年代初めには三交替勤務体制が採られていた。

ホ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添(一七、一九の中で1(五))で示すとおりである。

(2) 跳出し作業

イ この工程では、浸出残滓(パルプ)を浸出槽内から排出する跳出し作業が行われた。

ロ この作業は、作業員が自ら槽内に入つた上、大型スコツプやピツクを用いる人力、手作業によつてパルプを掘り起こし、削り取るなどして槽外に投げ棄てる作業であり、作業員は大量のパルプを掘りながら作業を進め、底部付近に至ると自己の身長と同程度の高さのタンク側壁を越えてパルプを放り出さなければならなかつた。

このように跳出し作業は非常な重労働であつたところ、その所要時間は、パルプの焼け具合によつて異なつたが、昭和三七年ころまでの円筒型槽では一槽当たり一時間ないし三時間、右以降の角型槽では小型槽で一槽当たり四〇分ないし二時間、大型槽で一槽当たり一時間ないし四時間くらいを要した。もとより、小量ずつ堀り起こせばゆつくりと時間をかけて作業をすることもできるが、証人高杉がいうような管理職が試みに行う場合とは異なつて、一般の作業員が前後の工程の作動状況に合わせて作業を進める場合には、右程度の時間内で跳ね出さざるを得なかつた。パルプが特に硬い場合には、懸命に作業しても、右の小型槽でも三時間ないし四時間を要した。

ハ この作業は、昭和三三年ころまでは被告会社の従業員によつて行われていたが、重労働である上、固定的な勤務時間内に固定した人員で平均的に処理遂行するのには適さない、作業状況等にばらつきの多い回分式作業であつたことから、生産量の増大に伴つて、昭和三三年ころ以降は栗山運送に下請けさせて、その従業員が出来高払賃金制の下で行うようになつた。

当時、栗山運送の従業員は、一日一人当たり三、四槽(小槽単位)の跳出しを行つていた。

ニ 右以降の作業体制としては、クリンカーの生成量等をみながら、必要な時に必要な量の跳出しができるよう人員を揃えるという方式がとられたので、夜間の跳出しも当然に行われた。また、人員不足の際には、臨時工を中心に被告会社の従業員も跳出しに携わつた。

ホ 跳ね出された湿つたパルプは、フアーストパルプとセカンドパルプに区分けされた上、前者がフアーストパルプ乾燥工程に運び出され、後者が投棄のために搬出されるまでの間、この工程の職場の床に積まれたままとなつていた。

(3) 浸出・跳出しの仕組みについて

イ 跳出し作業中の浸出槽内の温度及び跳出し作業中の槽の隣の槽へのクリンカー投入の有無は右作業の作業環境を決する要素の一つであるところ、前記昭和三七年ころまでの浸出方法の下では、右の温度は相当高く、かつ、生産状況によつては右のような投入もあつたと容易に認められるが、前記昭和三七年以降の浸出方法の下における状況については、前記(一)の各証拠のうち跳出し作業経験者の供述に係るもの(高杉証言を除く。)は、すべて右の温度が高く、かつ、右のような投入もあつた旨述べるのに対し、栗山工場の工程管理者でもあつた証人森本は、一系列単位の浸出方法の仕組みを大型槽五個一系列の場合を例に挙げて説明した上、その仕組みに照らせば、パルプは三、四日間にわたり水で洗われた後に跳ね出されるので右作業時には槽内の温度は低くなつており、かつ、跳出し中の槽の隣の槽への投入は原理的にあり得なかつたと強調する。

ロ そこで、右当時の浸出・跳出しのシステムを明らかにすることを兼ねてこの点について検討すると、次のとおりである。

(イ) 浸出の仕組み

ABCDEと並んだ五つの槽が一系列を構成している場合に、CDEABの順にクリンカーが投入されてきて、最も古くなつたCのバルプが跳ね出された直後(他の槽には浸出中のクリンカーあり)の状態を出発点とすると、まずCの中に約八時間かけてクリンカーを投入し、投入後その時点で一番古いクリンカーの入つているDの槽を出発点としてDに水を注ぎ、Dを洗つた溶液をEに移し、更にEからAに、AからBに、BからCにと順次移してCの新しいクリンカーを洗つた後にCから溶液(濃くなつている。)を抜くという作業を二、三回行う。次に、Dのパルプを跳ね出し、Dについて右のCと同じことをし、更にEのパルプを跳ね出し、と順次繰り返して行う。この間再びCの跳ね出しまで一順するのに三、四日かかつた。

右のプロセスをCについてみると、Cは最初は、最も古いクリンカーの入つたDを出発点とする抽出液の終点として二、三回洗われ、次にEを出発点とする抽出液の四番目の槽として、更にA出発点・三番目、B出発点・二番目と合計一二・三回にわたつて薄いクロム薄ソーダ溶液(Cの槽に来た時の濃度は次第に薄くなる。)で洗われ、最後に自ら出発点となつて水で二、三回洗われることになるのである。

(ロ) 温度

そうすると、特殊例外的な場合以外、跳出し時においては、パルプ自体の温度は水の常温近くになつていたと認められる。

しかし、右プロセスからも明らかなとおり、跳出し作業は、系列内の一方の端の槽を除いて、常にクリンカーを投入して二、三回の抽出作業を終えた直後の高温の状態を保つている槽と鉄の側板で遮られただけの隣の槽で行われるのであり、この点を考慮すると(特に昭和三七年ころから昭和三九年半ばまでは)跳出し槽の内部の温度は比較的高かつたと認められるのである。

(ハ) 隣の槽への投入

前記のシステムによれば、確かに、証人森本が例に挙げた大型槽五個一系列の浸出の場合には、特殊例外的な場合以外隣の槽へのクリンカー投入はあり得ないことになる。

しかし、実際には、小型槽二個一組の五組一系列による浸出の方が多かつたのであり、この系列にあつては、跳出し中の槽の隣の槽への投入は原理的にはあり得たのである。

すなわち、この系列では、前例でいえば、CがC〈1〉とC〈2〉の二つの槽から成つていることになるが、C〈1〉の跳出しを終了後、作業員がC〈2〉の跳出しをしている間にC〈1〉にクリンカーを投入することは可能であり、このようにすると、C〈2〉の跳出し終了を待つて投入を開始するのと比べ、その跳出時間分だけ投入所要時間が短縮され、一系列当たりでは三時間半ないし一〇時間の短縮となるのである。

この点は、前記作業経験者の多くが供述する生産増強時にこのような投入がなされたということに符合し、少なくとも生産増強時には右のような投入があつたと認められるのである。

(四) 環境保全設備等

(1) 第一工場建家の全体排気装置については前記2(三)(2)イ、2(四)(3)イのとおりである。

(2) この工程では、全操業期間を通じて局所排気装置等特段の環境保全機器はなかつた。

(3) 被告会社の従業員用の保護具等の状況については、この工程では耳栓が貸与されなかつたことを除き、前記2(三)(2)ニ、ホ、2(四)(3)ト、チと同じである。

栗山運送の従業員たる跳出作業員に対しては、栗山運送からわずかにガーゼマスクが支給された程度で、被告会社、栗山運送の双方において他の特段の保護具等の支給、貸与、備え付けはしていなかつた。

(五) 粉じん等の発生状況及び作業員の被暴状況

右(二)ないし(四)の認定事実からすれば、クリンカーが高熱のまま浸出槽に投入されていた昭和三九年半ばより前はもとより、それ以降においても、この工程の職場では六価クロムを含むクロム粉じん等が発生していたと推認されるところ、更に、粉じん等の発生、作業員の被暴の具体的状況につき、次の各事実を認めることができる。

(1) クリンカーが特段の冷却措置を施されずに高熱のまま浸出槽に投入されていた昭和三九年半ばより前は、右投入時に槽内の水分が沸騰するとともに、火山の爆発のような感じで湯気、水蒸気、ミスト、粉じんが噴き上がつた。また、投入後の注水時においても、はじめのうちは、大量の湯気、水蒸気、ミスト、粉じんが液表面から強く飛散した。

(2) 昭和三九年半ば以降クリンカーが約一〇〇ないし一五〇度に冷却された上投入されるようになつてからは、投入時の粉じん等の爆発的な噴き上げは解消したが、依然として浸出槽から、かなりの量の湯気、水蒸気、ミスト、粉じんが飛散、発散した。

(3) 跳出し作業が行われた槽内は空気の流通も悪く、粉じん、ミストが充満し、また、パルプは抽出液を吸つて濡れた状態にあり、作業員はパルプや液滴に接触しながら作業を進め、パルプの堀り起こしは、クロム含有物質の山を堀つてその中に入り込んで行くに等しい作業であつた。

昭和三九年半ばより前はもとより、それ以降も槽内の温度は外気温より高く、かつ、湿度も極めて高い上、非常な重労働であつたから、跳出し作業員の体感温度は極めて高く、作業員は全身に大量の汗をかきながら作業をした。

このような状況の下では、マスクをすると息苦しくなつて作業が進まなかつたが、もともと、浸出槽内ではマスクを着用しても、クロムを含む液滴、ミスト、粉じんが口の中に入り込み、マスクはほとんど役に立たない状態であつた。

作業員の被服は抽出液で濡れ、体の露出部分は粉じん等が大量に付着し、付着した粉じん等は汗と混じつて体の他の部位にも広がつた。

更に、跳出し作業中にその隣の槽にクリンカーが投入された時は、作業員は、特に大量の粉じん等にさらされた。

(4) 建家の全体排気、換気状況については、前記2(三)(3)ホ、2(四)(4)ニのとおりである。

(5) 昭和三九年半ばより前は特に顕著であつたが、職場内の床面、構築物の上面などに粉じんが付着し、掃除の際にはこれが舞い上つた。

(6) これも昭和三九年半ばより前は特に顕著であつたが、跳出し以外の作業員も、ガーゼマスクをしても口の中に刺激を覚え、鼻や耳の中、顔面など体の露出部分に粉じんが付着し、汗と混じつて体の他の部位にも広がつた。

(六) 前記(二)ないし(四)の事実に右(五)の各事実を併せ判断すると、この工程の職場では、昭和三九年半ばより前は六価クロムを含む極めて大量のクロム粉じん、ミスト、液滴が作業員の至近距離で発生し、クリンカーの投入方法が改められた昭和三九年半ば以降においても、やや弱まつたものの右クロム粉じん等が作業員の至近距離で発生し、これが空気中に飛散、発散、拡散して、作業員は作業中これに被暴し、吸入していたことが認められる。

特に、跳出しの作業員については、昭和三九年半ばより前は相当の高温度下で、右以降も比較的温度が高い槽内で、この工程の全稼動期間にわたつて六価クロムを含む極めて大量のクロム含有粉じん、ミスト、液滴を直接全身に浴び、大量のクロム被暴、吸入があつたことは明らかである。

(七)(1) 以上のとおり認められ、前記4(一)の各証拠中、<証拠略>のうち、右認定に反する記載部分、供述部分は採用できず、後記第三で検討する<証拠略>中の前記角田、館両報告記載の空気中クロム量実測データとの関係は別として、他に右認定に反する証拠はない。

(2) なお、証人高杉は、跳出しの作業現場では粉じん、ミスト等が発生せず、「作業員が多くの賃金を得ようと欲を出さずにゆつつくりと」作業をすれば決して重労働ではなかつた旨供述するが、前記各証拠によれば、右証人は、跳出し作業員中の棒心的地位にあつた死亡者桜庭、同佐藤とは異なつて、被告会社の職制を退職後栗山運送の管理職に就き、正に「鼻に穴があいて一人前」といつて作業員を管理していた者であつて、現実に自己の労働として跳出し作業を担当したことはない上、その供述内容は、他の証拠から認められる当時の作業の実態と反するところが多く(作業員が懸命になつて跳出しをしなければ栗山工場の生産工程が麻痺してしまつたはずである。)、前記の供述部分を採用することはできない。

三  精製液工程

〔請求原因第三章第三の二、第二編第三章第三の二、第三編第一章第二の二2・第三の二2〕

1 主工程の概要

前記第二章で認定したところに加え、<証拠略>によれば、次のとおり認められる。

(一) この工程は、昭和一二年六月の栗山工場操業開始以来別添一六の第一工場建家内に配置されていた(この点は当事者間に争いがない。)ところ、この工程の昭和三四年当時の機械配置状況は別添(二一)のとおり、昭和四二年当時の機械配置状況は別添(一七)のとおり(この点も当事者間に争いがない。)、右当時の製造工程の概要は別添(二〇)のとおりである。

(二) この工程のプロセスの概略は別添(九)のとおりであり、この工程は、焼成工程で得られたクロム酸ソーダ溶液に硫酸を反応させて重クロム酸ソーダを生成する加酸工程、加酸の際析出副生した芒硝を遠心分離機で分離する分離工程、分離後の母液を真空蒸発缶で加熱濃縮させて更に芒硝を析出沈殿させる濃縮工程、濃縮後の母液を煮つめ硫酸を加えて調整し芒硝を完全に析出沈殿させる煮つめ工程、煮つめ液の上澄液をろ過機に通して不純物を除去し精製液とするろ過工程、ろ過後の精製液を更に真空蒸発缶で濃縮後晶出槽に入れて冷却して重クロム酸ソーダ結晶を析出させ、更に遠心分離機でこれを母液から分離する晶出分離工程、分離後の右結晶を乾燥させる乾燥工程、乾燥結晶を袋詰・包装する包装工程から成る。

右の濃縮以降ろ過までの工程を一つにまとめて蒸発工程と呼ぶことも多かつた。

また、この主工程には右の流れから派生して、加酸・分離で得られた芒硝の乾燥・荷造りを行う工程があつた。

ろ過後の精製液は、この工程で重クロム酸ソーダ製品とするほか、重クロム酸カリ、無水クロム酸、塩基性硫酸クロムの各主工程の原料として右各工程に送られた。

2 加酸から晶出分離までの各工程

(一) 請求原因第三章第三の二1(一)、同1(二)(1)のうち人力によるかく拌の点、同1(二)(4)イのうち加酸から晶出分離までの各工程自体では直接粉じんが発生しなかつたこと、昭和四〇年ころ間仕切りが設けられたこと、同1(二)(4)ロのうち職場で発熱反応を取り扱い、また、加熱等を行つていたことは当事者間に争いがない。

前記第二章で認定した事実、右争いのない事実に加えて、<証拠略>を総合すれば、以下のとおり認められる。

(二) 取扱物質等

この工程では、加酸工程でクロム酸ソーダから重クロム酸ソーダを生成した後、一貫して重クロム酸ソーダ含有の溶液を取り扱うが、右二物質とも六価クロム化合物である。また、そのほかに添加物としての硫酸、副生物、不純物としての芒硝を取り扱つた。

主要な化学反応は、加酸槽内でなされる。

2Na2CrO4+H2SO4→Na2Cr2O7+Na2SO4+H2O

という反応である。これは、クロム及び酸素の含有率を高めるため、クロム酸ソーダ中に原子量比で一六二分の四六含まれるナトリウムの一部を硫酸と結合させて除去し、原子量比でナトリウムを二六二分の四六しか含まない重クロム酸ソーダを生成させる反応である。

なお、副生芒硝は、母液によつて湿つている状態ではもちろん、乾燥後でも、六価クロム成分を不純物として含んでいる。

(三) 作業内容等

(1) 加酸、分離

イ 前記二4(三)(1)イ(イ)の操業開始当初から一定期間オートクレーブを用いて抽出作業をしていた当時は、クロム酸ソーダ溶液を蒸発缶で濃縮した後に加酸、分離の作業をした。

ロ 同イ(ロ)の単槽単位の浸出が行われた昭和三七年ころまでは、浸出液中のクロム酸ソーダ濃度が低かつたので、加酸後反応液を濃縮してから分離していたが、同ロの系列単位の浸出に転換後は、加酸、分離、濃縮の順で作業を行つた。

ハ 加酸は、鋼板製円筒形タンク(加酸槽)内でクロム酸ソーダ溶液と硫酸を反応させて行つた。加酸槽は、昭和三〇年代までは上部開放型、昭和四〇年代になつて上蓋付きとなつた。なお、右反応は発熱反応である。

昭和二五年ころまで、作業員がクロム酸ソーダ溶液を人力でかく拌しながら硫酸を加えた。

右以降は、加酸槽上部のパイプから右二物質を注入し、槽内のかく拌機でかく拌した。

化学反応により重クロム酸ソーダと芒硝とが生成し、このうち芒硝は析出するが、析出芒硝は母液とともに底部のパイプから抜き出し、遠心分離機に送つた。

ニ 分離では、底排式バスケツト型遠心分離機を用いて析出芒硝と母液(重クロム酸ソーダ、未析出芒硝含有)とを分離した。右分離機は、円周部にろ過面を有するバスケツトを高速回転させ、そのバスケツト中に上部から懸濁状になつている右混合溶液を注入して遠心力でろ過面に当てて、固型芒硝のみをろ過面に残し、母液は通過させる仕組みになつていた。分離機の上部は開放型であり、管や樋を用いて溶液(懸濁液)を上から落として注入した。

分離されて底にたまつた湿つた固型芒硝は、作業員が低速運転中の分離機からスクレーパー(かき出し用具)でかき落とし、昭和三七、八年までは分離機の下に置いたトロツコに載せた容器(開放型)内に、右以降はベルトコンベア(開放型)上に落下させて、芒硝荷造り工程に移送した。

なお、この加酸工程の芒硝分離用遠心分離機だけは、他の工程の分離機とは異なり、昭和四三年八月から横型連続遠心分離機(密閉仕様か開放型かは不明)に変えられ、分離の都度混合溶液の注入を行う必要はなくなつた。

ホ そのほか、作業員は、機器の近辺で、加酸槽、ポンプ、分離機等の操作などをした。

ヘ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添(一七、二〇の中で2(一)a、2(一)b)で示すとおりである。

(2) 濃縮からろ過まで

イ 濃縮

加酸槽で生成され、析出芒硝を除去した母液(粗重クロム酸ソーダ溶液)にはまだ芒硝が含まれているので、これを除去するため、真空蒸発缶(密閉仕様)を用いて母液を加熱濃縮させた。

濃縮中芒硝が析出、沈殿するが、これは缶下底部の容器に貯えられ、作業員がこの容器からスコツプで湿つている固型芒硝を取り出した。

ロ 煮つめ

濃縮液内になお残存する少量の芒硝を除去するため、角形鋼板製タンク(煮つめ槽、開放型)内で、かく拌しながら硫酸を加えて酸濃度を調整し、芒硝を完全に析出させた。

ハ ろ過

煮つめ槽で調整された重クロム酸ソーダ溶液をろ過機に通して不純物を完全に除去した。

ろ過機(作動時密閉仕様)は、加圧に耐える横型容器とリーフと称するろ過板とを多数枚水平パイプに取り付けたろ過装置を、前面扉から入れて装着させる構造になつており、不純物等はリーフに付着し、精製液だけを通過させて水平パイプで収集する仕組みになつていた。

ろ過後の精製液はいつたん角形鋼板製タンク(開放型)に貯え、更に計量槽や晶出分離工程に送つた。

ろ過装置の脱着、リーフの取替え、リーフのろ過助材コーテイング、リーフに付着した湿つた不純物の除去(ヘラ利用)、リーフの洗浄は、作業員の手作業で行われた。

ニ そのほか、作業員は、機器の近辺で、真空蒸発缶の操作、濃縮液の比重測定、圧力計等の監視、かく拌機の運転、ポンプ操作などをした。

ホ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添(一七、二〇の中で2(二)c、2(二)d、2(二)e)で示すとおりである。

(3) 晶出分離

イ 真空蒸発缶を用いて精製液を更に濃縮し、濃縮後これを晶出槽内で冷却して重クロム酸ソーダ結晶を析出させた後、遠心分離機によつて結晶を分離した。

ロ 真空蒸発缶は、前記(2)イのものと同一仕様(密閉仕様)であつたが濃縮中固型物の発生がなかつたのでその取出容器はなく、作策員による取出し作業もなかつた。

ハ 晶出槽は、横型長方形・底部半割円筒となつた鋼板製容器(開放型)であり、濃縮液をかく拌しながら冷却し、重クロム酸ソーダを析出させた。

溶液は析出結晶により懸濁状になり、これをパイプで遠心分離機に送つた。

ニ 重クロム酸ソーダ結晶の分離に用いた遠心分離機は、前記(1)ニのものと同型で、分離機の上部は開放型であり、管や樋を用いて溶液(懸濁液)を上から落として注入した。分離されて底にたまつた湿つた結晶は、作業員が低速運転中の分離機からスクレーパーでかき落とし、昭和三七、八年までは分離機の下に置いたトロツコに載せた容器(開放型)内に、右以降はベルトコンベア(開放型)上に落下させて、製品乾燥工程に移送した。

分離後の母液はピツト(開放型)にため、イの蒸発缶に送つた。

ホ そのほか、作業員は、機器の近辺で、真空蒸発缶、ポンプ、晶出槽、分離機等の操作などをした。

ヘ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添一七、二〇の中で2(二)fで示すとおりである。

(4) 以上の各工程では、遅くとも昭和三〇年代初めには三交替勤務体制が採られていた。

(四) 環境保全設備等

(1) 昭和四〇年代には取り付けられていた加酸槽の上蓋には、屋外につながる排気筒が付設されていた。

(2) 昭和四〇年代になると煮つめ槽の上部周辺には、電動換気扇が設置されている天蓋フードが取り付けられた。

(3) この工程では、右(1)、(2)以外に局所排気装置等特段の環境保全機器はなかつた。

(4) 第一工場建家の全体排気装置については前記二2(三)(2)イ、二2(四)(3)イのとおりである。

(5) この工程では、古くからガーゼマスク、ゴム手袋、軍手、ゴム長靴、ゴム前掛、ゴム長手袋が支給又は貸与され、昭和三〇年代半ばには作業帽、作業服やメガネが貸与されるようになつた。

(6) 第一工場建家内の休憩所の衛生器具等の備え付け状況は、前記二2(三)(2)ホ、二2(四)(3)チと同じである。

(五) 粉じん等の発生状況及び作業員の被暴状況

以上(二)ないし(四)の認定事実からすれば、この工程の職場では、ほぼ全量が六価クロムの形でクロムを含有するミスト、液滴が発生、発散していたと推認されるところ、更に、ミスト等の発生、作業員の被暴の具体的状況につき、次の各事実を認めることができる。

(1) 加酸槽に上蓋が設置されるまでは、発熱反応に伴い液面から多くのミストが発生し、外部に飛散した。また、排気筒付き上蓋設置後もしばしばミストが漏出した。

加酸室内は、湿度が高く、部屋中が「もやつとした」感じであつた。

(2) 遠心分離機への液の注入時には大量のミストや液滴が作業員の至近距離で外部に飛散した。また、湿つた結晶を手作業でかき出す際にもこれと同様であつた。

なお、加酸後の芒硝分離用遠心分離機に限つて昭和四三年八月に連続遠心分離機が採用されてからは、作業員の液の注入作業はなくなり、至近距離でのミスト等の飛散はなくなつた。

(3) 真空蒸発缶下の容器から手作業で湿つた固型芒硝をかき出す際に作業員の至近距離で多くのミストや液滴が飛散した。

(4) フードが取り付けられる前には煮つめ槽から大量のミストが発生した。フード取付後も換気扇の換気能力は小さく、少なからずフード外へミストが拡散した。

(5) 作業員が手作業でろ過機のリーフの取替え、洗浄、不純物の除去作業等を行う際、作業員の至近距離でミストや液滴が飛散した。

(6) 開放型の晶出槽の液面からもミストが発生した。

また、晶出後の遠心分離機からのミスト、液滴飛散は前記(2)のとおりである。

(7) 職場の温度、湿度ともに高く、全体がジメジメした感じであつた。

(8) 建家の全体排気、換気状況については、前記二2(三)(3)ホ、二2(四)(4)ニのとおりである。

(9) 作業員のマスクは黄色、褐色に変色し、呼・吸気によつてマスクが湿るとクロム成分が溶け込み、マスクをしていても口の中に異味、異臭を覚えた。作業員の体の露出部分や着衣には、ミスト、液滴中の溶質として付いた後析出した粉末が付着した。

(六) 前記(二)ないし(四)の事実に右(五)の各事実を併わせ判断すると、この工程の職場では、真空蒸発缶を除きほとんどの機器が開放型であり、特段の環境保全機器もなかつた昭和三〇年代まではもとより、若干の改善がなされた昭和四〇年代においても、ほぼ全量が六価クロムの形でクロムを含有する大量のミスト・液滴が作業員の至近距離で発生し、これが空気中に飛散、発散、拡散して、作業員は作業中これに被暴し、吸入していたことが認められる。

(七)(1) 以上のとおり認められ、前記2(一)の各証拠中、<証拠略>のうち、右認定に反する記載部分、供述部分は採用できず、後記第三で検討する<証拠略>中の前記角田、館両報告記載の空気中クロム量実測データとの関係は別として、他に右認定に反する証拠はない。

(2) ところで、証人鵜川は、遠心分離機の作動について、注入液には遠心力により周辺部に向う力が働くから、正常運転している限り、上部が開放されていても回転中開放部分から液滴やミストが漏出、飛散することは原理的にあり得ない旨供述する。

しかし、前記2(一)の各証拠等によれば、分離機作動時の注入液には、重力、底部との反発力、摩擦力、液体の周辺部で上向きに働く力など回転の力以外にも様々な力が作用していたことが明らかであり、原理的にも、証人鵜川のいう遠心力の存在のみを前提にして、作動中の分離機上部の開放部分から液滴等が漏出、飛散することはあり得ないと単純に結論を導くことは到底できない状態にあつたと解されるので、右供述によつて、他の証拠から認められる前記認定事実を左右することはできない。

3 製品乾燥、包装工程

(一) 請求原因第三章第三の二2(一)、(二)(3)ロのうち職場で熱風使用のドライヤーが作動していたことは当事者間に争いがない。

前記第二章で認定した事実、右争いのない事実に加えて、<証拠略>を総合すれば、以下のとおり認められる。

(二) 取扱物質等

この工程では、晶出分離された重クロム酸ソーダ(六価クロム化合物)を取り扱つていた。特段の化学反応はなされず、乾燥、包装という物理的作用を加える工程であつた。

(三) 作業内容等

(1) 製品乾燥

イ 昭和三七年ころまでは、晶出分離工程で得られた未乾燥重クロム酸ソーダ結晶を、作業員が容器(開放型)を載せたトロツコで運び、右容器からドライヤーのホツパー受入口にスコツプで投入して乾燥させた。

ドライヤーは、横型円筒形容器(密閉仕様)で、内部にかく拌用回転羽根付シヤフトが貫通し、外側に加熱用蒸気を通して、右羽根を回転させながら結晶を乾燥させた。ドライヤーの中央上部に結晶投入用扉、中央下部に同排出用扉が付いていた。

乾燥後の結晶は、作業員が排出用扉から手作業でかき出し、製品貯蔵容器に移した。

ロ 昭和三七年ころ以降は、未乾燥結晶をベルトコンベアで搬送していつたん貯槽(開放型)に貯えた後、作業員がこれからドライヤーのホツパー受入口にスコツプで投入して乾燥させた。

ドライヤーはロータリードライヤーに変えられ、乾燥後の結晶は熱風出口側の取出口を開いて、ドライヤー下の製品貯蔵容器に落下させて移した。

ハ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は別添(一七・二〇の中で2(三)g)で示すとおりである。

(2) 包装工程

イ ドライヤー下の貯蔵容器に貯えられた高温の重クロム酸ソーダ結晶を、作業員が容器の下方にある取出口を開け、かき出し棒でかき出し、漏斗を通して、昭和三七年ころまでは二五kg缶に詰め、右以降はビニール袋を内装した紙袋に受け出し、十能を用いて微調整をして台秤で二五kgを計り取つた。二五kgを詰めると内側のビニール袋の空気を抜きながら口を縛り、外側の紙袋を折つてミシンかけした。

包装後の缶や袋はハンドリフトなどで製品倉庫に運搬した。

ロ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添(一七・二〇の中で2(三)h)で示すとおりである。

(3) 右各工程では、昼間のみの日勤者もいたが、遅くとも昭和三〇年代初めには三交替勤務体制が採られていた。

(四) 環境保全設備等

(1) 昭和三七年ころまでは、ドライヤーのシヤフトがグランドシールされていたほか、局所排気装置等特段の環境保全機器はなかつた。

(2) 昭和三七年以降ドライヤーに、排気を排風機で引きベンチユリースクラバーを通過させて屋外に排出する設備が付設され、製品貯蔵容器上部からも右排風機に配管されていた。

また、ドライヤーの回転体と両端固定部分との接続部はフランジ式面シール構造となつていた。

ただし、右のスクラバーは、屋外への排気の浄化を目的とし、工場外の公害発生を防止する機器であつて、仮にこれが有効に作動していたとしても、工場内の作業現場の環境保全には直接結びつかないものである。

(3) 第一工場建家の全体排気装置については前記二2(三)(2)イ、二2(四)(3)イのとおりである。

(4) 保護具等の状況は、前記2(四)(5)、(6)と同じである。

(五) 粉じん等の発生状況及び作業員の被暴状況

以上(二)ないし(四)の認定事実からすれば、この工程の職場では、ほぼ全量が六価クロムの形でクロムを含有する粉じん、ミストが発生していたと推認されるところ、更に、粉じん等の発生、作業員の被暴の具体的状況につき、次の各事実を認めることができる。

(1) 昭和三七年ころまでは、作業員が人力、手作業により湿つた結晶をドライヤーに移送したり、これを投入する際に、その至近距離でミストが発生し、また、乾燥結晶をかき出す際には、その至近距離で粉じんが発生した。

(2) 昭和三七年以降も、右の湿つた結晶のドライヤーへの投入時に作業員の至近距離でミストが発生した。また、ドライヤー取出口から乾燥結晶が貯蔵容器内に落ちる際にドライヤー内の排ガス、粉じんが漏出、発散した。

(3) 包装作業において結晶をかき出し漏斗で受ける際に、ザラメ糖状結晶の間に混じつている細かな結晶粉末が大量に飛散し、十能による微調整、袋の空気抜きをする際にも右粉末が飛散した。

(4) 包装作業は、空気の流通をよくすると粉末がより強く飛散するので、外気と遮断された室内で行われることが多く、部屋中に細かな結晶粉末が漂つていた。

建家の全体排気、換気状況については、前記二2(三)(3)ホ、二2(四)(4)ニのとおりである。

(5) 作業員のマスクは黄色、褐色に変色し、マスクをしていても口の中に異味、異臭を覚えた。頭に覆いをかぶつて作業をしても粉じんが頭部、顔面などをはじめ体のいたる所に大量に付着した。

(六) 前記(二)ないし(四)の事実に右(五)の各事実を併せ判断すると、この工程の職場では、ドライヤーシヤフトのグランドシールのほか特段の環境保全機器もなかつた昭和三七年ころまではもとより、若干の改善がなされた右以降の時期においても、ほぼ全量が六価クロムの形でクロムを含有する粉じん、ミストが作業員の至近距離で相当大量に発生し、これが空気中に飛散、発散、拡散して、作業員は作業中これに被暴し、吸入していたことが認められる。

(七) 以上のとおり認められ、前記3(一)の各証拠中<証拠略>のうち右認定に反する記載部分、供述部分は採用できず、後記第三で検討する<証拠略>中の前記角田、館両報告記載の空気中のクロム量実測データとの関係は別として、他に右認定に反する証拠はない。

4 芒硝荷造り工程

(一) 請求原因第三章第三の二3(一)、(二)(3)ロのうち職場で高温の乾燥機が作動していたことは当事者間に争いがない。

前記第二章で認定した事実、右争いのない事実に加えて、<証拠略>を総合すれば、以下のとおり認められる。

(二) 取扱物質等

この工程では、加酸槽で生成された後分離された副生芒硝(硫酸ナトリウム、Na2SO4)を取り扱つた。乾燥前の芒硝は六価のクロム成分を含む母液によつて濡れており、乾燥後の芒硝には不純分として右クロム成分が含まれていた。

(三) 作業内容等

(1) 昭和三二、三年以前は、遠心分離機で分離後スクレーパーでかき落とされた芒硝を容器に受けて、作業員がスコツプ等でこれを湿つたままセメント袋に入れ製品とした。したがつて、当時はこの工程の独自性は薄かつた。

(2) 昭和三三年ころ、従前第一工場内にあつた無水クロム酸工程が第三工場内に移動したこともあつて、その跡にロータリードライヤーを置いて、これで芒硝を乾燥させた後、包装・製品化するようになつた。

分離後の芒硝は、昭和三七年ころまでは作業員がトロツコ(開放型)に載せて、右以降はベルトコンベア(開放型)で室内の芒硝置場(隔壁なし)に運んで落下させていつたんそこに堆積させ、これを作業員が容器(開放型)に入れてドライヤーのホツパー受入口まで持つて行き、スコツプで投入した。

(3) 乾燥後の芒硝荷造り作業は、昭和四二年ころまでは作業員がふるいにかけ、粉末状のもののみをセメント袋に入れて出荷した。

右以降は、乾燥後の芒硝をベルトコンベア(開放型)で室内にあつた乾燥芒硝置場(隔壁なし)に運んで落下させてそこに堆積させた。そして、粉末状の右堆積芒硝を作業員がスコツプで製品に詰め、台秤で二五kgを計り取つた後、袋をベルトコンベア(開放型)に載せ、別の作業員がこれを受け取つて袋にミシンかけをした。

(4) ドライヤーによる乾燥を行うようになつてから、芒硝荷造り作業は栗山運送が下請けするようになり、その従業員が作業に従事していた。

(5) 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添(十七、二〇の中で2(一)b)で示すとおりである。

(四) 環境保全設備等

(1) 昭和三七年ころロータリードライヤーにダストボツクスと排気を引くための排風機が付設されたが、これ以外局所排気装置等特段の環境保全機器はなかつた。

(2) 第一工場建家の全体排気装置については前記二2(三)(2)イ、二2(四)(3)イのとおりであつた。

(3) 栗山運送の従業員たる作業員に対しては、栗山運送からわずかにガーゼマスク、ゴム手袋が支給された程度で被告会社、栗山運送の双方において他に特段の保護具等支給、貸与、備え付けはしていなかつた。被告会社従業員に対する保護具等の状況は、前記2(四)(5)、(6)と同じである。

(五) 粉じん等の発生状況及び作業員の被暴状況

以上(二)ないし(四)の認定事実からすれば、この工程の職場では、昭和三三、四年以前は六価クロムを含むミストが、昭和三四、五年以降は六価クロムを含む粉じん、ミストが発生していたと推認されるところ、更に、この工程における粉じん等の発生、作業員の被暴の具体的状況につき、次の各事実を認めることができる。

(1) 昭和三三、四年以前は、湿つた芒硝をスコツプで袋に入れる際に、作業員の至近距離でミストが発生し、液滴が飛散した。

(2) 昭和三四、五年以降、作業員が湿つた芒硝をドライヤーに投入する際、作業員の至近距離でミストが発生した。

(3) 乾燥後の芒硝荷造り作業では、昭和四二年ころまでは乾燥芒硝をふるいにかける際や袋詰めする際に、作業員の至近距離で大量の粉じんが発生し、右以降は、これを芒硝置場に落下させる際、スコツプですくい取り袋詰めする際、袋のミシンかけをする際に、作業員の至近距離で大量の粉じんが発生した。

(4) 閉め切つた室内で作業が行われ作業員のマスクは黄色、褐色に変色し、マスクをしていても粉じんが口や鼻の中に入り、全身にクロムが付着した。特に右のスコツプによるすくい取り作業はベルトコンベアから粉末状芒硝が落下する下で行われ、作業員は頭から全身に右粉末をかぶりながら作業をした。

なお、建家の全体排気、換気状況については、前記二2(三)(3)ホ、二2(四)(4)ニのとおりである。

(六) 前記(二)ないし(四)の事実に(五)の各事実を併せ判断すると、この工程の職場では、昭和三三、四年以前は六価クロムを含む大量のミストが、昭和三四、五年以降は六価クロムを含む大量の粉じん、ミストが作業員の至近距離で発生し、これが空気中に飛散、発散、拡散して、作業員は作業中これに被暴し、吸入していたことが認められる。

(七) 以上のとおり認められ、前記4(一)の各証拠中、<証拠略>のうち右認定に反する記載部分、供述部分は採用できず、後記第三で検討する<証拠略>中の前記角田、館両報告記載の空気中クロム量実測データとの関係は別として、他に右認定に反する証拠はない。

四  重クロム酸カリ工程

〔請求原因第三章第三の三、第二編第三章第三の三、第三編第一章第二の二3〕

1 主工程の概要

前記第二章で認定したところに加え、<証拠略>によれば、次のとおり認められる。

(一) この工程は、昭和一六年栗山工場に設けられたものであり、別添一六の第二工場建家内に配置されていた(この点は当事者間に争いがない。)ところ、昭和四二年当時の機械配置状況は別添一八のとおり(この点も当事者間に争いがない。)、製造工程の概要は別添二〇のとおりである。

(二) この工程のプロセスの概略は別添一〇のとおりであり、この工程は、置換槽内で、精製液工程で得られた重クロム酸ソーダ溶液(精製液)に塩化カリウムを反応させて、重クロム酸カリウムを生成する反応工程、ここで得られた重クロム酸カリウムと塩化ナトリウム(食塩)との混合溶液中の固型不純物を除去するろ過工程、ろ過後の溶液を晶出槽に入れて重クロム酸カリウムの結晶を析出させ、更に遠心分離機でこれを母液から分離する晶出分離工程、分離後の右結晶を乾燥させる乾燥工程、乾燥結晶を袋詰・包装する包装工程から成る。

2 各工程の状況

(一) 請求原因第三章第三の三の冒頭の主張、同1、2(三)(2)のうち職場で熱風使用のドライヤーが作動していたことは当事者間に争いがない。

前記第二章で認定した事実、右争いのない事実に加えて、<証拠略>を総合すれば、以下のとおり認められる。

(二) 取扱物質等

この工程では、重クロム酸ソーダー溶液と反応工程で得られた重クロム酸カリウムとを取り扱つた。右二物質とも六価のクロム化合物である。また、そのほかに副原料としての塩化カリウム、副生物、不純物としての食塩を取り扱つた。

主要な化学反応は、置換槽内でなされる。

Na2Cr2O7+2KC1→K2Cr2O7+2NaC1

という反応である。これは、重クロム酸基との結合力がナトリウムよりも大であるカリウムがナトリウムと置換して重クロム酸カリウムとなる反応である。

なお、副生食塩は、母液によつて湿つている状態のまま製品化されたが、六価クロム成分を不純物として含んでいた。

(三) 作業内容等

(1) 反応工程

イ 鋼板製円筒型タンク(置換槽、開放型)に重クロム酸ソーダ溶液を入れ、これに粒状の塩化カリウムを、かつては人力作業で、その後はベルトコンベアで落下させて添加し、約一〇〇度に加熱しながら槽内のかく拌機でかく拌して反応させた。

ロ そのほか、作業員は、機器の近辺で置換槽の操作、溶液の比重測定などを行つた。

ハ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添一八、二〇の中で3(一)で示すとおりである。

(2) ろ過工程

イ フイルタープレスと称する板枠型圧ろ器式ろ過機で反応液をろ過した。このろ過機は、鋳鉄製四角形のろ板とろ枠とを交互に並べ、ろ枠の両面をろ布で覆つて両側から締めつけてセツトし、液をろ布でこす仕組みになつていた。ろ布に付着した湿つた不純物の除去、ろ布等の洗浄は、作業員が手作業で行つていた。

ハ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添一八、二〇の中で3(二)で示すとおりである。

(3) 晶出分離工程

イ ろ過後の混合溶液は、タンク(開放型)の中に落とし、次に加熱タンク(かつての仕様は不明。昭和四二年当時は上蓋付き)に移して再び約一〇〇度に加熱した上、晶出槽に移送した。

晶出槽は鋼板製円錐底型タンクで、かつては開放型であつたが、遅くとも昭和四〇年代初めには上蓋が取り付けられた。また、古い時期には人力でかく拌していたが、昭和三〇年代には内部のかく拌機でかく拌するようになつた。昭和四〇年代には、液表面に冷風を吹きつけて急速冷却する槽と自然冷却によるものとの二種の晶出槽があつた。

晶出槽内で重クロム酸カリウムが析出し、溶液は懸濁液となつた。

懸濁液はパイプで遠心分離機に送つた。

ロ 遠心分離機は精製液工程の(芒硝)分離工程で使用したもの(前記三2(三)(1)ニ)と同型で、分離機の上部は開放型であり、管や樋を用いて溶液(懸濁液)を上から落として注入した。分離されて底にたまつた湿つた重クロム酸カリウム結晶は、作業員が低速運転中の分離機からスクレーパーでかき落とし、分離機の下に置いたトロツコに載せた容器(開放型)内に落下させた。

かつては、作業員が右トロツコで結晶をドライヤーまで移送したが、遅くとも昭和四〇年代初めには、作業員が右容器をホイスト(吊り上げ装置)の吊り手にかけて、これで吊り上げて移送するようになつた。

ハ 分離後の母液には食塩と残存重クロム酸カリウムが含まれているが、これをタンク(開放型)にためた後、真空蒸発缶(密閉仕様)に移して加熱濃縮させて食塩を析出させた。

濃縮中析出、沈殿した食塩は缶下底部の容器に貯えられ、作業員がスコツプでこの容器から母液が多く付着している食塩結晶を取り出し、ベルトコンベア(開放型)で右ロの遠心分離機に移送して、これで母液を除去した。分離された湿つた食塩は、作業員が低速運転中の分離からスクレーパーでかき落とし、分離機の下に置いた容器(開放型)内に落下させ、湿つたままの状態でスコツプで容器から取り出し袋詰めした。

ニ そのほか、作業員は、機器の近辺で晶出槽、ポンプ、分離機等の操作などをした。

ホ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添一八、二〇の中で3(三)で示すとおりである。

(4) 製品乾燥工程

イ かつては、分離後の重クロム酸カリウム結晶を前記三3(三)(1)イと同様の方法、機器で乾燥させていたが、遅くとも昭和四〇年代初めにはロータリードライヤーを使用するようになり、ホイストで吊り上げて運搬した容器を、作業員がドライヤー投入口の上で反転させて結晶を投入するようになつた。乾燥後の結晶は取出口を開いてドライヤー下の製品貯蔵容器に落下させて移送した。

ロ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添一八、二〇の中で3(四)で示すとおりである。

(5) 包装工程

イ 前記三3(三)(2)イの精製液工程の包装工程と同様の作業が行われた。

ロ 昭和四二年当時のこの工程の装置の概要は、別添一八、二〇の中で3(五)で示すとおりである。

(6) 以上の工程では、遅くとも昭和三〇年代初めには三交替勤務体制が採られていた。ただ、包装工程では昼間のみの日勤者もいた。

(四) 環境保全設備等

(1) 昭和四〇年代には取り付けられていた晶出槽の上蓋には、屋外につながる排気筒が付設されていた。また、昭和四二年当時には、ろ過後の混合溶液加熱タンクの上蓋にも屋外につながる排気筒が付設されていた。

(2) 反応から晶出分離までの工程では、右(1)以外に局所排気装置等特段の環境保全機器はなかつた。

(3) 製品乾燥、包装工程では、昭和三五年までは、ドライヤーのシヤフトがグランドシールされていたほか、局所排気装置等特段の環境保全機器はなかつた。

昭和三五年には、ドライヤーに前記三3(四)(2)と同様の設備等が付設された。

ただし、右のスクラバーは屋外への排気の浄化を目的とし、工場外の公害発生を防止する機器であつて、仮にこれが有効に作動していたとしても、工場内の作業現場の環境保全には直接結びつかないものである。

(4) 第二工場建家の全体排気装置としては、重クロム酸カリ工程の操業開始から昭和三〇年初めまでは特段のものはなく、その後屋根上に電動換気扇が設置された(個数は不明)。

(5) 保護具等の状況は、前記三2(四)(5)、(6)と同じである。

(五) 粉じん等の発生状況及び作業員の被暴状況

以上(二)ないし(四)の認定事実からすれば、この工程の職場では、ほぼ全量が六価クロムの形でクロムを含有する粉じん、ミスト等が発生していたと推認されるところ、更に、粉じん等の発生、作業員の被暴の具体的状況につき、次の各事実を認めることができる。

(1) 加熱反応中の置換槽から大量のミスト、湯気、水蒸気が発生、飛散した。

(2) 上蓋付設前の加熱用タンクからは大量のミスト、湯気、水蒸気が発生、飛散した。また、上蓋付設前の晶出槽からもミストが発生した。

上蓋付設後は、ミスト等の大量発生はなくなつたが、なお、蓋の隙間からミスト等が漏出発散した。

(3) 遠心分離機への液の注入時には大量のミストや液滴が作業員の至近距離で外部に飛散した。また、湿つた結晶を手作業でかき出す際にもこれと同様であつた。

(4) 包装作業において結晶をかき出し漏斗で受ける際に、細かな結晶粉末が大量に飛散し、十能による微調整、袋の空気抜きをする際にも右粉末が飛散した。

(5) 職場の温度、湿度ともに高く、反応から晶出分離までの職場は特にジメジメした感じであつた。

包装の職場は、空気の流通をよくすると粉末がより強く飛散するので外気と遮断された室内で作業が行われることが多く、部屋中に細かな結晶粉末が漂つていた。

(6) 屋根上の電動換気扇設置後も、建家の全体排気、換気状態は悪かつた。

(7) 作業員のマスクは黄色、褐色に変色し、呼・吸気によつてマスクが湿るとクロム成分が溶け込むなどして、マスクをしていても異味、異臭を覚えた。

包装の職場では、頭に覆いをかぶつて作業をしても粉じんが頭部、顔面などをはじめ体のいたる所に大量に付着した。

(六) 前記(二)ないし(四)の事実に右(五)の各事実を併せ判断すると、真空蒸発缶を除きほとんどの機器が開放型で、特段の環境保全機器もなかつた時期はもとより、若干の改善がなされた後の時期においても、この工程の職場のうち反応から晶出分離までは、ほぼ全量が六価クロムの形でクロムを含有する大量のミスト、液滴が、製品乾燥、包装では、ほぼ全量が六価クロムの形でクロムを含有する大量の粉じん、ミストが、いずれも作業員の至近距離で発生し、これが空気中に飛散、発散、拡散して、作業員は作業中これに被暴し、吸入していたことが認められる。

(七) 以上のとおり認められ、前記2(一)の各証拠中<証拠略>のうち、右認定に反する記載部分、供述部分は採用できず、後記第三で検討する<証拠略>中の前記角田、館両報告記載の空気中クロム量実測データとの関係は別として、他に右認定に反する証拠はない。

五  無水クロム酸工程

〔請求原因第三章第三の四、第二編第三章第三の四、第三編第一章第二の二4〕

1 主工程の概要

前記第二章で認定したところに加え、<証拠略>によれば、次のとおり認められる。

(一) この工程は、昭和二七年に栗山工場に設けられたものであり、当初は別添一六の第一工場建家内に配置されていたが、昭和三三年ころ以降第三工場建家(旧電気炉工場)内に移つた(この点は当事者間に争いがない。)ところ昭和四二年当時の機械配置状況は別添一八のとおり(この点も当事者間に争いがない。)、製造工程の概要は別添二〇のとおりである。

(二) この工程のプロセスの概略は別添一一のとおりであり、この工程は、精製液工程で得られた重クロム酸ソーダ溶液(精製液)に更に硫酸を加えて反応させて、無水クロム酸(六価の酸化クロム)を生成する反応工程、右反応により析出副生した固型酸性芒硝(NaHSO4)を遠心分離機で分離する分離工程、分離後の母液を真空蒸発缶で加熱濃縮させて無水クロム酸結晶を析出させる濃縮工程、濃縮後、懸濁液を遠心分離機にかけ結晶と母液とを分離した上結晶を洗浄する分離洗浄工程、分離洗浄した結晶を乾燥させる乾燥工程、乾燥結晶を袋詰・包装する包装工程から成る。

2 各工程の状況

(一) 請求原因第三章第三の四の冒頭の主張、同1は当事者間に争いがない。

前記第二章で認定した事実、右争いのない事実に加えて、<証拠略>を総合すれば、以下のとおり認められる。

(二) 取扱物質等

この工程では、重クロム酸ソーダ溶液と反応工程で得られた無水クロム酸とを取り扱う。右二物質とも六価のクロム化合物である。また、そのほかに、添加物としての硫酸、副生物、不純物としての硫酸芒硝、芒硝を取り扱った。

主要な化学反応は、反応工程でなされる、

Na2Or2O7+2H2SO4→2CrO3+2NaHSO4+H2O

という反応である。これは重クロム酸ソーダ中のナトリウム分をすべて硫酸と結合させて除去する反応である。

(三) 作業内容等

(1) 反応工程

イ 昭和三五年ころまでは開放型鉄製タンク内で重クロム酸溶液と硫酸とを反応(発熱反応)させた上、酸性芒硝を析出させた。

ロ 昭和三五年ころ以降は上蓋付鋼板製円筒形晶出槽を用いて右反応、析出をさせるようになつた。晶出槽内にはかく拌機があり、外部側壁と底部は冷却水を通すための二重ジヤケツト構造になつていた。

無水クロム酸の酸化力が極めて強いので、晶出槽の内側は、鉛(昭和三九年まで)やガラス(右以降)でラインニング(内張り)されていた。

析出した固型酸性芒硝によつて懸濁した溶液は、パイプで遠心分離機に送つた。

ハ そのほか、作業員は、機器の近辺で晶出槽、冷却機の操作などをした。

ニ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添一八、二〇の中で4(一)aで示すとおりである。

(2) 分離工程

イ 遠心分離機は精製液工程の(芒硝)分離工程で使用したもの(前記三2(三)(1)ニ)と同型(ただし、無水クロム酸の酸化力が極めて強いので、バスケツト内面は鉛でラインニングされていた。)で、分離機の上部は開放型であり、管や樋を用いて溶液(懸濁液)を上から落として注入した。

分離されて底にたまつた湿つた固型酸性芒硝は、作業員が低速運転中の分離機からスクレーパーでかき落とし、昭和三〇年代までは分離機の下に置いたトロツコに載せた容器(開放型)内に落下させた後、作業員がこれを運んでタンク(開放型)内に移し、昭和四〇年代にはベルトコンベア(開放型)上に落下させて右タンクに移送した。その後、右タンク内で右酸性芒硝にクロム酸ソーダ溶液を加えて反応させ、重クロム酸ソーダと芒硝の混合溶液とし、精製液工程の加酸槽に送り返した。

ロ 分離後の母液(無水クロム酸溶液)は分離機の下のタンク(開放型)に落下させてため、パイプで真空蒸発缶に送つた。

ハ そのほか、作業員は機器の近辺で分離機の操作などをした。

ニ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添一八、二〇の中で4(一)bで示すとおりである。

(3) 濃縮

イ 分離後の無水クロム酸溶液を真空蒸発缶(密閉仕様)で加熱濃縮させ、缶内で無水クロム酸結晶を析出させた。この蒸発缶も昭和三九年以降はガラスラインニングされていた。

析出した無水クロム酸結晶によつて懸濁した溶液は、パイプで遠心分離機に送つた。

ロ そのほか、作業員は機器の近辺で蒸発缶の操作、溶液の比重測定などをした。

ハ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概略は、別添一八、二〇の中で4(一)cで示すとおりである。

(4) 分離洗浄

イ 真空蒸発缶で得られた懸濁液(泥状に近いもの)を遠心分離機にかけて、無水クロム酸結晶と母液とを分離した。この分離機も精製液工程の(芒硝)分離工程で使用したもの(前記三2(三)(1)ニ)と同型で、分離機の上部は開放型であり、樋を用いて懸濁液を上から落として注入した。分離されて底にたまつた湿つた無水クロム酸結晶は、作業員が低速運転中の分離機からスクレーパーでかき落とした。

分離後の母液(無水クロム酸を含む。)は分離機下のタンク(開放型)に落下させてためた。

無水クロム酸の酸化力が強いので、昭和三五年ころから昭和三九年までは分離機のバスケツト内面を鉛でラインニングしていたが、昭和三九年以降はステンレス製のものを用いた。

ロ 昭和四三年までは、分離後の結晶を作業員が飽和洗浄槽(開放型)まで運んで投入し、前記タンク内の分離後の母液を散水して洗浄した後、結晶を取り出して再び分離機にかけ、この分離によつて得られた結晶につき再度右同様の作業をし、更にもう一度右同様の作業をするという三次にわたる飽和洗浄作業がなされ、この作業を経た後の分離結晶が乾燥工程に送られた。母液は最終的には反応工程の晶出槽に送り返された。

昭和四三年以降は、右の三次にわたる洗浄作業は廃止され、遠心分離機でいつたん結晶を分離した後、パイプで導かれた母液を分離機上部からノズルでふりかけながら回転させて分離機内で洗浄し、洗浄後結晶を取り出すようになつた。

ハ 洗浄終了後の結晶は、昭和三〇年代には、分離機の下に置いたトロツコに載せた容器(開放型)内に落下させた後、作業員がこれを運んで乾燥工程に移送した。

昭和四〇年代には、作業員が右容器をホイストの吊り手にかけてこれで吊り上げて移送するようになつた。

ニ そのほか、作業員は、機器の近辺で分離機の操作などをした。

ホ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添一八、二〇の中で4(一)dで示すとおりである。

(5) 製品乾燥

イ 無水クロム酸結晶をドライヤーで乾燥させた。このドライヤーは横型円筒形容器(密閉仕様)で、内部にかく拌用回転羽根付シヤフトが貫通していたが、外側に加熱用蒸気を通して、右羽根を回転させながら結晶を乾燥させた。ドライヤーの中央上部に結晶投入用扉、中央下部にスクリユーコンベア(密閉仕様)につながる排出用バルブが設置されていた。

ロ 昭和三〇年代までは、作業員がスコツプで右投入口から結晶を投入したが、昭和四〇年代には、ホイストで吊り上げて運搬した容器を、作業員が右投入口の上で反転させて結晶を投入するようになつた。

ハ そのほか、作業員は機器の近辺でドライヤーの操作などをした。

ニ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添一八、二〇の中で4(二)eで示すとおりである。

(6) 包装工程

イ 乾燥後ドライヤー内でふるい分けされた乾燥結晶はスクリユーコンベアによつてその下部にある製品貯蔵容器に貯えられたが、作業員が右容器の下方にある取出口を開け、かき出し棒でかき出し、十能で微調整をして二五kgを計り取つて缶に詰めて包装した。

ロ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は別添一八、二〇の中で4(二)fで示すとおりである。

(7) 以上の工程では三交替勤務体制が採られていた。ただ、包装工程では昼間のみの日勤者もいた。

(四) 環境保全設備等

(1) 昭和三五年ころ以降用いられた晶出槽の上蓋には、屋外につながる排気筒が付設されていた。

(2) 反応から分離洗浄までの工程では、右(1)以外に局所排気装置等特段の環境保全機器はなかつた。

(3) 製品乾燥、包装工程では、ドライヤーのシヤフトがグランドシールされていたほか、昭和三五年以降は、ドライヤー及び製品貯蔵容器に、排気を排風機で引きベンチユリースクラバー(後にシヤワー式湿式スクラバー)を通過させて屋外に排出する設備が付設された。昭和四〇年ころには、スクラバーとドライヤーとの間にダストボツクスも付けられた。

ただし、右のスクラバー、ダストボツクスはドライヤーに関する限り、屋外への排気の浄化を目的とし、工場外の公害発生を防止する機器であつて、仮にこれが有効に作動していたとしても、工場内の作業現場の環境保全には直接結びつかないものである。

(4) この工程が昭和三三年ころまで配置されていた第一工場建家の全体排気装置については前記二2(三)(2)イのとおりであり、右以降配置されていた第三工場建家の全体排気装置としては、屋根上にベンチレーターと電動換気扇が合わせて数個設置されていた。

(5) 保護具等の状況は、前記三2(四)(5)、(6)と同じである。

(五) 粉じん等の発生状況及び作業員の被暴状況

以上(二)ないし(四)の認定事実からすれば、この工程の職場では、ほぼ全量が六価クロムの形でクロムを含有する粉じん、ミスト等が発生していたと推認されるところ、更に、粉じん等の発生、作業員の被暴の具体的状況につき、次の各事実を認めることができる。

(1) 反応槽として開放型タンクを利用していた昭和三五年ころまでは、発熱反応に伴い液面から多くのミストが発生し、外部に飛散した。また、昭和三五年ころ排気筒付上蓋付晶出槽に切り換えた後もしばしばミストが漏出した。

(2) 遠心分離機への液の注入時には大量のミストや液滴が作業員の至近距離で外部に飛散した。また湿つた結晶を手作業でかき出す際にもこれと同様であつた。

(3) 分離洗浄工程においては、これに加えて、洗浄槽(昭和四三年まで)や分離機内での溶液散水時に大量のミスト、液滴が作業員の至近距離で外部に飛散した。

(4) 昭和三〇年代までは、作業員の人力、手作業による湿つた結晶のドライヤーへの移送、投入時にミストが作業員の至近距離で発生した。昭和四〇年代においても、ホイストによる移送時、ドライヤーへの投入時にはミストが発生した。

(5) 包装作業において結晶をかき出す際に細かな結晶粉末が作業員の至近距離で大量に飛散し、十能による微調整、計量の際にも右粉末が飛散した。

(6) 職場の温度、湿度ともに高く、反応から分離洗浄までの職場は特にジメジメした感じであつた。

包装の職場は、空気の流通をよくすると粉末がより強く飛散するので外気と遮断された室内で作業が行われることが多く、部屋中に細かな結晶粉末が漂つていた。

(7) 第三工場建家のベンチレーター、電動換気扇は十分に機能せず、建家の全体排気、換気状態は悪かつた。

(8) 作業員のマスクは黄色、褐色に変色し、呼・吸気によつてマスクが湿るとクロム成分が溶け込むなどして、マスクをしていても異味、異臭を覚えた。

包装の職場では、頭に覆いをかぶつても粉じんが頭部、顔面をはじめ体のいたる所に付着した。

(六) 前記(二)ないし(四)の事実に右(五)の各事実を併せ判断すると、真空蒸発缶を除きほとんどの機器が開放型で、特段の環境保全機器もなかつた昭和三五年ころまではもとより、若干の改善がなされた右以降の時期においても、この工程の職場のうち反応から分離洗浄までは、ほぼ全量が六価クロムの形でクロムを含有する大量のミスト、液滴が、製品乾燥、包装では、ほぼ全量が六価クロムの形でクロムを含有する大量の粉じん、ミストが、いずれも作業員の至近距離で発生し、これが空気中に飛散、発散、拡散して、作業員は、作業中これに被暴し、吸入していたことが認められる。

(七) 以上のとおり認められ、前記2(一)の各証拠中、<証拠略>のうち右認定に反する記載部分、供述部分は採用できず、他に右認定に反する証拠はない。

六  酸化クロム工程

〔請求原因第三章第三の五、第二編第三章第三の五、第三編第一章第二の二5〕

1 主工程の概要

前記第二章で認定したところに加え、<証拠略>によれば、次のとおり認められる。

(一) この工程は、昭和三三年に栗山工場に設けられたものであり、別添一六の第三工場建家内に配置されていた(この点は当事者間に争いがない。)ところ、昭和四二年当時の機械配置状況は別添一八のとおり(この点も当事者間に争いがない。)、製造工程の概要は別添二〇のとおりである。

(二) この工程のプロセスの概略は別添一二のとおりであり、この工程は、無水クロム酸工程で生成された未乾燥の無水クロム酸を原料にして、これを反射炉内で焙焼分解させ酸化クロムを生成する一次焙焼工程、一次焙焼後の生成物をいつたん粉砕する一次粉砕工程、一次粉砕後粉砕物をロータリーキルンで焙焼し酸化クロムの純度を高める二次焙焼工程、二次焙焼された酸化クロムを微粉砕する二次粉砕工程、微粉砕された乾燥粉末を袋詰・包装する包装工程から成る。

(三) ところで、被告会社は、酸化クロム工程稼動期間中一貫して行われた右(二)のプロセスによる生産と並行して、一定期間これとは異なる原料(無水クロム酸とアンモニア水を用いるもの、重クロム酸ソーダ溶液と塩化アンモニウムを用いるもの、無水重クロム酸ソーダとイオウを用いるものがあつた。)や異なる工程によつて酸化クロムを生産したこともあつた(以下、右(二)のプロセスによる製法を「原則的製法」、これと異なる工程による製法を「その他の製法」ともいう。)。

右のその他の製法のうち、原料、生産工程のほかに作業内容、粉じん発生状況等を明らかにする具体的な証拠があるのは、無水重クロム酸ソーダ(結晶水を持たない重クロム酸ソーダ)とイオウを反応させて製造されるナンバー八〇と称した酸化クロム製品に関するものだけである。そこで、ナンバー八〇の製造工程を見ると、次のとおりである。

すなわち、ナンバー八〇の製造工程では、まず、精製液工程で得られた重クロム酸ソーダ溶液(精製液)をスプレードライヤーで乾燥させて得た無水重クロム酸ソーダとイオウとを混合させ(混合工程)、これを焙焼して反応させ酸化クロムと芒硝を生成した(反応工程)上、冷却、粗砕、三次にわたる洗浄・ろ過、二次にわたる乾燥を経た後、粉砕して包装し、酸化クロム製品とした。

2 各工程の状況

(一) 請求原因第三章第三の五の冒頭の主張、同2(一)(1)のうち反射炉への原料投入時に作業員が粉じん、熱風に接したこと、同2(四)(1)のうち排風機等の設置、同2(四)(2)のうち職場で高熱の反射炉、キルンが作動していたことは当事者間に争いがない。

前記第二章で認定した事実、右争いのない事実に加えて、<証拠略>を総合すれば、以下のとおり認められる。

(二) 取扱物質等

(1) 原則的製法の場合

この工程では、無水クロム酸と酸化クロム(三・二酸化クロム)とを取り扱う。無水クロム酸は六価の、酸化クロムは三価の化合物である。

主要な化学反応は、焙焼工程でなされる、

4CrO3→2CrO3+3O2

という無水クロム酸から酸化クロムへクロムを還元させる反応(原子価が六価から三価に変わる。)である。

したがつて、第一次焙焼において原料中の六価のクロム成分は大半が三価のクロム成分になり、二次焙焼後は、微量の不純物として六価のクロム成分が含まれるほかはすべて三価のクロム成分になる。

(2) その他の製法の場合

ナンバー八〇の生産工程では、無水重クロム酸ソーダ(六価)と酸化クロム(三価)のほか、イオウや芒硝を取り扱つた。

その余の製法では、酸化クロムのほか、無水クロム酸(六価クロム)、アンモニア水、重クロム酸アンモニウム(六価クロム)、水酸化バリウム、クロム酸バリウム(六価クロム、以上はアンモニア水を利用する製法)、重クロム酸ソーダ(六価クロム)、、塩化アンモニウム、重クロム酸アンモニウム(六価クロム)、食塩(以上は塩化アンモニウムを利用する製法)などの物質を取り扱つた。

(三) 作業内容等

(1) 焙焼工程

イ 前記のとおり反射炉による一次焙焼とロータリーキルンによる二次焙焼とが行われた。

ロ 反射炉は灯油熱焼バーナーを利用した耐火レンガ製の長方形室の焙焼炉であり、次のような手順で作業がなされた。

まず、約一〇〇〇度で約一時間炉内を空だきした後、未乾燥であることと潮解性(水を吸収する性質)があるため水分を含む無水クロム酸を約六〇〇kg入れた鉄製容器(開放型)を作業員が炉前まで運び、三つある炉の扉を、炉内のフアンより遠いものから開けて、スコツプで順次無水クロム酸を炉内に投入した。全量投入の所要時間は約七、八分であつた。

投入後、扉を閉めて約七時間約七五〇度で焙焼するが、この間三回ほど作業員が扉を開けて鉄製のヘラで焙焼物を反転させる作業をした。

焙焼終了後、作業員が炉内から高温の焼成物(反応後約四五〇kgになつている。)を取り出して鉄製容器(開放型)に入れ、そのまま室内で約七、八時間外気にさらして冷却させた後、トロツコでミクロンミルまで運んで投入した(一次粉砕)。

ハ 一次粉砕後、粉末をトロツコに載せた鉄製容器(開放型)内に受け出し、これを作業員がロータリーキルンまで運んで、粉末をキルン付設のテーブルフイーダー受入口に投入してキルン内に送入後焙焼した。焼成物(粉末)はキルン取出口からトロツコに載せた鉄製容器(開放型)内に受け出し、これを作業員がミクロンミルまで運んで投入した(二次粉砕)。

ニ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は別添一八、二〇の中で5(一)で示すとおりである。

(2) 粉砕工程

イ 粉砕機としてミクロンミルを用いた。これは、密閉された金属容器の中で超硬度の歯車を高速回転させてせん断粉砕する仕組みになつていた。一次粉砕は粒度調節を大・中として、二次粉砕はこれを小として粉砕した。粉砕物は、かつてはミル内にたまつたものをそのまま取り出したが、昭和四二年半ば以降はバツグフイルターで捕集し、機械内でこれをはたいて、作業員が取出口からトロツコに載せた鉄製容器(開放型)内に受け出すようになつた。

ロ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は、別添一八、二〇の中で5(二)aで示すとおりである。

ハ なお、このほかに、一次焙焼後、焼成物を粗砕(一cm以下の粒にする。)して包装製品化したり、二次粉砕後温水で水洗して不純物たる可溶性クロム成分(六価のクロム成分)を極力減らした上、再度反射炉で乾燥させ、ミクロンミルで微粉砕後包装製品化する工程もあつた。

(3) 包装

イ 鉄製容器内の酸化クロム微粉末を作業員が手作業でかき出して台秤上の袋に詰め、所定量を計り取つた上、ミシンかけして包装製品化した。

ロ 昭和四二年当時のこの工程の装置等の概要は別添一八、二〇の中で5(二)bで示すとおりである。

(4) ナンバー八〇について

イ ナンバー八〇は、昭和四二年から昭和四五年まで製造された酸化クロム製品である。

ロ 無水重クロム酸ソーダとイオウ(フレーク状)をリボンミキサー(密閉仕様)にかけて十分配合した(混合工程)後、スクリユーコンベア(密閉仕様)、ベルトコンベア(開放型)で移送して反応炉に投入した。その後、作業員が反応炉内に入つて配合原料を均一焙焼に適するよう形成した上、着火物に点火すると、イオウが燃え、約一三〇〇度の高温下で右二原料から酸化クロムと芒硝とが生成される反応がなされた(反応工程)。反応後まず、反応炉を開放して空冷し、次に、水液滴をふりかけて水冷した後、作業員が反応室内に入つてピツクで反応物を粗砕し(冷却・粗砕工程)、粗砕物をベルトコンベア(開放型)で移送して、更に、前記のとおり、一ないし三次洗浄・ろ過、一・二次乾燥、粉砕、包装の各工程を経て製品化した。

(5) この工程では、その稼動当初から三交替勤務体制が採られていた。

(四) 環境保全設備等

(1) 反射炉にはバーナーの反対側上方に燃焼排ガス吸入用開口部があり、電動フアンにつながる太い配管に接続していた。

昭和四五年半ばにはこの排気系の途中にシヤワー式スクラバーが付設された。

ただし、右のスクラバーは、屋外への排気の浄化を目的とし、工場外の公害発生を防止する機器であつて、仮にこれが有効に作動していたとしても、工場内の作業環境保全には直接結びつかないものである。

(2) 前記のとおり、ミクロンミルの粉砕物捕集のため、昭和四二年半ば以降バツグフイルターが取り付けられた。

(3) この工程では、右(1)、(2)以外に局所排気装置等特段の環境保全機器はなかつた。

(4) 第三工場建家の全体排気装置については、前記五2(四)(4)のとおりである。

(5) この工程ではその稼動開始当初からガーゼマスク、ゴム手袋、軍手が支給され、昭和三〇年代半ばには作業帽、作業服が貸与され、昭和四二年当時には右に加えて検定マスク、ゴム長靴、メガネも支給又は貸与されるようになつていた。

(6) 第三工場建家内の休憩所には、昭和三〇年代後半には洗眼器、軟こう、うがい薬が備え付けられ、昭和四二年当時には右に加えて鼻洗器も備え付けられていた。

(五) 粉じん等の発生状況及び作業員の被暴状況

右(二)ないし(四)の認定事実からすれば、この工程の職場では、クロムを含有する粉じん、ミスト(主として粉じん)が発生していたと推認されるところ、更に、粉じん等の発生、作業員の被暴の具体的状況につき、次の各事実を認めることができる。

(1) 反射炉を約一〇〇〇度に空だきした上水分を含む無水クロム酸を投入したので、右投入時には急速に熱せられた原料から白煙(湯気が主体)、ミスト、粉じんが舞い上り、作業員に吹きつけた。前記フアンを作動させながら投入したものの、投入口側への粉じん等の吹き付けを防止できなかつた。

(2) 一次焙焼時の焼成物反転作業や焼成物の取出作業の際、作業員は炉内の熱風を直接浴びるとともに発生した粉じんにも被暴した。

(3) 二次焙焼後の焼成物粉末を取り出す際、作業員の至近距離で大量の粉じんが発生した。

(4) バツグフイルター取付前はもとより、取付後もミルから粉末を取り出す際に、作業員の至近距離で大量の粉じんが発生した。

(5) 包装作業時には細かな結晶粉末が作業員の至近距離で大量に発生、飛散した。

(6) ナンバー八〇製造工程では、作業員が反応後反応室内で生成物をピツクで破砕する際に、その至近距離で大量の粉じんが発生した。

(7) 職場の温度は高く、細かな粉じんが常時漂つている感じであつた。酸化クロウムは高価であり、床面に付着した粉末などを清掃回収する際にも粉じんが舞い上つた。

(8) 建家の全体排気、換気状況については、前記五2(五)(7)のとおりである。

(9) 作業員のマスクは黄褐色や緑褐色に変色し、マスクをしていても口の中にクロム粉じんの微粉末が入り込むことが少なくなかつた。作業員の体の露出部分、衣服にはクロム粉じんが付着した。

(六) 前記(二)ないし(四)の事実に右(五)の各事実を併せ判断すると、この工程の職場では、一次焙焼、一次粉砕、二次焙焼までは六価クロムを含むかなり大量のクロム粉じん、ミスト(主として粉じん)が、二次粉砕、包装では三価クロムから成るかなり大量のクロム粉じん、ミスト(主として粉じん)が、いずれも作業員の至近距離で発生し、これが空気中に飛散、発散、拡散して、作業員は作業中にこれを被暴していたことが認められる。

(七) 以上のとおり認められ、前記2(一)の各証拠中、<証拠略>のうち右認定に反する記載部分、供述部分は採用できず、他に右認定に反する証拠はない。

七  塩基性硫酸クロム工程

〔第三編第一章第二の二6〕

1 塩基性硫酸クロム工程については、その生産品目、用途、主工程及び副工程の概要が請求原因第二章のとおりであること、別添一六の第四工場建家内に配置されていたこと(同第三章第二の一1)については、当事者間に争いがなく、その稼動開始及び廃止時期、製品の詳しい用途、工程のプロセスの概要については前記第二章で認定したとおりである。

2 ところが、原告らは、本件において、塩基性硫酸クロム工程も含めて栗山工場のクロム酸塩等製造工程全般の作業環境が劣悪であり、作業員が大量のクロム粉じん等に被暴する状況にあつたと主張する(請求原因第三章第一、第二)ものの、同工程の作業内容、作業環境、クロム含有粉じん、ミスト等の発生状況、作業員の被暴状況に関する個別的具体的主張を行わず、かつ、自らはその個別的な立証活動もほとんど行つていないところ、他方、被告会社は、第三編第一章第二の二6で、昭和四二年三月当時の同工程の生産設備、環境保全設備及び作業環境について個別的具体的な事実を挙げて、同工程は環境保全設備も整い、クロム含有粉じん等の発生はなく、作業員が作業中これに被暴し、吸入するような作業環境になかつた旨主張している。

そうして、<証拠略>など同工程の具体的なプロセス、稼動状況、生産設備、環境保全設備の状況を示す証拠は存する。

3 しかし、右の各証拠によつては、右各事項の証明を超えて、同工程においてクロム含有粉じん、ミスト等が発生し、これが飛散、発散、拡散して、作業員がこれに被暴し、吸入していたことまでは具体的に証明されず、本件においては、右各証拠に加え、あるいはこれとあいまつて、右の点を明らかにするに足りるものはほかになく、結局、同工程については、これまで他の各主工程について行つてきたような個別的具体的観察の下で、クロム粉じん等の発生、作業員の被暴、吸入の事実を認定することは難しい。

なお、付言すれば、右の反面、前記各証人は、被告の前記主張に沿う供述をするが、右各供述と前記各証拠を併せれば、被告会社が主張するように同工程ではクロム粉じん等の発生はなく、職場の作業環境は良好であつたとまで認めることもまた難しく、本件全証拠によつてもこのように認めるに足りるものはない。

八  各工程に直接属さないその他の作業

〔請求原因第三章第三の六、第二編第三章第三の六〕

1 パルプ運搬・投棄

(一) 浸出槽から跳ね出されたパルプ(浸出残滓)は、前記二1、4(二)で認定したとおりクロムを多く含むものとそうでないものとに区分けされ、前者は原料(フアーストパルプ)として再利用されていたこと、後者(セカンドパルプ)については、当初工場構内のパルプ置場に移送、野積みしていたが、その後工場外に搬出、投棄するようになつたこと、昭和二〇年以降昭和三二年以前は作業員がスコツプで荷馬車に積んで右セカンドパルプの移送・野積み、工場外搬出・投棄をしていたが、昭和三二年以降は作業員が、当初はスコツプで、後にシヨベルカーを利用してトラツクに積んで工場外に搬出・投棄していたこと、パルプの積込み作業が浸出工程の職場で行われたことは当事者間に争いがなく、また、前記二1、4(二)、(三)(2)ホ・(五)のとおり、パルプには、浸出工程で完全には抽出されなかつた六価のクロム化合物であるクロム酸ソーダのほか、量は少ないがその余の六価又は三価のクロム化合物が含まれ、このうちフアーストパルプはクロム分を多く含有し、フアーストパルプ乾燥工程を経て原料として再利用されたが、フアーストパルプとクロム分を多く含有していないセカンドパルプの両者が跳出し作業後浸出工程の職場に積まれ、そのうちセカンドパルプのみを区分けして投棄のため荷馬車やシヨベルカーへの積込み作業が行われたこと、浸出工程の職場では、クリンカーの移送方法が改められた昭和三九年半ばより前は大量のクロム粉じん、ミストが発生し、昭和三九年半ば以降も、やや弱まつたもののクロム粉じん、ミストが発生しており、これが空気中に飛散、発散、拡散して、作業員は作業中これに被暴し、吸入していたことが認められる。

(二) 右の争いのない事実及び認定事実と<証拠略>を総合すれば、浸出工程の職場で行われたパルプの積込み作業の際に作業員が同工程で発生し、飛散、発散、拡散した六価クロムを含む大量のクロム粉じん、ミストに被暴し、これを吸入したこと、更に、パルプの積込み・積降ろし作業の際、作業員の至近距離で六価クロムを含有する大量のパルプの粉じんが舞い上り、作業員はこれに被暴、吸入したことが認められ、右認定に反する証拠はない。

2 営繕

(一) 栗山工場では、営繕の作業員がホールミル、配合ミル、キルン、ドライヤー、加酸槽、真空蒸発缶等、すべての機械設備の修理を行つたこと、したがつて、右作業員は工場内のどの工程にも立ち入つて営繕作業を行つたことは当事者間に争いがなく、前記二ないし七のとおり、塩基性硫酸クロム工程以外の同工場のクロム酸塩等製造工程の各工程の職場では、クロムを含有する粉じん、ミスト等が発生し、これが飛散、発散、拡散しており、作業員において右粉じん等に被暴し、これを吸入するという作業環境にあつたことが認められる。

(二) 右の争いのない事実及び認定事実と<証拠略>を総合すれば、修理作業は、各工程の作業現場で行うものと修理工場内に機械を持ち込んで行うものとの二つがあつたこと、前者の場合、営繕の作業員は(塩基性硫酸クロム工程を除く)各工程の職場で発生し、飛散、発散、拡散した六価クロムを含むクロム粉じん等に被暴し、これを吸入したが、後者の場合にも当該機械に付着した右クロム含有粉じん等に被暴し、これを吸入したこと、特に、配合工程(焼成工程)の配合ミルのプレートの取替え作業は、機械内にたまつている大量の粉末状の原料の中に入つて行われ、その際作業員は至近距離で六価クロムを含む大量のクロム粉じんに被暴し、これを吸入したこと、焙焼工程(同)のロータリーキルン内の修理作業は高温のキルン内で行われ、作業中内部の付着物が落ち、粉じんが舞い上り、作業員は至近距離で六価クロムを含む大量のクロム粉じんに被暴し、これを吸入したこと、各種ドライヤー修理の際、ガス切断機などを用いると、機械に付着した粉じんが焼けて飛散し、作業員は至近距離で六価クロムを含む大量のクロム粉じんに被暴し、これを吸入したこと、真空蒸発缶や加酸槽、晶出槽などの修理作業は缶や槽内に入つて行われることが多く、その際作業員は内部に大量に付着している六価クロムを含むクロム含有物質に直接接触したことが認められ、右認定に反する証拠はない。

3 雑役

(一) 栗山工場では、雑役の作業員が各工程の人員不足の際の補充要員としてすべての工程の作業に従事したことは当事者間に争いがなく、前記二ないし七のとおり、塩基性硫酸クロム工程以外の同工場のクロム酸塩等製造工程の職場ではクロムを含有する粉じん、ミスト等が発生し、これが飛散、発散、拡散しており、作業員において右粉じん等に被暴し、これを吸入するという作業環境にあつたことが認められる。

(二) 右争いのない事実及び認定事実を総合すれば、雑役の作業員も当然に各工程の作業従事中に六価クロムを含むクロム粉じん等に被暴し、これを吸入したことになる。

また、<証拠略>によれば、被告会社では、作業員は、採用後通常は六か月ないし一年程度、不況時にはそれよりも長く臨時工として、多かれ少なかれ雑役作業員としての作業に従事し、とりわけ、これらの臨時工は、固定的な人員配置をとりにくく、かつ、高温重労働である前記二3(五)、(六)の煙道のすす落とし作業や土手落とし作業、あるいは前記二4(三)(2)の(人員不足時の)跳出し作業に従事させられることが多かつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

第三栗山工場の空気中クロム量の実測データ等

〔請求原因第三章第四、第二編第三章第四、第三編第一章第三の一〕

一  はじめに

前記第二で認定した各事実と<証拠略>を総合すると、栗山工場のクロム酸塩等製造工程は、各種化学反応により物質を生成し、生成物質中必要物質を水で浸出したり、温度と溶解度との相互関係を利用して析出させて抽出するなど、その工程における各種物質の生成、変態の過程を客観的な数値をもつて把握できるプロセスから成つており、実際にも、被告会社は各工程における各化学的物理的作用につき、各物質の収量比やフローにおける量的変化を綿密に把握し、各工程内でのクロム含有物質のハンドリングロスなども詳細に計算把握していたと認められ、更に、各工程の空気中クロム量等に関しても、日常的な作業環境保全のための措置として継続的な測定等を行つた形跡はないものの、昭和三〇年代後半以降、順次行われた鉱石等乾燥、粉砕、配合工程、浸出方法、クリンカー移送方法の改変や加配槽、無水クロム酸反応用晶出槽の改造、各種スクラバー等の屋外排気浄化装置(工場外の公害防止装置)の設置などに際して、設備投資の前提として必要なデータを測定収集し、あるいは、道労基局等の行政指導等がなされた際には、それに対応して社内的な実態把握のため、不完全ながらも作業環境に係るデータを測定収集し(<証拠略>によれば、昭和三六年、岩見沢労基署から同工場の粉じん濃度測定を文書で指示されていることが明らかである。)、更に、昭和四四年新設した徳島工場のクロム酸塩等製造工程にはある程度徹底した作業環境保全措置をとり、又はとろうとしたことの反面、新設備の効能、性能の設定、調査のためにも栗山工場の作業環境に係るデータを測定収集していたことが推認される。

しかしながら、本件においては、栗山工場のクロム酸塩等製造工程の作業環境に関して、原告らの主張をほぼ全面的に争い、自らも積極的に反対主張をしている被告会社からも、右のようなかつては確実に存在したと推認される社内データが全く提出されず(原告らがこのようなデータを提出することが不可能なことは、前記第二の一1で述べたとおりである。)、結局、右工程の空気中クロム量等の実測データとしては、前記角田報告(<証拠略>)、館報告(<証拠略>)という社外の研究者が調査をし、学術誌で公表されたもののみが提出されているにすぎない。

しかるところ、前記第二の一1で述べたとおり、右二報告は、これをもつて本件で問題となる前記工程全般の長期間にわたる作業環境認定の最大の立脚点となし得るほどの、広範囲の多数の地点の経時的な実測データを示すものではなく、加えて、更に困難なことには、後記のとおり、時を接して測定されたにもかかわらず、右二報告の実測値には相当大きな差異があり、双方から一見して同一の結論を導き出せるようなものではなく、示された数値のみを対比すれば、「客観的である」とされて提出されたデータの記載の証明力ないし、証明内容が相互に減殺し合う形になつている。そして、当然のことながら、原告らはより大きな値の出ている角田報告の記述が、逆に被告会社はより小さな値の出ている館報告の記述が、それぞれ正しいとして援用主張しているのである。

そこで、当裁判所は、以下、本件に提出された各種証拠に照らし、右二報告、特に館報告の示す実測データの意義、内容について検討した上、その記述が、前記第二における個別的具体的観察の下での事実認定を左右するものか否かを判断することにする。

二  角田、館両報告の記述内容

1 角田報告

(一) 北大医学部公衆衛生学教室の大学院生(当時)角田文雄らが昭和三四年七月二七日栗山工場の労働環境調査を行い、その結果を昭和三五年一月刊行の「北方産業衛生」誌二四号別冊に「Kクローム製造工場の労働環境調査」と題して報告、発表したこと及び原告ら主張の角田報告の記述内容は当時者間に争いがない(請求原因第三章四の一・二)。

(二) 調査項目等

<証拠略>によれば、角田報告は、(1)「気象的条件」として、温度、湿度、気流、感覚温度、(2)「物理的・化学的条件」として、照度、じんあい数、空気中クロム量を、それぞれ調査項目とし(この点は当事者間に争いがない。)、生産工程の概要を示した上、これらの調査要領、調査成績、総括考察、結論、予防対策の順で記述しており、いわば、労働環境を決定する外的な要因に的を絞つた調査結果等を報告するものである。

(三) 空気中クロム量の実測データ等

(1) 空気中クロム量

同報告では、焼成工程中一地点、精製液工程中二地点、重クロム酸カリ工程中一地点、合計四地点の実測値として、空気中の一m3当たりの(溶液内で)六価の酸化クロムイオンを形成することができる形で存在するクロム成分量(CrO3としての重量、以下「六価酸化クロムとしてのクロム量」又は単に「六価クロム量」ともいう。)が次のとおり記述されていることは当事者間に争いがない。

イ 粉砕配合職場(中央フアン面) 〇・三九mg/m3

ロ 加酸職場 二・四四mg/m3

ハ 重クロム酸ソーダ製品乾燥職場 六・八〇mg/m3

ニ 重クロム酸カリウム製品乾燥職場 二〇・一七mg/m3

また、<証拠略>によれば、同報告には、「焙焼職場の空気中クロム量は検出不能であつた」旨及び「重クロム酸カリ製品乾燥職場は自動機械故障のため発じんの大きい手動による特殊操業状態であつた」旨が記述されていることが認められる。

(2) 更に、<証拠略>によれば、同報告では、右(1)のイないしニの各職場のじんあい数等につき次のとおりの記述があることが認められる。

イ 粉砕配合職場中央フアン面 四八四個/cc、肺胞に達し得るとされている〇・五ないし三・〇ミクロンのじんあいの割合六三・七%

同職場パルプ置場 一一八六個/cc、同七三・〇%(八三・〇%とする部分は誤記)

ロ 加酸職場 九三個/cc、同六八・二%

ハ 重クロム酸ソーダ製品乾燥職場 五四九個/cc、同五六・一%

ニ 重クロム酸カリウム製品乾燥職場 一二四一個/cc、同四一・七%

右じんあい数のデータについて、同報告中に「一般じんあい恕限度を一〇〇〇個/ccとすると、粉砕配合職場のパルプ置場のベルトコンベア操業時と重クロム酸カリウム製品乾燥職場とが恕限度を超え、石川教授分類法によれば、加酸職場のみが清浄で、粉砕配合職場中央フアン付近と重クロム酸ソーダ製品乾燥職場も恕限度を超える。いずれも微細粉じんの多い職場である。」旨の記述があることは当事者間に争いがない。

2 館報告

<証拠略>によれば次のとおり認められる。

(一) 岐阜県立医科大学公衆衛生学教室教授(当時)館正知らが、前記角田らの調査の直後、昭和三四年夏に同工場の作業員のクロム中毒の実態等の調査を行い、その結果を昭和三六年三月刊行の「「北方産業衛生」誌第二七号に「クロム精錬加工作業のクロム中毒」と題して報告、発表した。

(二) 調査項目等

館らの調査の主目的は、同工場の作業員のクロム中毒に関する所見の調査であり、それに関連して、工程における空気中クロム量及び作業員の顔と手の付着クロム量(被検者五名)の測定をしているところ、その調査項目は、右の二つに加え、鼻及び皮膚所見、鼻中隔穿孔の有無・程度、血液所見、尿所見である。

じんあい数については測定していない。

(三) 空気中クロム量の実測データ等

(1) 空気中クロム量

同報告では焼成工程中九地点、精製液工程中三地点、合計一二地点の実測値として、空気中の一m3当たりの六価酸化クロムとしてのクロム量及びこのクロム成分のうちのクロム分の重量が、別添二二のとおり示されている(CrO3のうちのクロム分は、前者の五二倍を一〇〇で割る(原子量比で案分する)計算により出てくるが、一ガンマという重量単位が一mgの一〇〇〇分の一なので、ガンマで示すと右算出額の一〇〇〇倍の値となる。例えば別添二二の1の粉砕配合職場の下欄の値三八・八ガンマは、〇・〇三八mgと同じことである。なお、右の意味でのクロム分の量は、三価クロムをも含む全クロム量とは異なる。)。

(2) 顔と手の付着クロム量

同報告では、前記のとおり五名の作業員について、作業終了後、一定量の水で石けん及びブラシを用いて顔、頭及び手を洗わせて、その水の中の六価酸化クロムとしてのクロム量と全クロム量(六価の酸化クロムの形で存在するもののみならず、試料中に含まれる一切のクロム成分に含まれるクロム量)を測定し、その値を別表一のとおり示している。

三  実測値の比較等

1 空気中クロム量に関する規制値等

<証拠略>によれば、我が国における作業場等の空気中のクロム量の法制上の規制値としては、労基法施行規則(昭和二二年厚生省令第二三号)一八条、旧労安規四八条等の解釈通達(昭和二三年八月一二日基発一一七八号労働省労基局長、同婦人少年局長通牒)上は、クロムについては空気中に〇・五mg/m3以上含有する場所をもつて「有害物の粉じん、蒸気又はガスを発散する場所」とする旨定められ、以後、右通達上の規制値自体は改められることなく推移し、途中、昭和三三年五月二六日基発三三八号労働省労基局長通牒「職業病予防のための労働環境の改善策の促進について」において、(特殊健康診断指針を示した)昭和三一年五月一八日基発三〇八号労働省労基局長通牒に掲げる業務についての「労働環境における職業病予防に関する技術指針」を掲げた中で、クロムメツキ作業、クロム酸塩触媒形成、取扱作業における六価酸化クロムとしてのクロム量の「抑制目標限度」を〇・一mg/m3とする旨定められていたところ、昭和四六年制定の旧特化則が規定する局所排気装置の性能に係る抑制濃度として、六価酸化クロムとしてのクロム量〇・一mg/m3が定められ、これ以降、この〇・一mg/m3が我が国法制上の実質的な空気中クロム量規制値ないしは恕限量と目されていること、他方、右昭和二三年通達の規制値の定めにかかわらず、実際には、ACGIH(米国労働衛生専門官会議)が提唱し、我が国でも多くの産業衛生の専門家や日本産業衛生協会等が提唱、勧告していた六価酸化クロム量〇・一mg/m3が、戦後早い時期から空気中クロム量の恕限量として認識され、通用していたことが認められる。

なお、現在のACGIHの恕限量は「クロムとしてのクロム量〇・〇五mg/m3」であるが、これは「六価酸化クロムとしてのクロム量〇・〇九六mg/m3」と同じことである。

2 実測値の比較

(一) 前記認定の両報告の各空気中クロム量実測値を比較すると、角田報告のそれは高く、館報告のそれは全般に低い。双方がともに測定している副工程は、粉砕配合工程と加酸工程だけであるが、特に後者の実測値については、角田報告の実測値は館報告のそれの五・八倍ないし七・六倍という著しい差異がある。

(二) 右1で認定した〇・一mg/m3という恕限量と比較すると、角田報告の実測値はすべてこれを上回つている(一地点を除き著しく上回つている。)が、館報告の実測は別添二二の1、7ないし9の各測定値はこれを下回り、他にも右恕限量の二倍を超えないものが三つ(2、3、6)ある。

(三) そうすると、館報告の示す実測値が測定当時の測定地点の正確な空気中の六価クロム量を示すものであるとしたならば、焙焼工程や館報告のいう「浸水」の職場、すなわち後記四1(二)のとおり焙焼工程のクリンカー移送作業の職場では、六価クロム成分を含有する粉じん、ミスト等が発生、飛散、拡散していたとする前記認定に影響を及ぼしそうであるし、鉱石粉砕・配合工程の職場でも、その実測値の低さは決して無視し得ないものとなりそうである。

(四) そこで、以下、館報告の実測値等について検討することにする。

四  館報告の空気中クロム量の実測値等の検討

1 はじめに

(一) 全クロム量の実測値ではないこと

大前提として、館報告が示している空気中クロム量は、前記認定のとおり、空気中に含まれている全クロム量ではなく、六価の酸化クロムとしてのクロム量(別添二二の上欄の数値)及びこのクロム成分のうちのクロム分の重量(下欄の数値)であつて、同報告は、六価クロム以外の化合物の形で含まれているクロム、特に三価クロム化合物の量については何ら測定記述していない。別添二二記載の館報告の実測値が低いからといつて、それは、当該測定地点の空気中の三価クロムを含む粉じんの存在が少ないことを意味しないのである。

(二) 「浸水」職場の測定地点について

<証拠略>と前記第二の二1、3の認定事実を併せると、同報告が「浸水職場」とする測定地点は、本来の浸出工程の職場ではなく、むしろ焙焼工程のクリンカー移送作業の職場に属すると認められる。

(三) 加酸工程の実測値に関する館報告の誤解

<証拠略>によれば、館報告には「加酸作業の成績は角田らの成績と著しく異なるが、それは測定時の作業状態の差異に基づくものであろうと考える。」旨の記述があるが、前記第二の三1(一)、同四1(一)の各認定事実と<証拠略>を併せると、右記述が、前記二1(三)(1)で認定した角田報告中の「重クロム酸カリ製品乾燥職場は自動機械故障のため発じんの大きい手動による特殊操業状態であつた」旨の記述を加酸工程に関するものと取り違えた結果生じた誤解に基づくものであることは明らかであり、ましてや、被告会社が主張する(第三編第一章第三の一3)ような、角田らの調査時に全般的に同工場の操業状態が特殊なものであつたという事情はなかつたことは明らかである。角田報告は加酸工程に機械故障があつたとはしておらず、右二報告の同工程の実測値の著しい差異は館報告の右記述するところによつては説明がつかないのである。

2 一般的問題点

(一) <証拠略>によれば、館らは、「手動式」ミゼツトインピンジヤーで空気の捕集をし、かつ、ジフエニルカルバジドの発色度判定を肉眼による比色法で行つたことが明らかであるところ、証人館は手動式のものでも捕集空気量を正確に測定でき、肉眼による比色法の点についても、もともとそれほど誤差は生ぜず、かつ、比色判定について練度の高い館自身がこれを行つたので、分光光度計による吸光光度測定に比べて正確性の点に問題はない旨供述し、<証拠略>及び当裁判所に顕著なところによれば、当時の労働省労基局労働衛生課が編集した解説書や、昭和三三年四月一七日基発二三八号労働省労基局長通牒「労働環境における有害なガス、蒸気又は粉じんの測定方法について」の中で示された測定方法を更に具体的に示した「労働環境測定指針」(産業労働福利協会刊行)でも、手動式捕集や肉眼による比色法を排除していないと認められるが、<証拠略>に照らすと、館らのとつた右各方法は、昭和三四年当時でも事業場内での測定についての諸制約を考慮した、比較的簡便な方法として位置づけられ、現在では作業環境測定法として採用されていない方法であり、右各方法では、捕集空気量測定、発色度判定の正確性、特に後者のそれについて難点があるのではないかという疑問は完全には払拭できない。

(二) ところで、<証拠略>によれば、我が国におけるクロム酸塩等製造工程の労働環境調査報告として、前記二報告のほかに、国立衛生院労働衛生学部教授(当時)の鈴木武夫らが昭和三二年一〇、一一月に日本化工小松川工場について行つたもの(以下「鈴木報告」ともいう。)があると認められるところ、鈴木らの調査は、六日間をかけて、粉じん等発生のみられる地点や機械作動状態を選んだ上、多くの測定地点につき異なる時刻や機械の作動状態の下での空気中クロム量を捕集測定したり、作業員にマスクフイルターを付けさせてその口もとにおける吸入粉じん量を捕集測定するなど、多面的かつ詳細なものであり、かつ、その調査報告自体の中で、その測定位置、高さ(作業員の呼吸面など)、測定時刻、捕集時間、捕集時の機械作動状況等を具体的に明示している。

これに対して、<証拠略>によれば、館報告は、それ自体の中でその空気中クロム量捕集時の測定条件を必ずしも具体的に明示していないところ、前記第二の二2(三)(1)や同3(三)、(四)の各認定事実及び<証拠略>に照らせば、鉱石等粉砕・配合、焙焼工程の測定地点(前記1(二)のとおり、別添二二の8、9は焙焼職場に属する地点である。)における測定は、作業員が現にスコツプで原料を二輪車に積み込み、これを移動させ、配合ミルのホツパーに投入し、あるいは、赤熱したクリンカーをトロツコに受け出し、これを運搬し、浸出槽内に投入するという各作業時点における作業者の位置での捕集測定ではないのではないか(A、B、C、F、Gの各地点)という疑いが残り、また、これらの測定地点は、証人森若、同安藤、原告阿部(第一回)、同松島、同福士、同渡邊、同小笠原が供述指摘する昭和三七年以前の粉砕・配合工程、昭和三九年半ば以前の焙焼工程における粉じん等の大量発生地点ではないのではないか(A、B、C、D、Eの各地点)という疑い(証人鵜川はD地点は工程内でも最もきれいな所の一つであつたと供述する。)もあり、更に、加酸工程での測定についても、前記第二の三2(三)(1)で認定した開放型の加酸槽での加酸作業や濃縮後の分離作業の時点における捕集測定ではないのではないかという疑いが残るのである。

(三) 証人館の証言によれば、館らの調査は、当時の特殊健康診断指導指針がクロムによる障害について、皮膚や鼻の障害などクロム暴露の結果として局所に顕在化した段階の障害を把えているにすぎないことに疑問を抱き、血液や尿中の成分として取り込まれたクロムが、局所障害を引き起こす前に肝臓、腎臓等体の内部でも障害を引き起こしているのではないかという点の解明を主目的として、前記二2(二)のような調査項目につき調査したことが明らかであつて、この点に照らせば、館報告の血中、尿中クロム濃度測定についての、自己の分析方法の正当性に遡つて記述するほどの詳細な調査記述に比して、空気中クロム量の測定、記述がいわば従たるものとして、他からの科学的な反論に対する防禦までは十分考慮していないものとなつていることは否めないのである。

3 分析方法の問題点(鉱石粉砕・配合、焙焼工程の実測値について)

(一) 館らの分析方法

<証拠略>によれば、館らの空気中クロム量定量分析は、手動式ミゼツトインピンジヤーを用いて、空気を一分間三lの速度で、N/4硫酸を水に一対九の割合で加えた液中に捕集し、この液をジフエニルカルバジド(〇・〇五%アルコール溶液)で変色させ、重クロム酸カリウムで作つた基準系列の発色度と肉眼で比色する方法により行われ、このジフエニルカルバジドによる変色、比色は、捕集後比較的短時間のうちに行われたことが認められる。

(二) ジフエニルカルバジド法について

<証拠略>によれば次のとおり認められる。

(1) 館らの行つた右定量分析方法はジフエニルカルバジド法と呼ばれるものであるが、この分析法は、酸性溶液中でジフエニルカルバジドという物質が六価のクロムイオンと錯体を生成し、波長五四〇ナノメートル(一ナノメートルとは一〇億分の一メートル)に極大吸収を持つ紫色を呈する性質を利用して、ジフエニルカルバジドを試薬にして試料の変色の発色度を測定し、クロムの定量分析を行う方法である。右の発色度の測定は本来分光光度計を用いて吸光光度分析を行うものであるが、前記認定のとおり館らは肉眼による比色によつた。

(2) 右の肉眼による比色の正確性如何や、ジフエニルカルバジドの変色が試料中に含まれる鉄などの影響を受けやすいことは度外視しても、ジフエニルカルバジド法によるクロムの定量分析においては、

〈1〉 あくまでも、六価のクロムの形で存在しているクロムの定量のみが可能であり、

〈2〉 六価のクロム化合物であつても、それが水に溶け込んで溶液中の六価クロムイオンの形で存在しているもののみの定量が可能であること

という二点が正確な分析の大前提となる。

したがつて、〈1〉の点から三価クロムまで含めて試料中の全クロム量を定量するためには、館らが作業員の顔等への付着全クロム量や血中、尿中全クロム量の定量の際に行つたように、三価クロムを六価クロムに酸化させる前処理が必要となる。

次に、〈2〉の点から、試料中の六価酸化クロムとしてのクロム量に限つて定量を行うに際しても、必ず、その六価クロムの全量が溶液中に溶け込んでいなければ、分析によつて得た値は試料中の六価クロム成分量を正確に反映していないことになる。

以上のとおり認められる。

(三) 館らの分析方法の問題点

(1) 館らの空気中クロム量の定量は前記二2(二)、(三)(1)のとおり六価クロムの定量を目的としたから、右(二)(2)の〈1〉の点は問題とならず、前記(一)のとおり館らが捕集試料につき酸化等の前処理をしていないことは当然である。

(2) ところが<証拠略>によれば、六価のクロムが前記第二の一3(二)(7)で説明した液体たるクロムミストの中に既に溶け込んでいる形で空気中に存在する場合や、易容性の六価クロム化合物の純度の高い結晶粉末などとして極めて溶解しやすい形で空気中に浮遊している場合には、その空気をミゼツトインピンジヤー内の酸性捕集液内に通せば、その六価クロム成分は容易に捕集液中に溶け込むことが認められるが、右各証拠等と前記第二の二4で認定した浸出工程の作業内容等を併せ考えると、鉄やカルシウム、アルミニウム、マグネシウム、ケイ素等の化合物などの種々雑多な成分と複雑に結びつき、又は混じり合つている粉じん中の六価クロム成分は、それが本来易容性の物質であつても、容易に捕集液中に溶け込むものでなく、特に、(前記(一)のとおり館らは、酸性溶液を捕集液としているが、)アルカリ性溶液による捕集(前記2(一)で挙げた「労働環境測定指針」では、六価クロム検出の際にアルカリ性溶液である水酸化カリウム溶液を捕集液とする旨定めている。)でない場合には一層右のことがいえることが認められる。

前記第二の二4(二)、(三)で認定したとおり、易容性(この点は<証拠略>により認められる。)の六価クロム化合物たるクロム酸ソーダを三〇%ないし四〇%含むクリンカーを、水及び薄いクロム酸ソーダ溶液で三、四日間かけて繰り返し浸出させても、クリンカーの中で右各元素等の化合物など種々雑多な成分と複雑に結びつき、又は混じり合つているクロム酸ソーダはその全量が抽出されるわけではなく、むしろ原料として再利用可能なほどにこれを多量に含有するフアーストパルプが残るのである。

(3) そうすると、館らの行つた前記(一)の捕集、分析方法では、ミスト内に既に溶け込んでいる六価クロムイオン(六価クロムミストの形でのクロム)や、純度の高い結晶粉末など極めて容易に水に溶ける形状の六価クロム化合物は捕集液内に溶け込み、ジフエニルカルバジド法による分析でその量を定量し得る状態になるが、前記のような粉じん中に存する六価クロム成分は、粉じん自体が捕集液内に捕集されたとしても、容易には捕集液中に溶け込まず、ジフエニルカルバジド法による分析でその量を定量し得る状態にはならないことになる。すなわち、捕集後、捕集粉じん中の六価クロム成分を溶質として(イオンとして)水に溶け込ませる措置をとらないまま、短時間内にミゼツトインピンジヤー内の酸性捕集液を採取してジフエニルカルバジドで発色させたら、その時点までに液に溶け込んだ六価クロムイオンのみが定量され、未だ溶質化していない粉じん中の六価クロム成分の定量はなされていない可能性が極めて高いのである。

したがつて、館らの捕集、分析方法によつて示される六価クロム量というのは、正確には、クロムミスト又は純度の高い結晶粉末など極めて水に溶けやすい形状で空気中に存在する六価クロム量であつて、たとえ易容性の物質であつても前記のような粉じん中に含まれる六価クロム量の定量まではなし得ていない可能性が極めて高く、空気中の六価クロム成分が前記のような粉じんの含有物として存在する場所における空気中クロム量の定量値としては、館らの方法による測定値は実態を正確には反映せず、その存在量を下回る値が出てくるのではないかと考えられる。

(4) そうして、この点については、<証拠略>によれば、館報告中には、「空気中クロム量測定と同時に検診した各職場の作業員における(六価クロム被暴、吸入によつて発生する)鼻中隔穿孔発症率の高さ及び発症までの就業期間の短かさを前提にすれば、極めて大量のクロム被暴があることになる一方、このことは自らの空気中クロム量測定値の低さと整合しないように見える。」と問題提起した上、考えられる右不整合の原因として、まず、館らの右測定値には問題がある、と自ら指摘して、ミゼツトインピンジヤーにより三l/分の速度で空気を捕集する方法では、「すべてのクロムミストを捕集できていない」のかも知れないという形で説明し、次に、クロムメツキ作業とは異なつてクロム酸塩等製造作業では、「ミストのほかに固体の粉じんの飛散もあること」が、館らの右測定値の低さにもかかわらず、前記の罹患状態になつた原因ではないかと説明する記述があり、右記述によれば、館ら自身も、前記捕集、分析方法では、クロムミスト中の六価クロム成分のみを定量し得、固体の粉じん中の六価クロムの定量までは行つていないことを当然の前提としていたのではないかと窺れるのである。

なお、作業環境測定基準(昭和五一年四月二二日労働省告示第四六号)一〇条は、空気中のクロム酸及びその塩の測定における試料採取方法として液体捕集方法によることを定めているが、これは、試料空気を液体に通し、又は液体の表面と接触させることにより溶解、反応等をさせて当該液体に右物質を捕集する方法をとることを定めているのであつて、捕集した目的物質の全量が定量分析の対象として捕捉されるような分析方法をとるべきことは当然の前提となつているのである。

(5) 一方、前記第二の二2(二)・(三)(1)、同3(二)ないし(四)で認定した各事実及び前記二1(三)(2)で認定した角田報告中のじんあい量に関するデータを総合すると、鉱石粉砕・配合、焙焼工程において空気中にクロム成分が存在するとすれば、クロム鉱石起源のもの(三価クロム)かフアーストパルプ又はクリンカー起源のもの(いずれも六価クロム)であつて、その形態は、多くの場合前記(2)で述べたような鉄やカルシウム等の元素の化合物などの種々雑多な成分と複雑に結びつき、又は混じり合つた粉じん中の含有物の形をとることが多く、ミスト中の溶質の形をとることは少ないと考えられる。

(6) 以上(1)ないし(5)で述べたところによれば、館報告の各実測値の中に、角田報告や前記恕限量と比べると相当に低かつたり、あるいは極めて高いとはいえないものがあるとしても、まず、〈1〉そのことをもつて、直ちに当該捕集測定地点における全クロムとしてクロムを含む粉じん(六価であれ三価であれ要するにクロム分を含む粉じん)の存在量はもとより、六価クロムとしてクロムを含む粉じんの存在量が少なかつたと結論づけることもできないことになり、次に、〈2〉館報告の実測値のうち、鉱石等粉砕・配合、焙焼工程の職場を捕集測定地点とする別添二二の1ないし9の地点の実測値は、当該地点における捕集時の空気中の六価酸化クロムとしてのクロム量の全存在量を正確には反映せず、それよりも相当に少な目に出た数値である可能性が極めて高いのである。

現に、<証拠略>によれば、鈴木らは、前記鈴木報告の中で、「酸性場(加酸職場)及び結晶場(晶出分離職場)の環境中のクロムは、クロム酸塩あるいはクロム酸がミストとして浮遊していると考えられるので、ミゼツトインピンジヤーを使用して試料を採取した。」と明言する一方、鉱石等配合・粉砕職場については、ミゼツトインピンジヤーを用いず、電気取じん器によつて粉じんを直接採取して、これを分析して六価酸化クロムとしてのクロム量の全量を定量していることが認められ、この点は、鈴木らが、右各職場では、粉じん中のクロム量を正確に定量することが必要であり、これは、館らの行つたような方法ではなし得ないことを前提にした上、直接粉じんをろ過捕集する方がよいとしたことを窺せるものである。

証人鵜川は、鈴木らの日本化工の右各職場の空気中の六価酸化クロムとしてのクロム量測定値に比べ栗山工場の同職場に関する館報告の測定値が格段に低いことは、栗山工場の粉じん発生量が少なかつたことを示すと供述するが、以上に述べた分析方法の差異を捨象して、単純に右の実測値を比較することによつて右のような結論を導くことはできないと考えられる。

4 加酸工程の実測値等について

(一) 加酸工程の実測値について

(1) 前記三2のとおり、館報告中の加酸職場の空気中六価クロム実測値は、角田報告のそれとは大きく隔たつているが、前記恕限量と比較すれば、その三・二倍ないし四・二倍の値となつており、それ自体として、加酸工程の職場に六価の酸化クロムの形をとるクロム成分を含有するミスト、液滴が発生、飛散、発散、拡散していたとする前記認定に影響を与えるものではない。

(2) 前記第二の三2(二)、(三)で認定した事実及び前記二1(三)(2)で認定した角田報告中のじんあい量に関するデータを総合すると、加酸工程において空気中に六価クロム成分が存在するとすれば、大部分がミストや液滴内に溶け込む形で存在していると考えられ、館らの前記分析方法によつてもその定量をなし得るものであり、また、館報告中の「加酸職場の機械故障」との記述が正しくないことは前記1(三)で述べたとおりであつて、ほかに、右二報告における右工程の実測値の差異の原因を明確にするに足りる証拠はない。せいぜい、前記3(三)(4)で認定した館ら自身もある程度自認するミゼツトインピンジヤーの捕集能力や前記2(二)で指摘した測定時の作業状況、機械作動状況の違いなどに起因するのではないかと窺われるにとどまる。

(二) 顔等の付着クロム量の測定値

(1) ここで、前記二2(三)(2)の館らの行つた作業員の顔等の付着クロム量の測定値(別表一)についてみると、粉砕職場の作業員二名について六価酸化クロムとしてのクロム分不検出とされていることが、前記第二の二2における認定との関係で問題となりそうである。

(2) しかし、<証拠略>によれば、館らが右測定に際して行つた六価クロム検出方法は、顔等を洗つた水を遠心した上澄液にジフエニルカルバジドを加え、発色させたものであり、ここでも、前記の空気中クロム量測定の場合と同じく鉄、カルシウム等の元素の化合物などの種々雑多な成分と複雑に結びつき、又は混じり合つた粉じん中の六価クロムの正確な定量が困難な方法を用いている。

したがつて、右(1)の測定結果も、前記のとおり六価クロム成分が存在するとすればこのような粉じん中の含有物として存在すると考えられる、鉱石粉砕工程の職場の作業員の顔等に付着した六価クロムの存在量を正確に反映していない可能性が高い。

5 まとめ

以上1ないし4で認定説示したところからすれば、館報告中の鉱石粉砕・配合工程、焙焼工程(報告では「焙焼」及び「浸水」としている。)における空気中六価クロム量実測値の低さや、鉱石粉砕工程の作業員二名の顔等の付着六価クロム不検出との記述は、これらの各工程の職場における六価クロム含有粉じん等の発生状況及び作業員の被暴状況に関する前記第二の認定を左右するものではないことになる。

五  角田報告の空気中クロム量の実測値について

1 前記三2のとおり角田報告中の空気中六価クロム量実測値は高く、前記恕限量と比較すればいずれの測定地点のものもこれを上回り、かつ、鉱石粉砕・配合職場のそれが恕限量の三・九倍であるほか、他の加酸、重クロム酸ソーダ製品乾燥、重クロム酸カリウム製品乾燥職場のそれは、二四・四倍ないし二〇一・七倍と著しく高くなつており、右鉱石粉砕・配合職場を含めて、六価クロム成分を含有する粉じん、ミスト等が発生、飛散、拡散していたとする前記認定に影響を与えるものではなく、むしろこれを補強するものである。

2 そうして、<証拠略>によれば、角田らは動力を用いてインピンジヤーで空気の捕集をし、ジフエニルカルバジド法で定量分析を行つたが、発色度の判定には光電分光光度計による吸光光度測定を採用したことが認められるから、館報告における前記四2(一)のような疑問は存しないものの、<証拠略>が示す角田報告の記述と<証拠略>が示す鈴木報告の記述とを対比すれば、角田報告においても、その空気中クロム量捕集時の測定条件等は必ずしも明らかにされていない。

しかしながら、本件全証拠によつても、角田報告の実測データが、真実は当該測定地点の空気中六価クロム量が前記恕限度を下回るか、あるいはこれとそれほど変わらないのに、前記のような値になつているのではないかとするまでの疑いを抱かせるようなものはない。

前記二1(三)(1)の捕集測定時の重クロム酸カリウム製品乾燥職場の状況に関する角田報告の記述も、自動機械故障中であつたから特に著しい実測値となつたのであろうということを推認させるにとどまり、逆に、自動機械運転中であれば前記恕限量近くまで実測値が下つたのではないかという疑いまでを生じさせるものではない。

3 <証拠略>によれば、角田報告では、その捕集、分析方法につき、空気をインピンジヤーで捕集して、ジフエニルカルバジド法により光電分光光度計を使用し定量したとのみ記述され、前記のように水に容易には溶けにくい形で粉じん中に含まれる六価クロムをも容質化(イオン化)する措置をとつた上ジフエニルカルバジドによる定量分析をしたのか、館らと同様の方法でこれをしたのか明示されておらず、館らと同様の方法で定量したのではないかとは窺れるものの、ほかにこの点を明らかにする証拠はない。

しかし、もし、角田らの捕集測定方法が右の前者であるなら、その実測値は捕集測定時における全測定地点の空気中の六価クロムの存在量を正確に示すものとなり(前記各乾燥職場で粉じんとして存在する製品結晶粉末は容易に水に溶け込む。)、後者であるなら、前記四3で詳述したとおり、角田報告の粉砕・配合職場の実測値が実態よりも下回つていることになるだけであつて、結局いずれの場合でも、その測定地点に係る工程におけるクロム粉じん、ミスト等の発生状況等に関する前記第二の認定を左右するものにはならない。

4 なお、前記二1(三)(1)で認定したとおり、角田報告には、焙焼職場の空気中六価クロム量は検出不能であつた旨の記述があるが、本件全証拠によつても、右「検出不能」が「不検出」を意味するのか、それとも何らかの事情で検出することができなかつたのか明らかではない。

もし、これが不検出を意味するとしても、前記館報告の焙焼職場の実測値等との対比から、かえつて角田らも館らと同様の方法で捕集、定量したのではないかという疑いがますます濃くなり、結局「不検出」ということをもつて、焙焼工程におけるクロム粉じん、ミスト等の発生状況等に関する前記第二の認定を左右することはできないことになる。

第四栗山工場の作業環境に関する全体的観察等

一  鼻中隔穿孔罹患状況

1 鼻中隔穿孔発症とクロム被暴、吸入

後記第四章第四の一2(二)で認定説示するとおり、鼻中隔穿孔は、クロム、特に六価クロム化合物の被暴、吸入を原因として生ずる疾病であり(この点は当事者間に争いがない。)、かつ、他の原因によつて生ずることが少なく、一般に鼻中隔穿孔が発生すれば、特段の事情のない限り、当該患者自身のクロム被暴、吸入、ひいては当該患者の属する生活環境におけるクロム粉じん等の発生、存在及びその被暴を推認することができると解される。

したがつて、栗山工場のクロム酸塩製造作業従事者における鼻中隔穿孔発生状況は、同工程でのクロム粉じん等の発生状況を推認する一つの要因となり得る。一定の原因と当該疾病発生という結果とが相当高度に必要十分的関係に立つような疾病が存する場合、当該疾病の発生・存在から逆に右原因の存在を推認することは許されるのである。

2 調査報告

<証拠略>によれば、栗山工場の右製造工程の作業員の全体的な鼻中隔穿孔罹患状況について、次の三つの報告が存する。

(一) 林信治の報告(昭和一二年調査)

昭和一二年一一月、北海道庁健康保険課所属北海道庁技師(当時)林信治は、フエロアロイ製造開始一年半後、クロム酸塩等製造開始約半年後の同工場の男子作業員一二五名を対象にして健康状態の実地調査を行い、その調査結果等を、昭和一三年刊行の「健康保険医報」紙に「『クローム』工場従業員の健康状態に関する調査特に職業性疾患に就て」と題して報告・発表した(以下これを「林信治報告」ともいう。)が、その概要は別添三五記載のとおりであり、その中で、同工場のクロム酸塩等製造工程(当時は、焼成、精製液の各工程及び廃液利用の小規模な重クロム酸カリウム製造部門があつた。)の作業員八二名中二二名(二六・八%)と雑工一七名中四名(二三・五%)に鼻中隔穿孔所見者が存在したとしている(他にフエロアロイ製造部門の作業員二〇名中二名(一〇%)にも右所見あり。)。

(二) 館正知らの報告(昭和三四年調査)

前記第三の二2の館報告の中で、館らは、昭和三四年夏当時のクロム酸塩等製造工程の従業員一〇一名(営繕、分析、電気関係作業員計一四名を含む。)の鼻の所見についても報告し、その中で、右一〇一名中五一名(五〇・五%)、右営繕等の作業員を除く八七名中五〇名(五七・四%)に鼻中隔穿孔所見者が存在したとしている。また、同報告は、右五一名中の穿孔の大きさにつき、五mm以下七名(一三・七%)、五ないし一〇mm一六名(三一・四%)、一〇mm以上一八名(三五・三%)、軟骨部全体に及ぶ者一〇名(一九・六%)であつたとしている。

(三) 大崎饒らの報告(昭和四八年ころ調査)

大崎饒らは、昭和四八年ころ栗山工場の(元)クロム酸塩等製造作業者一七九名の鼻腔所見を調査し、七二名(男六八名、女四名)(四〇・二%)鼻中隔穿孔を見出したことを報告し、その従業年数別発生率を別表二のとおり分析している。

また、大崎らは、各工程別の鼻中隔穿孔発生状況を調査し、終始同一工程に従事した作業員を対象にして、合計九四名について調べたところ、粉砕・配合工程、浸出工程、精製液工程従事者には五〇ないし八〇%と高率に鼻中隔穿孔が発生していたことなどが明らかになつた。その調査結果は別表三のとおりであるところ、調査対象者総数中の鼻中隔穿孔者の割合が二四・四%となつているのは、事務職などを含む大崎らのいう「V工程」の人員が調査対象者の過半を占めているからであり、これを除き、いわばクロム酸塩等製造工程の現場の従業者四四名を取り上げると、その平均発生率は四五・五%の高率になる。

3 作業員の被暴状況

右各調査結果によれば、栗山工場のクロム酸塩等製造工程では調査時(林信治報告、館報告)又は調査対象者の作業従事当時(大崎報告)において、全般的にみても、六価クロムを含むクロム粉じん、ミスト等が発生し、作業員がこれに被暴し、吸入する状況にあつたと推認することができる。

(一) すなわち、林信治報告は、具体的な直接証拠が少ない右製造工程稼動開始直後当時のその作業環境、作業員のクロム被暴状況を推認させるものであり、フエロアロイ製造開始からも約一年半、クロム酸塩等製造開始からはわずかに約半年しか経過していないのに、前記のようにかなり高率で鼻中隔穿孔患者が発生していることは、右当時右製造工程において六価クロムを含む大量のクロム粉じん等が発生していることを示すものである。

(二) 館報告の示す昭和三四年当時の右患者発生率は別表七(これが我が国のクロム取扱工場における鼻の障害の調査報告例を記載するものであることは当事者間に争いがない。)に照らせば著しく高いというべきであり、右当時も右クロム酸塩等製造工程において六価クロムを含む大量のクロム粉じんが発生していたことを示すものである。

(三) 更に、大崎らの調査結果が示す右患者発生率も極めて高いというべきである。右調査は右製造工程廃止後に行われたものであるが、別表二、三の示す穿孔所見者の作業従事年数等に照らせば、右調査結果は、昭和四〇年代になつても、同工場の全体的なクロム含有粉じん等の発生状況にあまり変化がなかつたことを示すものである。

二  工場建家の状況等

<証拠略>を総合すれば、次のとおり認められる。

1 栗山工場では、工場建家のうち、第一、第三工場は操業開始当初から、第二工場は遅くとも昭和一六年(重クロム酸カリ工程操業開始時)から、第四工場は遅くとも昭和三九年(塩基性硫酸クロム工程操業開始時)から、それぞれ工場建家として利用されていたが、昭和四六年八月から昭和四八年六月までの間に各工程の操業が順次廃止されるまで、各工場建家の抜本的、全面的な改築は行われず、機械設備等の増設、改変に伴つて部分的な改装が行われたにとどまり、昭和四〇年代には、第四工場建家を除き各建家とも老朽化していた。そうして、長年の使用の間に各工場建家内のコンクリートやレンガ製の土台・床、側壁や外壁等に用いた波型鍋板にはクロム含有粉じん等が大量に付着し、その酸化力でこれらを腐食させ、各建家の屋根にも、クロム含有粉じんが大量に積もつていた。

2 建家内部の各工程の配置状況も、昭和三三年のフエロアロイ生産廃止に伴い、第三工場建家が無水クロム酸、酸化クロム各工程の工場に変わつたり(無水クロム酸工程は第一工場から移つた。その跡は芒硝乾燥、荷造りの作業場となつた。)、昭和三七年ころ鉱石乾燥工程が第一工場から別棟に移つたほか、各工程の稼動期間中にほとんど変化せず、昭和三七年ころ行われた配合工程の機械設備の改変、昭和三九年半ばに行われた浸出方式の改変も各工程の基本的配置を変更せずに実施された。

また、右の配合工程の機械設備の改変など少数の例外を除いて、工場内の環境保全の見地から各主工程、副工程の配置や機械設備の連結関係の大幅な変更、改変が行われたことはなく、各主工程、副工程の間に、建家内の粉じん等発生、飛散、発散状況を改善し、その拡散、流通を制禦、防止することを直接の目的とする隔壁、間仕切も、少数の例外を除いてほとんど設けられなかつた。

3 前記第二の二ないし六で認定したとおり、全般的に各工場建家の換気状況は悪く、建家に設置された開閉可能な窓も実際にはほとんど閉められたままであるものが多かつた。

以上のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

三  栗山工場粉じん予防対策委員会等について

1 <証拠略>によれば、被告会社は、昭和三〇年代初めには、栗山工場のクロム酸塩等製造工程における粉じん等の大量発生について岩見沢労基署等関係行政機関からも指摘を受けるようになり、これに対応して、特に配合工程における粉じんと燃料用微粉炭粉じんの大量発生とを自認した上、配合工程の機械化及び炭じん排出用フアンの設置を検討する旨同労基署長に回答するなどしていたが、当時、道労基局及び右労基署から同工場が衛生管理特別指導事業場に指定されていたことや同労基署から具体的な粉じん対策機構の設置を求められたことから、昭和三六年、同工場の作業環境の把握、粉じん濃度の測定、粉じん防止対策等の目的を掲げて、同工場に粉じん予防対策委員会を設置したことが認められる。

2 しかし、前記各証拠によれば、当時被告会社が企図していた粉じん対策は、昭和三五年じん肺法が施行されたことに伴うじん肺予防の観点からの対策の色彩が濃く、粉じん中のクロムの人体に対する作用等の綿密な検討が図られたことはなく、粉じん以外のクロム含有物たるミストの発生防止が検討された形跡もなく、加えて、右委員会の活動領域も、作業員に対する保護具の使用訓練、整理整とん・清掃等の励行呼びかけなど、主として現場の管理職や組長クラスの職制への啓発活動や、せいぜい身近な機械設備の取扱いの工夫を促す程度のものに限られており、右委員会は、全体的な立場から同工場の作業環境の抜本的改善、機械設備の大規模な改変を検討、推進するための機構ではなく、むしろ、職制を中心とした日常の職場活動の指導機関に近いものであつたことが認められる。

3 したがつて、前記第二の二2で認定説示したところと前記1の各証拠及び弁論の全趣旨を総合すれば、右認定の配合工程の機械設備の改善など工場のシステムにかかわるような粉じん対策は、右委員会の関与しないところであり、右工程の改善も、前記労基署等の指導があつたことを背景に、より根本的には、昭和三三、四年以降のクロム酸塩等生産量の急増に対処するための工程の機械化、合理化、能率化の重要な柱として実施されたとみるのが相当であり、前記認定した浸出方法の改変(一系列単位の浸出方法の採用)も、ほとんど右の見地のみからなされたのではないかと窺れるのである(前記第二の二2ないし4で認定説示したところからすれば、手作業による配合と単槽単位の浸出方式が如何に能率的な大量生産を阻害するかは容易に理解できるところである。)。

4 また、前記1の各証拠及び弁論の全趣旨によれば、被告会社は昭和三三、四年ころ、同工場周辺の農家からその屋外排気が周囲の農作物に被害を与えたという抗議を受け、数年間にわたり農業被害に対する補償金の支払を余儀なくされたことが認められるが、このような事情もまた、労基署等の指導に加えて、その後被告会社が各種スクラバーなど屋外排気浄化装置(工場外の公害防止装置)を順次設置して行つた要因の一つになつたことは否定できないところ、この点に関しても前記委員会が設備の導入を企画・検討したことを窺せるような証拠はない。

四  徳島工場の新設等について

前記三1の各証拠及び<証拠略>によれば次のとおり認められる。

1 栗山工場は、かつて北海道でクロム鉱石が産出されていたことや一般燃料用、焙焼用等の燃料炭の産地に近いことなどの立地条件を背景にして栗山町に設置されたものであるが、クロム鉱石を専ら海外からの輸入に頼るようになり、動力源や燃料についても電気や重油に転換された(焙焼燃料の重油転換は昭和三〇年代に行われた。)後には、製品の消費地たる工業地帯から遠く難れ、しかも内陸部にある同工場は、原料輸・移入、製品輸・移出の両面から採算性の悪い工場になり、また、その生産設備も次第に老朽化して生産性の低いものになつた。

2 右の事情に加えて、昭和三三、四年ころからクロム酸塩等の需要が伸び生産量も急増していたことから、被告会社は、製品消費地に近く、輸・移送に便利な臨海工業地を新しいクロム酸塩等製造工場用地として求めるようになり、遅くとも昭和三〇年代末ころには、右の計画を具体化させ、昭和四〇年代初めには、徳島県阿南市の臨海立地に当時としては最新の生産設備を備えたクロム酸塩等、フエロアロイ、金属ケイ素等の一貫製造工場を建設することを決め、工場を建設して、昭和四四年五月からこの徳島工場での生産を開始した。

3 当時、クロム酸塩等の生産急増を背景に、徳島工場新設後も栗山工場で生産を続ける余地もないではなかつたが、栗山工場の老朽化や採算性の悪さに加え、各種公害規制や作業環境規制が一段と厳しくなる一方で、前記第二で認定説示した栗山工場の状況を抜本的に改善するには相当な投資による工程等の大規模な改変も必要とされることなどから、被告会社は、早い時期に栗山工場の操業廃止を決め、昭和四六年八月には同工場の焼成、精製液、無水クロム酸の各主工程を廃止し、以後しばらく徳島工場から精製液を輸送してその余の主工程を稼動させたが、昭和四八年六月にはすべての工程を廃止するに至つた。

4 被告会社は、徳島工場においては、地元の地方公共団体等の厳しい公害規制等に対応して、作業環境保全の面でも相当程度徹底した措置をとり、又はとろうとし、具体的な状況は不明であるが、クロム酸塩等製造工程の中でクロム含有物質が外部に飛散、拡散することを防止するための密閉又は準密閉式機構の採用、局所排気装置や作業環境監視機器の設置についても、かなりの程度企画、実行したことは明らかである。

一方、被告会社は、昭和四〇年代になつて、徳島工場に設置しようと企画し、あるいは実際に設置したと同じ作業環境保全施設、局所排気装置等を同時に栗山工場にも設置することを企画し、あるいは実際に設置したという形跡はない。

以上のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

第五まとめ

一  塩基性硫酸クロム工程以外の各工程等

1 以上によれば、栗山工場のクロム酸塩等製造工程のうち塩基性硫酸クロム工程を除く各工程の作業及び各工程に直接属さないその他の作業の作業環境は、個別的具体的な観察の下で、いずれも、当該工程等の稼動開始から廃止に至るまでの全期間(前記第二の一2の生産停止期間を除く。)を通じて、クロムを含有する粉じん、ミスト又は液滴が(大部分の工程では大量に)発生し、これが職場の空気中に飛散、発散、拡散して、作業員がこれに被暴、吸入するという劣悪な状態にあつたと認められるところ、作業環境に関する実測データや全体的観察の下での各認定事実も右の認定を左右するものではなく、むしろ、より一層これを補強するに足りるものであり、本件において、右各工程等の作業環境が劣悪であつたことは極めて明白になつたというべきである。

加えて、昭和三七年以降の鉱石乾燥職場を除いて、右各工程の職場においては、いずれも作業員が被暴、吸入したクロム粉じん等には六価クロムが含まれていたこともまた、明らかである。

2(一) また、以上認定説示したとおり、右各工程の各稼動期間のうち、特に昭和三〇年代後半までの時期においては、各種製造機器のほとんどが開放型で、多くの作業が作業員の人力、手作業により行われ、環境保全機器らしいものもほとんどないという状況の下で、右各工程等の職場は、例外なく、作業員が、六価クロムを含む極めて大量又はかなり大量のクロム粉じん等に被暴し、これを吸入するという一層劣悪な作業環境にあつたところ、昭和三〇年代後半以降行われた一部の工程の機構や作業方法の改変、一部製造機器の改変等も、当該工程の作業環境を抜本的に改善するには至らず、むしろ、多くの工程ではほとんど従前と変りない劣悪な作業環境が続いたものである。

右の改変措置のうち、最も大規模なものは、配合工程の機構、クリンカー移送方法の改変であるが、これらによつて当該改変に係る個別の機構・機器自体からの粉じん等発生は相当に抑制されることになつたものの、当該機器を含む工程の職場全体における粉じん等発生を十分に防止するには至らず、また、そのほか個々の製造機器等の改変については、当該機器自体における改善効果が上つたのかさえ疑わしいものも少なくなく、当該職場全体の作業環境の大幅な改善に寄与したものはないと認められるのである。

(二) そうして、右の改変措置の中には、右配合工程の機構の改変のように、少数ながら装置を開放型から密閉式又は準密閉式へと改善したものもあるが、この点については、原告らが請求原因第三章第五で述べているところがおおむね当たつていると認められるのである。

すなわち、まず、工程の機構、機器について右のような改善がなされても、それは、全主工程、副工程の一部に限られ、その余の部分には、クロム粉じん等の大量発生箇所や作業員が直接クロム含有物質に接して作業を行う箇所が随所に残り、工程全体の改善というには程遠く、次に、導入された密閉又は準密閉装置の中には原理的には密閉仕様にはなつているものの、現実の工場内使用の場面では、機器の故障時はもとより、平常作動時においても、内部の粉じん、ミスト、液滴の漏出、飛散がむしろ常態となつていたものも多かつたと認められ、更に昭和三七年の配合工程改変、昭和三九年のクリンカー移送方法の改変がなされた後の時期は、被告会社が新規に徳島工場建設を企画、実行した時期と重なり、当時被告会社において、老朽化している栗山工場の作業環境の抜本的改善の意欲があつたのか極めて疑わしいと認められるのである。

二  塩基性硫酸クロム工程について

前記第二の七のとおり、本件では、個別的具体的観察の下で、栗山工場の塩基性硫酸クロム工程においてクロム含有粉じん、ミスト等が発生し、作業員がこれに被暴、吸入していたことを認定することは難しいところ、前記第四の全体的観察の下での認定事実、特に同工場作業員の鼻中隔穿孔罹患状況を前提にして、同工程の作業環境が右のようなものであつたと推認することもできない。前記第四の一に挙げた三つの調査報告のうち、林信治報告、館報告はいずれも同工程稼動開始時期(昭和三九年、この点は当事者間に争いがない。)より前のものであり、大崎らの報告も同工程の作業経験者中の鼻中隔穿孔患者数を報告していないのである。

よつて、本件においては、原告らの栗山工場のクロム酸塩等製造工程の劣悪な作業環境に関する主張のうち、同工程に係るものは、これを認めることができない。

第四章  クロムによる身体障害(一般的因果関係)〔請求原因第四章被告会社の加害行為その二〕

第一はじめに

一  一般的因果関係(因果法則)の存否の判断

1 前記第三章第一の二、三において述べたとおり、本章では、「生存原告、死亡者のクロム被暴、吸入の事実」と「被暴、吸入開始後に発生した各種身体障害発生の事実」とが証明される場合に、右両者の間の個別的事実的因果関係の存否の判断の前提資料となるべきクロム被暴、吸入と右各種身体障害発生との一般的因果関係(因果則)の存否について判断する。

2 ところで、右の一般的因果関係については、「クロム被暴、吸入の結果当該障害が発生する。」というレベルで概括的(無限定的)に因果関係の存在が認定される(自白の成立も含める。)場合もあろうが、問題が人体の生理、病理現象にかかわるものである以上、単純に右のような形では因果関係が認定され得ず、大まかではあつても、クロム暴露期間、被暴量等につき一定の限定下で右の因果関係が認められる場合(原告が概括的に因果関係の存在を主張していれば、その一部が認定されるにとどまる場合に当たる。)も少なくないと解される。

したがつて、以下、一般的因果関係の存否の認定に当たつては、右の点に留意しつつ判断することにする。

3 次に、右の因果関係の存在が一定の限定下で認定されるという問題とは別個に、そのような限定付きであれ概括的にであれ、因果関係の存在自体は認められる場合でも、各種障害ごとにクロム被暴、吸入と当該障害発生の結びつきの強弱に差異が存することもまた当然であろう。すなわち、原因と障害との間の因果関係には、相互に必要十分的な関係に立つほど相互関係に特異性の強いものや、当該原因があれば極めて高い発生率で当該障害が発生するというものもあろうが、逆に、その相互の結びつきが必ずしも強くなく、当該原因があれば当該障害が「起こり得る」とか「起こる場合がある」という程度の相互関係しかない場合もある。

しかるところ、一般的因果関係の存否の判断において、その「存否」を超えて右の意味での「強弱」まで認定することは本来必要ではなく、また、右の「強弱」の問題は、個別の生存原告、死亡者の障害事例について当該一般的因果関係の存在という因果則をあてはめて個別的因果関係の存在を肯定し得るのかという問題に帰着するものではあるが、以下、一般的因果関係の「存否」の判断をする際に、可能なものについては、必要な限度で、(あくまでも相対的なものであるが)右の「強弱」の点についても言及することにする。

4 右2、3に関連して、一般的因果関係の存在につき、原告らが「クロム被暴、吸入により一定の障害が発生する」と概括的に主張する場合、これは「右2のような特段の限定なく因果関係が存在する。」という意味の主張になると解されるところ、この主張に対し、被告らが右2のような一定の限定を明示して、その下でのみ因果関係の存在を認めると陳述する場合はもとより、因果関係の存在自体は認めるが無限定ではない旨を陳述する場合には、原告らの右主張に対する一部自白として取扱い、右限定の存否について判断すべきことになる。

しかし、被告らが、右のように「因果関係の存在自体は認めるが、無限定ではない。」という形で認否するのではなくて、単に「クロム被暴、吸入によつて当該障害が発生する場合があることは認める。」のような陳述をしている場合には、右3の趣旨から、右陳述は、原告らの無限定で因果関係が存在するとの主張の全部について自白した上、原因と結果の結びつきの点につきこれが弱いことを付加的に陳述するものにほかならないと解される。

二  専門家会議の検討結果報告書

<証拠略>によれば、昭和四八、九年に渡部真也ら及び大崎饒らによつて、栗山工場のクロム酸塩等製造作業者における肺がんの相対的多発及び右作業従事の際のクロム被暴、吸入との因果関係の存在を報告する研究調査結果が発表されたことなどをきつかけにして、昭和五〇年九月、労働省労基局長の委嘱により我が国の多数の産業医学の専門家を委員とする「クロム障害に関する専門家会議」が設けられ(専門家会議の設置自体は当事者間に争いがない。)、右専門家会議は、まず発足当初の焦眉の課題であつた労働者のクロム被暴、吸入と肺がんをはじめとする各種身体障害発生との因果関係の存否の問題を中心にして、取り急ぎ「クロム化合物による健康障害に関する検討結果中間報告書」<証拠略>をまとめ、昭和五一年一月一六日これを報告したが、その後も右の問題を中心にして産業医学の見地からクロム化合物の生体作用及び健康障害に関する検討を続け、昭和五九年三月その最終報告書である「クロム化合物による健康障害に関する検討結果報告書」<証拠略>をまとめ、これを報告したこと、専門家会議の検討過程では、クロムによる健康障害のうち特に発がんに関する内外の原論文については最終的には昭和五六年までに公表されたものの中で収集可能なものはすべて収集するなどできる限り多くの知見を各方面から集めながら、各委員がそれぞれの専門領域の立場から分担分野の資料を綿密に調査検討し、あるいは委員が相互に意見交換、討議をするなどして(臨床医に対する意見聴取も行われた。)、徹底した調査検討がなされたことが認められる。

そして右検討結果報告書の報告内容は、クロムによる健康障害、とりわけ発がんの問題に重点を置きながらも、基礎的分野も含めて広範囲にわたつており、その章別構成として、一 クロム及びその化合物の理学的性質、二 クロム化合物の産業用途と労働者の職業暴露、三 クロムの生理作用(必須元素としてのクロム)、四 クロムの吸収、代謝、分布及び排泄、五 クロムによる中毒及び発がんに関する実験的研究、六 クロムによる健康障害、七 クロムによる肺の障害の病理、八 クロムによる健康障害、特に発がんに関する疫学的研究、九 がん発生における量―反応関係、一〇 環境管理、一一 健康管理の順で検討結果を記述し、最後に専門家会議の「総括」を述べるという構成になつている。その記述手法は、主として、収集検討した多数の内外の文献のうち、現在ではほとんど評価できないものを除いて各事項ごとに整理し、系統的にその要点を引用紹介して記述する方法によつており、更に、必要部分にコメントを付するとともに、「総括」において専門家会議としての見解を提示している。

このように、右報告書は、クロムの生体作用及び健康障害に関するこれまでの研究成果、内外の知見の集大成ともいうべき資料になつており、前記のように文献上の検討を主体としたため、専門家会議としての新たな実験や疫学調査等は行われてはいないものの、右研究成果、知見の状況を把握する上で最適の資料であると考えられる。加えて、右報告書が多数の文献の検討を踏まえた上示す特別の経験則に関する意見は、専門家の中でも見解が大きく分かれているような点についてはやや煮え切らない感のするものがあることは否めないものの、それはそれとして我が国の専門家の認識の大勢を示す客観性の高いものであると解される。

したがつて、右報告書の記述内容は、クロム被暴、吸入による各種身体障害発生というすぐれて専門的、科学的な事項に係る事実認定に関し、総じて証拠価値の高いものであるといえ、以下、個別の疾病発生に関する因果関係の存否の認定の全般にわたつて、その記述内容を参酌することにする。

第二クロム及びその化合物

〔請求原因第四章第一、第二編第四章第一節第一・第二節第一、第三編第二章第一の一、二1、2〕

一  クロム

請求原因第四章第一は当事者間に争いがないところ、右争いのない事実及び<証拠略>によれば、クロム(元素記号Cr)は、原子番号二四、原子量五一・九九六の周期律表第ⅥB族に属する金属元素であり、単体のクロム、すなわち金属クロムは銀白色の光沢ある金属で、比重は七・一八八、融点一八九〇度、沸点二四八二度であること(物理的性質は測定条件やクロム試料の純度などによつて数値の異なることがある。)、単体としてのクロムは常温では化学的に極めて安定しており、空気中又は水中で酸化されないこと、しかし、強熱すれば、塩素、フツ素などのハロゲン元素やイオウ、窒素、炭素、ケイ素、ホウ素などと化合すること、塩酸、硫酸などには溶解して二価のクロム塩を生じて青色を呈するが、この二価のクロム塩は空気中の酸素によつて容易に酸化されて三価のクロム塩になること、濃硝酸、王水などの酸化力を有する酸やリン酸にも侵されず、更にギ酸、クエン酸、酒石酸などの多くの有機酸にも侵されないが、酢酸によつて徐々に侵されること、及び第三編第二章第一の一2で被告会社が主張する(被告国も第二編第四章第二節第一で同一主張)事実が認められる。

二  クロム及びクロム化合物の化学的性質等

1 一般的化学的性質

右一記載の各証拠等によれば、次のとおり認められる。

(一) クロムはマイナス二からプラス六までの異なる原子価をとる酸化状態(他の元素との結合可能性の態様)を持つが、通常は、原子価ゼロ、プラス二、プラス三、プラス六をとつている状態で存在する。

原子価ゼロの状態は(例外的に化合物中で見せかけの原子価ゼロの状態となる場合は別として)単体としての金属クロムの状態であり、原子価プラス二、三、六の状態は化合物中の、又はイオンとしてのクロムの状態である。

二価のクロム化合物(水溶液の色相は青色)は比較的不安定で、速やかに三価の状態に酸化されるので、普通には、クロム化合物としては三価クロム化合物(水溶液の色相は緑色から紫色)と六価クロム化合物(水溶液の色相は黄色から橙赤色)が自然界にみられる。

(二) 三価の原子価をとつている状態は、クロムの最も安定した酸化状態(化合状態)であり、固体、溶液ともに多くの還元剤に対して安定である(二価のクロムにならない。)。酸性溶液中では酸化剤に対しても安定であつて(六価のクロムにならない。)、強力な酸化剤あるいは電解酸化によつてのみ六価クロムに酸化される。アルカリ性溶液中では比較的酸化されやすく、塩素、臭素などにより、あるいは電解酸化により六価クロム酸(クロム酸、重クロム酸)塩が生成される。

(三) ほとんどの六価クロム化合物は、酸素と結合したもの(オキソ化合物)であり、強い酸化作用を示す。六価の酸化クロム(無水クロム酸)は酸性酸化物であり、クロム酸塩と重クロム酸塩が最も重要な六価のクロム化合物である。これらは酸性溶液中で、また有機物質の存在下で強力な酸化作用を示して、自らは容易に三価クロムに還元される。

(四) クロム化合物として八〇種以上のものが知られているが、このうち酸基(CrO2-4)又は重クロム酸基(Cr2O2-7)とナトリウム、カリウム等のアルカリ性金属、アンモニアなどの塩基とが化合した塩をクロム酸塩又は重クロム酸塩と呼ぶ。

2 クロム酸塩等

被告会社が栗山工場で製品として生産してきたクロム化合物が重クロム酸ソーダ、重クロム酸カリウム、無水クロム酸(六価の酸化クロム)、酸化クロム(三・二酸化クロム、三価の酸化クロム)、塩基性硫酸クロムの五種類であること及びその詳しい用途は被告会社が第三編第二章第一の二2(一)ないし(五)で主張する(被告国も第二編第四章第二節第一で同一主張)とおりであることは、前記第二章第一で認定したとおりである。また、クロム酸塩、重クロム酸塩、無水クロム酸、酸化クロム等の化学的性質の一端については前記第三章第二の一3において化学上の前提事項として認定したとおりであり、<証拠略>によれば、被告国が第二編第四章第二節第一の1ないし5で主張する事実も認めることができる。

更に、(塩基性硫酸クロム工程を除く)栗山工場の各工程における原料、添加物、製品、中間生成物等の取扱物質名及びその化学的性質、主要な化学反応等は前記第三章第二の二ないし六において認定したとおりであるが、このうちクロム化合物である物質及びその中におけるクロムの原子価、その水に対する溶解性(この点は<証拠略>により認められる。)を示せば、次のとおりである。

すなわち、具体的に物質名が特定されるものとしては、〈1〉クロム鉱石(FeO・Cr2O3)・三価クロム・不溶性、〈2〉クロム酸ソーダ(Na2CrO4)・六価クロム・易溶性(フアーストパルプ・セカンドパルプにも含まれる。)、〈3〉重クロム酸ソーダ(Na2Cr2O7)・六価クロム・易溶性、〈4〉重クロム酸カリウム(K2Cr2O7)・六価クロム・易溶性、〈5〉無水クロム酸(CrO3)・六価クロム・易溶性、〈6〉酸化クロム(Cr2O3)・三価クロム・不溶性、〈7〉重クロム酸アンモニウム((NH4)2Cr2O7)・六価クロム・易溶性、〈8〉重クロム酸バリウム(Ba,Cr2O7)・六価クロム・不溶性があり、これらのほか、特に、鉱石等乾燥・粉砕・配合・造粒、焙焼、浸出の各工程では量は少ないにしろ、カルシウム、アルミニウム、マグネシウムなどと結合した他の六価又は三価のクロム化合物も存在した。なお、<証拠略>によれば、塩基性硫酸クロム工程では、クロム化合物として、原料である重クロム酸ソーダと製品である塩基性硫酸クロム(Cr(OH)SO4)とを取り扱い、塩基性硫酸クロムは、三価クロム化合物で易溶性であることが認められる。

3 その他のクロム取扱産業と本件における一般的因果関係<証拠略>によれば、栗山工場で行われたクロム酸塩等製造業は、クロム含有原料たるクロム鉄鉱石からクロムをクロム酸塩の形で化学製品として取り出し、工業の基礎原料となる各種クロム化合物を生成する産業であるが、このほか、クロム及びクロム化合物を原料、製品、中間生成物等として取り扱うクロム取扱産業として、次のようなものがあることが認められる。

〈1〉 クロム鉱石採掘業

クロム鉄鉱山でクロム鉱石を採掘する。

〈2〉 クロム合金製造業

クロム鉱石、コークス、鉄などを混合して電気炉で各種フエロクロム(クロム合金鉄)などのフエロアロイ(合金鉄)やケイ素クロム等を製造する。栗山工場でも昭和一一年六月から昭和三三年まで行われた。

〈3〉 クロムレンガ製造業

クロム鉱石を利用してクロマイトレンガ、(耐火レンガ)を製造する。

〈4〉 クロム顔料(クロム色素)製造業

重クロム酸ソーダ、重クロム酸カリウムなどを原料にして、クロムイエロー(クロム酸鉛pbCrO4)、ジンククロメート(亜鉛黄、K2O・4CrO3・4ZnO・3H2O又はZnCrO4・4Zn(OH)2)、クロムグリーン(酸化クロムCr2O3)、キネグリーン(Cr(OH)3)などの顔料(無機色素)を製造する。

〈5〉 クロム触媒製造業

無水クロム酸やクロム酸アンモニウムなどを原料にして、銅クロム亜鉛触媒、銅クロム触媒などを製造する。

〈6〉 クロムメツキ業

無水クロム酸などを用いて鉄等の金属表面に電気メツキを行う。

〈7〉 クロム皮革なめし業

塩基性硫酸クロムなどをなめし用剤としてクロムによる皮革なめしを行う。

右のほかにもクロム及びクロム化合物を取り扱う産業は多く、クロム被暴の可能性のある職種という形で把えると約一〇〇種類のものがあるとされている(ガフアフアーらの報告)。

(二) このように、クロム及びクロム化合物を取り扱う産業は多岐にわたつているところ、<証拠略>によれば、これらの各産業は、いずれもクロム酸塩等製造業とはその取扱物質の物理的・化学的性質や形状(特に、三価クロムか六価クロムかの差異、粉じん・ミスト発生の有無・多少)、工程のプロセス、化学反応の態様、製造機器等において異なるところがあり、作業者のクロム被暴、吸入の状況も一様ではなく、したがつて、クロムによる各種身体障害発生の状況にも異なるところが少なくなく、この点に関する従前の調査研究も、各産業ごとにその特有の問題を考慮しながら行われることが多かつたことが認められる。

(三) そこで、以下、本件において一般的因果関係の存否を検討するに当たつても、当該障害に係る一般的因果関係の存否を、単に「クロム被暴、吸入」との間で検討するだけでは足りず、具体的に「クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入」との間で検討しなければならないものについては、具体的にこの点について認定説示することにする。

第三クロムの人体に対する影響

〔請求原因第四章第二、第二編第四章第一節第二・第二節第二、第三編第二章第一の二3〕

一  人体の必須元素としてのクロム

<証拠略>によれば、クロムは、動物の必須元素の一つであり、動物実験成績や臨床実験などから人間においても必須元素の一つであるとされていること、クロム欠乏により糖耐性の障害、高コレステロール血症、アテローム性動脈硬化症などの発生があり得ると考えられていること、しかし、これらの発生機序及びクロムの精密な必要摂取量などは現在なお解明されていないこと、必須元素としてのクロムは、食品中に含まれる微量のクロム成分を摂取することによつて得られるのであり、右摂取は、クロム粉じん、ミスト等によるクロムの過剰被暴とは次元の異なる事柄であることが認められる。

二  クロムの毒性

1 催炎性、腐食性(一次刺激性)

水に可溶性の六価クロムには激しい酸化作用があるため、これが人体組織に接触、作用すると、当該部位を刺激して炎症を起こし(刺激性、催炎性)、更には腐食させる(腐食性)こと、接触部位の深部までタンパク凝固作用が進むと潰瘍を作ることになることは当事者間に争いがなく、六価クロムに被暴した作業者が作業開始後程なくしてその皮膚や鼻粘膜に炎症を起こしたり、潰瘍を作り、更には数か月のうちに鼻中隔穿孔を形成することがあるのは、右の催炎性、腐食作用の典型例であることは、原告らと被告国との間で争いがなく、被告会社との間でも<証拠略>によつてこれを認めることができる。

また、各証拠によれば、三価のクロム化合物には、六価クロムの持つ右のような強力な催炎性、腐食性(一次刺激性)はないものの、三価クロム化合物も長期間にわたり被暴すれば、催炎性、腐食性を示すとする報告もあることが認められる。

2 感作性

水に可溶性の六価クロムが人体にアレルギー反応を引き起こす感作性物質であり、このアレルギー反応によつて湿疹性、非湿疹性の感作性(アレルギー性)接触皮膚炎等が発症することは当事者間に争いがない。ただし、本件では、原告らは、生存原告、死亡者らの受けた被害としてクロムの感作性による障害が発生したとの主張立証をしていない。

3 発がん性

原告らは、水に可溶性の六価クロムは化学的に非常に活性であり、細胞膜を通過して細胞の中に入つて核酸と反応し、また、細胞に突然変異を引き起こし、がんを発生させる旨、極めて一般的な形でクロムの発がん性を主張するが、<証拠略>によれば、発がんの一般的な発生機序自体が今日病理学的に完全には解明されていないことに加え、クロムの人体への影響といつても、具体的なクロム含有物質の種類・性状、それが作用する身体部位、その状況・期間等如何によつて、当該物質の人体への影響の態様・程度には差異があること、一般に発がん物質と主張されるものによるがんの発生部位等が物質ごとに特異性を示すことが多いとされていることは明らかであり、本件においても、原告らの主張するような意味で一般的にクロムの発がん性を断定するに足りるような証拠はないといわざるを得ない。原告ら自身、発がんの一般的な発生機序自体が今日病理学的に完全には解明されていないことを自認し(請求原因第四章第三の二1(三))、本件において、クロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係の存在について、その発生機序を直接的に明らかにする形で主張立証する方法をとつていないのである。

三  クロムの生理作用

原告らは、クロムの拡散性、蓄積性としてクロムの生理作用の一端を取り出して簡単に主張しているが、クロムのこれらの性質はその生理作用全体との関係で把握しない限り、一般的に論ずることが難しいものであるので、ここで、(本件においてこの点に関し提出された証拠は少ないところ)認定できる範囲内でクロムの人体への吸収、人体内での移動・蓄積、分布等につき触れることにする。

<証拠略>によれば、次のとおり認められる。

1 吸収

人体へのクロムの吸収は呼吸器、消化器、皮膚の三つの経路によつてなされる。

(一) 呼吸器からの吸収

空気中に浮遊するクロム粉じん、ミストは空気とともに口、鼻から吸入される。

吸入されたクロム粉じん等の体内吸収の詳細な機構については今なお不明な点が多いが、吸入された粉じん等のうち一ないし二ミクロン以下の微粒子中のクロムは肺胞に達することができ、肺胞内に侵入してこれに付着し、これより大きな粒子は気管支又は気管内に付着し、繊毛運動によつて喉頭から除去され、嚥下されて消化管に入るとされている。

肺胞内に達したクロム化合物のうち不溶性のものは肺内に長く滞留することになるが、可溶性のものは血流中に浸透し、全身に拡散分布することになる。不溶性のもののうち粒子が小さいものはリンパ節に入り、ここに蓄積されるか、あるいは最終的に循環系に入るとされている。

三価クロムと六価クロムのいずれが肺からの吸収率が高いかについて研究結果は一致しておらず、六価クロム化合物の中でも物質によつて吸収率が異なり、一般に三価、六価という原子価の違いよりも水への溶解度の差によつて吸収率に差異が生じると考えられ、六価クロム化合物には三価クロム化合物より可溶性のものが多いことから、前者の方が吸収率が高くなるのではないかと仮定されている。

(二) 消化器からの吸収

空気とともに吸入された粉じん等の中のクロムは唾液、痰とともに嚥下されて消化管に入る。この中は右(一)で述べた繊毛運動により喉頭まで運ばれた粒子中のクロムの一部も含まれる。

腸管からの吸収については、三価クロムの吸収率は〇・五%ないし〇・六九%、六価クロムのそれは一〇%であるという報告や十二指腸からの吸収についても前者に比べ後者の吸収率が非常に高いとする報告があり、一般に三価クロムの消化器からの吸収率は極めて低く、六価クロムの方が吸収率がより高いことが知られている。また、胃液が六価クロムを三価クロムに還元し、その吸収率を三分の一以下に低下させることも実証されている。

腸管からのクロム吸収の詳細な機構についても今なお不明な点が多い。

(三) 皮膚からの吸収

クロム、特に可溶性六価クロムは、前記二1のとおり皮膚のタンパク質と反応して刺激作用を及ぼすが、これとともに一部は皮膚を通過して直接体内に吸収され得る。

そして、六価クロムの方が三価クロムより皮膚透過性が高いとされている。

2 移動・蓄積

体内に吸収された六価クロムは生体膜を容易に通過し、三価クロムに還元されていくが、三価クロムは一般に生体膜の通過が容易ではない。六価クロムは赤血球膜を容易に通過してヘモグロビンと結合するが、三価クロムは赤血球を通過することが困難で、血しよう中のトランスフエリンや糖耐性因子(GTF)と結合して各組織に運ばれる。

赤血球膜を通過する際に六価クロムのほぼ全量が三価クロムに還元され、三価の形でヘモグロビンと結合するという報告もあるが、六価クロムのままで臓器中に移送されるものも少なくないという報告もある。

一般に、吸収された六価クロムは体内で最終的には三価クロムに還元され、臓器中のクロムの多くは三価クロムの形で存在するのではないかと考えられているが、六価クロムの全量が還元されるのかという点や、還元の反応機序・速度、還元にかかわる物質、体内における三価クロムと六価クロムの存在比等の正確な機構については今なお定説がない。

血液中のクロムは体内を循環して全身の各臓器に到達し、これに取り込まれて蓄積し、血中クロム濃度は急速に低下する。反面臓器組織中の蓄積クロム濃度は血液中のそれの一〇ないし一〇〇倍に至る。

3 分布

(一) 血液

血液中のクロム濃度については数多くの報告がなされているが、現在血しよう中のクロム濃度の平均値は二ppb(一ppbは一〇億分の一)であると考えられている。

一般に、クロム被暴作業者の血中クロム濃度は非被暴作業者に比較して極めて高い。

(二) 臓器

臓器中クロム濃度についても、別表四、五のとおり数多くの報告がなされている。

別表四が示すとおり、非クロム被暴作業者の臓器中クロム濃度は、肺で高く、大動脈、心臓、膵臓、こう丸、脾臓などでも比較的高い。また、肺中クロム濃度は、性別では男性がやや高く、また加令とともに増加するが、他の臓器中のクロム濃度は小児で最も高く、その後加令とともに低下する傾向がある。

別表五が示すとおり、クロム被暴作業者の臓器中クロム濃度は非被暴作業者のそれと比較し、著しく高いことがしばしば観察されている。その肺中のクロム濃度は一般に極度に高い。気管、肝臓、膵臓、脾臓、副腎中のクロム濃度も高い。

ただし、一般に臓器中クロム濃度の測定値はその測定法の差異によつてかなりの違いが出、特にクロム被暴作業者の臓器中クロム濃度の報告は、臓器の灰化方法、測定方法もそれぞれ異なり、試料の中には生試料でなくホルマリン漬け試料を分析した報告もあり、その濃度表示も生重量当たり、あるいは乾燥重量当たりと様々で、数値の正確な比較検討は困難である。

4 排泄

体内に過剰に吸収されたクロムの大部分は、尿によつて排泄されるが、少量が胆汁、消化酵素などを通じて尿中排泄される。作業環境大気中の可溶性クロム化合物の濃度と尿中クロム濃度は相関し、また腎臓のクロム蓄積量の大きさは尿中クロム量によつて反映される。

血中の低分子量の物質と結合したクロムは腎臓の系球体でろ過され、その約六三%が尿細管で再吸収されるという機序を繰り返して体外に排出されるが、高分子量のタンパク質と結合したクロムは尿中にはほとんど排泄されない。

一般に人体における吸収クロムの生物学的半減期は比較的短かいとされているが、この点の正確な数値を得るには限界があるとされている。

5 急性大量摂取と慢性暴露

クロムを、その「致死量」が問題となるようなレベルで、急激に大量経口摂取(誤飲、自殺目的としての服用など)した場合と、クロム酸塩等製造作業におけるクロム粉じん、ミスト等の慢性暴露の状態下での被暴、吸入の場合とでは、クロムの人体内での代謝、作用等は大きく異なり、これを混同して論ずることができず、右1ないし4に述べたところも、右の慢性的暴露においては妥当するものの、急性大量摂取においては、これとは異なる面が多いとされている。

そうして、本件において問題となるのは、あくまで、(クロム酸塩等製造作業での)慢性暴露におけるクロム被暴、吸入と各種身体障害発生であり、これを論ずるに当たつて、その被暴量に関し、「大量」と表現される場合も、あくまで慢性暴露の状況下で「大量」というべき状態を指すことになるのはいうまでもない。

第四クロムによる身体障害

〔請求原因第四章第三、第二編第四章第一節第三・第二節第三、第三編第二章第二〕

一  がん以外の身体障害(請求原因第四章第三の一)

1 皮膚の障害

(一) 一次刺激性障害

六価クロムは皮膚に接触すると接触面、特に手足指の背面、爪の根元、指関節等のほか、前腕、下肢、顔面、陰部等に皮膚炎や皮膚潰瘍を生じさせること、これらは、六価クロムの催炎性、腐食性による一次刺激性疾病であり、特に水に可溶性の六価クロムはその酸化力による強い一次刺激性を有し、皮膚、粘膜の作用局所に容易に炎症、潰瘍を引き起こすこと、クロムによる皮膚炎、皮膚潰瘍は、湿疹化して治癒しにくく、治癒後もその瘢痕が残る場合があること、特に、皮膚に擦過傷等の外傷がある場合には、辺縁の隆起した深い小円形の潰瘍、いわゆるクロムホールを形成し、これが骨膜まで達することがあつて激痛を伴うことは、当事者間に争いがなく、原告ら主張の六価クロムを含むクロム被暴、吸入と一次刺激性皮膚障害発生との因果関係の存在について当事者間に争いがないことになる。

また、<証拠略>を総合すれば、六価クロムによる一次刺激性皮膚障害は、クロム暴露期間が短かい場合や大量の六価クロム被暴でない場合でも発症すること、クロム粉じん、ミストが発生し、作業員がこれに被暴する環境の下では、ほとんどの作業員が皮膚炎や皮膚潰瘍に罹患し、更に、右認定のような瘢痕を残したり、クロムホールを形成するに至る者も多いことが認められる。

(二) 感作性障害

可溶性の六価クロムは皮膚透過性も強く、その感作性により感作性(アレルギー性)接触皮膚炎の原因になり得ることは、当事者間に争いがない。ただし、本件では、原告らは、右感作性接触皮膚炎を生存原告、死亡者らの受けた被害として主張立証していない。

(三) 六価クロムの一次刺激性による皮膚障害は古く一八二七年スコツトランドの内科医カミンによつて初めて報告されて以来、今日まで典型的なクロム障害の一つとして認められていることは、当事者間に争いがない。

(四) 業務上疾病認定について

<証拠略>によれば、労働省は、昭和五一年一月三一日基発一二四号労働省労基局長通達(以下「一二四号通達」ともいう。)によつて、クロム化合物取扱作業従事労働者に発生した皮膚の疾病のうち、刺激性接触皮膚炎について(医学上療養を必要とし、かつ、当該業務以外の原因によるものでないと判断されれば)、労基法施行規則旧三五条一七号に該当する業務上疾病として取り扱うことにした(昭和五三年三月三〇日右三五条が全面改正され、現在では右三五条別表第一の二・四号及びこれに基づく労働省告示により右各皮膚障害の業務起因性が明定されている。)。

2 上気道の障害

(一) 上気道の機能等

原告らが請求原因第四章第三の一2(一)で主張する上気道の機能等については、当事者間に争いがない。

(二) 鼻の障害

(1) 鼻の機能等

原告らが同一2(二)(1)で主張する鼻の機能等については、当事者間に争いがない。

(2) 鼻炎、鼻粘膜潰瘍等

可溶性の六価クロムは、鼻から吸入されると、鼻腔や鼻粘膜に対して刺激作用と腐食作用を及ぼし、その結果、初めは、くしやみ、発作、水様性鼻漏などの症状が出、以後鼻出血を繰り返して鼻腔に炎症が生じるとともに、鼻粘膜の発赤、腫脹、充血が起こり、痂皮が形成されて、びらん、潰瘍状態になつて、鼻粘膜潰瘍、鼻中隔潰瘍等が発生し、これが継続すると鼻中隔穿孔に至ること、一般に右潰瘍は徐々に進行し、痛みは少ないとされていることは、当事者間に争いがなく、原告ら主張の六価クロムを含むクロム被暴、吸入と右鼻炎、鼻粘膜潰瘍等発症との因果関係について当事者間に争いがないことになる。

また、<証拠略>によれば、右の鼻の障害のうち軽度のものは六価クロム被暴、吸入開始後極めて短期間のうちに発症し、クロム被暴、吸入が継続すると前記のような経過を経て潰瘍発症に至るが、比較的短期間のうちに潰瘍に至る例も多いこと、大量の六価クロム被暴、吸入でなくても鼻の障害は発生し、一般にクロム酸塩等製造作業者においては、鼻粘膜潰瘍、鼻中隔潰瘍も高率で発症するが、工場、工程ごとにその発症率にはばらつきもあること、一般に作業員の属する作業環境における空気中六価クロム量の多少が発症率の高低、障害の進行の度合に影響を与え、空気中クロム量の多い所では、発症率、進行の度合いずれも高くなることが認められる。

(3) 鼻中隔穿孔

イ 鼻中隔とは鼻腔を左右に分けている隔壁であるが、鼻中隔穿孔とは、鼻中隔に穿孔ができ、左右の鼻腔がつながる身体の形態的損傷のことをいうこと、右(2)のとおりクロム、特に可溶性六価クロムの作用により生じた潰瘍等の障害、殊に鼻中隔潰瘍が継続すると、鼻中隔の軟骨膜が消失して軟骨が露出し、鼻中隔の前下部に穿孔が生じること、六価クロム被暴が続くと発生した穿孔は次第に拡大し、まれには鼻背軟骨の変形を生じ、鞍鼻を形成して顔面に醜形を残すこともあることは、当事者間に争いがなく、原告ら主張の六価クロムを含むクロム被暴、吸入と鼻中隔穿孔発症との因果関係の存在について当事者間に争いがないことになる。

ロ 調査報告等

(イ) 外国におけるもの

〈1〉 ライマン(一九〇〇年ころ)は、ドイツでクロム酸塩等に接触した七二二名の作業者を検査し、二五三名(三五%)に鼻中隔穿孔を見出したこと、

〈2〉 レツゲ(一九〇二年)は、スコツトランドのクロム酸塩等製造工場の作業者一七六名中一二六名(七一・五%)に鼻中隔穿孔を、三九名(二二・一%)に鼻中隔潰瘍を見出したこと、

〈3〉 米国公衆衛生局は、一九五〇年代初期に全米七か所のクロム酸塩等製造工場の作業者八九七名について健康状態調査を行つたところ、別表六のとおり五〇九名(五六・七%)に鼻中隔穿孔を見出したこと、右調査結果によると、クロム酸塩等製造作業従事期間が長くなるほどその発生が高くなつていること

は当事者間に争いがない。

(ロ) 我が国におけるもの

我が国においては、別表七のとおり鼻の障害の調査報告がなされていること、右表のほか、阿部庄作、大崎饒らの報告(昭和五〇年)では、三価クロム取扱作業者では鼻中隔穿孔発症までの従事期間が長いが、六価クロム取扱作業者ではこれが短いとしていることは当事者間に争いがない。

ハ クロム、特に六価クロム被暴、吸入と鼻中隔穿孔発症との因果関係が極めて明白であり、むしろ右疾病患者の存在がクロム、特に六価クロム被暴の指標ともみなされていることは原告らと被告国との間で争いがないところ、右ロの当事者間に争いのない事実及び<証拠略>を総合すれば、鼻中隔穿孔は、クロム、特に六価クロム化合物の被暴、吸入を原因として生ずる疾病であり、かつ、他の原因によつて生ずることが少なく、一般に鼻中隔穿孔が発生すれば、当該患者自身の六価クロム被暴、吸入、ひいては当該患者の属する生活環境における六価クロム含有粉じん、ミスト等の存在の指標となり得るとされていること、また、クロム被暴、吸入の期間の長さと鼻中隔穿孔発症数とは必ずしも正比例的関係に立たず(別表二、六参照)、クロム被暴、吸入開始後短期間のうちに鼻中隔穿孔に罹患する例も多いこと、鼻中隔穿孔は、六価クロムの大量被暴、吸入がなくても発症し、一般にクロム酸塩等製造作業者においては高率で発症するが、その作業者のすべてが鼻中隔穿孔に罹患するものではなく、別表三、七に示すように、工場、工程ごとにその発症率にはばらつきもあること、一般に作業員の属する作業環境における空気中六価クロム量の多少が発症率の高低に影響を与え、空気中クロム量の多い環境下で発症率が高いとされていることが認められる。

なお、栗山工場のクロム酸塩等製造作業者における鼻中隔穿孔の発生状況については、前記第三章第四の一で認定説示したとおりである。

(4) 慢性副鼻腔炎

六価クロムにより鼻腔内粘膜が冒されることによつて二次的に上顎洞を中心とした篩骨洞、前頭洞、蝶形骨洞の洞粘膜の慢性炎症である副鼻腔炎が生じることは原告らと被告国との間で争いがなく、右のように二次的に慢性副鼻腔炎が発症する場合があることは原告らと被告会社との間で争いがなく、慢性副鼻腔炎に罹患すると、膿がたまるほか、鼻漏や副鼻腔内の腫脹の症状が現われること、その治療が困難で、手術しても完治することが少ないことは、当事者間に争いがないところ、原告ら主張の六価クロムを含むクロム被暴、吸入と慢性副鼻腔炎発症との因果関係の存在について当事者間に争いがないことになる(前記第一の一4参照)。

また、右(二)(1)ないし(3)で当事者間に争いのない事実及び認定した事実と<証拠略>とを総合すれば、クロム被暴、吸入による慢性副鼻腔炎は、ある程度の期間の六価クロム被暴、吸入後に発症すること、大量の六価クロム被暴、吸入でなくても発症し得ること、クロム被暴、吸入とともに患者の体質等もその発症に寄与することが多いが、作業員の属する作業環境における空気中クロム量の多少がその発症率の高低に影響を与えること、鼻中隔潰瘍や同穿孔と比べればその発症率は相対的に低いことが推認される。

(5) 嗅覚障害

イ 六価クロムによる鼻腔の炎症から二次的に嗅域及び鼻腔内の嗅粘膜が冒されることによつて、嗅覚減退、更には嗅覚脱失が生じることは原告らと被告国との間で争いがなく、右のように二次的に嗅覚障害が発症する場合があることは原告らと被告会社との間で争いがないところ、原告ら主張の六価クロムを含むクロム被暴、吸入と嗅覚障害発生との因果関係の存在について当事者間に争いがないことになる(前記第一の一4参照)。

ロ 調査報告等

〈1〉 浅賀英世(昭和五五年、原調査昭和五一年)が、クロム取扱作業者に多数の嗅覚障害者を見出したこと、その報告によれば、被検者二三六例中嗅覚脱失六〇例、同減退一一九例を認め、嗅覚障害と鼻中隔穿孔の有無、大きさとの相関関係も認められたとしていること、

〈2〉 渡部真也ら(昭和五六年)よると、栗山工場の三三名のクロム酸塩等製造作業者の調査結果では、中程度以上の嗅覚減退が一八名(五四・五%)に認められ、このうち二名には嗅覚完全脱失が認められたこと、右調査結果では、右作業従事年数が長い者ほど嗅覚減退の程度が大きい傾向が見られたとしていることは当事者間に争いがなく、<証拠略>によれば、前記検討結果報告書では右の二報告はクロム被暴、吸入による嗅覚障害発症に関し、高く評価し得る文献とされている。

ハ 右ロで当事者間に争いのない事実及び<証拠略>によれば、クロム酸塩等製造作業者やクロムメツキ作業者にしばしば六価クロムを含むクロム被暴、吸入による嗅覚障害が見られ、右クロム被暴、吸入によつて相当高率で嗅覚障害が発生すること、クロム被暴、吸入開始後短期間のうちに嗅覚障害に罹患する例も多いこと、暴露期間が長くなると嗅覚障害の程度が大きくなる傾向があること、大量の六価クロム被暴、吸入でなくても嗅覚障害が発症すること、鼻中隔穿孔の有無と嗅覚障害の存否とは必ずしも一致しないこと、浅賀英世(昭和五五年)が前記ロ〈1〉の調査結果として、クロム取扱作業年数と嗅覚障害と鼻中隔穿孔発症の関係につき別表八、九のとおり報告していることが認められる。

(6) 業務上疾病認定について

イ 鼻炎、鼻粘膜潰瘍等、副鼻腔炎

<証拠略>によれば、労働省は、一二四号通達によつて、クロム化合物取扱作業従事労働者に発生した鼻炎、鼻粘膜潰瘍、副鼻腔炎について(医学上療養を必要とし、かつ、当該業務以外の原因によるものでないと判断されれば)、労基法施行規則旧三五条一七号に該当する業務上疾病として取り扱うことにした(前記1(四)の右三五条の全面改正後、現在では右三五条別表第一の二・四号及びこれに基づく労働省告示により「気道障害」の一環として右各疾病の業務起因性が明定されている。)。

ロ 鼻中隔穿孔、嗅覚障害

<証拠略>によれば、労働省は、昭和五〇年八月二三日基発五〇二号労働省労基局長通達(以下「五〇二号通達」ともいう。)によつて、クロム化合物取扱作業従事労働者に発生した嗅覚障害を労基法施行規則旧三五条一七号に該当する業務上疾病であるとし、嗅覚脱失は労災障害等級の一二級、嗅覚減退は一四級に分類する取扱いを定め、右労働者に発生した鼻中隔穿孔については、これが業務上疾病に当たるとしつつも、鼻中隔穿孔の存在を嗅覚障害又は鼻呼吸機能障害の一表徴として把え、障害補償に関しては、鼻中隔穿孔自体に対する補償を定めず、嗅覚脱失又は鼻呼吸困難を伴うものを一二級に、嗅覚減退を伴うものを一四級に分類する取扱いをしている(前記1(四)の右三五条の全面改正後、現在では右三五条別表第一の二・四号及びこれに基づく労働省告示により右各疾病の業務起因性が明定されている。)。

(三) 咽喉頭の障害

(1) 原告ら主張の咽喉頭の機能は当事者間に争いがない。

原告らと被告国との間で、長期間(おおむね数年以上)のクロム被暴、吸入があつた場合に限り、口及び鼻から吸入された六価クロムが直接上気道の粘膜を刺激し、あるいはクロム被暴、吸入に起因する慢性副鼻腔炎による後鼻腔漏がこれを刺激して、咽頭炎、慢性喉頭炎等の咽喉頭の障害が生じることについて争いがないところ、後記(2)で当事者間に争いのない事実及び<証拠略>を総合すれば、原告らと被告会社との間でも右事実を認めることができ、更に、原告らと被告らとの間で、おおむね数年というような長期間のクロム被暴、吸入でなくても、右のような経過で咽喉頭の障害が発生し得ること、大量のクロム被暴、吸入でなくても咽喉頭の障害が発生すること、クロム酸塩等製造作業者においては高率で慢性咽頭炎や喉頭炎が発症し、その余の咽喉頭の障害もしばしば発症することが認められる。

(2) 調査報告等

〈1〉 ウイレンスキー(一九三〇年)がクロム酸塩等製造作業者二七八名中一一六名(四一・七%)に慢性咽頭炎を認めたこと、

〈2〉 マンシオリ(一九五〇年)が右作業者の喉頭や声帯に慢性の炎症を認めたこと、

〈3〉 マンクーソー(一九五一年)、も、右作業者九七名中四一名(四二・三%)に慢性咽頭炎を認め、一〇名(一〇・三%)に嗄声を伴つた慢性喉頭炎を認めたこと

は当事者間に争いがない。

(3) 業務上疾病認定について

<証拠略>によれば、労働省は、一二四号通達によつて、クロム化合物取扱作業従事労働者がクロム化合物の粉じん又はミストに長期間(おおむね数年以上)被暴したことによつて生じた喉頭の炎症、上気道のポリーブ、慢性咽頭炎等の慢性の呼吸器疾患について(医学上療養を必要とし、かつ、当該業務以外の原因によるものでないと判断されれば)、労基法施行規則旧三五条一七号に該当する業務上疾病として取り扱うことにした(前記1(四)の右三五条の全面改正後、現在では右三五条別表第一の二・四号及びこれに基づく労働省告示により「気道障害」の一環として右各疾病の業務起因性自体は明定されている。)。

3 気管支・気管・肺の障害

(一) 気管支等の機能等

原告らが請求原因第四章第三の一3(一)で主張する気管支等の機能等については、当事者間に争いがない。

(二) じん肺

(1) 原告らと被告国との間で、長期間高濃度のクロム粉じん吸入があつた場合に限つて請求原因第四章第三の一3(二)(1)のとおりじん肺が発生することについて争いがないところ、前記第二の二1(三)、第三の二1、同三1(一)・3(二)で認定した事実及び<証拠略>によれば次のとおり認められる。

イ じん肺とは粉じんの吸入によつて生じた線維増殖性変化を主体とし、これに気道の慢性炎症性変化、気腫性変化を伴つた疾病をいい、一般に不可逆のものであると定義される疾病であるが、大気中に浮遊するクロム粉じん、ミストが口や鼻から吸入されると一ないし二ミクロン以下の微細粒子は肺内に侵入して肺胞に付着し、不溶性のクロム化合物は肺内に長く滞留することになる。また、六価クロムを口や鼻から吸入すると、その酸化力によつて気管や気管支の繊毛上皮が冒されて炎症を起こし、吸入されたクロム含有粒子の喀出が困難になるので、肺胞により多くの微粒子が付着することになる。

ロ クロム鉄鉱石粉じんに被暴するクロム鉱山労働者やクロム合金製造作業者だけではなく、クロム酸塩等製造作業者においてもじん肺が発生することを示す報告は多く、次のようなものがある。

〈1〉 マンクーソーとヒユーパー(一九五一年)は、クロム酸塩等製造工場における労働者三名の剖検例のいずれにおいても、肺中にクロム粉じんが蓄積し、肺組織が線維化し、中程度に重症のじん肺所見が見られたことを報告した。

〈2〉 ベイチヤー(一九五九年)は、動物実験の結果、気管にクロム酸塩の粉じんを投与されたラツトは、対照群に比較して高率に肺の線維症が発生したと報告した。

〈3〉 竹本和夫(昭和五一年)、ウイリアムス(C. D. Williams一九六九年)は、クロム酸塩等製造作業者にクロム粉じんにより肺の線維化の起こる可能性を示唆した。特に後者はクロム酸塩等製造作業従事歴五年の作業員の剖検例で、肺の所々は暗褐色の色素が散在した線維組織に置換されていたとのラスキン(一九三〇年)の報告を引用して、クロム粉じんの吸入により肺の線維化の発生し得ることを強く示唆した。

〈4〉 佐野辰雄(昭和五二年)は、クロム酸塩等製造作業者四名(従事歴一〇年、一二年、二三年、三〇年)、クロムメツキ作業者二名(従事歴一六年、五〇年)計六名の剖検例において全例にじん肺所見が見出され、うち二名(うち一名はクロム酸塩等製造作業者)は症状が重かつたことを報告した(佐野の報告の存在及びその概要は当事者間に争いがない。)。

〈5〉 海老原勇(昭和五二年)は、日本化工のクロム酸塩等製造作業従事経験者八八名の検診の結果、八八名中三五名(三九・八%)に一型の、四六名(五二・三%)に二型のじん肺所見を見出したこと、このうち従事歴五年未満の者一〇名中一名のみが正常であつたこと、従事歴一年の者にも全肺野にわたる粒状影を主体とした異常線状影を混ずる所見が見出されたことを報告した。

ハ これに対して、米国公衆衛生局(一九五三年)は、クロム酸塩等製造作業者にじん肺の存在を確認しなかつたと報告した。また、ベイチヤーは、後に、クロム酸塩等製造工程では「シリカ」が存しないからじん肺は生じ得ないと見解を改めた。

ニ 検討結果報告書は、これら少数の消極見解もあることに配慮して、「諸報告中にはクロム暴露作業者の肺線維症の記載もあるが、なお一定の見解に達していない。」としつつも、「しかし、クロム化合物自体が直接原因となるか否かは未だ明らかではないが、クロム鉄鉱石粉じんに暴露する鉱山労働者、クロム酸塩(原文「鉛」は明らかに誤記である。)製造作業者、クロム合金製造作業者などにおいて長期間高濃度の粉じんの吸入によつて肺の線維化や肺気腫が起こることは、最近の病理学組織学的検索、作業者の肺機能検査成績並びに動物実験成績などからその可能性が認められる。」と総括している。

以上のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

(2) そこで、クロム被暴、吸入とじん肺発症との因果関係の存否について判断するに、右ハのベイチヤーの消極見解の示す論拠は、前記各証拠に照らせば薄弱であり<証拠略>によればクロム鉱石は酸化ケイ素含有物であると認められる。)、右認定の事実を総合すれば、米国公衆衛生局の消極見解があるものの、クロム酸塩等製造工程において、具体的な期間を示すことはできないが、比較的長期間(少なくとも一年以上)にわたつて比較的大量のクロム含有粉じんを吸入した場合には、これに起因して作業者にじん肺が発症することがあること、吸入期間がより長く、かつ、相当大量のクロム含有粉じんを吸入すればより発症率が高まり、かつ、じん肺の症状も悪化することが推認され、右の限度で原告ら主張のクロム含有粉じん吸入とじん肺発症との因果関係の存在を認めることができる。

(三) 慢性気管支炎・気管炎、肺炎、肺気腫

請求原因第四章第三の一3(三)は、原告らと被告国との間で争いがないところ、前記第二の二の二1(三)、第三の二1、同三1(一)・3(二)で認定した事実及び<証拠略>によれば、次のとおり認められる。

(1)イ 大気中に浮遊する六価クロム含有粉じん、ミストが長期間にわたつて口や鼻から吸入されると、六価クロム化合物が鼻粘膜や咽喉頭に対して刺激作用を及ぼすだけでなく、気管支や気管の粘膜に対しても刺激作用を及ぼして炎症を引き起こし、咳や痰が出て呼吸機能が低下し、症状が進行すると慢性気管支炎や慢性気管炎になる。

ロ また、鼻や口から吸入された六価クロム含有粉じんのうち一ないし二ミクロン以下の微粒子は肺内に到達することができ、肺胞に付着するが、長期間にわたつて六価クロム化合物が肺内に侵入すると、その刺激作用によつて肺胞に炎症が生じて肺炎となる。

ハ 長期間にわたつてクロム粉じん、ミストが肺内に侵入し、肺胞に付着し、不溶性のクロム化合物が肺内に滞留、蓄積されるとともに、六価クロム化合物の刺激作用が続くと肺胞が破壊的な変化を受け、そのため、その部分が異常に大きくなつて空気が大量に貯留し強い呼吸困難の症状が出て肺気腫になる。

ニ 右の各障害の発症率は鼻中隔穿孔などの鼻の障害に比べると低く、特に、重度疾患である肺気腫の発症は少ないと考えられるが、クロム暴露期間が長くなり、又は空気中の六価クロム量が多くなれば、より多くの者に右各障害が発生し、あるいは症状も重たくなると考えられる。

(2) クロム酸塩等製造作業者を含め、クロム被暴、吸入がある作業環境下にある作業者に右の各障害が多く見られること、クロム粉じん、ミストの吸入によつて右の各障害が発症することについては、これまで疫学調査や多くの医学文献において報告されており、臨床においてもクロムによる疾病の一つであるとの見解は確立されており、被告会社が挙げる(第二編第四章第一節第三の一3(三)(1))米国公衆衛生局の調査報告内容は、右各障害に関する限り例外的なものである。

(3) なお、大崎饒らは、栗山工場のクロム酸塩等製造工程の(元)作業員(事務職等非現場作業員も相当数含む。)九四名の肺末稍気道の検査をした結果、クロム酸塩等の被暴によるとみられる呼吸機能障害を見出したこと、肺の形態的変化を検討した九名のうち八名に種々の程度の肺気腫を認めたこと、気腫の型は症例により多様であつたものの小葉中心型を主体とするものが多かつたことを報告している。

以上のとおり認められ、右認定に反する証拠はなく、原告らと被告会社との間でも、原告ら主張の長期間にわたる六価クロムを含むクロム被暴、吸入と慢性気管支炎・気管炎、肺炎、肺気腫発症との因果関係の存在を認めることができる。

(四) 肺機能障害

請求原因第四章第三の一3(四)は、原告らと被告国との間で争いがないところ、前記3(二)、(三)で認定した事実及び前記3(二)、(三)の各証拠並びに<証拠略>を総合すると、大気中に浮遊する六価クロム含有粉じん、ミストが長期間にわたつて鼻や口から吸入されると、そのうち一ミクロンないし二ミクロン以下の微粒子が肺内に到達して肺胞に付着し刺激作用を及ぼすことに加え、気管支や気管も冒されてその機能が低下することなどから、肺炎や肺気腫という重い疾病の発病にまでは至らなくても、呼吸機能の低下など肺機能障害が引き起こされることが認められ、原告らと被告会社との間でも、原告ら主張の六価クロムを含むクロム被暴、吸入と肺機能障害発生との因果関係の存在を認めることができる。なお、右各証拠によれば、このような肺機能障害はじん肺罹患に伴つて発生することも多いことが認められ、じん肺法規も、スパイロメトリーやフローボリユーム曲線による肺機能検査をじん肺健康診断の方法として規定している(同法三条一項二号、同法施行規則五条一項一号)。

(五) 業務上疾病認定について

<証拠略>によれば、労働省は、一二四号通達によつて、クロム化合物取扱作業従事労働者がクロム化合物の粉じん又はミストに長期間(おおむね数年以上)被暴したことによつて生じた気管炎、慢性気管支炎、肺気腫、肺の慢性炎症、気管支肺炎等の慢性の呼吸器疾患について(医学上療養を必要とし、かつ、当該業務以外の原因によるものでないと判断されれば)、労基法施行規則旧三五条一七号に該当する業務上疾病として取り扱うことにした(前記1(四)の右三五条の全面改正後、現在では右三五条別表第一の二・四号及びこれに基づく労働省告示によつて右各疾病の業務起因性自体は「気道障害」の一環として明定されている。)。

4 胃腸の障害

(一) 原告ら主張の胃腸の機能は当事者間に争いがない。

そこで、以下、クロム被暴、吸入と胃腸障害発生との因果関係の存否について検討する。

(二) まず、これまで認定してきたところによれば、次の各事実が明らかである。

(1) 六価クロムには激しい酸化作用があり、特に酸性溶液中又は有機物の存在下で強力な酸化作用を示して、自らは三価クロムに還元されること(前記第二の二1(三))

(2) 六価クロムには右の強力な酸化作用による人体組織に対する強い催炎性、腐食性(一次刺激性)があること(前記第三の二1)

(3) 空気とともに吸入されたクロム粉じん、ミストに含まれるクロムは、気管支の繊毛運動により喉頭まで運ばれた粒子中のものも含めて、唾液や痰に混入して嚥下されて胃腸(消化管)に達すること(同三1(二))、また、この点に関しては、大量のクロムの吸入がある場合には、口から吸入後気道に入らずそこで滞留し唾液とともに嚥下されるクロムも多くなると推認されること

(4) 胃液は六価クロムを三価クロムに還元する作用を有するが、六価クロムの全量が胃液によつて還元されるものではないこと(同三1(二))

(三) 次に、クロム被暴、吸入による胃腸の障害発生について、次のような調査報告等の医学文献があることは当事者間に争いがない。

〈1〉 マンクーソー(一九五一年)は、クロム酸塩等製造作業者九七名の消化管エツクス線検査で一〇・三%に潰瘍、六・一%に肥厚性胃炎を見出したことを報告した。

〈2〉 ステイエレホヴアら(一九七六年)は、クロム化合物製造作業者九〇名について胃の機能などを調査したところ、胃腸障害の所見を多く見出し、胃粘膜の刺激症状がクロム化合物と関係していると報告した。

〈3〉 ジスリン(一九七九年)は、クロム被暴、吸入によつて胃障害やこれを伴う十二指腸潰瘍の発生をみることを報告した。

(四) そして、<証拠略>によれば、右(三)〈1〉のマンクーソーの報告では、右調査の対照群では胃、十二指腸潰瘍は二・四%、胃炎は四・九%であつたとされていること、マンクーソーは、胃、腸管における潰瘍、炎症はクロム酸塩を嚥下したために生じたものであろうとしていること、更に、クロム酸塩工場に勤務していた者の記録を検討した結果、著明な胃腸症状はクロム酸塩職場を離れると減少あるいは消失すること、職場をやめると体重の顕著な増加がみられることなども記述し、クロム酸塩等の被暴、吸入と胃腸障害発症との関係を指摘したことが認められる。

また、<証拠略>によれば、右(三)の各報告のほかに、クロム革なめし作業者に発生した潰瘍性胃腸炎の症例報告があることが認められる。

(五) 他方、<証拠略>によれば、

〈1〉 ギユラー(Güは、クロム酸塩等製造作業者に発生した潰瘍性胃腸炎の七症例について、これらのうち三例は胃又は十二指腸の潰瘍の再発を繰り返し、一例は手術を受けるに至つたこと、自覚症状は非就業日には軽快し、大腸の機能異常は暴露停止後も長く続くことを報告したが、果たして右障害がクロム被暴、吸入と直接的関連があるか否かについては立証し得ないとしたこと、

〈2〉クロムメツキ作業者の中に消化管障害の多発を認めなかつたとする報告やラハニツト(Lachnit′一九七九年)の誤つて嚥下しない限り、職業性暴露では消化管障害は起こり難いとする報告もあること

が認められ、検討結果報告書では「クロム暴露作業者にみる慢性障害として胃粘膜の刺激症状、胃、十二指腸の潰瘍、大腸炎などに注目すべきものがあるが、また、職業性暴露では消化管障害を起こし難いと述べているものもあつて、臨床的観察における見解は一致しない。」と総括していることが認められる。

(六) そこで、以上(二)ないし(五)の各事実を前提にして、クロム被暴、吸入と胃腸の障害発生との因果関係の存否について判断するに、(五)〈2〉のように右の点を消極に解する見解や、同〈1〉のように「直接的関連は立証できない。」とする見解もあるが、(二)ないし(五)の各事実及び専門家会議の「総括」を総合考慮すれば、クロム酸塩等製造作業において可溶性の六価クロムを含む粉じん、ミストを長期間にわたり大量に吸入した場合には、右のような被暴、吸入を現に受けている間に右作業者において発症した胃炎、胃潰瘍、十二指腸潰瘍等の胃及び十二指腸の障害については、可溶性六価クロム被暴、吸入に起因するものがあることが推認される。

検討結果報告書の右「総括」は、これまで消極の見解(特にラハニツトのもの)も報告されていることから、端的に臨床的観察における見解の一致はないと記述しているのであつて、クロム酸塩等製造作業者等クロム取扱作業者の中に胃腸障害者が(相対的に)多く見出されたとする各報告の価値自体を否定したものではなく、むしろ、現実の発症率は低いかも知れないが、因果関係の存在自体を認め得る余地は残していると解され、右「総括」の記述は、右のように推認することを許さないようなものではないと解される。<証拠略>の中でベイチヤーは「クロムによる胃腸障害は実証されていない」と述べているが、これには特段の説明も付されておらず、単に結論のみを簡単に述べているものであつて、右記述は右推認の妨げとなるものでなく、ほかにも右推認を妨げるような証拠はない。

よつて、原告らの主張する右因果関係の存在は右の限度で認めることができる。

5 肝臓の障害

(一) 原告らは六価クロム被暴、吸入によつて慢性肝炎等の肝臓の障害も引き起こされる旨主張するが、クロムが肝臓に対してどのような形で障害を与えるのかにつき具体的な主張は全く行なわず、わずかにジスリンら(一九七九年)の報告の存在(その存在と内容につき当事者間に争いがない。)を挙げるにとどまる(請求原因第四章第三の一5(一)、(二))。

(二) ところで、<証拠略>によれば、クロム、特に六価クロム化合物は、誤飲や自殺目的の服用など大量経口摂取した場合には急性肝臓障害を引き起こすことが認められる。

しかし、本件においては、右のような急性中毒としての肝臓障害ではなく、クロム酸塩等製造作業者が慢性暴露の状態でクロム粉じん等を被暴、吸入することによる肝臓障害発生の有無が問題になるところ(前記第三の三5参照)、右認定事実のみに基づいて、直ちに、右慢性暴露の場合でも、クロム被暴、吸入と肝臓障害発生との因果関係が存在すると導くことはできない。

(三) そうして、本件においては、クロムの体内における代謝との関係でも合理的な説明となり得る形で、ある程度概括的であれ、慢性暴露におけるクロムの肝臓組織に対する有害作用の機序を明らかにする証拠はない。原告らはこの点に関してほとんど具体的な証拠を提出せず、わずかに、<証拠略>中の海老原勇の解説文「クロム作業は全身疾患をひきおこす」の中で、日本化工のクロム酸塩等製造作業従事経験者を含む六例の剖検例中四例(二例は未検)において、肝細胞の変性、萎縮等の所見があつたことを示した後、そのプロセス等について何らの説明もせずして、「こうした肝変化は、長い間作用し続けたクロム等の重金属によつて発生し、長い間持続した。主に肝内細胞管系の障害を中心とした中毒性肝炎によつて形成された一種の肝硬変だろうと考えられます。」と断ずる記述や、<証拠略>の中に、佐野辰雄がクロムの医学上の問題とその対策について全般的概括的に触れる部分で、右と同一の剖検例の所見に言及している記述があるのみで、これらによつては、到底概括的にさえ慢性暴露におけるクロムの肝臓に対する有害作用の機序を認めることはできず、<証拠略>を含め、他の証拠中にもこの点を証明するに足りるものはないのである。

また、本件において証拠上認定できるクロムの人体への吸収、人体内での移動・蓄積、分布等については前記第三の三のとおりであるが、その認定事実から、血流中に取り込まれたクロムの中に依然として六価クロムが残存し、これが肝臓内で組織に刺激作用を与えるとか、血流中の三価クロムが肝臓に何らかの有害作用を与えるなどと推認することもできない。

更に、前記第三の三3(二)で述べた別表四、五が示すようなクロム被暴作業者の肝臓中のクロム濃度が非被暴作業者のそれに比べて高いという点から、直ちにクロムが原因となつて肝臓障害が引き起こされるとすることもできない。そもそも、前記第三の三3(二)でも言及したとおり、測定手段等に統一性がなく、かつ、一定集団に対する網ら的全数調査の結果得られたわけでもない臓器中クロム濃度の比較は、他の事実とあいまつて認定の資料にはなり得るものの(本件ではこの意味でも右の比較とあいまつて前記の点を推認させるに足りる証拠はない。)、これを決め手として一定の臓器に対するクロムの具体的な有害作用の存否を論ずることはあまりに短絡的である。

(四) 次に<証拠略>によれば、慢性暴露としてのクロム被暴、吸入による肝臓障害に関しては、ジスリンら(一九七九年)が、肝臓はクロム障害の標的臓器の一つであり、許容濃度の二ないし八倍以上、被暴一〇ないし一五年では持続性肝炎を起こすと報告したこと(この点は当事者間に争いがない。)、パスカル(L. R. Pascale一九五二年)らが、クロムメツキ作業者が痒疹、食欲不振に続いて黄疸を発した一例をみて、同僚四人についても肝機能検査を行い、更に当該患者と同僚の三人につき肝生検を行つた結果、小葉中心性壊死とクツフアー細胞の増生を認め、臨床検査では黄疸指数等で軽度ないし中程度の肝障害を認めたと報告したこと、ユーティジヤン(一九七三年)がクロムメツキ作業者のクロム酸による肝臓障害の発生を否定し得ないと報告したことを除いては、クロム取扱作業者のクロム被暴、吸入に起因する肝臓障害の発症を否定し、又は疑問視する医学文献が多く、とりわけ、クロム酸塩等製造作業者に特有の肝臓障害が発生するとの報告は皆無に近いことが認められる(なお、大崎饒らが昭和五〇年栗山工場の(元)クロム酸塩等製造作業者六一名を対象に実施した肝臓機能検査によれば六一名中三一名(五〇・八%)に何らかの肝機能障害を見出したが、大崎らはこれがクロム被暴、吸入によるものかは不明であるとしている。)。

加えて、<証拠略>の中でベイチヤーが指摘するところによれば、パスカルの右報告の対象となつたメツキ工場においては塩素化炭化水素(トリクロルエチレン)有機溶剤などパスカルが述べている肝臓障害の原因物質となる化学薬品が取り扱われ、その被暴、吸入による影響を考慮しなければならないことが認められ、右パスカルの報告内容をそのままクロム酸塩等製造業者にあてはめることは難しいと考えられる。

そして、<証拠略>によれば、検討結果報告書は、「六価クロム化合物による肝障害については、メツキ作業者に関する報告が主たるものであるが、メツキ作業者においては、トリクロルエチレンなど有機溶剤の暴露による肝障害の発生をみることもあり、クロム化合物自体による肝障害の多発はないと考えられる。三価及び六価クロム化合物のラツトへの慢性投与実験で肝機能障害は確認されず、肝細胞の培養法による種々の金属化合物の毒性の比較検討の結果でも、カドミウム、バナジウムなどの毒性に比べてクロムはマンガンとともに細胞毒性が低いと判断される。クロムメツキ作業者に発生した肝障害の症例については、個別にその要因を精細に検討する必要がある。」と総括していることが認められる。

したがつて、右「総括」も述べるとおり、本件では、医学上の文献の面からも、クロム酸塩等製造作業者のクロム被暴、吸入による肝障害発生を裏づけるに足りるようなものはないというべきである。

(五) 以上によれば、本件においては、慢性暴露としてのクロム被暴、吸入、とりわけクロム酸塩等製造作業者の慢性暴露としてのクロム被暴、吸入と肝臓障害発生との因果関係が存在すると認めることはできず、この点に関する原告らの主張は失当であることになる。

6 腎臓の障害

(一) 原告らは、六価クロムを被暴、吸入すると、六価クロムは血行中に取り込まれて、腎臓にも拡散・分布して、腎臓障害を引き起こす旨主張するが、クロムが腎臓に対してどのような形で障害を与えるかにつき具体的な主張は全く行わず、障害例等に関する文献も全く挙げていない(請求原因第四章第三の一6)。

(二) ところで、クロム、特に六価クロム化合物は、誤飲や自殺目的の服用など大量経口摂取した際には、急性腎臓障害を引き起こすことについては当事者間に争いがなく、<証拠略>によれば、六価クロム化合物は摂取量の多い場合には腎障害をきたす化学物質として知られており、これが血行中に取り込まれると尿細管細部を特異的に冒すことが認められる。

しかし、本件においては、右のような急性中毒としての腎臓障害ではなく、クロム酸塩等製造作業者が慢性暴露の状態でクロム粉じん等を被暴、吸入することによる腎臓障害発生の有無が問題になるところ(前記第三の三5参照)、右争いのない点や右認定事実のみに基づいて、直ちに、慢性暴露の場合でも、クロム被暴、吸入と腎臓障害発生との因果関係が存在すると導くことはできない。

(三) そうして、本件においては、クロムの体内における代謝との関係でも合理的な説明となり得る形で、ある程度概括的であれ、慢性暴露におけるクロムの腎臓組織に対する有害作用の機序を明らかにする証拠はない。原告らはこの点に関してほとんど具体的な証拠を提出せず、わずかに、<証拠略>中の前記5(三)の海老原勇による解説文の中で、日本化工のクロム酸塩等製造作業従事経験者を含む六例の剖検例中五例(一例は未検)において、主部尿細管の変性、壊死や糸球体の巣状壊死等の所見があつたことを示した後、「このように、クロム作業者の腎臓は主部尿細管の強い変性、軽度ではありますが増殖性糸球体炎、そして糸球体の巣状液化壊死を共通の変化として認めることができます。」とする記述や、<証拠略>の中で佐野辰雄が前記5(三)のように右と同一の剖検例の所見に言及している記述があるのみで、これらによつては、到底概括的にさえ慢性暴露におけるクロムの腎臓に対する有害作用の機序を認めることはできず、<証拠略>を含め、他の証拠中にもこの点を証明するに足りるものはない。

また、本件において証拠上認定できるクロムの人体への吸収、人体内での移動・蓄積・分布等については前記第三の三のとおりであるが、その認定事実から、血流中に取り込まれたクロムの中に依然として六価クロムが残存し、これが腎臓内で組織に刺激作用を与えるとか、血流中の三価クロムが腎臓に何らかの有害作用を与えるなどと推認することもできない。

更に、クロム被暴作業者の腎臓中のクロム濃度が非被暴作業者のそれに比べ高いということから、直ちにクロムが原因となつて腎臓障害が引き起こされるとすることができないのは、前記5(三)の肝臓障害の場合と同様である。

(四) 次に、<証拠略>によれば、動物実験において、六価クロム化合物の大量投与によつて動物に急性腎不全を発症させることができるほか、亜急性、慢性実験によつても腎臓障害が観察されるとする報告があるものの、一般の産業の場においては、経口的に大量摂取した急性中毒例を除けば、六価クロム化合物を被暴、吸入していた作業者に腎障害が認められたとする文献上の報告例は少ないこと、尿中クロム量の多少は、クロム被暴の指標となり得るが、そのことから直接的に慢性的暴露においてもクロムが腎臓に障害を与えていると結論づけるには飛躍があることが認められ、<証拠略>によれば、検討結果報告書は、「総括」においておおむね右の点を述べて、慢性暴露におけるクロム被暴、吸入による腎臓障害の発生につき消極的、ないしは慎重な見解を示していることが認められる。

したがつて、本件では、医学上の文献の面からも、クロム酸塩製造作業者の慢性暴露における右因果関係の存在を裏づけるに足りるようなものはないというべきである。

(五) 以上によれば、その発生機序自体の証明、文献上の障害例等の分析などいずれの面からも、クロム酸塩等製造作業者の慢性暴露としてのクロム被暴、吸入と腎臓障害発生との因果関係が存在すると認めることはできず、この点に関する原告らの主張は失当であることになる。

7 まとめ

以上認定説示したとおり、原告ら主張のクロムによるがん以外の身体障害発生のうち、皮膚の障害(皮膚炎・皮膚潰瘍等の一次刺激性皮膚障害、感作性接触皮膚炎(ただし、具体的な被害発生の主張立証なし))、上気道の障害(鼻炎・鼻粘膜潰瘍・鼻中隔潰瘍等の鼻の障害、鼻中隔穿孔、慢性副鼻腔炎、嗅覚障害、慢性咽頭炎・咽頭炎等の咽喉頭の障害)、気管支・気管・肺の障害(じん肺、慢性気管支炎、気管炎、肺炎、肺気腫、肺機能障害)、胃腸の障害(胃炎、胃潰瘍、十二指腸潰瘍等の胃及び十二指腸の障害)については、その発症とクロム酸塩等製造作業における(六価クロムを含む)クロム被暴、吸入との間に因果関係が存在することが認められ、これらのうち、気管支・気管・肺の障害及び胃腸の障害は長期間にわたるクロム被暴、吸入など各該当箇所で説示した一定の限定下で右因果関係を認めることができる。

しかし、肝臓の障害、腎臓の障害については、クロム酸塩等製造作業における慢性暴露としてのクロム被暴、吸入との間に因果関係が存在するとは認めることはできない。

二  肺及び上気道のがん(請求原因第四章第三の二)

1 はじめに

前記第一の二のとおり、クロム被暴、吸入と肺及び上気道のがん発症との因果関係の存否については、専門家会議の主要検討項目として綿密な検討が加えられ、中間報告書、検討結果報告書と二回にわたつて報告がなされているところ、本件における原告らの右因果関係の存在主張に対する被告らの認否、反論、反対主張も、右各報告書の記述内容、あるいは(中間報告書の記述等を契機にして改められた)右因果関係の存否に関する各種法規等の規定を考慮に入れた上でなされている。

そこで、以下、まず右因果関係に関する専門家会議の見解及び右関係法規等の規定の推移を示し、次に、判断の前提事項として被告らの認否の意義等を明らかにするとともに、訴訟上の因果関係の立証の意義、専門家会議の見解の意義について順次考察した後、右因果関係存否の判断の具体的基礎事実の有無等を検討した上、右因果関係の存否について判断するという順序で認定説示することにする。

2 クロムによる肺がん等に関する専門家会議の見解等及び各種法規等の規定の推移

(一) 各報告書における専門家会議の見解等

前記第一の二で認定した事実並びに<証拠略>によれば、次のとおり認められる。

(1) 昭和四八、九年に渡部真也ら及び大崎饒らによつて、栗山工場のクロム酸塩等製造作業者における肺がんの相対的多発及び右作業従事の際のクロム被暴、吸入との因果関係の存在を報告する研究調査結果が発表されたことなどをきつかけにして、我が国の多数の産業医学の専門家を委員として昭和五〇年九月設置発足したクロム障害に関する専門家会議は、当初の焦眉の課題であつた労働者のクロム被暴、吸入と肺がんをはじめとする各種身体障害発生との因果関係の存否の問題を中心にして、取り急ぎ「クロム化合物による健康障害に関する検討結果中間報告書」(<証拠略>)をまとめ、昭和五一年一月一六日これを報告した。

(2) (中間報告書における見解)中間報告書では、クロム酸塩等製造作業者における肺及び上気道のがん発症に関して、従前の疫学的研究の成果を要約した上、専門家会議の結論として、

イ 肺がんについては、「以上、各国におけるクロム酸塩製造工場においてクロム酸塩製造に携わる労働者には明らかに肺がんのエクセスリスクが存在する。しかし、このエクセスリスクとなる化合物については決定し難い。

現時点ではクロム酸塩製造工程に従事した労働者の肺がんは、職種及び暴露量を考慮した上で業務起因性を判断すべきである。」とし、

ロ 上気道のがんについては、「クロム酸塩製造作業に従事する労働者における上気道のがんについては疫学的にそのエクセスリスクを確立した報告は存在しない。しかし、報告を総合して評価すると、その発生の蓋然性は必ずしも低いとは考えられない。したがつて、クロム酸塩製造作業に従事した労働者の上気道のがんは暴露の程度等を考慮した上で個々の事例ごとにクロムとの関連が判断されるべきであろう。」としている。

(3) 右中間報告後、専門家会議はクロムの生体作用及び健康障害に関し、昭和五九年三月二一日検討結果報告書を提出するまで約八年間にわたり本格的な検討を行い、前記第一の二のとおりその検討過程では多数の内外の関係文献の収集をした上、綿密かつ多面的な調査検討がなされたところ、その中心課題はあくまでもクロムによるがん発症の有無の検討に置かれていた。

(4) (検討結果報告書における見解) 右の検討過程を経て提出された検討結果報告書の中で、専門家会議は前記第一の二のとおり、各事項についての検討結果を詳述した後に、専門家会議としての総括見解を提示しているが、その中からクロムの発がん性、とりわけ、クロム酸塩等製造作業者における肺及び上気道のがん発症に直接関係する主要な記述を要約摘示すると次のとおりである。

イ まず、クロムによる発がんに関する実験的研究やクロム被暴作業者の肺がん、上気道のがんに関する臨床的知見の総括として、

(イ) 「クロム化合物の変異原性試験結果」につき具体的に要約紹介して、一般的にみて六価クロム化合物には変異原性を示すものが多く、三価クロム化合物には変異原性を示さないものが多いことを述べる。

(ロ) 次に、「動物実験結果」につき具体的に要約紹介し、投与部位でのがん原性が明認されるものとして、五種類の六価クロム化合物があり、投与部位でのがん原性が疑われるものとして他に五種類の六価クロム化合物があることなどを示す。

(ハ) 「肺や上気道のがんの臨床的所見」との関係では、クロム被暴作業者の肺や上気道のがんの個別的臨床所見は非職業性のものと差異はないが、全体的に見るとその発生部位、組織型の分布状況には差異があるとする。

ロ そうして、「職業性疾病の診断にはその疫学的要因の背景の中に臨床的及び病理的所見を置いて考察することが基本となることに加え、クロム化合物の暴露作業者に発生したがんがクロム化合物によつて発生したものであるか否かを判断するためにも、現時点におけるその疫学的知見を理解することが基本的に必要である。」とした上で、疫学的研究の意義等につき詳述した後、クロム被暴作業に関する症例及び検診結果と疫学的研究の諸報告を総括して、次のような専門家会議の見解を示す。

(イ) すなわち、クロム酸塩等製造作業者における肺がんの発症については、「クロム鉱石から重クロム酸塩などを製造する工場においてはクロム暴露作業者に肺がんの発生が多く、クロム酸塩製造作業者の肺がんに関する疫学的研究によつて、クロム酸塩製造作業に肺がん発生の危険度が高いことの証拠は十分存在する。この工程にみられるクロム化合物のいくつかは動物実験でがん原性も確かめられており、この作業と肺がんの関連性は極めて高いことが認められる。」とし、

(ロ) 右作業者における上気道の発症については、「鼻腔、副鼻腔、喉頭などの上気道のがんは、一般人口においても比較的稀なものである。クロム酸塩製造作業者においては、鼻腔の変化は著明であり、頻度も大であるが、それに比較するとがんの発症率は非常に少ない。しかし、本作業者については症例報告が少なからずみられ、また、これらの部位のがんについては対照と比較して発生率が高いとする疫学的研究もあり、がん発生の危険度が高いと考えてよいであろう。」とする(検討結果報告書にこれらの記述があること自体は当事者間に争いがない。)。

(5)他方、検討結果報告書は、肺がん等の一般的な発生の機序を病理学的に解明したわけではないことはもちろん、クロム酸塩等製造作業者における肺がん、上気道のがんについても、三価クロム、六価クロムのうちでは六価クロム化合物が発がんに寄与しているとはしているものの、右製造工程における原料、中間生成物、製品等の取扱物質やそこで発生する粉じん、ミスト等に含まれる如何なる化学構造のクロム成分が発がん性を有するのか(原因物質の具体的特定)、この物質が人体の細胞、とりわけ肺や上気道の組織のどの部分にどのように作用するのか、作用を受けた細胞や組織がどのような病理変化をするのか(クロム肺がん等の発生機序)が解明されているとは総括しておらず、右(4)のロの総括見解も、このように、いわば演繹的かつ直接的な形では、クロム被暴、吸入を原因として肺がん、上気道のがんが生じるに至るプロセスが解明されてはいないことを前提とした上で、専門家会議が到達した結論として示されているものである。

(二) クロムによる肺がん、上気道のがん発症等に関する各種法規等の規定の推移(特に、業務上疾病認定について)

<証拠略>によれば、次のとおり認められる。

(1) 被告国(労働省)は、右2(一)(1)の渡部真也ら及び大崎饒らの各研究調果結果が報告された後、クロム酸塩等製造作業者に発生した肺がんについて、昭和四九年から個別的に業務上疾病の認定を行つてきたが、昭和五〇年八月二三日付けの前記五〇二号通達によつて、クロム取扱作業従事歴九年以上の者について発生した原発性肺がんについては、当該業務との因果関係(業務起因性)を認めるのが相当であると定め、労基法施行規則旧三五条一七号に該当する業務上疾病として取り扱うことにした。なお、右通達は、クロムによる健康障害の取扱いにつき、統一的な業務上外認定基準を定めた初めての通達である。

右の「従事歴九年」という要件は、渡部らの当初の疫学調査(調査対象者が少なかつた。)によつて明らかにされた(我が国の)クロムによる肺がん罹患者の最短従事歴が九年とされていたことによるものである。

(2) 次いで、被告国(労働省)は、専門家会議の中間報告書の提出後、これに基づき昭和五一年一月三一日付けの前記一二四号通達によつて右五〇二号通達を改正し、クロム酸塩等製造作業従事労働者の原発性肺(気管、気管支を含む。)がんの業務上疾病認定の要件につき、作業従事歴を九年以上から四年以上に改め、更に、右労働者の原発性上気道(鼻腔、副鼻腔、鼻咽腔及び喉頭)のがんについても作業従事歴四年以上の者について業務上疾病とする旨定めた。

右の「従事歴四年」という要件は、中間報告書が紹介するベイチヤーの報告に依拠するものである。

(3) また、被告国(労働省)は、昭和五三年三月三〇日労基法施行規則三五条を全面改正し、労基法七五条二項に基づく業務上疾病に関する従来の右規則三五条の規定を一新させ、三五条別表第一の二・七号でがん原性物質若しくはがん原性因子又はがん原性工程における業務による疾病を列挙規定することにし、その一四において、「クロム酸塩又は重クロム酸塩を製造する工程における業務による肺がん又は上気道のがん」がこれに含まれる旨定め、その業務起因性を明定するに至つた。

(4) そのほか、被告国(労働省)は、昭和五〇年九月三〇日特化則を大幅に改正し、がん原性物質の取扱いに関する規制を厳しくするなどしたが、その際に、労安法施行令別表第三の第二類物質として定められていたクロム酸及びその塩、重クロム酸及びその塩を特化則上管理第二物質であり、かつ、特別管理物質である旨定め、これらの物質の取扱いにつき、発がん物質として職業がん予防の観点から規制を加えることになつた。

また、昭和五〇年一月一四日労安法施行令二三条を改正し、クロム酸塩等製造作業従事者に健康管理手帳を交付する旨定め、かつ、同年一月一六日労安規五三条を改正して右従事者の要件として「従事歴五年以上」と定め、次いで昭和五一年三月二五日右要件を「従事歴四年以上」に改めた。

3 被告らの認否の意義等

(一) 被告国

(1) 右2(一)、(二)のような事態の推移を背景にして、被告国は、本件においても、長く「専門家会議の最終的な報告によつては認否を訂正、撤回する可能性があることを留保する」とした上、第二編第四章第二節第三の二1(四)(2)イのとおり陳述していたところ、昭和五九年三月二一日前記検討結果報告書が提出され、その中で前記2(一)(4)のとおり総括報告されるに及んで、右の「留保」を撤回するに至つたものである。

(2) そうして、原告らのクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん及び上気道のがん発症との因果関係の存在の主張に対する被告国の認否陳述(第二編第四章第二節第三の二1)の意義等は、次のとおりであると解される。

イ まず、被告国は、前記2(一)(5)のとおり、検討結果報告書も、クロム酸塩等製造工程に存在する肺がん等の原因物質を具体的に特定し、その物質による発がんの具体的機序を解明するという形で、右製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係を明らかにしたものではなく、現在右のような意味での因果関係(以下「具体的機序解明による因果関係」ともいう。)の存否は不明であるとした上で、このような状況の下でも、右原因と結果との因果関係は、労働関係法規上確立されているのと同様の見地から、検討結果報告書に依拠する限り経験則上これが存在すると判断されるとし、原告らの主張の右因果関係の存在自体は認める旨陳述するものである。

ロ 次に、被告国の右認定陳述は、原告らの、「特段の限定なくクロム被暴、吸入により肺がんや上気道のがんが発生する」と概括的に因果関係の存在を主張するのに対し、因果関係の存在自体は認めるが、無限定ではない旨陳述するものであり、前記第一の一4で述べたように原告らの右主張に対する一部自白となつている。

したがつて、原告らと被告国との間では、右因果関係の存在自体に関しては証拠による立証は不要であるが、クロムの暴露期間、被暴量等につき大まかではあつても一定の限定下でのみ右因果関係を認め得るのか否かについては証拠によつて明らかにしなければならないことになる。

(二) 被告会社

(1) 被告会社は、原告らの前記因果関係の存在の主張を全面的に争つている(第二編第四章第一節第三の二、第三編第二章第二)。

(2) しかるところ、被告会社は、原告らが右因果関係の存在を導くに足りるものとして主張し、あるいは専門家会議が前記2(一)(4)の総括の基礎資料として取り上げている、各種変異原性試験結果、動物実験結果、疫学調査等に対して、これらの調査結果等とは異なる内容の研究結果や、右因果関係の存在を疑わせ、又は否定する研究結果がほかにあるとして、自ら証拠としてこれを提出する形での反証は全く行つていない。被告会社は、原告らが主張し、検討結果報告書にも記述されている右各種基礎資料の内容自体はほとんど争わずに、専らその意義や評価を争い、右各種基礎資料から右因果関係の存在を導くことはできないという主張を行つているものである。

(3) 被告会社が右主張の趣旨として指摘するところは、おおむね次のとおり要約できる。

〈1〉 クロム被暴、吸入と肺がん等発症との間の具体的機序解明による因果関係は明らかにされていない。原因物質も特定されていない。

〈2〉 検討結果報告書の総括も、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん、上気道のがん発症との因果関係の存在を認めたのではなく、せいぜい右両者間の関連性の存在を認めたにすぎない。

〈3〉 専門家会議は、あくまで労災の業務上認定における業務起因性としての因果関係の存否認定を念頭に置いて、これに資するための意見を述べているのであり、訴訟上の因果関係の存否はその意見の射程外にある。

〈4〉 原告らが主張し、検討結果報告書も記述する各疫学調査は、実験疫学的調査を経ていない不完全なものである上、量―反応関係の存在を明示していない。

〈5〉 クロム被暴、吸入と上気道のがん発症との間の統計学的有意差(エクセスリスク)の存在を報告した疫学調査はないから、疫学調査結果から因果関係があるという結論は出せない。

〈6〉 また、右各疫学調査は、喫煙による肺がん発症を考慮に入れていない点でも不完全である。

〈7〉 変異原性試験結果や動物実験結果は、人間のクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係の存在を示す基礎事実となり得ない。また、動物実験結果でがん原性を認められた物質は、クロム酸塩等製造工程において必ずしも生成されない物質である。

(4) 更に、被告会社は、被告国と同様、原告らの概括的(無限定的)な因果関係の存在主張に対し、因果関係の存在自体が認められる場合にも、それは無限定的でない旨の陳述(前記第一の一4参照)もしている。

すなわち、被告会社は、

〈8〉 クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入一般が肺がん、上気道のがん発症の原因となるのではなく、六価クロム被暴、吸入のみがその原因となり得ること、

〈9〉 クロム暴露期間が四年以上の場合に限つて右因果関係を認めることができること

を主張する。

4 訴訟上の因果関係の立証の意義

(一) 訴訟上の因果関係の立証については、原告ら及び被告会社の指摘するとおり、「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。」とされている(最高裁昭和五〇年一〇月二四日判決民集二九巻九号一四一七頁)。

(二) 右の判示は、直接的には、加害原因行為と被害発生との個別的事実的因果関係の認定に関し説示されたものである。今ここで問題となつているクロム被暴、吸入と肺がん等発症との一般的因果関係(個別的事例へのあてはめの前提となる因果則)の存否は、右判示自体の中では「経験則」の一環となるべきものではあるが、このような一般的因果関係の存否の認定に当たつても、更に右判示のいうところが妥当すると考えられる。ただ、その立証対象の性質上、より一般的なレベルでの証明が問題となるため、当該患者の症例に係る鑑定意見などではなく、専門家の一般的見解等が右因果関係認定のための「経験則」を明らかにするものとして機能することになる。

(三) ところで、Aクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入という事実とB作業者の肺がん及び上気道のがん発症という結果発生との因果関係の問題に即していえば、右判示のいう「一点の疑義も許されない自然科学的証明」に当たるのは、右製造工程における原料、中間生成物、製品等の取扱物質やそこで発生する粉じん、ミスト等に含まれる如何なる化学構造のクロム成分が発がん性を有するのか(原因物質の具体的特定)、この物質が人体の細胞、とりわけ肺や上気道の組織のどの部分にどのように作用するのか、作用を受けた細胞や組織がどのような病理変化をするのか(クロム肺がん等の発生機序)を解明し、Aの事実がBの結果発生を招来するまでを演繹的に証明する(証明の過程では常に前提と結論が同値の関係で連鎖していく証明をする)こと、すなわち具体的機序解明による因果関係を明らかにすることであると解される。

しかるところ、後記6のとおり本件では具体的機序解明による因果関係の立証はなされていないのであるが、右判示は、このような厳密な自然科学的証明がなくても訴訟上因果関係を認め得ることを示したものである。

したがつて、被告会社が指摘する前記3(二)(3)〈1〉の点は、必ずしも右のAとBとの間に訴訟上の因果関係を認めることの妨げとはならないのである。

5 専門家会議の見解の意義等

(一) 専門家会議の見解の意義

(1) 右4で述べたところに照らして、専門家会議が検討結果報告書の総括の中で示した前記2(一)(4)の見解の意義を検討すると、前記2(一)(1)ないし(5)の認定事実及び<証拠略>を総合すれば、右総括の記述は、専門家会議において、前記A、Bの両事実の間に、「具体的機序解明による因果関係、すなわち、一点の疑義も許されない因果関係の自然科学的証明はなされていない」ものの「多くの産業医学の専門家の経験則に照らして、長年にわたる徹底した検討過程で得られた各種知見等を総合検討すれば、AがBの結果発生を招来するという関係自体は、これを是認し得る高度の蓋然性がある。」と認めたことを表明するものにほかならないと解される。

右総括の記述中肺がん発症に係る因果関係に関する部分は、問題なく右のように解されるし、上気道のがん発症に係る因果関係に関する記述部分も、前記2(一)(2)の中間報告書の記述や検討結果報告書(<証拠略>)の他の部分の記述と比較検討すると、右のように解することができるのである。

なお、もし、専門家会議が検討結果報告書で上気道のがん発症につき右の意味でも因果関係の存在を肯定できないとする趣旨であつたならば、前記2(二)(3)のとおり自らの中間報告書の記載に依拠して、既に昭和五三年から法規上も上気道のがん発症との因果関係を肯認する規定が置かれていることに照らせば、これを追認できない旨を明示したはずである。

したがつて、専門家会議は、前記第一の一2で述べたような暴露期間等との関係での限定が付されるか否かは別として、右各疾病に係る、前記4の判示が立証必要とした程度における因果関係の存在自体は肯認しているのであり、被告会社が指摘する前記3(二)(3)の〈2〉の点は誤りである。

(2) 次に、被告会社が指摘する前記3(二)(3)の〈3〉の点については、前記第一の二、第四の二2(一)、(二)の各認定事実及び<証拠略>を総合すれば、専門家会議は、中間報告書の段階では、取り急ぎクロム取扱作業従事と各種障害発生との間の業務起因性を認め得るかを主要な検討課題としていたと認められるが、その後の本格的検討の過程では、このような一定の行政目的とは一応離れて、いわば腰を落ち着けて産業医学プロパーの問題として検討を重ねてきたことは明らかであり、その総括も、「業務上疾病の認定基準の枠内でのみ妥当する」というような限定を一切行わずに、産業医学の見地から、そのものとして因果関係の存在を肯定できるか否かを論じていることは明白である。

したがつて、被告会社の右指摘のうち、専門家会議の総括見解がそれ自体において訴訟上の因果関係の存否を射程外としたものであるとする点は誤りである。

(二) 専門家会議の総括見解等と因果関係存否の判断

右4、5(一)によれば、結局、本件においては、原告らのクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん、上気道のがん発症との一般的因果関係の存在主張に関しては、(少なくともその存在自体について)これに沿う専門家会議の総括見解が示されていることになる。

しかるところ、右の総括見解及びこれを導くに至つた各種の経験則は、我が国の多数の産業医学の専門家が、現在我が国でなし得る最高最大の規模の検討過程を経た上で到達、獲得したものであることに鑑みれば、被告らの指摘する一定の限定を付すべきかの問題は別として、前記一般的因果関係の存否自体の判断に際して、十分尊重すべきものである。殊に、前記4(二)のとおり、このような一般的因果関係(因果則)の存否の判断に関しては、専門家の一般的見解等が経験則として機能するところが大きいところ、個別の訴訟において証拠調べの方法で収集し得る資料と比べ、桁はずれに多くの文献、資料に直接当たつた上得られた検討結果報告書(<証拠略>)の各記述内容の持つ意味は大きいのである。

6 具体的機序解明による因果関係の立証の成否

本件全証拠によっても、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入という事実と作業者の肺がん及び上気道のがん発症との間の、前記4(二)で述べたような厳密な具体的機序解明による因果関係の存在を明らかにする証拠はなく、むしろ、<証拠略>によれば、前記2(一)(5)のように、専門家会議がその総括見解の前提にもしているとおり、現在のところ、自然科学的に厳密な意味では、クロムによつて肺がん等が発生するという具体的機序は解明されておらず、原因物質の化学構造の特定などもなされていないことが認められる。

そこで、前記3ないし5で述べたところを踏まえて、クロム酸塩等製造作業者における肺がんの症例報告、疫学的研究、クロム化合物の変異原性試験結果、動物実験結果等につき、以下順次検討を加え、被告会社との間では、前記4の判示が述べる意味での因果関係の存在自体を認め得るか、また、因果関係を認め得るとしても暴露期間等との関係で一定の限定を付すべきかを、被告国との間では、因果関係につき右のような限定を付すべきかを、それぞれ考察することにする。

7 クロム酸塩等製造作業者におけるクロムによる肺がんの症例報告

右症例報告として、ドイツではプフアイルが一九三五年初めてクロムによる肺がんの症例報告をした後、テレキー、アルヴエンスらも症例報告をし、戦前既に少なくとも六三例の症例が報告されたこと、米国では、戦後、クロム肺がんの本格的調査が行われるようになり、各疫学的研究の前提として多くのクロム肺がんの症例が報告されたこと、イギリスでも、戦後ビドストラツプらにより右症例報告がなされたこと、我が国では渡部真也らが昭和四八年から栗山工場の(元)作業員の追跡調査を行い、これまで約二五例のクロム肺がんの症例報告をしていることは当事者間に争いがない。

なお、<証拠略>によれば、ベイチヤーは、一九五〇年までにクロム酸塩等製造工場における肺がんは、ドイツの五工場で少なくとも五二例(上顎洞のがん一例を含む。)、米国の七工場で五七例発生し、クロム色素製造工場における肺がんはドイツの四工場で一〇例の発生をみたと報告していることが認められ、<証拠略>によれば、大崎饒らにより、栗山工場の(元)作業員二四名の肺がんの詳細な症例報告がなされていることが認められる。

8 クロム酸塩等製造作業者における肺がん、上気道のがんに関する疫学的研究

(一) 疫学調査結果の報告例

請求原因第四章第三の二3(一)、(二)は原告らと被告国との間で争いがなく、原告らと被告会社との間では原告ら主張の各報告の存在自体は争いがないところ、右争いのない事実及び前記6の各証拠によれば次のとおり認められる。

(1) はじめに

イ 以下認定する各種の疫学調査では、クロム酸塩等製造作業者における肺がん等の発症に関する様々なデータが明らかにされているが、ベイチヤーの行つたケース・コントロール・スタデイと大崎饒らの行つた肺がん発生率の比較調査を除いて、いずれの報告も、観察対象群中の右疾病による死亡者の発生状況と対照群中のそれとを対比検討して各種のデータを紹介している。

ところが、その対比の方法が必ずしも統一されていないので、ここで、あらかじめ対比の具体的方法・意義等について触れておく。

ロ(イ) まず、甲という集団を観察対象群として、観察期間中の総死亡数をA、当該疾病を死因とする観察死亡数を0とし、A中のOの比率をB、すなわちB=O/Aとし、これを死亡比と呼び、観察死亡数Oから導かれる観察対象群における当該疾病による対一定人口(一〇〇〇人とか一〇万人)年当たりの死亡率(粗死亡率、訂正死亡率の区別はひとまず措いておく。)をCとする。

更に、対照群中の当該疾病による死亡数から導かれる対照群における死亡率Hを甲集団にあてはめて得られる死亡数を、観察対象における当該疾病による期待死亡数としてEとする。

(ロ) 次に、乙集団を対照群として、観察期間中の総死亡数をD、当該疾病を死因とする死亡数をF、D中のFの比率をG、すなわちG=F/Dとし、これをやはり死亡比と呼び、右Fから導かれる対照群における当該疾病による対一定人口(前同)年当たり死亡率をHとする。

(ハ) この場合、おおむね次の三つの対比方法があると認められる。

〈1〉 甲集団における当該疾病の死亡比と乙集団におけるそれとを対比させる方法、すなわち、B/Gを算出して差異を見る方法。このB/Gを死亡比による相対危険度ともいうことにする。

この方法は、観察対象と対照群の年令構成の差異や時間的要素を捨象した対比方法であり、対照群が観察対象と比べて似通つた年令構成等の集団である場合には適するが、一般人口等との対比の場合には、次の〈2〉〈3〉特に〈3〉の方法がより適切であるとされている。

〈2〉 甲集団における当該疾病による死亡率と乙集団におけるそれとを対比させる方法、すなわちC/Hを算出して差異を見る方法。このC/Hを死亡率による相対危険度ともいうことにする。

この場合、甲集団における粗死亡率をもつて乙集団の死亡率と対比する方法と甲集団につき訂正死亡率を算出して乙集団の死亡率と対比する方法の二つがあるが、前者の方法では、時間的要素を組み込んだ対比にはなるものの、甲乙両集団の年令構成の等条件化はなされない。後者の方法によれば、この双方の要請を充たすことができる。

〈3〉 甲集団における期待死亡数と観察死亡数とを対比させる方法。すなわちO/Eを算出して差異を見る方法。このO/Eを死亡数による相対危険度ともいうことにする。

この場合、乙集団全体に対する当該疾病の死亡率を甲集団全体にあてはめて期待死亡数を算出すると、甲乙両集団の年令構成の差異を捨象することになるので、乙集団の一定年令階層ごとの当該疾病による死亡率を甲集団の対応階層にあてはめて得られた各期待死亡数の総和(年令訂正期待死亡数)をもつて甲集団の期待死亡数とする方がより適切であるとされている。

この方法は、一般人口等一般性を有する大規模集団を対照群として設定する場合に適するとされている。

また、一般に標準化死亡比(SMR)とは、このO/Eの一〇〇倍の値をいう(O/Eの値そのものをもってSMRと呼ぶ例もある。)。

(2) マツクルとグレゴリウスの報告(米国、一九四八年)

クロム酸塩等製造作業者における最初の本格的疫学調査は、一九四八年マツクルとグレゴリウスによつて行われた。

彼らは、全米七つのクロム酸塩等製造工場の労働者(男子)一四四五名を観察対象とし、工場ごとに最長一九三〇年から一九四七年までの一七年間、最短一九四四年から一九四七年までの三年間観察して調査結果を報告した。

その報告内容は、次の三点にわたる。

〈1〉 七工場全体のクロム酸塩等製造作業者を観察対象とし、対照として生命保険加入労働者を選んだもの。

観察対象たる七工場全体の死亡総数は一九三、うち全がん死亡数六六、このうち呼吸器系のがん死亡数四二(総死亡の二一・八%、全がん死亡の六三・六%)、更にこのうち肺及び気管支のがん(以下(一)では「肺がん」という。)死亡数三九(総死亡の二〇・二%、全がん死亡の五九・一%)、口腔・鼻咽頭のがん死亡数三(総死亡の一・六%、全がん死亡の四・五%)であつた。

対照群中の死亡総数七三三、うち全がん死亡数一一五、このうち呼吸器系のがん死亡数一〇(総死亡の一・四%、全がん死亡の八・七%)であつた(呼吸器系のがん死亡の内訳は報告からは不明。)。

観察対象中の呼吸器系のがん死亡数の死亡総数に対する死亡比二一・八%と対照群における右死亡比(期待死亡比)一・四%とを対比すると、前者は後者の一五・五七倍(死亡比による相対危険度)に達し、大きな統計学的有意差(エクセスリスク、以下「有意差」ともいう。)が認められた(以上の関係は別表一〇のとおりである。)。

〈2〉 右七工場のうち雇用関係記録の保存が十分でなかつた一工場を除く六工場のクロム酸塩等製造作業者を観察対象(一一〇一九人・年)とし、対照として石油精製作業従事労働者を選んだもの。

観察対象たる六工場の死亡総数一五六、うち全がん死亡数四六、このうち呼吸器系のがん死亡数三二(総死亡の二〇・五%、全がん死亡の六九・六%)、更にこのうち肺がん死亡数二九(総死亡の一八・六%、全がん死亡の六三・〇%)、口腔・鼻咽頭のがん死亡数三(総死亡の一・九%、全がん死亡の六・五%)、肺がん死亡率(年一〇〇〇人当たり、粗死亡率)二・六三、口腔・鼻咽頭のがん死亡率(同)〇・二七である。

対比方法としては、別表一一のとおり、観察対象における各疾病による死亡率と対照群におけるそれとを対比させた。観察対象の肺がん死亡率二・六三は対照群のそれの〇・〇九に比し、二九・二倍(死亡率による相対危険度)で統計学上有意に高かつた。観察対象の口腔・鼻咽頭のがん死亡率〇・二七は対照群のそれの〇・〇五に比し五・四倍(死亡率による相対危険度)で、これも高いが、症例数が少なく有意差であるとは評価できないとされた。

〈3〉 右六工場のうち、更に作業者の年令区分の判明している四工場のクロム酸塩等製造作業者を観察対象(九八一九人・年)とし、右〈2〉と同一の対照を選んで年令階層別の各疾病の死亡率(粗死亡率)を対比したもの。その結果は別表一二のとおりである。

右表によれば、五〇歳以下の群における肺がん死亡率は対照のそれの三九・四倍(死亡率による相対危険度)、五一歳以上の群においては二一・八倍(同)で、五〇歳以下の若年側で比較的危険度が高かつたことが示されている。

また、マツクルらは、重クロム酸塩、クロム酸及び皮なめし用の塩基性硫酸クロムのみを取り扱つていたD2工場では、一八五三人・年の中に三三死亡例があつたが、呼吸器系のがんは一例もなかつたことから、モノクロム酸塩が呼吸器系のがん発生に関係するのではないかと考えた。

(3) マンクーソーらの報告(米国、一九五一年(一九四九年調査実施)、一九七五年)

イ マンクーソーは、一九四九年、マツクルとグレゴリウスが調査対象とした七工場のうちの一つであるオハイオ州のクロム酸塩等製造工場において、一九三一年から一九四九年までの一九年間に一年以上作業に従事した全労働者を観察対象として追跡調査し、その調査結果を一九五一年にヒユーパーとともに報告した。

右報告によれば、この集団(平均二一〇名)の一七年間の死亡総数は三三、うち全がん死亡数九、このうち呼吸器のがん(実際は全員肺がん)死亡数六(総死亡の一八・二%、全がん死亡の六六・七%)であつた。

対象として同工場が所在する郡(レイクカウンテイ)の一九三七年から一九四七年までの一般男子人口を選んだところ、対照群中の死亡総数は二九三一、うち全がん死亡数二九八、このうち呼吸器系のがん死亡数三四(総死亡の一・二%、全がん死亡の一一・四%)であつた。

観察対象中の肺がん死亡数の死亡総数に対する死亡比一八・二%と対照群における右死亡比一・二%とを対比すると、前者は後者の一五・二倍(死亡比による相対危険度)であつた。

また、マンクーソーらは、クロム鉱石粉じん、酸化クロムなどの不溶性三価クロム化合物は、肺に長く滞留するので、肺がんの原因物質になるのではないかと考えた。

ロ マンクーソー(一九七五年)は、その後もこの工場における追跡調査を続け、一九三一年から一九三七年までの間に雇い入れられたクロム酸塩等製造作業者三三二名からなるコーホートを一九七四年まで観察した結果、その死亡総数は一七三、うち全がん死亡数六六、このうち肺がん死亡数四一(総死亡の二三・七%、全がん死亡の六二・一%)であり、肺がん死亡比が極めて高かつたこと、右コーホートの中では、クロム化合物被暴量が大となるほど肺がん死亡率が高くなる傾向があつたことを報告した。

また、マンクーソーは、右報告の中で、可溶性六価クロム化合物だけではなく、不溶性の三価クロム化合物も肺がんの原因物質になり得るとしている。

なお、マンクーソーは、この調査の過程で、一六〇の死亡例の中に肺がん三八例、副鼻腔がん二例、鼻咽腔がん一例を見出したと報告しているが、対照群との比較結果等のデータは示されていない。

(4) ベイチヤーの報告(米国、一九五〇年)

ベイチヤーは、クロム酸塩等製造工場のあるボルチモア市の二つの病院の入院カルテを用いて、ケース・コントロール・スタデイの手法により、クロム被暴、吸入と肺がん発症との関連性を検討し、一九五〇年その研究結果を報告した。

右報告によれば、一九二六年から一九四六年の間に確認された肺がん患者群中に占めるクロム酸塩等製造作業者の割合と、外傷と精神疾患以外で一〇日間以上入院した患者から入院年と入院時年令を調整して無作為抽出した集団、あるいは一病院での胆石入院患者から同様に抽出した集団の中に占める右作業者の割合とを比較した結果、統計分析によれば、右作業者の占める割合は、対照群に比べ肺がん患者中で統計学上有意に高く、かつ、期待値よりも高かつた。

(5) 米国連邦公衆衛生局の報告(米国、一九五三年)

米国公衆衛生局(一九五三年)は、前記(2)の七つのクロム酸塩等製造工場の労働者(男子工)について、胸部エツクス線検査とその他の臨床的又は病理学的検査に基づく罹病調査を行い、また、一九四〇年から一九五〇年までの罹病と死亡に関する調査をした。

罹病調査では、男子工八九七名の中に肺がん一〇例(平均暴露期間二二・八年)を見出し(有病率一一一五/一〇万)、当時のボストンにおける胸部エツクス線検査による男子の肺がん有病率(二〇・八/一〇万)に比較して著しく高かつた。

死亡調査は、右労働者中疾病共済組合加入者(死亡者についてのみ退職後一年以内までの者を含む。)を観察対象として行われ、最長一一年間(一九四〇年から一九五〇年まで、二工場)、最短二年間(一九四九年から一九五〇年まで、一工場)の観察の結果、七八一八人・年の中で死亡総数は一一四、うち全がん死亡数四四、このうち呼吸器系(喉頭を除く。)のがん死亡数三二(総死亡の二八・一%、全がん死亡の七二・七%)、鼻腔及び咽頭のがん死亡数二(総死亡の一・八%、全がん死亡の四・五%)であり、呼吸器系のがん発生の大きな有意差(エクセスリスク)の存在を認めた。

また、右七工場のうち調査期間が最短の二年間であつた一工場を除く六工場の右観察対象者について、一九四〇年から一九四八年までの九年間を観察したところ、呼吸器系(喉頭を除く)のがん死亡数二六を認めたが、別表一三のとおり同期間における全米男子人口を対照とした呼吸器系のがんの年令訂正期待死亡数は〇・九であり、右観察死亡数はその二八・八九倍(死亡数による相対危険度)であり、大きな有意差を認めた。なお、同表が示すとおり、右観察対象の右疾病による死亡率(訂正死亡率)は四七〇・八であり、対照群のそれ(一六・七)と比べ、死亡率による相対危険度は二八・二倍である。

(6) テイラーの報告(米国、一八六六年)

テイラー(F. H. Taylor一九六六年)は、一九三七年当時米国のクロム酸塩等製造作業者の約七〇%を擁していた三つの企業の右作業者のうち、一八九〇年以降に生まれ、一九三七年から一九四〇年までの間に右作業に従事したことのある男子労働者一二一二名のコーホート(別表一四)について、一九三七年から一九六〇年までの二四年間にわたつて追跡調査を行つた。このコーホートにおける死亡総数は二六三、うち呼吸器のがん死亡数は七一であつた(別表一五)。

テイラーは、このコーホートにつき、死亡年代別に死因、観察死亡数、全米男子人口を対照として求めた年令訂正期待死亡数を明らかにし、別表一六のとおりまとめた。右表が示すとおり、このコーホートの右七一名の呼吸器のがん観察死亡数は、期待死亡数八・三四四の八・五〇九倍(死亡数による相対危険度)であり、SMRは八五〇・九で大きな有意差(エクセスリスク)の存在を認めた。同表によれば、例えば、一九四一年から一九四五年の間のコーホートの呼吸器のがん観察死亡数は一六であるが、これは期待死亡数〇・八五八の一八・六四八倍(死亡数による相対危険度)であり、SMR一八六四・八と極めて大きな有意差があることになる。

また、テイラーは、右のコーホートについて、作業者の累計作業年数別、年令別、死因別年間死亡率(年一〇万人当たり、訂正死亡率)を算出し、これと米国一般市民男子(対照)の年令別、死因別年間死亡率とを対比させた。別表一七はテイラーの作成した右対比表の数値を示し、かつ、括弧内に死因別の死亡率による相対危険度(当該死亡率/対照の死亡率)を記入したものである。これによれば、例えば、平均年令五二・五歳の右作業者の呼吸器のがん死亡率は、右作業従事年数が四ないし九年の者では対照(全米男子五二・五歳)の一・九倍(死亡率による相対危険度)であるのが、右作業従事年数が一九ないし二四年の者では対照の七三・二倍(同)になることが認められる。

(7) エンターラインによるテイラー報告の再検討(米国、一九七四年)

エンターライン(P. E. Enterline一九七四年)は、右(6)のテイラーの調査結果を再検討し、テイラーの調査結果のうち一九四一年から一九六〇年までのものを計算し直して(コーホートの構成員は一二〇〇名の男子工)、別表一八のとおり報告した。この報告によれば、テイラーのコーホートのうち右期間の呼吸器のがん死亡数は六九(上顎洞がん二を含む。)であり、期待死亡数七・三(切り捨てた端数あり)の九・四二六倍(死亡数による相対危険度)でありSMRは九四二・六で、テイラーの報告と同様大きな有意差(エクセスリスク)が存在することが認められた。

別表一八が示すとおり、一九四一年から一九六〇年までの間、このコーホートの年令が高令化しているのに呼吸器のがんの観察死亡数はほぼ一定であつて、そのSMRは二九〇九・一から四七四・七へと著しく減少している。この点についてエンターラインは、コーホート設定直後の時期にSMRが大きいことに注目し、その理由としてコーホートの観察開始後にコーホート観察開始前の長期間の被暴の結果が現われたのか、初期のクロム酸塩等製造工場において発がん力の大きな物質に被暴したためか、あるいはその双方の影響があつたからであろうと考えたが、SMRの大きな集団(マツクルらやマンクーソーの観察対象)では潜伏期間は短かく、SMRの小さな集団(ビドストラツプの観察対象)ではそれが長いことから、テイラーのコーホートは前者に属し、観察対象が発がん力の大きな物質に被暴したためであろうとした。

(8) ヒル、ヘイズらの報告(米国、一九七五年、一九七九年)

イ ヒル(W. J. Hill)はNIOSH(米国国立職業安全衛生研究所)に対する報告(一九七五年)の中で、ボルチモア市のクロム酸塩等製造工場において一九三二年以来一〇五例の肺がんが発生したことを明らかにした上、次のとおり報告した。

すなわち、ヒルは、製造工程が変更されたことによる環境改善の効果をみるために、右工場の労働者を観察対象として、一九三二年ないし一九四一年、一九四二年ないし一九五一年、一九五二年ないし一九六一年、一九六二年ないし一九七三年の各一〇年ごとの四群に分けて観察した。その結果、各群に対応する対照人口の死亡率から求めた肺がんの年令訂正期待死亡数と観察死亡数との対比によるSMRは、前の群から順に六八〇、四八〇、一六〇となり、いずれも統計学的有意差であると認められた。最後の群に関してヒルは、一九六一年に製造工程を変更した翌年の一九六二年以降採用された労働者の右観察死亡数が期待死亡数を大きく上回る危険はないと考えるが、統計的に明確な結論を下すにはなお一〇年間の観察が必要であると述べている。

ロ 一方ヘイズら(R. Hayes一九七九年)は、この工場の一九四五年から一九七四年の間に初めて雇用され、少なくとも九〇日間以上勤務した労働者(男子工)二一〇一名を観察対象として死因、死亡数等を分析した。その結果、右観察対象中の気管・気管支及び肺のがんの観察死亡数は五九であり、これは年令、皮膚の色等によつて標準化したボルチモア市の男子(対照)の右疾病による死亡率に基づく年令訂正期待死亡数二九・一六の二・〇二倍(死亡数による相対危険度)であり、有意差を認めた(他の疾病については観察死亡数に有意差はなかつたとする。)。

ただ、この相対危険度の値については、この工場が一九五〇年前と一九六一年の二回にわたつて設備を改善したことを考慮に入れる必要があるところ、この点に関し、ヘイズは、最初の改善後の一九五〇年から一九五九年の間に初めて雇用された者のうち暴露期間が三年以上の群では呼吸器のがん死亡の死亡数による相対危険度は四・〇倍(前記対照と対比)であり、最初の改善によつては呼吸器のがん死亡の超過危険(エクセスリスク)は排除されなかつたとしている。

なお、ヘイズらの右報告では、暴露期間が三か月ないし二年間の群でも、二七ないし三二年間の追跡調査をすれば、呼吸器のがん観察死亡数は期待死亡数より統計学上有意に大きく(前記相対危険度一・八倍)、同じ時期に、暴露期間三年以上の群では有意差は一層大きかつた(前記相対危険度三・〇倍)としている。

(9) ビドストラツプとケイスの報告(イギリス、一九五一年)

イギリスでは、ビドストラツプ(一九五一年)が三つのクロム酸塩等製造工場の労働者七二四名に対する面接調査、胸部エツクス線検査を行い、肺がん症例一例を発見したが、クロム被暴、吸入との関係を十分に確認することができなかつた。

そこで、ビドストラツプとケイスは、右調査完了時である一九四九年一一月一日現在生存していた残り七二三名の労働者(男子工)をコーホートとして右時点から一九五五年八月三一日までの五年一〇か月間追跡調査した。

その結果、観察期間中二一七名が途中で転職し、転職後は追跡不能に終わつたものの、残余の観察対象(定年退職者を含む。)中死亡総数は五九、うち全がん死亡数二一、このうち肺がん死亡数一二(総死亡の二〇・三%、全がん死亡の五七・一%)であつた。対照としたイングランドとウエールズの男子人口の死亡率から求めた(右中途転職者についても転職前のデータは考慮に入れた。)肺がん死亡の年令訂正期待死亡数は三・三であり、右観察死亡数一二はそれの三・六四倍(死亡数による相対危険度)でSMRは三六四であり、有意差が認められた。右肺がん死亡一二例のがんの潜伏期間は平均二一年であつた。その他の部位のがんによる期待死亡数は七・九であり、観察死亡数九と対比するとSMRは一一四であつた。右調査結果は別表一九、二〇のとおりであり、年令階層別に見ると五五歳未満者の若年側で肺がん死亡の危険度が比較的高かつたことが示されている。

なお、ビドストラツプらは、この三工場の労働者には、右一二例のほかに統計分析から除外された三例の肺がん発生があつたとしている。

(10) アルダーソンらの報告(イギリス、一九八一年)

アルダーソン(M. R. Alderson)らは、右(9)の三つのクロム酸塩等製造工場で一九四八年から一九七七年までの間に少なくとも一年以上勤務した労働者二七一五名をコーホートとして追跡調査した(うち二九八名は追跡不能になつた。)。

その結果、コーホート中の肺がん死亡数は一一六、鼻のがん死亡数は二であつた。右各観察死亡数の期待死亡数との対比における(死亡数による)相対危険度(O/E)は、肺がんで二・四倍、鼻のがんで七・一倍であつた。このうち肺がんの相対危険度は、統計学上有意に高いと認められた。

(11) 渡部真也らの報告(昭和四九年以降)

イ 我が国では北大医学部第一内科助教授(当時)の大崎饒らが昭和四七年秋ころ栗山工場のクロム酸塩等製造作業従事経験者の中に肺がんが続出しているのではないかという情報を得て、昭和四七年末ころから地元保健所と協力するなどして鋭意肺がんの症例の調査、確認作業を進め、大崎らの診断によつても右肺がんの相対的多発が裏づけられるに至つたが、同じころ、同大学公衆衛生学教室助教授(当時)の渡部真也らも、大崎の右診断結果などに触発されて右作業従事経験者についての疫学調査を開始し、昭和四八年六月二一日その調査結果の速報(中間報告)を労働省に提出するとともに、更に本格的な調査を進め、今日まで四次にわたり疫学調査報告をしている。

ロ 渡部らは、まず、栗山工場の元従業員や元下請従業員の名簿等を基にして、クロム酸塩等製造作業従事歴、死亡の有無、死因等を調査し、従事歴七、八年以上の者の大部分を把握したところ、このうちの肺がん死亡者で最初の例は昭和三五年一月に死亡し、最短従事歴は九年四か月であつたので、昭和三五年一月一日から昭和四八年一二月三一日までの一四年間を観察期間とし、昭和三五年一月一日現在の右作業従事歴九年以上の生存者及び観察期間中に従事歴が九年以上になる者(いずれも男子労働者)一三六名を観察対象として調査した。

その結果、観察対象の一五四九人・年の中に肺がん死亡五例を認めたが、その死亡率(訂正死亡率)は一六七八・九八(年一〇万人当たり)であつた。

一方、対照とした昭和三五年から昭和四六年(昭和四八年までのデータが未発表のためこうなつた。)の全国二〇歳ないし七九歳男子人口における気管・気管支・肺のがんによる死亡率は一八・二(前同)であり、これから割り出される右観察対象の年令訂正期待死亡数は〇・三三であつた。

したがつて、右観察対象の肺がん死亡の死亡率(訂正死亡率)による相対危険度は九二・二五倍、観察死亡数と期待死亡数との対比による相対危険度(O/E)は一五・一五倍であり、有意差が認められた(第一次報告)。

ハ 次に、渡部ら(昭和五三年)は、調査対象を広げて、栗山工場の前記作業従事歴五年以上の労働者(二七九一人・年)を観察対象にして、昭和三五年から昭和四九年までの一五年間観察し、別表二一のような結果を得た(第三次報告)。同表が示すように、呼吸器のがん死亡については年令訂正期待死亡数〇・五六に対して観察死亡数一二で、死亡数による相対危険度(O/E)は二一・三六倍となり明らかに大きな有意差が認められた。

なお、本件において被告らがクロム被暴、吸入とその死亡との個別的因果関係を争つている四死亡者のうち三名(死亡者小坂、同大渕、同松浦)も右渡部らのコーホートに入つていると認められる(死亡者山田については判然としない。)ので、仮にこれを観察死亡数から除外すると、右相対危険度は一六・〇七倍となるが、依然として高い値である。

ニ 更に、渡部ら(昭和五九年)は、より観察対象を広げて、第四次の疫学調査結果を報告した。

この調査では、昭和二二年から昭和四八年(クロム酸塩等製造廃止時)までの間に栗山工場で五年以上のクロム暴露歴がある労働者を暴露が五年を超えた時点から観察対象として、昭和三五年から昭和五七年まで観察した。対象数は二七三名である。

右コーホートの死因別死亡状況は別表二二のとおりであるが、観察期間中の二三年間における死亡総数は五九、うち全がん死亡数三三、このうち呼吸器のがん死亡数二七(総死亡の四五・七%、全がん死亡の八一・八%、なお、膵臓原発も疑われる肺がん例を膵臓がんとすれば二六であるとする。)、更にその内訳は肺がん二五(右と同じ仮定の下では二四)、鼻腔・副鼻腔がん一、喉頭がん一であつた。

対照として、同期間の全国男子人口を利用し、その死因別年令階級別死亡率から求めた観察対象における年令訂正期待死亡数は、呼吸器のがん一・五九、肺がん一・三六、鼻腔・副鼻腔がん、喉頭がん各〇・〇九である。

したがつて、観察死亡数と期待死亡数との対比による相対危険度は、呼吸器のがん全体で一六・九九倍(観察数を二六とすれば一六・三六倍)、肺がんでは一八・三二倍(観察数を二四とすれば一七・五八倍)で統計学上有意に高く、鼻腔・副鼻腔がん、喉頭がんでは、いずれも一〇・八四倍となり、これらも危険度は大きいが、症例数が少なく、統計学的有意差とはいえない(P値は〇・〇八六)。

なお、前記ハ同様、前記三死亡者もこのコーホートに含まれているので、仮にこれを観察死亡数から除外すると、呼吸器のがん死亡数は二四となり、死亡数による相対危険度は一五・〇九倍となるが、依然として高い値である。

また、渡部らは、右コーホートにおける肺がん死亡・発病の年次推移を別表二三のとおり示している。

ホ ところで、渡部らは、従前になされたクロム肺がんの疫学調査について、クロム酸塩等製造作業者の死因構造の比較と右作業者の肺がん死亡の相対危険度とを別表二四、二五のとおりまとめている(この点は当事者間に争いがない。)が、右両表、特に別表二五はやや不正確な部分もあるので、渡部らの報告するところなどに従つて、右別表二五を修正すれば別表二六のとおりとなる(なお、渡部らの疫学調査結果については右ニの第四次調査結果に置き換えた。)。

(12) 大崎饒らの報告(昭和四九年等)

大崎饒らは、前記(11)イのとおり、昭和四七年末から栗山工場のクロム酸塩等製造作業者における肺がん症例の調査作業を進め、昭和四八年中に自験例五例を含め一〇例の肺がん症例を確認した。

大崎らは、その後も更に右調査を進め、昭和五五年までに三〇三名の右作業者を観察対象として調査した。その結果右一〇例を含め二四例の肺がん症例(生存例を含む。)を確認し、これに基づいて詳細な臨床的研究を行つた。

その報告の中で、大崎らは、右症例を基にすれば、右製造作業者中の肺がんの発生率は年一〇万人当たり三七七・一(人)であり、我が国の全人口における昭和五二年の肺がんの平均発生率同一五・二やクロム肺がん群(観察対象)の平均発症年令に相当する五〇ないし五四歳の我が国の男性肺がん発生率同二三・五と比較して、著しく高率であるとしている。

(13) 以上、クロム酸塩等製造作業者における肺がん、上気道のがん発症に関する内外の疫学調査結果の報告内容につき認定説示した。

専門家会議も指摘するとおり、職業的要因による発がんの有無を明らかにするには疫学的研究を重視すべきであり、本件においても、右疫学調査結果は、右製造工程におけるクロム被暴、吸入と肺がん、上気道のがん発症との因果関係の存否を判断する重要な基礎資料になるが、右の判断に当たつては、更に、クロムによる肺がん等発症までの暴露・潜伏期間(量―反応関係)、喫煙による影響の有無、クロム化合物の発がん性に関する実験的研究結果、原因物質の特定の有無・程度をも検討しておくことが必要である。

そこで、以下、まず、右の各点について順次検討を加えた後、その検討結果と併せて、右疫学調査結果の意義等につき考察し、右因果関係の存否を判断することにする。

(二) クロムによる肺がん等発症までの暴露、潜伏期間

請求原因第四章第三の二5は、いずれも原告ら主張の報告の存在自体については当事者間に争いがないところ、右争いのない事実及び前記6の各証拠によれば、次のとおり認められる。

(1) クロムによる肺がん、上気道のがん発生における量―反応関係については、他の職業がんの場合と同様、現時点では正確なことは判明していない(量―反応関係というのは、要因xに被暴する量が多くなるほど結果yの発現率が高くなる関係というところ、厳密には、xの増加に従つてyが一次関数的(正比例的)な増加をすることが理想型であるとはされていないが、一般にはxの増量に従つてyも増量することを量―反応関係と呼んでいる。)。

産業医学においては、一般にここでいう「量」とは被暴量すなわち濃度×時間を意味するが、長期間にわたる正確な作業環境測定がなされていないこと、作業環境のクロム濃度は産業技術の変遷によつても著しく変化し、また、被暴量には時間的変動、作業条件による変動があることなどから、クロム酸塩等製造作業者についても、その作業環境における被暴量に関する正確な情報がほとんど得られないことがその大きな理由である。

そこで、前記(一)に掲げた各疫学的調査を行つた研究者のほとんどは、少しでも正確な被暴量の測定を行おうと努力する一方で、右の意味での具体的で定量的な被暴量の代わりに、これもそれ自体としては定量的なクロム暴露期間や潜伏期間をもつて、クロムによる肺をはじめとする呼吸器のがん発症の量―反応関係の検討をしてきた。すなわち、暴露期間をもつて被暴量を代表させたり、肺がん等の原因となるクロム化合物は体内に相当長期間滞留し、発がん作用を及ぼしている可能性が高いと考え、クロムの作用期間を考慮する場合にはクロムに最初に被暴してから発症するまでの経過期間すなわち潜伏期間が参考になるとして、これらの点について精力的な研究調査がなされてきたのである。

そうして、多くの研究者は、クロムによる肺がん等の発症の危険度は、暴露期間によつて左右されることが多いという結論に達しているのが実情である。

以下、これらの点に関する主要な研究調査結果をみることにする。

(2) 渡部真也らは、クロム酸塩等製造作業者におけるクロム肺がん症例のクロム暴露期間とがんの潜伏期間に関して、内外の疫学調査結果から別表二七のとおりまとめている。

また、検討結果報告書では、内外の疫学調査にみられるクロム肺がんの潜伏期間に関する主要な報告を別表二八のとおりまとめている。

(3) ベイチヤー(一九五〇年)は、ドイツのクロム酸塩等製造工場における肺がん三九症例、米国の同工場における肺がん四九症例、ドイツのクロム色素製造工場における肺がん一〇症例、計九八症例について、クロムへの暴露期間(作業従事期間)別肺がん発生数を別表二九のとおりまとめている。なお、右症例の中での最短暴露期間は四年であつた。

(4) マンクーソーとヒユーバー(一九五一年)は、マンクーソーの調査した前記(一)(3)イのオハイオ州の一工場での一九三八年から一九五〇年の間の肺がん死亡例七例につき、別表三〇のとおり暴露・潜伏期間を明らかにした上、その推定被暴量(暴露量)を計算した。

また、マンクーソー(一九七五年)は、前記(一)(3)ロのとおり、右工場の作業者三三二名からなるコーホートの長期追跡調査の結果、肺がん死亡比は三三・七%の高率に達し、このコーホートの中では、二六年ないし三六年の長い潜伏期間後に肺がんが多発していること、クロム化合物被暴量が大となるほど肺がん死亡率が高くなる傾向があつたことを報告した。

(5) テイラーが報告した別表一七の作業者の累計作業年数(暴露期間)別、年令別、死因別年間死亡率によれば、一般にクロム暴露期間が長いほど呼吸器のがんによる死亡率が高まることが窺われる。

なお、検討結果報告書は別表一七に加えてテイラーから得た資料を基にして同一のコーホートにおける五〇歳ないし五四歳の男子労働者に関する部分につき別表三一のとおりまとめているが、これによれば、右の暴露期間と死亡率上昇との関係が歴然としている。

(6) NIOSH(一九七五年)は、前記(一)(8)イのヒルの報告を引用して、ボルチモア市のクロム酸塩等製造工場の労働者を一九三二年以降一〇年ごとに四群に分けて、観察死亡数と期待死亡数とを対比すると、前の群からSMRは六八〇、四八〇、一六〇となつており、最後の群(一九六二―一九七三年)については観察期間が十分ではないから結論は下せないとしつつも、このようなSMRの低下は、作業環境の改善が進み、労働者のクロム被暴量が低下したこともその一因であるとしている。

(7) ヘイズら(一九七九年)は、前記(一)(8)ロのとおり、暴露期間が三か月ないし二年間の群でも、二七ないし三二年間の追跡調査をすれば呼吸器系がん観察死亡数は期待死亡数より統計学上有意に大きく(SMR一八〇)、同じ時期に暴露期間三年以上の群では有意差(エクセスリスク)は一層大きかつた(SMR三〇〇)と報告している。

(8) ビドストラツプとケイス(一九五六年)は、前記(一)(9)の疫学調査によれば、観察対象中の肺がん死亡の平均潜伏期間は二一年であり、うち、二例では一〇年以上、二例では三〇年以上であることを報告しているが、正確な平均潜伏期間を算出するには症例数が少ないとしている。

(9) 渡部真也ら(昭和五九年)は、前記(一)(11)ニの栗山工場のクロム酸塩等製造作業者に対する第四次疫学調査報告の中で、右作業者中の肺がん、鼻腔・副鼻腔がん、喉頭がん発生数計三四例につき潜伏期間を明らかにし、別表三二のとおりまとめている。これによれば、潜伏期間二五ないし二九年での肺がん等発生が多いことが示されている。

(10) 要約

イ 以上のとおり、クロム暴露期間等と肺がん発症との相関関係については、全体的な観察の面では相当程度把握されている。

前記(1)のとおり、これらの研究は、いずれも累積総被暴量を暴露期間若しくはクロム被暴作業従事期間又は一時点での断面調査における環境濃度(マンクーソーとヒユーバー(一九五一年)の報告)で代表させたものであるから、厳密な定義上の量―反応関係における被暴量が測定されているとはいえないが、これを推定する手がかりにはなり得るものである。

ロ そうして、前記各報告を総合すれば、クロム酸塩等製造作業におけるクロム暴露期間(クロム被暴作業従事期間)と肺がん又は呼吸器のがん発症との間に一定の関数的関係をもつて量―反応関係を描き出すまでには至つていないものの、環境中のクロム濃度が高いほど、また、作業環境の大幅な改善が間に入らない限り、右従事期間が長く暴露期間が長いほど肺がん又は呼吸器のがんの発生の危険度が高まるという傾向があるといえる。

ハ また、クロム酸塩等製造作業者において発症した肺がんについて、クロム被暴開始後発症までの期間(潜伏期間)をみると、四、五年から四〇年を超える期間まで相当の開きがあるが、平均的にみれば、一五年ないし二五年程度の長期間経過後発症することが多いことになる。

(三) 喫煙による影響について

(1) 被告会社は、クロム酸塩等製造作業者における肺がん発症に関しても喫煙の影響を無視できず、原告ら主張の各疫学調査はこの点を考慮していないので不完全である旨主張する(第三編第二章第二の三1(一)(2)ハ)(前記二3(二)(3)の〈6〉の点)ので、この点についても検討する。

なお、「前記各疫学調査が喫煙による肺がん発症を考慮に入れていない」ということをもつて、右調査結果のクロム肺がんに係る因果関係認定資料としての証拠価値を減殺しようとするならば、本来、証明の程度まで至らなくてもよいが、他の証拠価値の減殺に必要な限度では、なぜ喫煙による肺がん発症を考慮に入れなければならないのかが「喫煙による肺がん」の面から示されていなければならず、世上、一般に喫煙が肺がんの原因となるのではないかといわれていることは公知の事実であるものの、このことのみをもつて、すぐさま、自然科学的事象に関する科学的調査のレベルでなされた一定の報告中の推論の過程の当否を論ずる根拠にすることは難しいはずである。しかし、被告会社は右の点に関し、自ら何の証拠も提供しておらず、以下の各報告例等は、いずれも疫学調査などによつて「クロムによる肺がん」を検討する際に、当該研究者自らが「喫煙による影響を考慮しなければならない」とした上で、その点に関する分析結果等を明らかにしたものである。

(2) <証拠略>によれば、次のとおり認められる。

ビドストラツプとケイスは、前記(一)(9)の疫学調査報告の中で、肺がんの発生に影響することが確立されている他の非職業的因子として、居住地、社会的階層、喫煙の習慣を挙げ、観察対象たるクロム酸塩等製造作業者の肺がん発症に対するこれらの因子の寄与度に関し、前二者は極くわずかか、全くないかであるとした上、喫煙習慣については、次のとおり述べている。すなわち、たとえ、クロム酸塩等製造労働者の喫煙習慣が一般人口集団に属する人とは異なつていて、観察対象者全員が重喫煙者(ヘービースモーカー)の範ちゆうに入つているとしても、その場合に期待される肺がんの増加では、観察対象群の中で実際に観察された肺がんの増加(SMR三六四)を説明することができない。また、実際には、右観察対象の喫煙の習慣が一般人口集団に属する人々と異なつていると信ずるに足りる根拠はない、と報告している。

(3) <証拠略>によれば、ヒユーバー(一九六六年)は、その著書の中で、米国公衆衛生局の疫学調査結果によれば、クロム酸塩等製造作業者における肺がん発症について喫煙の習慣が大きな影響を与えていないとすべきであるとし、ビドストラツプらの右(2)の分析は正しいと述べていることが認められる。

(4) <証拠略>によれば、ランゴルドとノルセスは、その著書の中で、クロム酸塩肺がんの最高発生は五〇歳から五二歳の年令であつて、非常な愛煙家による肺がんの最高発生年令より約五年早い、と述べていることが認められる。

(5) <証拠略>によれば次のとおり認められる。

渡部真也ら(昭和五九年)は、前記(一)(11)ニの栗山工場のクロム酸塩等製造作業者に対する第四次疫学調査の中で、肺がん等による死亡者の喫煙習慣も調査し、右死亡者を非喫煙者とその他(おそらく喫煙者と喫煙習慣の有無不明者の双方を含むものであろう。)との二グループに分け、各別に、その観察死亡数を、対照とした全国男子の死因別年令階級別死亡率から求めた期待死亡数と対比させた。その結果、別表三三のように非喫煙者グループの方が死亡数による相対危険度(O/E)が高かつた。

そこで、渡部らは「この疫学調査では、クロムの暴露を受けた労働者の肺がん等発症に対する喫煙の影響は認められなかつた。これは、この集団(観察対象)に対する職業的発がん要因の作用が喫煙の発がん作用よりはるかに大きかつたためであろう。」と総括している。

(6) <証拠略>によれば次のとおり認められる。

イ 大崎饒らは、前記(一)(12)の調査研究の中で、栗山工場のクロム酸塩等製造作業者中の肺がん症例における喫煙状況を調べ、二四例中、非喫煙者四名、喫煙指数(一日の喫煙本数×喫煙年数)三九九以下の軽喫煙者二名、同指数四〇〇以上の重喫煙者一七名、不明一名であることを明らかにした。

ロ 次に、昭和四四年から昭和五三年までの間に北大医学部第一内科(大崎らの属していた科)に入院した患者のうち組織学的に肺がんと確定診断された者二〇二名を対照群とし、これを、〈1〉非喫煙者群(四六名)、〈2〉軽喫煙者群(二六名)、〈3〉重喫煙者群(一三〇名)の三群に分類した上、様々な角度から右イの二四症例と対比した。なお右イの二四症例の平均喫煙指数は五五四(プラスマイナス三七八の広がりあり。)であり、対照群の〈2〉と〈3〉の中間の値であつた。

ハ 右の対比の結果は以下のとおりである。

(イ) (肺がんの発症年令)観察対象群(右二四症例)の平均発症年令五二・三歳、対象の〈1〉の五八・二歳、〈2〉の五九・六歳、〈3〉の六二・一歳に比べて有意に低い。

(ロ) (肺がんの発生率)前記(一)(12)のとおり大崎らが調査した三〇三名の作業者における肺がんの発生率は三七七・一人(年一〇万人当たり)、我が国全人口における昭和五二年の肺がん平均発生率の二四・八倍であるが、これは我が国の重喫煙者肺がんの発生率(非喫煙者の五・八倍)と比べても非常に高い。

(ハ) (肺がんの組織型)観察対象群では扁平上皮がん(七二・七%)と小細胞がん(二二・七%)が主体で腺がんは一例のみであるが、対照の三群では腺がんが高率(〈1〉六三%、〈2〉五四%、〈3〉三二%)であるのと比べ極めて対照的である。

(ニ) (肺がんの発生部位)観察対象群では肺野型は一例のみで、残りはすべて肺門型であるが、対照群では肺野型が多い(〈1〉七一・七%、〈2〉・〈3〉五三・八%)

ニ 右ハの調査結果を前提にして、大崎らは次のように総括している。

発症率に関して、クロム化合物の発がん性は、喫煙による影響に比べても非常に大きい。また、観察対象群では、対照の非喫煙者群、軽喫煙者群、重喫煙者群に比べて、発症年令、組織型、発生部位などの点で明らかに異なつた形式を示している。クロム酸塩等製造作業者における肺がんの多発に及ぼす影響は、あつても極めてわずかであると思われる。

(7) 要約

以上認定したように、これまで行われたクロム酸塩等製造作業者における肺がん発症に関する各種疫学調査の中には、肺がん発症に対する喫煙の影響をも問題にして、この点に論及したものもあるところ、右各報告例、殊に大崎らの報告例によれば、右作業者における肺がんの発症に係る因果関係を考えるに際しては、喫煙の要因は、クロム被暴、吸入に比較すれば無視できるほどに小さいと認められる。

したがつて、前記(一)の各疫学調査結果の中に右作業者の肺がん発症に対する喫煙の影響に論及していないものがあつても、それだけをもつてその証拠価値が低いとすることはできず、更にいえば、肺がん発症に対する喫煙の影響は、クロム被暴、吸入と肺がん発症との因果関係の存否の判断をする際に、前記(一)の各疫学調査結果等から右因果関係の存在を推認することの妨げとなる要素にはなり得ないと解される(被告会社が指摘する前記二3(二)(3)の〈6〉の点も失当である。)。

9 クロム化合物の発がん性に関する実験的研究

(一) クロム化合物の変異原性試験

クロム化合物について、微生物等を用いた変異原性試験が行われており、水溶性(多くは易溶性)の六価クロム化合物のうちクロム酸カリウム、重クロム酸カリウム、クロム酸カルシウム、クロム酸ソーダ、重クロム酸ソーダ、無水クロム酸は、DNA損傷修復試験、微生物突然変異原性試験、哺乳動物の培養細胞による試験の結果いずれも陽性を示すとの報告がなされていることは当事者間に争いがないところ、更に、<証拠略>によれば、これまでに行われた各種クロム化合物についての変異原性試験の結果は別表三四に一覧表として示すとおりであること、六価クロム化合物には強い変異原性が認められる物質が多い一方、三価クロム化合物では、試験の対象とされた塩化クロム、硝酸クロム、三・二酸化クロム(酸化クロム)、、クロムミヨウバンなどが微生物による試験、哺乳動物細胞による試験で陰性であり、一般に変異原性が認められていないこと、ただし、酢酸クロムなど一部の三価クロム化合物が高濃度の下で変異原性を示したとする試験結果があることが認められる。

(二) クロム化合物による発がん実験

請求原因第四章第三の二6(一)、(二)は、原告らと被告国との間で争いがなく、原告らと被告会社との間で原告ら主張の報告の存在自体については争いがないところ、右争いのない事実及び<証拠略>によれば、これまでに行われた各種動物実験結果は別表三五に一覧表として示すとおりであると認められるが、主要な点を摘示すると以下のとおりである。

(1) 可溶性又は易溶性六価クロム化合物

イ 無水クロム酸(三酸化クロム)、焼結三酸化クロム、クロム酸カルシウム、焼結クロム酸カルシウム、クロム酸カリウム、重クロム酸カリウム、クロム酸ソーダ、重クロム酸ソーダの八種類の化合物が被検物質として用いられている。

ロ 無水クロム酸については、ラスキンら(一九七〇年)、吉村博之ら(昭和五五年)、竹村和夫ら(昭和五六年)、安達修一ら(昭和五七年)がそれぞれ検討、報告している。

ラスキンらはラツトの気管内移植による局所の腫瘍発生を認めなかつた。しかし、マウスのクロム酸ミストの間欠吸入暴露で、吉村らは腺がんの発生を、安達らは鼻腔内乳頭腫、肺腺腫の発生を認めた。

ハ 焼結三酸化クロムについては、ヒユーバーとベイン(一九五九年)が、ラツトの筋肉内移植により局所の肉腫の発生を認めた。

ニ クロム酸カルシウム、焼結クロム酸カルシウムについては、ヒユーバーとベイン(一九五九年)、ベイン(一九六〇年)、ヒユーバー(一九六一年)、ラスキンら(一九七〇年)、ネツテスハイム(P. Nettesheim)ら(一九七一年)等数多くの報告がなされ、マウス等の筋肉内移植注射、胸膜内移植、気管内移植などにより、投与部位での腫瘍発生を認めた。

ホ クロム酸カリウム、重クロム酸カリウム、クロム酸ソーダ、重クロム酸ソーダについては、ヒユーバー(一九六一年)が重クロム酸ソーダのラツトの胸膜内注射で三九例中一例に肺の腺がんの発生をみただけで、ほかに腫瘍発生を認めた報告はない。

(2) 難溶性又は不溶性六価クロム化合物

イ ジンクイエロー、クロム酸カリウム亜鉛、クロム酸鉛、クロム酸鉛酸化物、クロム酸バリウム、クロム酸ストロンチウムの六種類の化合物が被検物質として用いられている。

ロ ジンクイエローについては、ヒユーバー(一九六一年)がラツトの筋肉内移植、胸膜内移植により、ステフイーとベイチヤー(一九六五年)がマウスの気管内注射により、局所の腫瘍等の発生を認めた。

ハ クロム酸カリウム亜鉛については、レヴイとヴエニツト(一九七五年)が、ラツトの気管内移植により気管支に扁平上皮がんの発生を認めた。

ニ クロム酸鉛については、ヒユーバーがラツトの筋肉内移植等により局所に腫瘍の発生を、マルトーニ(一九七六年)がラツトの皮下注射により局所に肉腫の発生を認めた。

ホ クロム酸鉛酸化物については、マルトーニ(一九七六年)が右ニと同様の方法で局所に肉腫の発生を認めた。

ヘ クロム酸バリウムについては、ヒユーバーとベイン(一九五九年)が、ラツトの胸膜内移植三一例中一例に局所の発がんを認めた。

ト クロム酸ストロンチウムについては、ヒユーバー(一九六一年)が、ラツトの筋肉内移植により局所に腫瘍の発生を認めた。

(3) 三価クロム化合物

酸化クロムについて、ラツトの気管内投与や腹腔内投与による肺の肉腫の発生などを認めたとする報告があるが、腫瘍の発生を否定する報告もある。また、硫酸クロムや酢酸クロムによる動物実験で肺腺腫等の発生をみたとする報告もあるが、少数例にとどまつている。

(4) クロム鉱石、焼成クロム鉱(クリンカー)

イ クロム鉱石(三価クロム化合物含有)については、ヒユーバー(一九五五年)がラツトの胸膜内注射により肉腫の発生を認めたが、腫瘍の発生をみなかつたとする報告の方が多い。

ロ 焼成クロム鉱(クリンカー)はクロム酸ソーダ等易溶性六価クロム化合物を主成分とするが、ベイン(一九六〇年)は、マウスの胸膜内移植により腫瘍の発生を認めた。また、ヒユーバー(一九五八年、一九六一年)は、ラツトの筋肉内移植、胸膜内移植で腫瘍の発生を、胸膜内移植で扁平上皮がんの発生を認めた。

(5) 要約

以上の各実験結果によれば、投与部位でのがん原性が明らかに認められているのは、クロム酸カルシウム、焼結クロム酸カルシウム、クロム酸カリウム亜鉛、ジンクイエロー、クロム酸鉛の五種類の化合物であり、これらはすべて六価クロム化合物であつて、クロム酸カルシウム(二〇度で溶解度一六・三%)以外はすべて難溶性又は不溶性の物質である。

また、投与部位でのがん原性が疑われる化合物としては、無水クロム酸、焼結三酸化クロム、クロム酸鉛酸化物、クロム酸ストロンチウム、焼成クロム鉱(クリンカー)があり、このうち、無水クロム酸、焼結三酸化クロムは可(易)溶性の、クロム酸鉛酸化物、クロム酸ストロンチウムは難溶性の六価クロム化合物であり、焼成クロム鉱は易溶性六価クロム化合物を主成分とする。

三価クロム化合物である酸化クロム、硫酸クロム、酢酸クロムのがん原性は、動物実験によつては必ずしも肯定されていないと評価される。

次に、右のようにがん原性が認められ、あるいはその疑いのある物質に関する動物実験結果は、すべて、投与部位における発がん等が認められたとするものであり、これらの物質の投与部位以外の遠隔臓器における発がんを示唆する報告はない。三価クロム化合物である酸化クロムについてのみ、前記(3)のとおり遠隔臓器における発がんを認めた報告があるものの、他の実験結果によれば、酸化クロムのがん原性自体が必ずしも肯定されているわけではない。

(三) 実験的研究の評価について

被告会社は、右(一)、(二)のとおり原告ら主張の右各実験結果の報告があること自体は争わず、これらの実験結果は、人間のクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係の存在を示す基礎事実とはなり得ないなどとして、その評価を争つている(第二編第四章第一節第三の二6・7、第三編第二章第二の三1(一)(2)ロ)(前記二3(二)(3)の〈7〉の点)。この点に関しても、被告会社は、自らが主張する変異原性試験の意義や動物実験の評価方法等、特にこれらが人体におけるクロムによるがん発症の有無の判断に寄与しないとする点について何らの証拠も提出していないが、右(一)、(二)の各認定事実と前記6の各証拠を併せ検討すると、次のとおり認められる。

(1) 一般にある物質のがん原性についての評価は、目的とする化学物質を種々の投与法で実験動物に投与した後、最終的には病理組織学的な検索に基づいて行われる。

(2) しかし、最近、このような長時間と多額の費用を要する動物実験に代わつて、短期間でかつ安価に行える種々の変異原性試験が開発され、右(一)のとおり、各種試験によつてがん原性物質のスクリーニングが容易かつ効率的に行われるようになつた。

確かに、各種の変異原性試験は、発がんの機序がDNA(デオキシリボ核酸)の損傷に基づく突然変異の誘発に起因するという考え方に立つてなされるものであり、右の考え方には一部に反対論もある。

しかし、がん原性物質と突然変異誘発物質との間には共通する物質が数多く存在することが判明しており(変異原性とがん原性の一致率は六〇%ないし九〇%であるといわれている。)、両者の間には密接な関係が示されているといえ、変異原性試験が作業環境におけるがん原性物質の検索に有効な手段であることは広く承認されており、労安法五七条の二、労安規三四条の三も、新規化学物質のがん原性の調査方法(第一次スクリーニング)として、まず変異原性試験を実施することを義務づけている。

したがつて、変異原性試験によつてクロム化合物の変異原性が確認されること自体、そのがん原性の認定に役立つ一資料になり得るものと解され、更に、変異原性の存在に加えて実験動物に対する投与実験でもがん原性が確かめられる場合には、一般的レベルでは、当該物質のがん原性は確認されたと評価して差し支えないと解される。

(3) このように、変異原性試験、動物実験を経てがん原性が確認され、あるいはがん原性が疑われる物質は、一般的には発がん物質又は発がんの疑いのある物質として認められることになる。

ところで、この点につき、被告会社は、動物実験により「投与部位以外の遠隔臓器における発がんが確認されず、投与部位の発がんが確認されるだけでは、当該投与物質のがん原性の確認はできない。」旨主張するが、このような特別の経験則についてこれを具体的に示す証拠は(被告会社はこの点につき何らの証拠も提出していない。)本件全証拠中にほとんど見当たらず、わずかに甲二一九号証の中で(別の訴訟におけるベイチヤーの証言調書の謄本)、ベイチヤーがこの点を一般的な形で述べている部分があるにとどまる。そして、専門家会議を含め、多くの研究者も、確かに投与部位における発がんについては、投与による物理的刺激等の要因も考慮しなければならず、遠隔臓器における発がんのように決定的ながん原性の証左とまではいえないということを前提にしていることが窺われるところ、それでもなお、前記(二)のような実験結果は当該クロム化合物のがん原性を肯定するに足りるものであるとしているのである。

(4) 次に、動物実験によりある物質が発がん物質であると確認されても、このことだけをもつて、直ちにこの物質が人体のがんをも引き起こすとすることはできない。

この点に関しては、極めて軽微な病変の場合はともかく、がんのような致命的な疾病については、人体を実験素材とする発がん実験を行い得ないという宿命的な制限があり、「具体的な発生機序等は明らかにならないまでも、当該物質が人体に作用した場合に発がんの結果を生じるのか」ということを実験的手法で直接的に解明することは不可能である。当該物質のがん原性を確認するための理想的条件をあらかじめ設定しておいて人体にクロム化合物を投与するという実験をなし得ないことが、このような条件設定や「意図的投与」なしに発生してきた過去の発がん状況から、集団的、統計的にクロム化合物のがん原性を推認して行く疫学的手法が重視されることの大きな理由になつているのである。

しかしながら、多くの研究者が「人体実験結果ではないから動物実験によるがん原性の確認は無意味である」というような単純な割り切りをしていないことはいうまでもなく、動物実験の成績を直ちに人体のがんの場合にあてはめることはできないものの、動物実験結果と人体における疾病発症状況とが近似性、関連性を持つことが多いという医学上の経験則を背景に、これまで長年にわたり、繰り返し各種動物実験が実施されてきたのであり、その実験結果は、疫学的研究の成果と併せて、クロム化合物の人体に対するがん原性の判断の重要な基礎資料となることが承認されている。

(5) 最後に、被告会社が指摘する、動物実験で発がん性が認められた物質が必ずしも栗山工場をはじめクロム酸塩等製造工程において生成されるものばかりではないとの点については、前記第三章第二で各工程ごとの取扱物質等について認定説示したところに照らせば、確かに、前記(二)の各動物実験に用いられたクロム化合物のすべてが栗山工場のクロム酸塩等製造工程で原料、中間生成物、製品等として取り扱われ、あるいは粉じん等の含有物質として存在していたわけではない。

しかし、右の取扱物質等のほとんどはこれまで動物実験に用いられており、前記(二)(5)で要約した動物実験によりがん原性が確認され、又はがん原性が疑われるクロム化合物のうち、クロム酸カルシウム、無水クロム酸、焼成クロム鉱(クリンカー)は右工程での取扱物質である。クロム酸カルシウムについては、前記第三章第二の二3(二)で認定したところからも、ロータリーキルン内での原料焙焼の結果生成されていたと推認され、ひいては、クリンカーやフアーストパルプ、セカンドパルプの含有物質ともなつていたと推認されるのである。

(四) 要約

以上によれば、六価クロム化合物には変異原性、動物実験によるがん原性・がん原性の疑いのある物質が多く、これらの物質は一般的に発がん物質又は発がんの疑いのある物質として認められ、かつ、その中には栗山工場のクロム酸塩等製造工程で取り扱われていたものもあるが、三価クロム化合物については変異原性試験や動物実験によつてがん原性を十分に確認されたものはないことになる。

そうして、右(三)で述べたところを訴訟上の問題に引き直せば、六価クロム化合物中に右のように一般的には発がん物質又は発がんの疑いのある物質として認められるものがあるという事実は、クロム被暴、吸入と(人の)肺がん等発症との因果関係の存否を判断するに当たつて、これだけでその存在を肯定する決め手とはなり得ないものの、「特に、クロム化合物のがん原性を肯認する動物実験結果に関する限り、(他の資料とあいまつてでも)右因果関係の存在の推認をなすべき資料となし得ない。」とする特段の事情がない限り、他の資料、特に疫学調査結果とあいまつてこれを右因果関係の存在推認の基礎資料とすることができるというべきであり、右(三)で述べたとおり右の特段の事情は本件では存しないことが明らかである(被告会社が指摘する前記二3(二)(3)の〈7〉の点も失当である。)。

10 原因物質等

(一) 右9のとおり、変異原性試験や動物実験結果によれば、クロム化合物のうちがん原性が認められるのは六価クロム化合物であり、それもどちらかといえば難溶性クロム化合物が多く、この点ではクロムによる発がんの原因物質はある程度同定される傾向にあるといえる。

(二) しかしながら、ここから更に進んで、クロム酸塩等製造作業者における肺がん等発症の具体的原因物質如何という問題については、前記6で認定説示したとおり、現在段階では、その原因物質は特定されていないのであり、それ故にこそ、クロム被暴、吸入と肺がん等発症との具体的機序解明による因果関係が明らかにされていない状況にある(前記二4、6参照)。

(三) また、前記6の各証拠によれば、これまで、右製造作業者における肺がん等発症に関する疫学調査等に携わつた研究者が、クロムによる肺がん等発症を肯定し得るとの前提に立つて、その原因物質に関する様々な分析・推論を行つているが、現在必ずしも定説はないのが実情であると認められる。すなわち、原因物質として、モノクロム酸塩(マツクルとグレゴリウス)、クロム鉱石粉じん、酸化クロム等の不溶性クロム化合物(マンクーソーとヒユーパー)、難溶性の三価クロム化合物(マンクーソー)、酸に可溶で水に難溶性の(クロム酸カルシウムを含む)六価クロム化合物(ベイチヤー)等の見解が示されているところ、現在では、肺等の組織内に取り込まれたクロム化合物の水に対する溶解性如何が肺がん等発症に大きくかかわつており、水にあまり溶けないクロム化合物として肺等の中に長く滞留する物質ががんを発症させるのではないかという点ではほぼ研究者の意見は一致しているが、それ以上に、各種クロム化合物がどのような化学変化をとげて、如何なる構造の化学物質として組織内に滞留するのかなどは不明である。

11 因果関係に関する考察及びまとめ

(一) 因果関係の存否自体について

(1) 各種疫学調査結果の要約

前記8(一)で認定した各疫学調査結果を要約すれば次のとおりになる。

イ 呼吸器のがん

前記各疫学調査の中には、〈1〉疾病を「呼吸器のがん」又は「呼吸器系のがん」の分類レベルで把えて調査したもの、〈2〉疾病を右分類レベルの下位の疾病分類、例えば、肺がん、気管・気管支・肺のがん、鼻腔・鼻咽喉のがんなどのレベルまで区分して把えて調査したもの、とが混在するところ、〈1〉の調査結果及び〈2〉の調査結果のうち呼吸器のがんレベルでの調査結果も明らかにしたものによれば、例外なく、クロム酸塩等製造作業者においては、対照群と比較して、いずれの相対危険度の面においても、呼吸器のがんによる死亡の発生は高率(多くは非常に高率)であることが報告されている。

そして、右の各報告は、右の高率の死亡発生は、対照群における当該死亡発生に比べ、統計学的有意差(エクセスリスク)として評価できるとしている。

ロ 肺がん

右イ〈2〉のように疾病を肺がん又は気管・気管支・肺のがん(ここでは両者を合わせて「肺がん」という。)の分類レベルで把えた調査結果によれば、右作業者においては、対照群と比較して、いずれの相対危険度の面でも、肺がんによる死亡の発生は高率(多くは非常に高率)であることが報告されている。

そして、右の各報告は、右の高率の死亡発生は、右イ同様統計学的有意差として評価できるとしている。

ハ 上気道のがん

右イ〈2〉のように疾病を上気道に属する個別の器官、部位のがんの分類レベルで把えた調査結果は少数ではあるが、上気道に属する個別の器官、部位のがんを総体として上気道のがんとして把えると、右調査結果のうち相対危険度のデータを示している三報告によれば、右作業者においては、対照群と比較して、死亡率、死亡数による相対危険度いずれの面からも上気道のがんによる死亡の発生は高率(死亡率による相対危険度五・四倍、死亡数による相対危険度七・一倍、一〇・八四倍)であることが報告されている。

しかし、上気道のがんについては、右の高率の死亡発生をもつて、統計学的有意差であると評価した報告はない。

(2) 各種疫学調査の評価・検討

イ 実験疫学を経ることの要否等

被告会社は、第三編第二章第二の一2で、分析疫学に加えて実験疫学の方法を覆践しなければ疫学的研究として不完全であり、実験疫学の段階を経てはじめて疫学的因果関係が確立されると主張する(前記二3(二)(3)の〈4〉の点)が、被告会社は、右主張に沿うべき専門的意見を示す証拠は何ら提出しておらず、本件全証拠中にも、被告会社のいう分析疫学だけでは疫学的研究として不完全であるとするような証拠はない(そのような見解が提唱されていること自体を示す証拠さえない。)。

むしろ、前記6の各証拠によれば、次のとおり認められる。

前記8(一)の各疫学調査は、いずれも被告会社のいう分析疫学の段階での研究結果であるが、(人間の)疾病の原因に関する分析疫学の結果を検証するために人体実験を意味する実験疫学の方法をとることは、前記9(三)(4)のとおり極めて軽微な病変の場合を除いて許されないのであり、専門家会議を含めて、一般に、疾病の原因研究としての疫学は分析疫学の段階で完結するものと理解され、分析疫学によつて示される観察対象中における当該疾病の発生状況、対照群との対比による相対危険度、有意差の有無、高低などが疫学的研究の成果として受け取られている。むしろ、人体に対する発病実験を行い得ないという制約の下で、疾病の原因解明の有力な手段となり得るところに疫学的研究の有用性が認められている面も強く、動物を用いた実験的研究も、その研究結果が疫学調査結果の評価のための資料として機能するものの、右の疫学の範ちゆう自体には入らないとされるのが一般である。専門家会議の前記2(一)(4)の総括見解も、右のような前提に立つて前記8(一)の各疫学調査結果を高く評価しているのであつて、本件においても、右各疫学調査をそれ自体で完結した科学的研究結果として因果関係認定の資料とすべきものである。

次に、被告会社が、実験疫学まで覆践すれば疫学的因果関係の存在が確立されるが、分析疫学までの段階では事実と結果との「関連性」しか明らかにされないので、これによつて因果関係の認定をすることは難しいとする点については、実験疫学まで覆践して確立した結論が出された場合には、「当該原因以外では説明がつかない」という形で、具体的機序解明にも匹敵する相当に厳密な自然科学的因果関係の存在立証がされたというべきであり、分析疫学はこのような意味での因果関係立証と対比すれば自然科学的には「関連性」を示すにとどまるものである。

しかし、専門家会議もこの分析疫学の結果に依拠して総括見解を示したように、厳密な自然科学的観点からは「関連性」を示すにとどまるとされる調査結果であつても、分析疫学の成果が前記4の判示がいう「経験則に照らして、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性」の証明に寄与する資料となり得ることは当然であり、前記各疫学調査結果は、本件訴訟上の因果関係立証の重要な基礎資料となるものである。

ロ 量―反応関係の問題

一般に疾病原因に関する疫学的研究の妥当性を評価する際に、当該研究によつて原因物質とされたものと当該疾病発生との間に量―反応関係が認められるかが要件の一つとされている。

しかるところ、クロム酸塩等製造作業者における肺がん等発症に関しては、前記8(二)で認定説示したように、産業医学上厳密な意味での作業環境におけるクロム被暴量(濃度×時間)に関する正確な情報がほとんど得られていないことなどから、他の職業がんの場合と同様、クロム被暴と肺がん等発症との間の量―反応関係について現時点では正確なことは判明していない。しかし、前記8(二)(10)で要約したとおり、内外の多くの疫学的研究の結果、クロム酸塩等製造作業におけるクロム暴露期間と肺がん又は呼吸器のがん発症との間に、一定の関数的関係をもつて量―反応関係を描き出すまでには至つていないものの、環境中のクロム濃度が高いほど、また、作業環境の大幅な改善が間に入らない限り、クロム被暴作業従事期間が長く暴露期間が長いほど肺がん又は呼吸器のがんの発生の危険度が高まるという傾向があることまでは認められている。

クロム暴露期間は、厳密な意味でのクロム被暴量を正確に代表し得る変数ではないが、いわば疑似的な量―反応関係は一応認めることができるのである。

ところで<証拠略>によれば、専門家会議は、検討結果報告書の中で、量―反応関係の存在が疫学的研究の評価の一要件であることを明言する一方、右述べたところと同様の説示をした上、前記2(一)(4)のとおり前記各疫学調査結果を高く評価する総括見解を述べており、この点に照らせば、専門家会議は、結局、量―反応関係の解明の度合が右のような程度のものであつても、専門家の判断として、各疫学調査結果の価値を損うことはないと考えていることが明らかである。そうして、本件全証拠中にこのような専門家会議の考え方を不当とするような証拠はなく、本件においても、量―反応関係の完全な解明がないことをもつては右各疫学調査結果の証拠価値は損われないとした上、これに依拠してクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係の存否を判断することにする(被告会社の指摘する前記二3(二)(3)の〈4〉の点も失当である。)。

ハ 喫煙の影響

クロム酸塩等製造作業者における肺がん発症に関する喫煙の影響については、前記8(三)で認定説示したとおりであり、前記8(一)の各疫学調査結果の中に肺がん発症に対する喫煙の影響に論及していないものがあつても、その証拠価値が低いとすることはできず、更に、肺がん発症に対する喫煙の影響は、前記8(一)の各疫学調査結果等から因果関係の存在を推認することの妨げとなる要素ではない。

ニ 実験的研究の成果

前記9で認定説示したとおり、変異原性試験結果や動物実験結果によれば、六価クロム化合物には変異原性、動物実験によるがん原性・がん原性の疑いのある物質が多く、これらの物質は一般に発がん物質又は発がんの疑いのある物質として認められ、その中にはクロム酸塩等製造工程で取り扱われるものもあることに照らせば、右製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係の存否の判断に当たつて、これらの実験結果等が前記8(一)の各疫学調査結果の証拠価値を減殺するようなものでないことは当然であり、加えて、右実験結果等は必要な場合には、右調査結果とあいまつて因果関係の存在の認定資料の一つとなり得るものである。

(3) 肺がん発症に係る因果関係

以上述べたところに基づき判断すると、長年にわたり繰り返し行われた前記8(一)の内外の各疫学調査の結果、右(1)イ、ロのとおりクロム酸塩等製造作業者における呼吸器のがん、肺がん死亡発生の高率、対照群との大きな統計学的有意差(エクセスリスク)の存在が確立されている状況にあるところ、右(2)のとおり、右各疫学調査結果の証拠価値を損うような事情も見出せず、右各疫学調査結果を前提にすれば、右作業におけるクロム被暴、吸入に起因して作業者に肺がんが発症する高度の蓋然性があると推認すべきであり、この推認を妨げる特段の事情もないことから、右クロム被暴、吸入と肺がん発症との間には因果関係が存すると認められる。

(4) 上気道のがん発症に係る因果関係

イ(1) 前記(イ)ハのとおり、上気道のがんの分類レベルで把握した場合、これまで、クロム酸塩等製造作業者におけるその死亡の発生は高率であるとする報告が存するが、この高い死亡発生率をもつて統計学的有意差(エクセスリスク)であるとは評価されていない。

(ロ) この点については、前記6の各証拠によれば、観察対象中の当該死亡の観察数が期待数に比べ非常に大であり、対照と対比して相対危険度が高く、死亡発生が高率であつても、観察数が一定数以上まとまつていなければ、その対象中における分布状況等を考慮した場合、統計学的には右の死亡発生の高率を有意のもの、すなわち直ちに高度の蓋然性をもつて一般化できる数値としては評価できないとされているところ、右の上気道のがん死亡発生状況は、正にこのような評価を受けていること、逆に、観察数が多いと、期待数との差がわずかでも、その差は統計学的有意差として評価される場合もあること、上気道のがんは一般人口においても発症例が少ないので、クロム酸塩等製造作業者を構成員として、死亡発生の高率が統計学的有意差として評価されるほどの観察対象を設定することは極めて困難であること、このように有意差として評価し得ない場合であつても、上気道のがん死亡発生が対照と比べ高率であるということが、クロム酸塩等製造作業従事と上気道のがん発症との間の関連の強さを示すことは変わりはないことが認められる。

(ハ) そうすると、同じく「疫学調査の結果有意差が認められない」場合であつても、もともと相対危険度も低く、有意「差」が認められない場合とは異なり、相対的危険度が高く死亡発生が高率であるが、その差を統計学上有意のものとは評価できないという場合には、死亡発生の高率ということから直ちに当該事実に起因して疾病が発症する高度の蓋然性があると推認することはできないものの、これと他の事実とを併せて、単なる関連の強さを超え高度の蓋然性のレベルで事実と結果との間の因果関係が存在すると認定することに何の妨げもないはずである。

(ニ) したがつて、前記8(一)の各疫学調査結果から認められる、右製造作業者における上気道のがん死亡発生の高率という事実は、右製造作業におけるクロム被暴、吸入と上気道のがん発症との因果関係認定の重要な基礎資料となり得るものである(なお、右疫学調査の証拠価値を損うような事実のないことは、前記(2)のとおりである。)。前記2(一)(4)の総括見解が示すとおり、専門家会議もこのように理解していると窺われる(被告会社の指摘する前記二3(二)(3)の〈5〉の点も失当である。)。

ロ そこで、右の点を前提として、右因果関係の存否につき検討するに、この点に関し、右の高率の死亡発生のほかに次のような事実が挙げられる。

(イ) 前記(1)イのとおり、疾病を呼吸器のがん又は呼吸器系のがんの分類レベルで把えて調査した疫学調査結果によれば、クロム酸塩等製造作業者においては対照群と比較して、統計学上有意差と評価される高率の呼吸器のがん、呼吸器系のがん死亡が認められていること

(ロ) 前記8(一)の各疫学調査の中では、対照群との対比はなされていないものの、報告者の意図としては高率の発生であるとして、クロム酸塩等製造作業者中の上気道のがん死亡の症例報告が少なからずなされていること

(ハ) 前記9のとおり、六価クロム化合物の中には変異原性を示し、あるいは動物実験で発がん性を確認され、又は発がん性の疑いのあるとされるものが多く、その中にはクロム酸塩等製造工程で取り扱われているものもあること

(ニ) 前記第三の三1のとおり、上気道は人体の主要なクロム吸収の経路にある器官、部位であり、人体に吸収され、又は痰等として排出されるクロム成分のほとんどは上気道を通過し、あるいはここに滞留すること

ハ そうして、前記の高率の死亡発生の点と右ロで認定した各事実とを総合考慮して判断すると、本件においても、前記2(一)(4)の専門家会議の総括見解と同様に、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入に起因して作業者に上気道のがんが発症する高度の蓋然性があると推認すべきであり、この推認を妨げる特段の事情もないことから、右クロム被暴、吸入と上気道のがん発症との間には因果関係が存すると認められる。

(二) 因果関係に関する限定の有無について

(1) 原因が六価クロム被暴、吸入のみに限られるか。

前記9、10で認定説示したとおり、クロムによる肺がん等発症の原因物質は未だ特定されていないが、変異原性試験や動物実験結果によつてがん原性が認められ、又はがん原性の疑いのあるとされているクロム化合物はすべて六価クロム化合物であり、現在では、実験的研究の面では六価クロム化合物の中に発がんの原因物質があるという形で原因物質が同定される傾向にあり、三価クロム化合物中には発がん物質として確認されたものはないこと、前記10のとおり、疫学調査を行つた研究者の中には三価クロム化合物が肺がん等の原因物質ではないかとする見解を表明した者もいるが、六価クロム化合物を原因物質として指摘する者も多いこと、<証拠略>によれば、専門家会議も現段階では三価クロム化合物に発がんの危険があるとは認め難いとの立場をとつていると認められることを総合考慮すれば、三価クロム化合物の被暴、吸入については、前記(一)(3)、(4)で述べたクロム被暴、吸入による肺がん、上気道のがん発症との因果関係の存在の推認を及ぼし難いと解され、結局、六価クロム被暴、吸入のみが肺がん等の原因になると考えられる。

(2) 暴露期間との関係での限定の有無

イ クロムによる肺がん等発症に係る量―反応関係についての各調査研究結果や専門家会議の見解等は前記8(二)、11(一)(2)で認定説示したとおりであり、量―反応関係の解明の有無という点から前記8(一)の各疫学調査結果の資料価値自体を否定することはできないとされる一方、量―反応関係の一つの側面であるクロム酸塩等製造作業従事に起因する肺がん等発症に必要であるとみられる最短暴露期間の問題については、<証拠略>によれば、専門家会議は次のようにその見解等を示している。

すなわち、専門家会議は、中間報告書(前記二2(一)(1)、(2))の段階では、前記8(二)(4)のマンクーソーとヒユーバー(一九五一年)の別表三〇記載の調査結果に示されている最短暴露期間二年による肺がん発症例について、その推定被暴量(濃度×年数)が「同表記載の他の症例に比べて極めて小さいので、検討の要があろう。」とする一方、前記8(二)(3)のベイチヤー(一九五〇年)の別表二九記載の調査結果に示されている最短暴露期間四年という報告を肯定的に紹介していたが、検討結果報告書では、本文中で右両調査結果を紹介するとともに、前者について、前記量―反応関係の定量的研究としては重要なものであると評価しつつ、具体的に暴露期間二年での肺がん発症を肯認できるかについては、中間報告書と異なり、積極、消極いずれのコメントも付していない。

他方、専門家会議は、検討結果報告書の総括見解の中では、クロムによる肺がん等発症につき、前記(一)(2)で認定説示した程度の疑似的な量―反応関係は認め得るとしているものの、発がんの原因物質が十分同定されていないこと、前記8(二)(1)・(10)、11(一)(2)のとおり厳密な意味での右量―反応関係は未だ解明されていないことなどを理由に「右量―反応関係について多くを推定することは控えるべきである。」として、クロムによる肺がん等発症に係る具体的な最短暴露期間(クロム被暴作業従事期間)如何に関する論及を避け、この点については特段の具体的見解を示していない。

ロ また、前記二2(二)のとおり、被告国(労働省)は中間報告書の提出後、前記8(二)(3)のベイチヤーの報告に依拠して、一二四号通達によつて、クロム酸塩等製造作業従事労働者の肺がん、上気道がんの業務上疾病認定については、四年以上の作業従事歴のあることを要件とする旨定めた。

ハ そこで、前記8(二)で認定説示したところに右イ、ロの各事実を併せて総合検討すれば、一般的には、ベイチヤーやマツクルら(別表二七参照)が報告した最短暴露期間(右作業従事期間)四年をもつて、クロム酸塩等製造作業従事に起因する肺がん、上気道のがんの発症に要する最短暴露期間(右作業従事期間)であるとし、ただ、当該作業者が現実に極めて大量のクロム被暴、吸入をするなど、当該作業者のクロム被暴状況につき特段の例外的な具体的事実のある場合には、これより短い期間のクロム被暴、吸入であつても、当該クロム被暴、吸入と肺がんや上気道のがん発症との因果関係を認め得るとするのが相当であると解される。渡部真也はその著述(<証拠略>)や本件での証人尋問(第一、二回)の中で、四年をもつて右最短暴露期間とすることはそもそも不適切であり、二年の暴露期間があれば一般的にクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係を肯定すべきである旨の見解を表明しているが、右各事実に照らせば、本件において渡部の右見解をそのまま採用することは難しい。

(三) まとめ

以上認定説示したとおり、本件においては、まず、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん、上気道のがん発症との因果関係の存在自体はこれを認めることができ、次に、右因果関係は、具体的には、当該作業者が六価クロムを被暴、吸入した場合であつて、かつ、原則としてその暴露期間(クロム被暴作業従事期間)が四年以上の場合に限つて、これを認めることができることになる。また、右の暴露期間(右作業従事期間)の点に関しては、それが四年以上でない場合であつても、当該作業者の六価クロム被暴、吸入につき、現実に極めて大量のクロム被暴、吸入をするなど特段の例外的な具体的事実が存するときには、右因果関係の存在を認めることができることになる。

第五章  被告会社の生存原告及び死亡者に対する加害行為の成否(加害原因行為、個別的事実的因果関係、被害の発生)〔請求原因第五章 被告会社の加害行為その三〕

第一はじめに

これまで、被告会社の加害行為に関し、第三章で栗山工場のクロム酸塩等製造工程の劣悪な作業環境を、第四章でクロム被暴、吸入と各種身体障害発生との一般的因果関係(因果則)の存在を、それぞれ認定説示してきたところ、この章では、これらの認定事実を前提にして各生存原告、各死亡者のそれぞれについて、まず、その作業従事歴を検討した上、次に、現実のクロム被暴、吸入の有無、右クロム被暴、吸入に起因する具体的な身体障害発生の有無の順に検討して、各生存原告、各死亡者に対する被告会社の加害行為の存否につき判断することにする。

第二生存原告

〔請求原因第五章第一、第二編第五章第一節第一・第二節第一〕

一  生存原告ら(承継原告水口キクヱ、同水口タヨの承継前の原告亡水口藤吉及び承継原告高川宇一の承継前の原告亡高川豊吉を含む。)のクロム酸塩等製造作業従事

1 原告らと被告会社との間で、生存原告阿部、同今井、同上原、同谷内、同平原、同松島、同吉田、同亡水口、同畠中、同中川、同亡高川、同舘山、同福士、同竹田、同大橋、同渡邊、同加藤が、いずれも別添五の「勤務期間」欄記載の各期間被告会社栗山工場に勤務し、同「従事作業」欄記載の同工場のクロム酸塩等製造工程における作業(パルプ運搬・投棄等前記第三章第二の八で認定説示した各工程に直接属さないその他の作業を含む。以下同じ。)に従事したこと、生存原告熊谷、同斎藤、同田中、同沼崎、同大橋(被告会社退社後)が、いずれも別添五の「勤務期間」欄記載の各期間栗山運送に勤務し、同「従事作業」欄記載の同工場の右製造工程における作業に従事したこと、生存原告小笠原が昭和一一年八月一日から昭和一九年一〇月三一日までの間被告会社栗山工場に勤務して昭和一二年六月から昭和一九年一〇月三一日までの間クロム酸塩等製造作業に従事したこと、同高橋が同工場に勤務して右作業に従事したこと、同末田が昭和三六年六月三〇日から昭和四四年二月までの間同工場に勤務し右作業に従事したこと、同石川が栗山運送に勤務して同工場の浸出工程の跳出し作業に従事したことは、いずれも争いがなく、原告らと被告国との間で、各生存原告がいずれも同工場のクロム酸塩等製造作業に従事したこと自体は争いがないところ、前記第二章で認定した事実及び<証拠略>によれば、次のとおり認められる。

2(一) 生存原告阿部、同今井、同上原、同谷内、同平原、同松島、同吉田、同亡水口、同畠中、同中川、同亡高川、同舘山、同福士、同竹田、同大橋、同渡邊、同加藤、同小笠原、同高橋、同末田は、いずれも別添五の「勤務期間」欄記載の各期間被告会社栗山工場に勤務し、同「従事作業」欄記載の同工場のクロム酸塩等製造工程における作業に従事した。また、右製造工程中の各従事作業に対応する従事期間も別添五に示すとおりである。

(二) 生存原告石川、同熊谷、同齊藤、同田中、同沼崎、同大橋(被告会社退職後)は、いずれも別添五の「勤務期間」欄記載の各期間栗山運送に勤務し、同「従事作業」欄記載の同工場の右製造工程における作業に従事した。

(三) なお、原告加藤の被告会社北陸工場における勤務期間・従事作業、同高橋の被告会社徳島工場における勤務期間・従事作業はいずれも別添五記載のとおり、原告末田の同工場における勤務期間・従事作業は別添三〇(被告会社主張)記載のとおりである。

二  生存原告らのクロム粉じん等の被暴、吸入

1 前記第三章第五で要約説示したとおり、栗山工場のクロム酸塩等製造工程のうち塩基性硫酸クロム工程を除く各工程の作業及び各工程に直接属さないパルプ運搬・投棄、営繕、雑役の各作業の作業環境は、いずれも当該工程等の稼動開始から廃止に至るまでの全期間(前記第三章第二の一2の生産停止期間を除く。)を通じて、クロム含有粉じん、ミスト又は液滴が(大部分の工程では大量に)発生し、これが職場の空気中に飛散、発散、拡散して、作業員がこれに被暴、吸入するという劣悪な状態にあり、また、昭和三七年以降の鉱石乾燥工程の職場を除いて、いずれの職場においても、作業員が被暴、吸入した粉じん等には六価クロムが含まれていたことは明らかであるところ、これを前提にして、更に、前記第三章、特にその第二で個別的具体的に認定した各工程等の作業環境の状況と右一で認定したところを、右一1の各証拠等に照らして総合考慮すれば、生存原告らの同工場の右製造作業従事の際の現実のクロム被暴、吸入(加害原因行為)について、次のとおり認められる。

2(一) 生存原告らのうち原告平原及び同加藤を除く二三名は、いずれも、栗山工場のクロム酸塩等製造工程のうち塩基性硫酸クロム工程以外の各工程等の作業に従事していた者であり、右製造工程における作業に従事した全期間にわたつて六価クロムを含む大量のクロム含有粉じん、ミスト又は液滴に被暴し、これを吸入したものと認められる(昭和三七年以降の鉱石乾燥工程作業従事者はいない。)。

そうして、右二三名の原告のうち、更に原告松島、同亡水口、同畠中、同亡高川、同福士、同小笠原を除く一七名の原告の右製造工程におけるクロム被暴作業従事期間は、別添五の「クロム被暴作業従事期間」欄記載のとおりとなり、右原告松島ら六名の原告については、前記生産停止期間にまたがつて勤務していることから、右期間を除くと、そのクロム被暴作業従事期間は、原告松島約二九年七か月、同亡水口約八年三か月、同畠中約二六年六か月、同亡高川約七年五か月、同福士約一九年七か月、同小笠原約六年七か月(昭和一二年六月から昭和一八年末まで)となる。

(二) 次に、前記第三章第五の二で要約説示したとおり、本件では全証拠によつても前記塩基性硫酸クロム工程におけるクロム粉じん等の発生、作業員のクロム被暴、吸入の事実を認めることはできないところ、前記一で認定したとおり、原告平原、同加藤は、前記製造工程のうち塩基性硫酸クロム工程以外の各工程の作業に従事するとともに、一時期右工程での作業にも従事したことがあるので、右各原告については、前記製造工程での全作業期間のうち右工程での作業期間を除く期間において六価クロムを含む大量のクロム含有粉じん、ミスト又は液滴に被暴し、これを吸入したものと認められる。

しかるところ、原告平原については、<証拠略>によれば、同原告は、臨時工として多くの工程の作業に従事する中で右工程の作業にも従事したことがある程度であり、同原告の前記製造工程におけるクロム被暴作業従事期間は、原告らが別添五で主張する約六年三か月とほとんど変わりないと認められる。

また、原告加藤の右クロム被暴作業従事期間は、原告らが別添五で主張する約一九年二か月のうち約一八年六か月であることになる。

(三) 右(一)、(二)によれば、生存原告らの右クロム被暴作業従事期間は、最短約二年四か月(原告舘山、同渡邊)から最長約二九年七か月(原告松島)に及び、平均約一〇年である。

以上のとおり認められ、右認定を妨げる特段の事情を示す証拠もない。

3 以上認定したとおり、生存原告らは、いずれも、栗山工場のクロム酸塩等製造工程における作業に従事した際、ばらつきはあるものの、かなりの期間又は極めて長期間にわたつて六価クロムを含む大量のクロム粉じん、ミスト又は液滴に被暴し、これを吸入したものである。

三  生存原告らの各障害の発生及びこれに係る因果関係

クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入とがん以外の各身体障害(疾病)発生との一般的因果関係(因果則)の存在については前記第四章第四の一で認定説示したとおりであり、また右二によつて生存原告らがいずれも栗山工場の右製造作業に従事した際、六価クロムを含む大量のクロム被暴、吸入をしたことは明らかになつたところ、以下、これらを前提にして、生存原告らに関し、各障害ごとに、右クロム被暴、吸入に起因する障害罹患の有無(被害発生、個別的因果関係の有無)について検討する(各障害名下の括弧内に前記第四章第四の一中の番号を示す。)。

1 皮膚障害(1)

(請求原因第五章第一の三3(一)について)

(一) 原告らと被告会社との間で原告阿部、同石川、同熊谷、同沼崎、同畠中、同大橋、同末田に現在皮膚潰瘍の瘢痕が存すること、原告らと被告国との間で生存原告らの多くがクロム被暴に起因して皮膚障害に罹患したことは、それぞれ争いがないところ、〈1〉前記第四章第四の一1(一)の認定事実及び〈2〉前記二の認定事実と〈3〉前記第三章第二で認定した栗山工場の各工程の作業環境を、<証拠略>に照らして総合考慮すれば、生存原告らはいずれも、同工場のクロム酸塩等製造作業に従事していた際に、六価クロムを含むクロム被暴に起因して一次刺激性皮膚炎や皮膚潰瘍に罹患したことが容易に認められ、右認定に反する証拠はない。

(二) 更に、右(一)で挙げた〈1〉ないし〈3〉の各認定事実及び各証拠等に<証拠略>を併せると、生存原告らのうち、原告阿部、同石川、同熊谷、同沼崎、同畠中、同大橋、同末田は、特に重い皮膚潰瘍に罹患し、上・下肢、背部等に多数の皮膚潰瘍の瘢痕を形成して、現在もそれが残つていることが認められ、右認定に反する証拠はない。

(三) なお、前記第四章第四の一1(二)のとおり、六価クロム被暴と感作性(アレルギー性)接触皮膚炎発症との一般的因果関係を認めることができるが、本件では生存原告らがこれに罹患したとの主張立証はない。

2 鼻炎、鼻粘膜潰瘍等(2(二)(2))、鼻中隔穿孔(2(二)(3))

(請求原因第五章第一の三3(二)、(三)について)

原告らと被告会社との間で、生存原告らのうち原告亡水口、同亡高川を除く二三名に現在鼻中隔穿孔の障害があること、原告らと被告国との間で、栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入に起因して、生存原告らの多くが鼻炎、鼻粘膜潰瘍等に罹患し、生存原告ら全員が鼻中隔穿孔に罹患したこと、現在(原告亡水口、同亡高川については死亡時である昭和五三年九月一三日、昭和五七年四月二四日)も生存原告ら全員に鼻中隔穿孔の障害があることは、それぞれ争いがなく、結局、原告亡水口、同亡高川を除く二三名の生存原告に現在鼻中隔穿孔の障害があることは当事者間に争いがないところ、この争いのない事実及び前記第四章第四の一2(二)(2)、(3)、前記二の各認定事実及び前記第三章第二で認定した栗山工場の各工程の作業環境に加えて、前記1(一)の各証拠及び<証拠略>を総合考慮すれば、次のとおり認められる。

(一)(1) 生存原告らはいずれも、同工場のクロム酸塩等製造作業に従事していた際に、六価クロムを含むクロム被暴、吸入に起因して、前記第四章第四の一2(二)(2)で認定したような症状を呈して、鼻炎に罹患するとともに、鼻粘膜の発赤、腫脹、充血等を繰り返して、鼻粘膜潰瘍や鼻中隔潰瘍に罹患した。

(2) 右製造作業従事中、右クロム被暴、吸入が継続したため、生存原告らの鼻炎、鼻粘膜潰瘍、鼻中隔潰瘍の症状も継続、進行した結果、生存原告ら全員が鼻中隔穿孔に罹患し、現在(原告亡水口、同亡高川については前記各死亡時)でも生存原告ら全員に鼻中隔穿孔の障害が認められる。

(二)(1) 生存原告らがクロム被暴作業従事中に罹患した右(一)(1)の鼻炎や鼻粘膜潰瘍等の障害は、右作業離業後も相当期間継続したが、これらの障害所見自体は認められなくなつた後においても、現在に至るまで生存原告ら全員に慢性的な鼻汁過多、鼻閉、鼻痛、鼻出血など鼻炎類似の症状が継続して認められ、季候の変化等によつて容易に鼻炎等の疾病に罹患するという状態が続いているところ、このような症状等も、右作業従事中に長期間にわたり大量の六価クロムに被暴、吸入して、継続的にその強力な刺激作用を受けた結果、鼻の機能が全般的に低下したことに起因するものであると認められる。

(2) 原告石川は昭和五八年五月当時、同熊谷は昭和五七年二月当時、いずれも鼻炎罹患の所見がある旨診断されたが、右各原告のクロム被暴作業離業時期に照らせば、右各障害所見は右作業従事中に罹患したものがそのまま続いていたというものではなく、右(1)のようなクロム被暴、吸入に起因する鼻の機能低下が原因となつて発症したものであると推認される。

右(一)、(二)のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

3 慢性副鼻腔炎(2(二)(4))、慢性篩骨洞炎、慢性上顎洞炎

(請求原因第五章第一の三3(四)、(六)について)

(一) 原告らと被告国との間で、生存原告らの中に慢性副鼻腔炎、慢性篩骨洞炎、慢性上顎洞炎に罹患した者がいること自体には争いがないところ、右2、前記第四章第四の一2(二)(4)、前記二の各認定事実及び前記第三章第二で認定した栗山工場の各工程の作業環境に加えて、<証拠略>を総合考慮すれば、次のとおり認められる。

(1) 生存原告阿部、同今井、同上原、同石川、同田中、同沼崎、同松島、同吉田、同畠中、同亡高川、同舘山、同福士、同竹田、同大橋、同小笠原、同高橋、同末田は、いずれも、同工場のクロム酸塩等製造作業従事開始後、鼻炎や鼻粘膜潰瘍等、鼻中隔穿孔に罹患するとともに、その発症までの期間は一定していないものの、右作業を継続していくうちに、原告吉田、同亡高川は慢性篩骨洞炎に、同畠中は慢性(左)上顎洞炎に、同高橋は慢性(右)上顎洞炎に、前記原告らのうち右四名を除く一三名はいずれも慢性副鼻腔炎に、それぞれ罹患した。

前記一七名の原告のうち、原告小笠原はその後右疾病の手術を受け、現在副鼻腔内に手術痕を残しているが、他の一六名の者には現在(原告亡高川は前記死亡時)でも右疾病の所見がある。

(2) 副鼻腔とは、鼻腔に続いて周囲の骨内に発達している空気を含む腔所であり、篩骨洞、上顎洞等に細区分され、慢性篩骨洞炎、慢性(左右)上顎洞炎とは、慢性副鼻腔炎を更にその発生部位を特定して示した疾病名である。

(3) そうして、右各原告の慢性副鼻腔炎、慢性篩骨洞炎、慢性上顎洞炎は、いずれも、同工場の右製造作業における六価クロムを含むクロム被暴、吸入に起因して発症したものと推認される。

右(1)ないし(3)のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

(二) (被告会社の指摘について)前記第四章第四の一2(二)(4)で挙げた各証拠及び<証拠略>によれば、右各疾病の発症については、患者の体質が寄与することが多いとされていることが認められるが、この点をもつて直ちにクロム被暴、吸入の影響が否定され、右(一)(3)の推認が妨げられるわけではなく、ほかに、右各原告の慢性副鼻腔炎等発症に関し、右の推認を妨げるほどに別の要因が影響したことを示す証拠はない。

4 嗅覚障害(2(二)(5))

(一) (請求原因第五章第一の三3(五)について)

原告らと被告国との間で、生存原告らの中に自覚症状として嗅覚障害を訴える者がいること自体には争いがないところ、右2、前記第四章第四の一2(二)(5)、前記二の各認定事実及び前記第三章第二で認定した栗山工場の各工程の作業環境に加えて、<証拠略>を総合考慮すれば、まず、生存原告らのうち原告亡水口、同亡高川、同渡邊を除く二二名の原告は、いずれも同工場のクロム酸塩等製造作業従事開始後、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等や鼻中隔穿孔に罹患するとともに、その発症までの期間は一定していないものの、右作業を継続していくうちに嗅覚に障害をきたし、現在、右二二名のうち原告石川、同松島、同中川、同福士、同竹田、同小笠原は嗅覚を完全に又はほとんど失い(嗅覚脱失)、その余の一六名の原告は嗅覚減退の状態にあることが認められ、次に、右各原告の嗅覚脱失、嗅覚減退は、同工場の右製造作業における六価クロムを含むクロム被暴、吸入に起因して発症したものと推認され、右認定に反する証拠はない。

(二) (被告会社の指摘について)右(一)の各証拠によれば、右二二名の原告の全員について、アリナミン静脈注射検査結果とオルフアクトメーター認知いき値検査結果に基づいて、医師により嗅覚障害の所見があるとの診断がなされているところ、確かに、右両検査は被検者の臭いに対する自覚状態を調べるものであることが認められるが、自覚的検査ゆえに直ちにその検査結果が真実を反映しておらず、信用性がないとすることができないことは当然であり、むしろ、<証拠略>によれば、前記五〇二号通達は右アリナミン検査を嗅覚障害の確認方法として定めていること、<証拠略>によれば、専門的な学術調査でもオルフアクトメーターによる嗅覚検査が採用されていることが、それぞれ認められることに鑑みれば、これらの検査結果、特にオルフアクトメーターによるものの信頼性は高いと認められ、他に、前記の診断所見の信用性を疑わせるような証拠はない。

また、本件では、クロム被暴、吸入と右各原告の嗅覚障害発生との因果関係の存在の推認を妨げるほどに他の要因が右障害発生に影響したことを示す証拠もない。

5 原告中川の鼻腔腫瘍

(一) (請求原因第五章第一の三3(六)について)

前記第三章第二の三2の認定事実、前記一、二、三2・4の各認定事実及び<証拠略>によれば、原告中川は、昭和二四年から昭和四五年六月までの二二年六か月の長期間にわたつて栗山工場のクロム酸塩等製造工程において、劣悪な作業環境下にあつた精製液工程の蒸発、加酸、分離の各作業に従事して、六価クロムを含む大量のクロム被暴、吸入を続け、その結果、鼻炎、鼻粘膜潰瘍等に罹患し、更に鼻中隔穿孔に罹患するとともに、嗅覚完全脱失の状態に陥り、右作業離業後も鼻中隔穿孔、嗅覚脱失に加えて、慢性的な鼻出血、鼻痛、鼻汁過多などの鼻炎様の症状が継続していることが明らかであるところ、同原告は、昭和五六年一一月ころ、左鼻腔腫瘍に罹患している旨の診断を受け、その後右疾病につき入院手術を受け、退院後も長く通院加療を受けたこと、現在、右腫瘍の患部自体は手術痕を残すだけとなつているが、前記の鼻の慢性的症状は強く残り、かつ、頭痛等に悩まされることも多いこと、右腫瘍は悪性のものすなわちがんであるとは診断されておらず、鼻腔の高度の障害の一形態として評価されていることが認められる。

(二) そこで検討するに、右認定の事実と前記第四章第四の一2で認定した事実に加え、<証拠略>により認められる原告中川が右疾病罹患につきクロム酸塩等製造作業従事による業務上疾病認定を受けた点をも総合考慮すれば、六価クロムの刺激性、腐食性による鼻腔の病的変化には著しいものがあり、六価クロムの長期間の大量被暴、吸入があつた場合には、炎症、腫脹、潰瘍等の障害のほか、右のような腫瘍の発生をもみることがあると推認されるとともに、同原告の右疾病発症も、右(一)で認定した同工場の右製造作業における長期間かつ大量の六価クロム被暴、吸入に起因するものであると推認され、本件全証拠によつても右推認を妨げるような事情は見出せない。

6 鼻の機能障害及び生存原告らの自覚症状

(一) 前記1(一)及び2で挙げた各証拠によれば、生存原告らについては、栗山工場におけるクロム被暴作業離業後も、前記2(二)(1)で認定した鼻の慢性的症状として、あるいは鼻中隔穿孔、慢性副鼻腔炎等の障害による症状として、現存(原告亡水口、同亡高川は前記各死亡時)に至るまで鼻汁過多、鼻閉、鼻痛、鼻出血、くしやみや鼻づまりが出やすい、臭いを感じにくい、味がわかりにくいなどの症状が継続して認められ、前記2(二)(1)でも説示したとおり、生存原告ら全員が、クロム被暴、吸入に起因する鼻の全般的な機能障害の状態にあると認められる。

(二) また、現在、原告石川、同亡水口、同亡高川を除く二二名の生存原告らにおいてみられる上気道、特に鼻の自覚症状の主たるものは、別添二七のとおりであると認められる。なお、原告石川についても、現在、鼻水がよく出る、臭いを感じない、味がわかりにくいなどの自覚症状を訴えていることが認められる。

7 じん肺(3(二))、慢性気管支炎、気管炎(3(三)(1))、肺機能障害(3(四))

(請求原因第五章第一の三3(七)ないし(九)について)

(一) 前記第四章第四の一3、前記二の各認定事実及び前記第三章第二で認定した栗山工場の各工程の作業環境に加えて、<証拠略>を総合考慮すれば、次のとおり認められる。

(1) 生存原告らのうち原告亡水口を除く二四名の原告は、いずれも同工場のクロム酸塩等製造作業従事開始後、右作業を継続していくうちに、次のような気管支、気管、肺の障害に罹患し、現在(原告亡高川は前記死亡時)も右各障害が認められる。

イ (じん肺)原告今井、同上原、同熊谷、同齊藤、同田中、同沼崎、同松島、同畠中、同中川、同亡高川、同竹田、同渡邊、同加藤、同末田は、じん肺に罹患し、右一四名のうち原告亡高川、同竹田には、じん肺法四条一項に基づく胸部エツクス線写真像区分二型(両肺野にじん肺による粒状影又は不整形除影が多数あり、かつ、大陰影がないと認められるもの)の、その余の一二名の原告には同一型(両肺野にじん肺による粒状影又は不整形陰影が少数あり、かつ、大陰影がないと認められるもの)の各じん肺所見が認められる。

ロ (慢性気管支炎、続発性気管支炎)原告阿部、同上原、同石川、同熊谷、同齊藤、同田中、同沼崎、同平原、同吉田、同畠中、同中川、同亡高川、同舘山、同福士、同竹田、同大橋、同渡邊、同加藤、同小笠原、同末田は、気管支の慢性的炎症に罹患し、医師の診察の結果、右二〇名のうち原告亡高川は慢性気管支炎の所見、その余の一九名の原告は続発性気管支炎の所見があると診断された。

右の続発性気管支炎という疾病名は、担当医が、気管支鏡検査結果、胸部エツクス線写真像、咳痰の発生の有無、その喀出量・頻度・濃度等や患者の自覚症状等に基づき、粉じん職場での作業従事歴をも加味して総合診断した結果、中には慢性気管支炎の厳密な臨床的定義からややはずれるものもあるが、気管支の慢性的な炎症障害自体は十分に認められるとして付した診断病名である。

ハ (肺機能障害)原告今井、同上原、同石川、同熊谷、同齊藤、同谷内、同沼崎、同平原、同松島、同吉田、同畠中、同中川、同舘山、同福士、同竹田、同大橋、同渡邊、同加藤、同小笠原、同高橋は、呼吸機能等の肺機能の障害に罹患した。右二〇名のうち原告石川、同齊藤、同松島、同中川、同舘山、同福士、同竹田、同大橋、同渡邊、同小笠原、同高橋の一二名は、いずれもスパイログラム検査及びフローボリユーム検査の結果と肺気量検査・呼吸抵抗検査(この両方又は一方)の結果とに基づき、医師により肺機能障害罹患の診断を受け、その余の八名は、いずれも肺気量検査・呼吸抵抗検査の両方又は一方の検査結果を考慮した医師の総合診断により、肺機能障害罹患の診断を受けたものである。

(2) 次に、前記第四章第四の一3で認定したとおり、じん肺、慢性気管支炎、肺機能障害の各発生については、長期間の(じん肺については比較的長期間かつ大量の)六価クロムを含むクロム粉じん等に被暴、吸入した場合にクロム被暴、吸入との一般的因果関係が認められるところ、右(1)の二四名の原告らは、最短二年四か月(原告舘山、同渡邊)から最長二九年七か月(同松島)にわたつて栗山工場のクロム酸塩等製造作業に従事し、いずれも六価クロムを含む大量のクロム粉じん等に被暴し、これを吸入したのであり、右各疾病を引き起こすに足りるような長期間かつ大量の右クロム被暴、吸入があつたと認められ、右(1)で認定した右各原告のじん肺、慢性気管支炎・続発性気管支炎、肺機能障害は、いずれも右のようなクロム被暴、吸入に起因して発症したものと推認される。

右(1)、(2)のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

(二) なお、原告らは、原告高橋も続発性気管支炎に罹患し、現在もその所見があると主張するが、<証拠略>によれば、同原告は昭和五七年二月当時「続発性肺気腫」の所見があるとの医師の診断を受けたことは認められるものの、同原告が続発性気管支炎に罹患したことを示す証拠はない。

(三) (被告会社の指摘について)

(1) 右(一)(1)イの各原告らにじん肺の所見がある旨の担当医師の診断を疑わせるような証拠はなく、また、本件では、クロム被暴、吸入と右各原告のじん肺発症との因果関係の存在の推認を妨げるほどに他の要因が右じん肺発症に影響したことを示す証拠もない。

(2) 前記第四章第四の一3(三)で挙げた各証拠及び<証拠略>によれば、気管支の慢性的炎症の発症については、大気汚染等もその要因になり得ることが認められるが、この点をもつて直ちにクロム被暴、吸入の影響が否定され、前記(一)(2)の推認が妨げられるわけではなく、ほかに、前記(一)(1)ロの各原告の慢性気管支炎、続発性気管支炎発症に関し、右の推認を妨げるほどに別の要因が影響したことを示す証拠もない。

(3) 前記(一)の各証拠によれば、前記(一)(1)ハの各原告についてなされた各種肺機能検査は、被検者に呼吸運動をさせるなどその協力を得てなされるものであることが認められるが、この点をもつて直ちにその検査結果が真実を反映しておらず、信用性がないとすることができないことは当然であり、ほかに前記各検査結果やこれに基づく医師の判断を疑わせるような証拠はない。

8 その他の呼吸器関係症状

(請求原因第五章第一の三3(一〇)について)

原告らは、別添二六記載のとおり、七名の生存原告にその他の呼吸器関係症状が存し、これも栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入に起因する障害であると主張するので、この点につき判断する。

(一) <証拠略>によれば、昭和五七年二月当時、右各原告の胸部エツクス線写真像所見として、原告齊藤に右下胸膜癒着像が、同松島に結核腫像が、同中川に胸膜及び気管支壁各肥厚像が、同福士、同渡邊に胸膜肥厚像が、同高橋に透過性亢進像が、同末田に胸膜肥厚及び肺門リンパ節腫大像がそれぞれ認められる旨担当医師の診断がなされたことが認められる。

(二) しかしながら、本件全証拠によつても、右各写真像が示す胸部の形状がそれ自体としてクロム被暴、吸入に起因して生ずる身体障害であることを示すものではなく、更に、右各写真像のうち原告高橋の透過性亢進像以外のものはそれが、前記第四章第四の一3で認定したじん肺、慢性気管支炎等のクロムによる胸部疾患を含め、クロム被暴、吸入と因果関係がある特定の疾病罹患と結びついた写真像であることを具体的に明らかにする証拠もない。

なお、本件において、クロム被暴、吸入と肺結核発症との因果関係を示す証拠はない。

(三) 原告高橋の右写真像については、証人入宇田の証言によれば、前記診断を下した医師である同証人としては、同原告に肺気腫の既応症があることが胸部のエツクス線の透過性を高め、右のような写真像になつたと理解したことが認められ、同原告の次の(四)で認定する肺気腫罹患との関連性が存すると推認される。

以上(一)ないし(三)のとおり、原告高橋の胸部エツクス線写真像が(次の(四)で認定する)同原告の肺気腫罹患と関連するという点を除いて、原告らの前記主張を認めることはできない。

(四) (原告高橋の肺気腫罹患)ところで、原告高橋の肺気腫罹患については次のとおり認められる。

(1) すなわち、<証拠略>によれば、別添五記載のとおり同原告は、昭和三八年八月から昭和四六年九月まで栗山工場の無水クロム酸工程の作業に従事し、同年一〇月から昭和四七年五月まで同工場で人工軽量骨材製造作業(非クロム酸塩等製造作業)に従事したが、同年六月徳島工場に転勤し、一時期同工場の廃液処理作業(非クロム酸塩等製造作業)に携わつた後、昭和四八年二月から同工場の無水クロム酸工程の作業に従事していたところ、昭和五三年一〇月肺気腫に罹患していることが明らかになり、その後かなり長期にわたつて治療を受けたところ、昭和五六年一一月三〇日クロム酸塩等製造作業従事との関係で労災の業務上疾病認定を受けたことが認められる。

(2) しかるところ、前記第四章第四の一3(三)(3)のとおり、長期間にわたる六価クロムを含むクロム粉じん、ミストの被暴、吸入と肺気腫発症との間には因果関係が認められるが、本件においては、原告高橋の徳島工場の無水クロム酸工程でのクロム被暴、吸入を証明する証拠はない一方、前記二で認定したとおり、同原告は前記約八年一か月の長期間にわたる栗山工場の無水クロム酸工程での作業従事中六価クロムを含む大量のクロム粉じん、ミストに被暴、吸入したことが明らかである。

(3) そうして、右(1)、(2)の各認定事実を総合すれば、同原告の前記肺気腫発症は、栗山工場の右工程におけるクロム被暴、吸入に起因するものと推認され、この推認を妨げるような事情は見出せない。

(4) なお、<証拠略>によれば、証人入宇田は、昭和五七年二月ころ、原告高橋の前記肺気腫既応症及び前記写真像を総合して、同原告につき「続発性肺気腫」なる疾病所見がある旨診断しているところ、前記認定の続発性気管支炎の場合と異なり、その意味するところは必ずしも明確ではなく、右各証拠と<証拠略>を総合すると、右当時同原告には、肺気腫の症状固定の状態にある胸部所見は存したと認められるものの、現に肺気腫に罹患しているという状態ではなかつたと認められ、したがつて、同原告が現在肺気腫に罹患しているとも推認することはできない。

9 胃腸障害(4)

(請求原因第五章第一の三3(二)について)

(一) <証拠略>によれば、原告上原は昭和五五年二月ころ、同今井、同谷内、同沼崎、同平原、同松島、同吉田、同畠中、同舘山、同大橋、同渡邊は昭和五七年二月ころ、同石川、同末田は昭和五八年五月ころ、それぞれ担当医師から別添二六記載のとおりの胃腸障害がある旨診断を受け、右各障害罹患の事実が明らかになつた。

(二)(1) ところで、前記第四章第四の一4で認定したとおり、クロム酸塩等製造作業において可溶性の六価クロムを含む粉じん、ミストを長期間にわたり大量に吸入した場合には、右のようなクロム被暴、吸入を現に受けている間に右作業者に発症した胃及び十二指腸の障害に限つて、右クロム被暴、吸入との一般的因果関係の存在を認め得るものである。

(2) しかるところ、本件においては、右各原告が前記二で認定した栗山工場でのクロム被暴作業従事期間中に既に胃腸障害に罹患していたことを直接証明する証拠はなく、更に、前記一、二で認定した右各原告の右クロム被暴作業離業時及び弁論の全趣旨に照らせば、右(一)で認定した事実とあいまつて右各原告が右被暴作業従事期間中に既に胃腸障害に罹患していたと推認させるに足りうるような事情も見出せない。

したがつて、右各原告については、右(1)のような一般的因果関係の存在を基礎にして、同工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入に起因して胃腸障害が発生したと推認する前提を欠くことになる。

加えて、本件においては、右のような推認以外の方法で右各原告らが右クロム被暴、吸入に起因して胃腸障害に罹患したことを証明する証拠もない。

(三) 以上のとおり、原告らの請求原因第五章第一の三3(二)の主張は、これを認めることはできない。

10 肝臓障害(5)、腎臓障害(6)

(請求原因第五章第一の三3(一二)、(一三)について)

(一) 原告らは、栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入に起因して、別添二六記載のとおり一〇名の生存原告が肝臓障害に、三名の生存原告が腎臓障害に罹患した旨主張する。

しかし、前記第三章第二で認定したところによれば、前記二で認定した右各原告のクロム被暴、吸入はいずれも慢性暴露としてのクロム被暴、吸入であるところ、前記第四章第四の一5、6で認定説示したとおり、本件では、クロム酸塩等製造作業者の慢性暴露としてのクロム被暴、吸入と肝臓障害、腎臓障害発生との間に一般的因果関係が存在するとは認めることができないのであるから、そもそも一般的因果関係の存在を前提にする推認の方法によつては、右のクロム被暴、吸入に起因して右各原告の肝臓障害、腎臓障害が発生した旨証明できる余地はないことになる。

加えて、本件においては、右のような推認以外の方法で右各原告らが右クロム被暴、吸入に起因して肝臓障害、腎臓障害に罹患したことを証明する証拠もない。

(二) なお、前記第四章第四の一5、6で認定したとおりクロムの大量径口摂取があれば、急性の肝臓障害、腎臓障害が引き起こされるが、本件では、被告会社の加害行為の内容として、このような大量摂取による急性障害発生があつた旨の主張立証はなされていない。

(三) 以上のとおり、原告らの請求原因第五章第一の三3(一二)、(一三)の各主張は、いずれも認めることができない。

11 まとめ

以上認定説示したところに従つて、各生存原告について、栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入との間に個別的事実的因果関係が認められる各身体障害の発生状況をまとめると、別紙「生存原告の身体障害一覧表(認定)」(以下「別添四九」という。)のとおりとなり、原告ら主張の生存原告らの各障害のうち別添四九記載の障害以外のものは、右クロム被暴、吸入と個別的事実的因果関係のある障害であるとの立証がないことになる。

四  被告会社の生存原告らに対する加害行為のまとめ

以上一ないし三で認定説示したところに基づいて、被告会社の生存原告らに対する加害行為についてまとめると、次のとおりである。

1 以上認定の事実関係、すなわち、生存原告らが、いずれも栗山工場のクロム酸塩等製造作業に従事して、その際その劣悪な作業環境の下で大量のクロム粉じん、ミスト又は液滴に被暴し、これを吸入した結果、これに起因して、右製造作業従事中に、又はその離業後に別添四九記載の各身体障害に罹患し、かつ、右各障害のうち多くのものが現在まで継続し、又は各種症状が現われ、更に別添二七(原告石川については前記三6)のような自覚症状も認められる状況にあるということは、被告会社の各生存原告に対する加害原因行為及びこれと個別的事実的因果関係のある被害発生があつたことを示すものであり、本件においては、別添四九記載の各身体障害発生に関しては、被告会社の各生存原告に対するそれ自体として違法な加害行為が存在したものと認められる。

2 他方、本件においては、原告ら主張の被告会社の生存原告らに対する加害行為のうち、別添四九記載の各障害以外の障害発生に係るものは、その存在が証明されていないことになる。

したがつて、生存原告らの胃腸障害、肝臓障害、腎臓障害罹患については、右加害行為の立証がないのであるから、その被害発生の予見可能性、結果回避義務違反の有無等を論ずるまでもなく、この段階で、右各障害発生に係る被告会社の不法行為、ひいては(被告会社の右加害行為の存在を要件とする)本件各公務員の不法行為のいずれもが成立しないことは明らかである。

第三死亡者

〔請求原因第五章第二、第二編第五章第一節第二・第二節第二、第三編第三章〕

一  死亡者に対する被告会社の加害行為(特に個別的事実的因果関係)の認定及び被告らの認否等(被告国の自白の成立)について

1 死亡者に対する被告会社の加害行為、特に個別的事実的因果関係の認定について

(一) 前記第三章第一でも述べたとおり、死亡者らに対する被告会社の加害行為の認定についても、生存原告らの場合と同様、まず、〈1〉前記第三章の認定事実と各死亡者の作業従事歴とから導かれる各死亡者の栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入の事実(加害原因行為)、〈2〉右被暴、吸入開始後の各死亡者の肺がん、喉頭がん罹患及びこれを死因とする死亡(被害発生)、の各事実の存否につき検討し、次に、右各事実が存すると認められる者については、右各事実と〈3〉前記第四章第四の二で認定した右製造作業者におけるクロム被暴、吸入と肺がん、上気道のがん発症との一般的因果関係の存在とを総合して、〈1〉の事実と〈2〉の事実との間の個別的事実的因果関係の存否を検討することになる。

(二) (原発性肺がん等であることの必要性等)ところで、右の一般的因果関係を基礎にして個別的事実的因果関係の存否を肯定するに当たつては、前記第四章第四の二11で要約説示したとおり、右の〈1〉の事実に関して、〈a〉作業者が六価クロムを被暴、吸入し、〈b〉原則として、(肺がん等発症前の)その暴露期間(クロム被暴作業従事期間)が四年以上であるか、これが四年未満であれば当該作業者につき例外的に特に大量のクロム被暴、吸入があつたという具体的事実が存する必要があるところ、更に、右の〈2〉の事実に関しても、次のような点が認められる必要がある。

すなわち、前記第四の二で認定説示したところからも明らかなように、各疫学的研究等から導かれるのは、クロム酸塩等製造作業者におけるクロム被暴、吸入と肺や上気道に原発したがんとの間の因果関係であり、他の部位に原発したがんが肺や上気道に転移して罹患した肺がん、上気道のがんまで含めて右因果関係が存するとするものではなく、右〈a〉、〈b〉に加えて、この「〈c〉当該死亡者の肺がん、喉頭がんが原発性のものである。」という事実が認められる場合に限つて右一般的因果関係の存在を基礎にして個別的事実的因果関係の存在を認めることができることになる。

(三) (原発性の推認について)しかるところ、前記第四章の第四の二で認定説示したように、本件においては、クロム被暴、吸入と原発性の肺がん、上気道のがん発症との一般的因果関係の存在が認められるとともに、各疫学的研究結果によれば、原則として暴露期間(クロム被暴作業従事期間)四年以上の六価クロム被暴、吸入をし、又は右期間が四年未満であつても例外的に特に大量のクロム被暴、吸入をしたクロム酸塩等製造作業者には、一般に高率で肺や上気道にがんが発症すること、換言すれば高率で肺や上気道にがんが「原発」することもまた、示されているというべきである。

そうすると、本件においては、右の一般的因果関係の「適用」の前提要件ともいうべき右の〈c〉の肺がん、上気道のがんの原発性という事実については、もとより、医師の診断結果、剖検結果等に依拠してそれ自体を立証していくこともできるが、次のような推認によつて立証することもできると解される。

すなわち、右の事実については、「各死亡者が原則として暴露期間四年以上の六価クロム被暴、吸入をしたこと、又は右期間が四年未満であつても例外的に特に大量の六価クロム被暴、吸入をしたこと」(前記〈1〉と〈a〉〈b〉の各事実)と「各死亡者が(右被暴、吸入後に)肺がん、喉頭がんに罹患したこと」(前記〈2〉の事実)という各事実が証明されれば、当該肺がん、喉頭がんが他の部位で原発したがんの転移によつて発生し、原発性のものではない可能性があることが示されるなど、その原発性を疑わせるような反証がなされない限り、右各事実から各死亡者の肺がん、喉頭がんの原発性もまた、推認されると解されるのである。

2 被告らの認否等(被告国の自白の成立)について

(一) 被告会社

被告会社は、各死亡者について栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入の事実(前記1の〈1〉、〈a〉〈b〉の各事実、加害原因行為)をすべて争い、特に、死亡者小板、同松浦については詳細な反対主張をしている。

次に、被告会社は、死亡者中村、同大渕、同山田の肺がん罹患、これを死因とする死亡を争い、その余の死亡者についてはこの点(同小坂については喉頭がん罹患、死亡)を認めているが、その肺がん、喉頭がんの原発性についてはすべて争つている。特に死亡者大渕の肺がん罹患・死因及び同松浦の肺がんの原発性については詳細な反対主張をしている。

また、被告会社は、各死亡者の肺がん、喉頭がん発症と右クロム被暴、吸入との個別的事実的因果関係の存在もすべて争つている。

(二) 被告国

(1) 死亡者中村、同小坂、同櫻庭、同中井、同大渕、同佐藤、同今西、同池田、同工藤関係

イ 被告国は、別添三三のとおり、右九名の死亡者に対する被告会社の加害行為に関する原告らの具体的主張、すなわち、右九名の勤務先、勤務期間、従事作業及びこれに対応する従事期間、肺がん罹患・喉頭がん罹患(死亡者小坂)及びこれらが死因となつて死亡したこと、その生年月日、死亡年月日、死亡時年令のうち、死亡者中村、同小坂、同中井、同大渕、同今西、同池田、同工藤の勤務期間、従事作業及びこれに対応する従事期間を除いて、全面的にこれを認め、また、右肺がん、喉頭がんが原発性のものであることも争つていないと解される。

また、右七名の勤務期間については、いずれも不知としつつも労基署の調査結果等によるものとして原告らの主張と大差ない具体的主張をし、従事作業及びこれに対応する従事期間についても、大部分は原告らの主張と同様の主張をしている。

ロ そして、被告国は、右のような具体的事実に対する認否を踏まえて、前期九名の死亡者が栗山工場においてクロム酸塩等製造作業従事の際に、いずれもクロム含有粉じん、ミストに被暴し、これを吸入したことを認める(第二編第五章第二節第二の二2)とともに、右九名の死亡が同工場の右製造作業に従事したことにより生じたと推定される肺がん、喉頭がん(死亡者小坂)によるものであることは認める旨の陳述(同三2(一)、(二))をしている。

ハ 右イ、ロによれば、結局、本件においては、被告国は、前記九名の死亡者が同工場の右製造作業に従事して、前記1(二)のような限定の下で前記の一般的因果関係をあてはめることができるようなクロム被暴、吸入をし、その結果原発性の肺がん、喉頭がん(死亡者小坂)に罹患してこれらが死因となつて死亡したこと、右肺がん、喉頭がん罹患・死亡と右クロム被暴、吸入との個別的事実的因果関係の存在のいずれも争わず、原告らの右九名に対する被告会社の加害行為の存在主張を争つていないと解される。

(2) 死亡者松浦について

被告国は、別添三三のとおり、原告らの、死亡者松浦の勤務先、生年月日、死亡年月日、肺がん罹患及びこれが死因となつて死亡した旨の主張は争つていない。

また、被告国は、同人の勤務期間については、不知としつつも、労基署の調査結果によるものとして原告らの主張とほとんど変らない具体的主張をし、従事作業及びこれに対応する従事期間についても、同人のクロム被暴作業(パルプ運搬・投棄)従事歴自体は認め、更に、同人が具体的にクロム被暴、吸入をしたことも争つておらず(第二編第五章第二節第二の二2)、同人が、右作業に従事して前記1(二)のような限定の下で前記の一般的因果関係をあてはめることができるようなクロム被暴、吸入をしたことも争つていないと解される。

結局、被告国は、同人に対する被告会社の加害行為に関しては、第二編第五章第二の三2(三)で述べている肺がんの原発性の点のみを争つているものである。

(3) 死亡者山田について

被告国は、死亡者山田については、被告会社と同様、そのクロム被暴、吸入、肺がん罹患等前記の各点をすべて争つている。

3 確定した事実及び以下検討・判断する事実

(一) 確定した事実

右2によれば、本件においては、原告らと被告国との間で、死亡者中村、同小坂、同櫻庭、同中井、同大渕、同佐藤、同今西、同池田、同工藤に対する被告会社の加害行為の存在は、証拠による認定を待たずに確定していることになる。

(二) 以下検討判断する事実

右2で述べたところに基づき、以下、原告らと被告会社との間では、全死亡者について、前記1で述べたところに従つて、被告会社の死亡者に対する加害原因行為、被害発生、個別的事実的因果関係の存否につき(証拠により)検討し、被告会社の加害行為の存否について判断する。

また、原告らと被告国との関係では、以下、死亡者松浦の肺がんの原発性の有無(個別的事実的因果関係)、死亡者山田に対する被告会社の加害原因行為、被害発生、個別的事実的因果関係の存否につき、前記1で述べたところに従つて(証拠により)検討し、被告会社の右両名に対する加害行為の存否について判断する。

二  死亡者中村、同櫻庭、同中井、同佐藤、同今西、同池田、同工藤について(原告ら、被告会社間)

1 死亡者中村ら七名のクロム酸塩等製造作業従事

(一) 原告らと被告会社との間で、死亡者佐藤、同工藤の各勤務先、勤務期間、従事作業及びこれに対応する従事期間が別添六記載のとおりであることは争いがない。

(二) 死亡者中村、同櫻庭、同中井、同今西、同池田については、各勤務先のほか、別添六記載の勤務期間、クロム酸塩等製造工程での従事作業及びこれに対応する従事期間のうち、次の部分は原告らと被告会社との間で争いがない。

(1) 死亡者中村

勤務期間が昭和一一年六月から昭和四三年三月までであること、昭和一二年から昭和一八年まで精製液工程の重クロム酸ソーダ製品乾燥・包装、昭和二三年から昭和二六年まで蒸発・芒硝荷作り・製品乾燥、昭和二七年から昭和三二年まで粉砕、昭和三三年から昭和四三年三月まで芒硝荷作り・製品乾燥の各作業に従事したこと。

(2) 同櫻庭

勤務期間のうち昭和三七年一〇月から昭和四六年七月までの部分、右期間浸出工程の跳出し作業に従事したこと。

(3) 同中井

勤務期間が昭和一二年から昭和四八年までであること、昭和二二年から昭和四一年まで蒸発、昭和四三年から昭和四六年まで重クロム酸カリ工程の各作業に従事したこと。

(4) 同今西

勤務期間のうち昭和二七年五月から昭和四九年四月までの部分、昭和二七年五月から昭和二八年三月まで蒸発、昭和二九年四月から昭和四六年八月まで浸出の各作業に従事したこと。

(5) 同池田

栗山工場での勤務期間が昭和三六年八月一日から昭和四四年二月までであること、徳島工場での勤務期間のうち昭和四四年三月から昭和五六年六月一〇日までの部分、昭和三六年八月から昭和四〇年三月まで栗山工場の無水クロム酸工程、昭和四四年三月から昭和四九年四月まで徳島工場の配合・焙焼の各作業に従事したこと。

(三) 右(二)の争いのない事実、前記第二章第一の認定事実及び<証拠略>を総合すれば、原告らと被告会社との間で、死亡者中村、同櫻庭、同中井、同今西、同池田の勤務期間、栗山工場のクロム酸塩等製造工程での従事作業及びこれに対応する従事期間は別紙「死亡者中村ら七名の勤務期間等一覧表(原告らと被告会社の間の認定)」(以下「別添五〇」という。)記載のとおり認められる。

2 死亡者中村ら七名のクロム粉じん等の被暴、吸入

前記第三章第五で要約説示したとおり、栗山工場のクロム酸塩等製造工程のうち、塩基性硫酸クロム工程を除く各工程の作業及び各工程に直接属さないパルプ運搬・投棄、営繕、雑役の各作業の作業環境は、いずれも当該工程等の稼動開始から廃止に至るまでの全期間(前記第三章第二の一2の生産停止期間を除く。)を通じて、クロム含有粉じん、ミスト又は液滴が(大部分の工程では大量に)発生し、これが職場の空気中に飛散、発散、拡散して、作業員がこれに被暴、吸入するという劣悪な状態にあり、また、昭和三七年以降の鉱石乾燥工程の職場を除いて、いずれの職場においても、作業員が被暴、吸入した粉じん等には六価クロムが含まれていたことは明らかであるところ、これを前提にして、更に、前記第三章、特にその第二で個別的具体的に認定した各工程等の作業環境の状況と右1で認定したところを総合すれば、原告らと被告会社との間で、死亡者中村ら七名は、いずれも、同工場のクロム酸塩等製造工程のうち塩基性硫酸クロム工程以外の各工程等の作業に従事していた者であり、右製造工程における作業に従事した全期間にわたつて六価クロムを含む大量のクロム含有粉じん、ミスト又は液滴に被暴し、これを吸入したもの(被告会社の加害原因行為)と認められる(昭和三七年以降の鉱石乾燥工程作業従事者はいない。)。

そうして、右七名の死亡者の右製造工程における六価クロム被暴作業従事期間は、別添五〇の「六価クロム被暴作業従事期間」欄記載のとおりとなり、いずれもその六価クロム暴露期間(六価クロム被暴作業従事期間)は四年以上となる。

以上のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

3 死亡者中村ら七名の肺がん罹患及び死亡並びにこれに係る因果関係

(一) 原告らと被告会社との間で、死亡者櫻庭、同中井、同佐藤、同今西、同池田、同工藤が肺がんに罹患し、これが死因となつて死亡したこと及びその生年月日、死亡年月日、死亡時年令について争いがなく、<証拠略>を総合すれば、死亡者中村が肺がんに罹患し、これが死因となつて死亡したこと及びその生年月日、死亡年月日、死亡時年令が別添六記載のとおりであることが認められ、右2の認定事実と<証拠略>を総合すれば、死亡者中村ら七名の肺がん罹患時期が、その六価クロム暴露期間(クロム被暴作業従事期間)が四年以上経過した後であることは明らかである。

以上1、2、3(一)で認定説示したところをまとめると別添五〇の該当欄記載のとおりとなり、また、各死亡者のクロム被暴開始時期から死亡までの経過期間(潜伏期間)も、同表の該当欄記載のとおりである。

(二) 被告会社は、死亡者中村ら七名が罹患した肺がんの原発性についても争つているところ、本件においては、右肺がんの原発性を疑わせるような反証は全くなされていないので、前記一1(三)で述べたように、前記2の認定事実及び右3(一)の認定事実から死亡者中村ら七名の肺がんが原発性のものであると推認することができる。

(三) 前記第四章第四の二で認定したクロム酸塩等製造作業者における肺がんとクロム被暴、吸入との一般的因果関係の存在、前記2、3(一)・(二)の各認定事実を弁論の全趣旨に照らして総合考慮すれば、原告らと被告会社との間でも、死亡者中村ら七名の罹患した肺がんは、栗山工場のクロム酸塩等製造作業における六価クロムを含むクロム被暴、吸入に起因して発症したものと推認され、したがつて右七名の死亡も右クロム被暴、吸入に起因することになり、他に右推認を妨げるような事情は見出せない。

4 まとめ

以上1ないし3のとおり、死亡者中村ら七名については、原告らと被告会社との間でも、被告会社の加害原因行為に加えて、肺がん罹患・これによる死亡という被害発生及び右両者間の個別的事実的因果関係の存在のいずれもが認められることになり、被告会社の右七名の者に対するそれ自体として違法な加害行為の存在が立証されたことになる。

三  死亡者小坂について(原告ら・被告会社間)

1 死亡者小坂のクロム酸塩等製造作業従事

死亡者小坂が昭和一一年から昭和二九年一一月までの間被告会社栗山工場に勤務したことは、原告らと被告会社との間で争いがないところ、前記第二章第一の認定事実、<証拠略>を総合すれば、死亡者小坂は、大正一五年ころから被告会社の前身の日本電気冶金株式会社大垣工場でフエロアロイ製造作業に従事していたが、昭和一一年四月ころ、栗山工場のフエロアロイ製造工程(電気炉部門)の操業開始に合わせて同工場に転勤し、昭和二〇年ころまで右工程の作業に従事した後、昭和二一年ころ重クロム酸ソーダ製造工程(焼成工程、精製液工程)に移り、昭和二二年の右工程の操業再開以降同工程の作業長の職に就いていたこと、作業長とは、現場(各工程の職場)で一般の作業員を指揮監督する立場の職制であり、職場内にクロム粉じん等が発生、飛散、発散、拡散していれば、一般作業員と同様にこれに被暴、吸入するような職種でもあつたこと、その後、死亡者小坂は昭和二九年一一月二〇日ころ被告会社を退職したが、退職二、三年前すなわち昭和二六、七年には重クロム酸ソーダ製造工程から守衛に配置換えされ、以後守衛の業務に携わつていたこと、したがつて、死亡者小坂は守衛に転ずる前、昭和二二年を含め、少なくとも四年以上は重クロム酸ソーダ製造工程の作業に従事したことが、原告らと被告会社との間で認められる。

<証拠略>によれば、昭和五〇年当時既に被告会社には死亡者小坂の就業記録等は全く残つておらず、本件全証拠によつても、同人のクロム酸塩等製造作業離業(守衛への配置換え)の具体的時期、重クロム酸ソーダ製造工程中の具体的な従事工程部分は判然としない。

なお、<証拠略>には、死亡者小坂らの職歴調査結果として、同人の右離業時期が昭和二四年である旨の記載があるが、この書面は、その中に記述されているとおり、昭和五〇年九月ころ、右のように同人の就業記録等が全く残存しない中で、被告会社担当者が栗山工場の元従業員らに対する聞き取りに基づいて作成したものであることに鑑みれば、右記載部分の存在は必ずしも前記認定を妨げるものではないと解され、他に前記認定に反する証拠はない。

2 死亡者小坂のクロム粉じん等の被暴、吸入

前記第三章第二で認定説示したとおり、昭和二〇年代の栗山工場の重クロム酸ソーダ製造工程(焼成工程及び精製液工程)の作業環境は、クロム酸塩等の生産量が少なかつたことを考慮しても極めて劣悪であり、環境保全設備は皆無に等しく機械化も進まず、原始的な作業、人力、手作業に負う部分がほとんどを占め、右各主工程のいずれの工程部分においても六価クロム含む大量のクロム粉じん、ミスト又は液滴が発生し、これが職場に飛散、発散、拡散し、作業員がこれに被暴、吸入するという状態にあつたのであり、この点と右1の認定事実とを併せると、原告らと被告会社との間でも、死亡者小坂が、四年以上にわたる右工程での作業従事中に六価クロムを含む大量のクロム粉じん等に被暴、吸入したこと(被告会社の加害原因行為)が認められる。

3 死亡者小坂の喉頭がん罹患及び死亡並びにこれに係る因果関係

(一) 死亡者小坂が喉頭がんに罹患し、これが死因となつて昭和四四年一〇月二四日死亡したことは、原告らと被告会社との間に争いがないところ、右2の認定事実と<証拠略>によれば右喉頭がんが同人の六価クロム暴露期間(作業従事期間)が四年以上経過した後に発症したことは明らかである。また、同人のクロム被暴開始時期から死亡までの経過期間(潜伏期間)は約二二年九か月である。

(二) 被告会社は、死亡者小坂についてもその喉頭がんの原発性を争つているが、<証拠略>によれば、同人の死因について、担当医師は、直接死因は喉頭がんであること、喉頭がんの原因となつた疾病や併発疾病はない旨診断していることが認められるところ、本件においては、右医師の判断を疑わせるような反証は全くなされておらず、前記一1(三)で述べたような推認の方法によるまでもなく、右診断結果から直接同人の喉頭がんの原発性を認めることができる。

(三) 前記第四章第四の二で認定したクロム酸塩等製造作業者における喉頭がんとクロム被暴、吸入との一般的因果関係の存在、前記2、3(一)・(二)の各認定事実を弁論の全趣旨に照らして総合考慮すれば、原告らと被告会社との間でも、死亡者小坂の喉頭がんは、栗山工場のクロム酸塩等製造作業における六価クロムを含むクロム被暴、吸入に起因して発生したものと推認され、したがつて、同人の死亡も右クロム被暴、吸入に起因していることになり、他に右推認を妨げるような事情は見出せない。

4 まとめ

以上1ないし3のとおり、死亡者小坂については、原告らと被告会社との間でも、被告会社の加害原因行為に加えて、喉頭がん罹患・これによる死亡という被害発生及び右両者間の個別的事実的因果関係の存在のいずれもが認められることになり、被告会社の同人に対するそれ自体として違法な加害行為の存在が立証されたことになる。

四  死亡者松浦について(原告ら・被告ら間)

1 死亡者松浦のクロム酸塩等製造作業従事及びクロム粉じん等の被暴、吸入について(原告ら・被告会社間)

(一) 原告らと被告会社との間で、死亡者松浦が昭和二〇年一一月二日から昭和二九年一一月二〇日まで栗山工場に勤務していたことは争いがないところ、被告会社は、同人が右期間中パルプ(浸出残滓)の運搬・投棄作業に従事していた旨の原告らの主張を争つているので、この点につき検討するに、前記第二章第一、第三章第二の八で各認定した事実、前記第五章第二の一で認定した原告竹田の栗山工場における勤務時間、従事作業及び<証拠略>によれば、栗山工場においては、侵出槽から跳ね出されたセカンドパルプを、戦後クロム酸塩等製造再開(昭和二二年)から昭和三二年までは荷馬車に積んで移送して工場内に野積みにしたり、工場外に搬出・投棄していたが、昭和三二年以降は、トラツクに積んで工場外に搬出・投棄するようになつたこと(これらの点は原告らが自ら主張し(請求原因第三章第三の六)、被告会社との間で争いのない事実である。)、右荷馬車による運搬・投棄については、昭和二四、五年までは原告竹田の父伝吉が、右以降は原告竹田が父に代わつて、被告会社から一手引き受けの形で請け負つた上、馬を三ないし五頭と使用人数人を使いながら自ら行つていたこと、昭和三二年右運搬手段が荷馬車からトラツクに変わつたため、原告竹田は右請負いをやめ、被告会社に雇われてトラツク運転手として右運搬・投棄に従事するようになつたことが認められる。

他方、右各証拠によれば、死亡者松浦は、もと軍に勤務していたが、戦時中栗山工場が軍の指定工場になつたことに伴い同工場の自動車運転手の業務に従事するようになり、戦後も、そのまま同工場の従業員として自動車運転手兼物品倉庫番の作業に従事していたことが認められるが、原告ら主張のような、同人が同工場勤務の全期間にわたつて、自動車によるパルプ運搬・投棄に携わつたことや恒常的に前記竹田の運搬・投棄作業を手伝つていたことを示す証拠はなく死亡者松浦は、パルプ運搬・投棄の作業を行つたことはあるものの、ある程度日常的な業務として、前記の竹田の運搬・投棄作業と並んで、あるいはこれを手伝う形でこれを行うようになったのは、せいぜい退職前の半年ないし一年くらいの期間にすぎないと認められ、また、右各認定事実と弁論の全趣旨とを総合すると、それ以前にも、死亡者松浦が自動車運転手として原告竹田らの右作業を手伝うことも極くたまにはあり得たと推認されるにとどまる。また、ほかに、死亡者松浦が、同工場のクロム酸塩等製造工程の他のクロム被暴作業に従事していたことを認めるに足りる証拠もない。

そうすると、右認定したところを前提にする限り、これと前記第三章第二の八のパルプ運搬・投棄作業の劣悪な作業環境に関する認定事実を併せれば、同人が右作業に従事して六価クロムを含むクロム粉じん等に、多少とも継続的に被暴、吸入したことがあるのは最大限一年間にすぎないことになる。

(二) ところが、前記第四章第四の二11で要約説示したとおり、クロム酸塩等製造作業における六価クロム被暴、吸入と肺がんとの間の一般的因果関係は、原則として六価クロムの暴露期間(クロム被暴作業従事期間)が四年以上にわたる場合に限つて認めることができ、しかも、右暴露期間におけるクロム被暴、吸入は継続的なものでなければならないところ、右(一)で認定したような最大限みてもわずか一年間の、しかも、必ずしも十分に継続的なものではないと認められる六価クロム被暴作業従事を前提にして、右一般的因果関係をあてはめることができるとするためには、死亡者松浦について個別具体的に、極めて大量の六価クロム被暴、吸入の事実があつたことに加えて、同人の肺内に異常に大量のクロム成分が蓄積されていたことなど、特殊例外的な事情が証明されなければならないことになる。

(三) しかるところ、死亡者松浦については、被告国(前記一2(二)のとおり被告会社の同人に対する加害原因行為の存在は争つていない。)との関係では、必ず同人の肺がんの原発性の有無の判断をしなければならないことに加えて、右の原発性の有無の検討の過程で右(二)の特殊例外的な事情の存在の認定にも資する事実関係が明らかにされ得ることから、被告会社との関係でも、直ちに右の特段の事情の存否の判断に移らず、以下、まず、同人の肺がん罹患・死因、その原発性の有無につき判断することにし、これらの点について原告らの主張が認められる場合に、被告会社との関係で右の特段の事情の存否につき判断することにする。右の原発性の点が認められない場合には、前記認定の一般的因果関係の存在を前提にする方法では、右の特段の事情の存否の判断を要せず、被告ら双方との関係で同人の肺がん罹患・死亡は、前記(一)の作業従事と個別的事実的因果関係にある被害であるとする余地がないことになる。

2 死亡者松浦の肺がんの原発性について(原告・被告ら間)

(一) はじめに(死亡者松浦の死因等について)

(1) 原告らと被告会社、被告国の双方との間で、死亡者松浦が肺がんに罹患し、昭和四五年一一月三日四八歳(生年月日大正一〇年一一月一八日)で死亡し、その死因が肺がんであつたことについては争いがない。

(2) しかし、前記一1(二)のとおり、前記第四章第四の二で認定説示したクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん発症との一般的因果関係(因果則)の存在を前提にして、個別のクロム酸塩等製造作業者に発生した肺がんにつきそのクロム被暴、吸入との事実的因果関係を肯定するためには、当該肺がんが原発性のものであることが要件になるところ、被告らはいずれも、死亡者松浦が罹患した右の肺がんの原発性を争い、被告会社は、更に、右の肺がんが膵臓に原発したがんの移転によつて生じたものである旨、詳細な主張をしている。

(3) ところで、前記一1(三)で、本件では、原則として六価クロム被暴作業従事期間が四年以上の場合、又はこれが四年未満であつても例外的に特に大量の六価クロム被暴、吸入があつた場合には、反証のない限りこの事実から当該作業者に発生した肺がんの原発性を事実上推認できる旨指摘したが、右1で認定したように、死亡者松浦の栗山工場のクロム酸塩等製造工程における多少とも継続的な六価クロム被暴作業従事期間は最大限一年間にすぎないのであるから、結局、右1(二)で指摘した特殊例外的な事情の存在が証明されない限り、そもそも同人の肺がんの原発性に関し右の推認を行う前提事実に欠け、右の推認の成否を検討する(反証の有無のみを検討する)方法では原発性の有無の判断を行うことはできないことになる。

他方、右1(三)で述べたとおり、ここでは、右の特殊例外的な事情の存否の判断をひとまず措いて同人の肺がんの原発性の有無を検討することにしたので、以下、この点に関し、右の推認の方法によらずに検討することにするが、その検討過程では、本件全証拠を基礎にして右の原発性についての本証、反証の成否を総合的に判断するので、仮に右のような事情が認められる場合にも推認を妨げるに足りるような反証となるべきものの有無も同時に検討されることになるから、結局、以下、右の推認の方法による原発性の認定の可否についても明らかにされることになる。

(4) しかるところ、本件においては、死亡者松浦の肺がんの原発性について、原発性肺がんとする診療段階での臨床医の診断と原発性膵臓がんの転移によるものとする病理医の剖検診断(病理医の側から見れば臨床医の誤診の症例とされている。)とが真向から食い違い、同人の症例に関する二名の鑑定証人(証人江波戸俊彌、同中村恭二)も結論について正反対の見解を示すとともに、具体的事象に関する解釈、意味付け等についてもことごとく異なつた意見を提示している。

そして、原告らの請求原因第五章第二の五の主張は、右の臨床医の診断等並びに病理専門医である証人江波戸俊彌(以下「証人江波戸」ともいう。)の陳述書(<証拠略>)及び証言(以下「江波戸証言」ともいう。また、陳述書、証言中の証人江波戸の見解等を合わせて「江波戸意見」ともいう。)に依拠して組み立てられ、これに対し、被告会社の第二編第五章第一節第二の五及び第三編第三章等二の二の各主張は、剖検記録<証拠略>、剖検診断書<証拠略>に示された剖検所見等並びに病理専門医である(右剖検を実施した北大第一病理学教室の助手(当時)であつた。)証人中村恭二(以下「証人中村」ともいう。)の報告書(労基署に対するもの、<証拠略>)、陳述書(<証拠略>)及び証言(以下「中村証言」ともいう。また、右報告書、陳述書、証言中の証人中村の見解等を合わせて「中村意見」ともいう。)に依拠して組み立てられ、事実摘示で示したように、その争点は多岐にわたり、かつ、鋭く対立している。

このような主張立証の状況の下では、一般にすぐれて自然科学的医学的な事象に対する複雑・微妙な評価を含む判断を、裁判所が証拠調べの方法で行うことには相当に困難を伴うところ、当裁判所としては、以下、あくまで、立証主題である「死亡者松浦の肺がんが原発性のものである。」という事実についての訴訟上の心証を獲得し得るか否かという立脚点に立つて、まず、同人の診療経緯等、剖検所見等を明らかにし、次に、争点につき順次検討して、右肺がんの原発性の立証の成否を判断することにする。

(二) 死亡者松浦の診療経緯等

(1) 死亡者松浦の診療経緯

死亡者松浦の診療経緯については、原告らは別添二九甲欄記載のとおり主張し、被告会社は同乙欄記載のとおり主張しているが、甲・乙欄の主張が一致する点はもとより被告会社が対応する主張を行つていない原告らの主張部分についても、弁論の全趣旨から被告会社はこれを明らかに争つていないと認められ、被告国は、弁論の全趣旨から原告らの別添二九甲欄の主張をいずれも明らかに争つていないと認められるところ、右当事者間に争いのない事実及び<証拠略>によれば、死亡者松浦の診療経緯につき次のとおり認められる(なお、本件では、左肺摘出手術時の手術表(<証拠略>)、病理組織検査報告書二通(<証拠略>)以外に、死亡者松浦の診療録等診療時の医療関係文書(原告らは送付嘱託により取得している。)は一切書証として提出されていない。)。

〈1〉 〔昭和四四年一一月初旬〕当時の勤務先の定期健康診断により左中肺野部に四・〇×二・六(四・〇cm×二・六cmの意味。以下同じ。)のやや円形、縁辺不整の異常陰影が発見され、肺結核を窺われた。岩見沢市立病院に通院・加療。

〈2〉 〔昭和四五年(以下特に年を付さないが、日付はすべて昭和四五年)二月二四日〕陰影は五・〇×五・五に拡大。〔三月九日〕同じく五・五×五・六に拡大。〔四月七日〕同じく五・五×六・六に拡大。

〈3〉 〔四月二〇日〕岩見沢労災病院入院。肺がんの疑いを持たれる。北大病院に精密検査依頼。

〈4〉 〔六月四日、六日〕北大病院の検査結果により進行した肺がんと診断される。検査結果「左中肺野部の陰影は七・〇×七・五逆三角形様に拡大。気管支B6が狭窄」等。

〈5〉 〔六月一二日ころ〕北大病院第一内科入院。

〈6〉 〔七月三日、七日〕この時期までに咯痰細胞診二回、気管支擦過細胞診八回が行われ、肺がんの組織型は腺がんであると診断される。

〈7〉 〔七月九日〕FAMT(複数の抗がん剤投与等による化学療法)が開始される。

〈8〉 〔七月二〇日〕肺がんの自覚症状が出始める。

〈9〉 〔七月三一日〕肺シンチグラム(放射性物質を使用して血流の分布等を調べ、患部の発見を行う手法)実施。左肺門部に欠損像が発見される。

〈10〉 〔八月五日〕本人が手術を希望したので、同病院第二外科で受診。その際連絡された第一内科の診断名は「肺がん(腺がん)」。腹膜炎等の他臓器の異常は指摘されず、診断名として全く挙げられていない。

〈11〉 〔八月一一日〕第二外科に転科入院。

〈12〉 〔八月二六日〕第二外科で左肺全葉摘出手術を受ける。手術後、同病院付属検査部病理組織検査室(以下「検査部」ともいう。)に摘出左肺の病理検査依頼。手術時の所見は後記(2)のとおり。

〈13〉 〔八月三〇日、九月二日〕検査部から病理検査結果が報告される。報告内容は後記(3)のとおり。

〈14〉 〔一〇月一三日〕術後の肝臓への転移が疑われ、第二外科から第三内科に診察依頼。診察結果「肝臓転移が一応考えられるが、肝シンチグラム、腹腔鏡検査が必要である。」

〈15〉 〔一〇月一七日〕胸膜へのがん転移が確認される。

〈16〉 〔一〇月二一日〕放射線科から肝シンチグラム結果報告。検査結果「肝臓は右葉左葉とも著明に腫大しており、右葉は全体にわたつて欠損している。おそらく全部が転移で占められている。広範囲の転移が疑われる。」

〈17〉 〔一一月三日〕死亡。死亡時の臨床医の診断は「左肺がん(組織型は腺がん)。肝臓に転移あり。」。

死亡約二時間後北大第一病理学教室において剖検実施。

(2) 手術時の執刀医の所見

<証拠略>によれば、右(1)の〈12〉の左肺全摘手術時の執刀医の所見等は次のとおりである(手術表に記載されたもの)。

イ 診断

(イ) 臨床診断「左肺がん」

(ロ) 手術診断「腺(リンパ節を指している。)転移を伴う左肺がん」

(ハ) 手術方式 リンパ節摘除を伴う肺葉切除手術

ロ 手術経過及び所見等(全文を掲げる。)

左肺全摘及びリンパ節郭清。左の後側前方切開。第五肋骨床にて胸腔内に入る。黄色の胸水一五〇cc。癒着ほとんどなし。壁側胸膜と臓側胸膜が全体的に充血。

肺門にガチヨウ卵大の固い腫瘤を触知、可動性ほとんどなし。特にS6は慢性無気肺状。弾性硬ほとんど萎縮しておらず、後方より剥離するに、大動脈、食道に浸潤を認めず。分離可能。

次いで下肺静脈及び上肺静脈を切離。気管分岐部の近位部で肺動脈も切り離す。肺門の腫瘤は主として塊状に一体となつた転移したリンパ節から成つていることが明らかとなり、左主気管支周囲はこのような大小のリンパ節に囲繞されていた。特に気管分岐部直下には拇指頭大のリンパ節が認められた。主気管支壁は、分岐部の約一cm近くまで浮腫状に肥厚しており、浸潤も疑われた。あまり余裕もなく止むなく肥厚の口側で主気管支を切離。

二―〇ナイロン糸を用い、マツトレス及び結節縫合、二層に閉鎖。更に大動脈弓、左傍気管などの縦隔リンパ節を可及的に郭清、止血を確かめホスタサイクロン二五〇mg、カナマイシン一g注入、シリコンロールドレーン一本挿入。創部を閉鎖。第五肋骨はほとんど全部切除した。

(3) 病理検査報告

<証拠略>によれば、前記(1)の〈12〉の検査部による摘出左肺の病理検査結果は次のとおりである。

イ 第一信(八月三〇日付け)

(イ) リンパ節の組織学的所見

〈1〉 LD(リンパ節)―一(気管分岐部)一ケ がん転移あり。

〈2〉 LD―二(左傍気管部)一ケ がん転移なし。

〈3〉 LD―三(肺門下部)一ケ 同右

〈4〉 LD―四(縦隔部)四ケ 同右

〈5〉 LD―五(肺靱帯部)一ケ 同右

(ロ) 診断

気管分岐部にのみがん転移あり。

ロ 第二信(九月二日付け)

(イ) 腫瘍の組織学的所見

腺上皮起源のがんである。上皮はかなりよく分化しており、粘液を産生している。また、組織型は乳頭状を示し、通常の腺がんとは様相を異にしている。

肺胞上皮細胞がん(細気管支がん)とすべき組織像と考える。

端断(プレパラート四)にはがん細胞は発見できない。

(ロ) 診断

細気管支肺胞上皮がん

(三) 死亡者松浦の剖検所見等

(1) 剖検記録

前記(二)(1)〈17〉のとおり、死亡者松浦の死体は死亡約二時間後剖検に付されたが、<証拠略>によれば、その剖検記録(原文は大部分がドイツ語による表記。)には次のような所見が示されている。

イ 身体各部の所見(主要なものを示す。)

(イ) 外部所見の中で、

○ 両側腋窩リンパ節は指頭大。左鎖骨リンパ節大豆大。

○ 浮腫は全身に明らか。

(ロ) 内部所見の中で、

○ 腹腔の大網は横行結腸と癒着。腹腔内に純血約三〇〇〇cc。

○ 壁側腹膜 後腹膜付近で強い腫瘍の浸潤、後腹膜に腫瘍形成。

○ 腸間膜リンパ節は大豆大ないし指頭大のもの散在。

○ その他所見 腫瘍の浸潤により横隔膜と肝癒着。肺門部付近の後腹膜に腫瘍形成、大腸と癒着強く、この当たりから出血。

(ハ) 胸腔所見の中で、

○ ほとんどの肋骨の肋間リンパ節に転移又は直接の浸潤あり。一部では骨内への転移か。

○ 左第七肋骨付近に腫瘍浸潤、肋骨内にも浸潤。

○ 左胸膜全体が腫瘍のため肥厚。腫塊形成。心のう、胸壁への浸潤に移行している。

○ 胸腔内に血性液約一〇〇〇cc。

○ 心のうには血性液三五〇cc、腫瘍の浸潤は左胸腔に接して強く一部心のう内に腫瘍の浸潤を見る。

(ニ) 左肺

○ 手術ずみとして何らの所見記載なし。

(ホ) 右肺

○ 無気肺状とあるのみで特段の所見記載なし。

(ヘ) 脾臓

○ 腫瘍に関する所見記載なし。

(ト) 腎臓

○ 左腎、被膜に転移あり。左副腎は転移により腫瘍塊と化す。

○ 右腎、上極にクルミ大の腫瘍転移。右副腎の転移に移行。

(チ) 肝臓

○ 三三七五gの重量あり。

○ 肝表面に腫瘍浸潤、硬く中心部液化を思わせる。

○ 割面中心部(右葉)は壊死。液化し大空洞を形成。

○ 胆道拡張せず、肝外部では狭窄なし。

○ その他所見 肝門部は膵臓周囲より後腹膜の腫瘍の浸潤あり。肝の壊死も単なる腫瘍によるものというよりも血管を冒されその循環障害が加担していると考えられる。

(リ) 胃

○ 異常なし。

(ヌ) 膵

○ 頭部 異常なし。総胆管は狭窄なし開口している。

○ 体部 実質内に約五×五の腫瘍あり。これにより膵臓がんを疑う。

○ 尾部 異常なし。

(ル) 腸管

○ 大腸の漿膜に腫瘍浸潤、肥厚。

(ヲ) 骨盤臓器

○ 直腸の漿膜に接近して腫瘍浸潤、腫瘍形成。

(ワ) 他の特記事項

○ 下大静脈 腫瘍の浸潤が内膜面に出、この上に血栓形成。狭窄あるも閉塞はしていない。

○ 右腎静脈周囲の腫瘍のため圧迫され、強度狭窄。軽うじてゾンデが通る。

○ 右の各所見が下半身に強い全身性の浮腫と関係あると思われる。

ロ 病理解剖診断

〈1〉 原発がん 膵臓がん(体部)

〈2〉 転移と播種

〈1〉左肺・手術後(全肺葉切除)、右肺、〈2〉右腎臓、〈3〉両副腎、〈4〉肝臓、〈5〉肺門、縦隔、肝門、後腹膜、腸間膜の各リンパ節、〈6〉心のう(浸潤)、〈7〉両側胸膜がん腫症(がん性胸膜炎)、右約一〇〇〇cc、左約三五〇cc、〈8〉腹膜がん腫症(がん性腹膜炎)純血約三〇〇〇cc、〈9〉下大静脈、右腎静脈に腫瘍浸潤、血栓形成

〈3〉 右無気肺

〈4〉 うつ血脾

ハ 組織学的診断

「管状腺がん」未分化傾向強く、異形細胞多数出現。組織は壊死強い。ある程度FAMT等抗がん剤の影響と考えられる。

ニ なお、<証拠略>によれば、この剖検記録は多くの部分が剖検直後に記載されたが、ロの〈2〉〈1〉の「右肺」など相当期間経過後に書き込まれた部分もあることが認められる。

(2) 剖検診断書

<証拠略>によれば、右(1)の剖検所見を基にして、第一病理学教室での検討を経た上で作成された死亡者松浦の剖検診断書には次のような所見が記載されている。

イ 手術後臨床診断は「左肺がん(組織型は腺がん)、肝臓転移あり。」

ロ 剖検診断

(イ) 主病診断名

膵臓がん 膵体部に約五×五の堅い孤立性の腫瘍あり。実質内で周囲からの浸潤と考え難く、これを原発巣と考える。

組織型は管状腺がん。

(ロ) 副病変

転移 左胸膜(全葉摘出手術後)、左胸壁・肋骨、右肺・胸膜、右腎臓、両副腎、肝、肺門・縦隔・肝門・後腹膜・腸間膜各リンパ節、心のう、腹膜がん腫症、下大静脈・右腎静脈に腫瘍浸潤・血栓形成・内腔狭窄

(ハ) 偶発所見

右肺の無気肺(胸水貯留による圧迫)、脾臓のうつ血

(ニ) 総括

原発部は組織型によつては決定できず、肉眼所見により肺よりも膵原発と考えた。腫瘍縮胞は未分化の傾向が強く、異形縮胞、変性等多く、組織は転移巣すべてに壊死の傾向が強い。ある程度FAMTの影響と考えられる。

(四) 死亡者松浦の肺、膵臓以外の臓器等の原発性がんの存否及び肺原発性の立証の構造

以上(二)、(三)で認定したところを前提にして、以下、死亡者松浦の肺がんの原発性の有無について具体的に検討することにするが、ここでは、まず、同人の肺・膵臓以外の臓器等の原発がんの存否を検討し、その検討結果に基づいて肺がんの原発性の立証の構造につき考察する。

(1) 肺、膵臓以外の原発がんの存否

本件では、弁論の全趣旨によれば、原告ら及び被告らはいずれも、死亡者松浦の肺及び膵臓以外の臓器、器官に原発性がんが発生・存在しなかつたことを前提にしており、この点は明らかに当事者間に争いのない(間接)事実であると解されるところ、これに加えて前記(二)、(三)の各認定事実及び<証拠略>を総合考慮すれば、右当事者間に争いのない事実をそのまま認めることができ、したがつて、同人の肺がんが膵臓以外の臓器、器官に原発したがんの転移によつて生じたことはあり得ないと認められ、右認定に反する証拠はない。

(2) 肺原発性の立証の構造

イ 本件では、右(1)の認定事実を前提にした上で、前記(一)(4)のとおり、江波戸意見及びこれに依拠する原告らの主張では、前記(二)の臨床医の診断は結果的にも正しく、肺がんは原発性のものであり、膵臓原発がんの転移によるものではないとするのに対し、中村意見及びこれに依拠する被告会社の主張では、前記(三)の剖検診断が正しく、膵臓原発のがんが肺に転移したものであるとする。

ロ このように、本件では、死亡者松浦の肺がんの原発性に関しては、肺に原発したものなのか、それとも膵臓原発がんからの転移によるものなのかに問題が絞られ、江波戸、中村各証言によれば、当然のことではあるが、右両者の関係は、肺原発であれば膵臓原発がんの転移によることはあり得ず、膵臓原発がんの転移によるものであれば肺原発ではあり得ないという二者択一の関係に立つことになる(仮に重複がんであるとしたら、前者、すなわち肺原発がんの場合であり、膵臓原発がんは存しても、その転移によるものではないことになる。)。

ハ そうすると、立証主題たる「肺がんの原発性」の証明という面からいえば、最終的には、肺がんの原発性自体を肯定するに足りる事実関係が明らかにされる一方で、膵臓原発がんの転移によるものとの疑いが残らない立証がなされなければならないことになるが、その具体的な立証の構造は次のとおりになると解される。

(イ) 他に膵臓のがんの原発性等に関する如何なる事実が存するとしても、肺がんの原発性自体を決定的に裏づけるような決め手となる事実が存すると認められる場合には、当然にそれだけで肺がんの原発性は証明されることになる。

(ロ) (イ)のような決め手となる事実の存在は認められないが、肺がんの原発性の肯定に寄与するような状況事実が証明され、かつ、その状況事実だけに依拠すれば現実に肺がんの原発性を肯定できる場合には、〈1〉この状況事実を前提にして肺がんの原発性を肯定することを妨げるような事実関係が他に存在するとまで認めることができないときには、肺がんの原発性が証明されることになり、〈2〉このような事実関係が他に存在すると認められるときには、肺がんの原発性は証明されないことに帰すと解される。

(ハ) ところで、本件においては、前記ロで指摘したように肺がん原発と膵臓がん原発・肺転移とが二者択一の関係に立ち、膵臓がん原発・肺転移の肯定に結びつく資料は、反面、肺がん原発を肯定することを妨げ、疑念を抱かせるに足りるような事実関係にもなるところ、この面に即していえば、次のとおりになると解される。

すなわち、右(ロ)の〈1〉の肺がんの原発性を肯定することを妨げるような事実関係として、「〈イ〉膵臓がんの原発性の肯定に寄与するような状況事実(現実にこの事実だけに依拠して膵臓がんの原発性を肯定できるまでの必要はない。その疑いを持たせるに足りるものであればよい。)が存在し、かつ、〈ロ〉この膵臓がんが肺に転移した疑いが存する」、とまで認めることができないときには、肺がんの原発性が証明されることになり、この〈イ〉〈ロ〉の二点の存在がともに認められるときには、肺がんの原発性は証明されないことに帰するというべきである。

右〈イ〉の点のみ認められ、〈ロ〉の点が認められない場合には、結局、原発性膵臓がんとの重複がんの疑いが残る形で肺がんの原発性が証明されることになる。

また、本件では、原発性膵臓がんの存在及びその肺転移自体が立証主題ではないので、右のとおり、この点の証明(前記(1)、(2)ロの点に照らせば、肺がんの原発性の不存在証明と同じことになる。)までなされる必要はないのであるが、ただ、膵臓がん原発・肺転移を決定的に裏づける事実が現実に証明される場合には、そのことだけで前記(ロ)〈2〉のように肺原発の証明がないことに帰することになるのである。

(ニ) 更に、前記(1)、(2)ロで認定説示したところを前提とする限り、右(ロ)の肺がんの原発性の肯定に寄与するような状況事実の存在が証明されない場合でも、死亡者松浦の肺がんが膵臓原発がんの肺転移によるものではないとの立証(膵臓原発がんの不存在又は肺転移の不存在の立証)がなされるときには、肺がんが存在する以上この肺がんは原発性のものであると判断せざるを得ず、結局肺がんの原発性が証明されることになる。

ニ 以下、右イないしハで述べたところを踏まえて、まず、死亡者松浦のがんの存在部位(肺については前記のとおり争いがない。)を認定し、次に腫瘍の組織像による原発部位の判定の可否、肺がんの原発性自体に関する所見等を検討して肺がんの原発性の肯定に寄与する状況事実等の存否につき判断し、更に、肺がんの原発性認定の反対事実に関し、肺がんの原発性自体に関する消極所見の存否、膵臓がんの原発性及びその肺転移の疑いに関する所見等につき順次検討することにする。

(五) 死亡者松浦のがんの存在部位

死亡者松浦の左肺にがんが存在したこと自体は当事者間に争いがないところ、前記(三)の剖検記録及び剖検診断書においてがんの存在が認められたとされる各臓器、器官のうち、右肺及び肺門リンパ節以外の部位、すなわち、左胸膜、左胸壁・肋骨、右胸膜、右腎臓、両副腎、肝臓、膵臓、縦隔・肝門・後腹膜・腸間膜の各リンパ節、心のう、下大静脈、右腎静脈に剖検時がんが存在したことについては何らの反証、反論もないので、剖検記録、剖検診断書で示すとおり右当時右各臓器、器官にがんが存在したものと認められ、このうち膵臓のがんを除くものは、前記(四)で述べたように他からの転移(広義。狭義の転移及び浸潤の双方を含む。以下単に「転移」という場合には広義のものを指す。)によるものであることが明らかである。

なお、右肺、肺門リンパ節のがんの存否、胸膜がん腫症、腹膜がん腫症の存否については後に検討する。

(六) がんの組織像による原発部位の判定の可否

前記(三)の剖検所見が示すような死亡者松浦の全身に広がつていたがん(腫瘍)の組織像に関する原告らの主張は、原告らの他の主張や膵臓原発に関する被告会社の主張が腫瘍の物理的形状や存在状況、他の病変との相関関係等に依拠しているのと比べ、より直接的かつ無前提的に肺の原発性がんの存在を示すものであり、これが完全な形で認められると、右の点の認定の決め手となり得るものである。

(1) 肺がんの組織型の分類

江波戸、中村各証言によると、現在、肺がんの組織型の分類につき国際的に完全に統一された方式はないが、我が国では日本肺癌学会による肺がん取扱い規約によるもの(以下「肺がん規約分類」ともいう。)が専門家の間で最も通用しており、WHO(世界保健機関)によるもの(以下「WHO分類」ともいう。)がこれに次いでいると認められ、<証拠略>によれば、次のとおり認められる。

イ 肺がん規約分類では、肺がんの基本組織型を類表皮がん(扁平上皮がん)、小細胞がん、腺がん、大細胞がん、腺表皮がん、カルチノイドの主要な六種類と腺様のう胞がん等その余の三種類、その他、分類不能がんとに分類する。

この基本分類のうち、腺がんは、「腫瘍細胞が管腔形成性を示している組織型で粘液が多くの例に証明される。」と定義づけられている。

腺がんは、更に、分化度すなわち管腔形成像の著明度(逆にいえば異型性の強い腫瘍細胞の少なさ)により、高分化、中分化、低分化の三種に細分類され、また、胞巣の形態による分類として、腺管型、乳頭型に二大別され、乳頭型腺がんの一亜型として細気管支肺胞型(又は肺胞上皮細胞型、以下「肺胞上皮がん」ともいう。)が置かれている。

右の細気管支肺胞上皮型乳頭型腺がんについては、腫瘍細胞が既存の肺胞壁に沿つて増殖し、その壁に対して著しい破壊像を示さず、腫瘍の間質は、肺胞壁の血管と少量の結合織から成つているもの、と定義されている。

ロ WHO分類でも、肺がん規約分類と同様主要な六種類の組織型とその余の組織型を分類項目に挙げている。

WHO分類は、腺がんを腺房腺がん(肺がん規約の腺管型腺がんに当たる。)、乳頭型腺がん、細気管支肺胞上皮がんの三種に細分類しているが、細気管支肺胞上皮がんについては、円柱状の腫瘍細胞が既存の肺胞壁に沿つて増殖する腺がん、と定義している。

(2) 膵臓がんの組織型の分類

他方、膵臓がんの組織型の分類については、本件では、<証拠略>により日本膵臓病研究会の膵がん取扱い規約による次のような分類が示されている。

すなわち、右規約では、まず、膵臓がんの基本組織型を膵管がん、腺房細胞がん、島細胞がん、未分化がん、併存がん、分類不能、その他に分類している。

次に膵管がんは、腺がん、腺扁平上皮がん等更に多くの組織型に細分類されているところ、このうち腺がんについては、肺がんの場合と同様分化度による高分化、中分化、低分化の三種類の細分類や胞巣の形態による乳頭状、乳頭管状、篩状等の細分類が置かれている。

(3) 死亡者松浦のがんの組織像に関する江波戸意見

江波戸は、その意見の中で、死亡者松浦の臓器組織標本に基づく前記(五)で認定した各臓器のがんの組織像に関する所見として、「左肺(切除肺)の腫瘍には、管状(腺管型)腺がん、乳頭状(乳頭型)腺がん、肺胞上皮がん、大細胞がんの四種類が混在し、同一組織切片のプレパラートの顕微鏡写真像の中でも腺がんと肺胞上皮がん、大細胞がんと肺胞上皮がん、大細胞がんと管状腺がんの各混合部分が存する。

膵臓には腺がんと髄様がんの組織が混在する。

右腎臓、副腎、肝臓胸膜には腺がん、肺胞上皮がん、大細胞がんの組織像が混在する。

脊椎骨には肺胞上皮がん、肋骨には大細胞がんの組織像が存する。」

と述べ、右所見を前提にして、肺の腫瘍の組織像が多彩であること、肺以外の臓器等にも肺と同様に腺がん、肺胞上皮がん、大細胞がんの三種類の組織像が見られることが、原発性肺がん及びその転移によつて生じたがんの特徴であり、とりわけ、肺がん独特の組織型である肺胞上皮がんが肺以外の臓器等にも見られることは、原発性肺がんの存在及びその当該臓器への転移を示すものにほかならない、との見解を示している。

(4) 江波戸意見の検討

イ 肺胞上皮がんの存在所見について

(イ) <証拠略>によると、前記(1)で見たように肺胞上皮がんは腺がんの一種であり、肺がん規約分類では更に胞巣の型が乳頭型をしているという分類要素を加味されてはいるが、他の腺がんと区別される最大のメルクマールは、前記(1)のとおり腫瘍細胞が既存の肺胞壁に沿つて増殖し、腫瘍の間質が肺胞壁の血管と少量の結合織から成つているところにあり、当然に、たとえ腺を有してはいても肺胞を有することのない肺以外の臓器、器官に右の意味での肺胞上皮がん(以下「真正の肺胞上皮がん」ともいう。)が原発することはないことが認められる。また、肺以外の臓器等に原発した腺がんが肺に転移した場合には腫瘍の臓器模倣性が作用して肺胞上皮がんの組織像をとり得るが、もともと肺胞のない臓器に原発した腺がんが肺以外の臓器に転移しても真正の肺胞上皮がんの組織が形成されることはあり得ないことが認められる。

したがつて、死亡者松浦の右腎臓や肝臓等の腫瘍中に真正の肺胞上皮がんが存在するという江波戸の所見が正しければ、死亡者松浦の肺がんの原発性を決定的に裏づけるものとなり、この点の立証はなされたといつて差し支えないことになる。

(ロ) しかるところ、まず、前記各証拠に加えて<証拠略>によれば、同人の左肺に肺胞上皮がんの組織像をとるがん細胞が存在することが認められるが、この左肺の肺胞上皮がんの組織像が肺原発の肺胞上皮がんそのものか、それとも前記の他臓器等のがん、前記(四)(1)によれば具体的には膵臓原発の腺がんが転移し、臓器模倣をしたものなのかについては、本件全証拠によつても明らかではない。

(ハ) 次に、江波戸のいうように真正の肺胞上皮がんが他臓器等に存在するとすれば、前記の真正の肺胞上皮がんと他の腺がんとの区別のメルクマールたる「腫瘍細胞が肺胞壁に沿つて増殖し、肺胞壁の血管等をその間質とする」という状況、あるいはこのうち少なくとも肺胞壁に沿つた増殖という点が、当該臓器等の腫瘍組織中に認められなければならないことになるが、<証拠略>に照らして総合考慮すると、江波戸が指摘する当該臓器等の腫瘍組織の顕微鏡写真像の中に肉眼的に肺胞構造をとつていると認められる部分が存在するとは必ずしも肯認できず、また、間接的にも右腫瘍組織中に肺胞壁等が間質として存在することを肯定するに足りる資料もなく、更に、江波戸が示す「肺に原発した肺胞上皮がんがその間質を伴つてマスとなつて他臓器等に転移する。」という見解も、他の専門家の支持を得ていない独自のものであると認められ、そもそも肺の腫瘍組織が間質たる肺胞の組織を伴つて他臓器等に転移すること自体あり得ないのではないかという疑問も残るところ、ほかに、死亡者松浦の肺以外の臓器等の腫瘍組織中の前記肺胞構造等の存在を裏づけるに足りる証拠や右の疑問を払拭するに足りる証拠はない。

(ニ) そうすると、江波戸が真正の肺胞上皮がんであると指摘した他臓器等の腫瘍組織中に前記のメルクマールの存在を見出せない以上、これらの臓器等の中に真正の肺胞上皮がんの組織が存在するとも認めることができず、死亡者松浦の左肺以外の臓器等における真正の肺胞上皮がんの存在に関する江波戸の所見を正しいとすることはできないことになる。

(ホ) 右のメルクマールが欠落している限り、結局、江波戸意見からは、江波戸の病理医としての長年の体験等に照らせば、右他臓器等の腫瘍組織中には、前記(1)の組織分類上は腺管型腺がん又は乳頭型腺がんに当たるものの、間質の幅が狭く、肺胞状に遊離して腫瘍組織が存するなど、腺腔のかつこうや細胞の配列状況等が肺で見られる通常の真正の肺胞上皮がんのそれに近似していると解される組織像をとる腺がんが存在するということしか導くことができないのである。そして、右の意味での「肺胞上皮がん様組織像」が他臓器等の腫瘍組織に認められるとしても、前記(イ)で述べたところから明らかなように、真正の肺胞上皮がんの場合とは異なつて、死亡者松浦の肺がんの原発性を決定的に裏づけることにはならないのである。

ロ 大細胞がんの存在所見について

(イ) 前記(四)(1)で述べたとおり、本件では、死亡者松浦の肺がんは膵臓以外の臓器、器官で原発したがんが転移したものではないと認められるところ、前記(1)、(2)で認定したところによれば、肺がんには大細胞がんという組織型分類項目が存在するが、膵臓がんには大細胞がんという組織型分類項目は存在しない。

そうすると、前記(3)の江波戸の示す「死亡者松浦の左肺をはじめ右腎臓、副腎、肝臓、胸膜、肋骨には大細胞がんが存した。」という所見が正しければ、肺以外の臓器等の大細胞がんは膵臓原発がんからの転移によるとするより、肺原発がんからの転移によるとする方がより自然であることになり、少なくとも右所見は、肺がんの原発性を基礎づけ、膵臓原発がんの肺転移の疑いを払拭するための資料の一つとなり得ると解される。

ただし、本件全証拠によつても、膵臓原発がんが他臓器に転移した場合に、本来膵臓原発がんの組織型として挙げられていない大細胞がんの組織像を、当該臓器中でとり得ないとする証拠はないので、右の江波戸所見が正しくても、肺原発の肯定、膵臓原発がんの肺転移の否定の決め手とはなり得ない。

(ロ) そこで検討するに、まず、<証拠略>によれば、肺がんの組織型としての大細胞がんは、「大型の腫瘍細胞が特定の分化した配列、すなわち重層扁平上皮様の構造や、管腔形成などを示さない組織型をまとめたものである。一般に、腫瘍細胞は原形質に富み、核の染色性や形は多様で、核小体が目立ち、また、しばしば巨細胞を混じている。」(肺がん規約分類)「大きな核、著明な核小体、豊富な細胞質、そして通常明瞭な細胞境界を持ち、扁平上皮がん、小細胞がん、腺がんの特徴を持たない上皮性悪性腫瘍」(WHO分類)と定義されているところ、右各定義からも明らかなとおり、大細胞がんは、肺胞上皮がんのような実質的なメルクマールをもつて明確に特徴づけられる組織型というよりも、多分に扁平上皮がんや腺がん等に対する「その他」のがんの意味合いを持ち、分類技術上の所産である色彩も強いと解される。

そうして、肺がん規約では、大細胞がん以外の組織像を示す例が右の定義規定の示す大細胞がんの形態的特徴を有する組織像を伴つており、同一の腫瘍の中に両者が混在している場合には、後者が優勢であつても当該腫瘍を大細胞がんとしてはとり上げず、前者の低分化のものとすべきであるとしているが、<証拠略>によれば、右の点は、本来前記定義に適合する大細胞がんの組織像が存するとしつつ、異型の組織像混在の場合に単一組織型診断をするための単なる技術的処理方法(通常は面積の広狭による優勢度の高い方を採用する。)を示しているのではなく、組織像の混在と見られる場合の「大細胞がんの形態的特徴を有する組織像」は、実体的にも混在の相手方となつている組織像のがんの低分化のものであることが通常であるとするのが専門家の一般の見解であり、この見解に基づくものであることは明らかである。

(ハ) しかるところ、前記(三)(1)ハ、(2)ロ(ニ)の各所見や中村証言に照らしても、確かに、江波戸が大細胞がんの組織像であると指摘する組織標本の顕微鏡写真像の中には、巨細胞や大きな異形細胞など前記定義で大細胞がんの形態的特徴とされる点と同様の点が見られるものも少なくないこと(剖検所見や中村意見は、これをFAMTの影響によるのではないかと推測する。)は認めることができる。

しかし、他方、前記江波戸意見では、自ら、死亡者松浦の左肺の組織切片のうち一部については単一のプレパラートの顕微鏡写真像の中でも腺がん(細分類されたものを含む。)と大細胞がんとが混合していると認められるものがあるといい、更に、単一のプレパラートの顕微鏡写真像に見られる腫瘍の全組織が大細胞がんであると指摘するものについても、肋骨以外の臓器等(左肺、右腎臓、副腎、肝臓、胸膜)については、当該臓器等の他のプレパラートの顕微鏡写真像には腺がん(前同)の組織像が認められ、これと右の大細胞がんとが同一の腫瘍内で混在しているとの所見を示しているのであつて、前記剖検所見及び中村証言に照らしても、江波戸が大細胞がんであると指摘するものと腺がんとの同一腫瘍内での混在を認めることができるのである。

また、前記(ロ)の認定事実、<証拠略>によれば、肋骨についても、江波戸が大細胞がんの組織像であるとしたプレパラートの写真像が示す同一の腫瘍の他の部分に腺がん(前同)が混在していることも認められる。

そうすると、前記(ロ)の認定事実に照らすと、江波戸が大細胞がんの組織像であると指摘した腫瘍組織は、腺がんの低分化のものであつて、その写真像の中に大細胞がんの定義中にみられるような形態的特徴のいくつかを見せるにすぎないものである可能性が極めて高く、結局、「管腔形成を示さない」とか「腺がんの特徴を持たない」という要素を欠き、正確には前記の大細胞がんの定義にあてはまらないものである疑いが強く、他に、江波戸が大細胞がんであると指摘した組織が右の定義にあてはまる本来の大細胞がんであることを示すに足りる証拠はない。

結局、本件全証拠によつても、死亡者松浦の左肺をはじめとする各臓器等の腫瘍組織中に本来の大細胞がんが存在するとする前記(3)の江波戸の所見を正しいとすることはできないことになり、右所見が正しいことを前提とする前記(イ)の原告らにとつて有利な推論を導くことはできないことになる。

(ニ) なお、右(ハ)で認定した大細胞がんの形態的特徴である巨細胞や大きな異形細胞を含む腫瘍組織像が認められたこと自体が死亡者松浦の肺がんの原発性を基礎づける資料になり得ることを示す証拠もなく、これらの細胞の出現の原因については、前記剖見所見や中村意見のいうFAMTの影響であると断定することも難しい反面、原発性の肺がんが存したからこそ出現したとすることも一層難しく、この点は本件全証拠によつても解明されていないのである。

ハ 腫瘍組織の多彩さについて

(イ) <証拠略>によれば、死亡者松浦の左肺には腺管型腺がん、乳頭型腺がんが、右腎臓副腎、肝臓、胸膜には腺管腺がんの組織像がそれぞれ存在することもまた認められ、この点についての前記(3)の江波戸の所見は正しい(江波戸が単に腺がんと指摘しているものは腺管型腺がんを指していると認められる。)。

(ロ) そうして、江波戸は、前記(3)のとおり、死亡者松浦の肺の腫瘍の組織像が多彩であり、肺以外の臓器等にも肺と同様腺がん(腺管型腺がん)、肺胞上皮がん、大細胞がんの三種類が認められるのであつて、これが原発性肺がん及びその転移によつて生じたがんの特徴であるとする。

しかし、前記イ、ロで認定説示したところと右(イ)の認定事実を併せると、死亡者松浦の左肺の腫瘍には、腺管型腺がん、乳頭型腺がん、肺胞上皮がん、大細胞がんの四種類が混在するのではなく、前三者と大細胞がんの形態的特徴と同様のものがいくつか見られる低分化腺がんである可能性の高いものが混在していることになる。また、右腎臓、副腎、肝臓、胸膜の腫瘍には、腺管型腺がんに加え、江波戸の病理医としての経験に照らせば肺胞上皮がんと近似したかつこう等を示していると解される腺管型又は乳頭型腺がんと、右の低分化腺がんである可能性の高いものがそれぞれ混在していることになる。

したがつて、江波戸が組織像の多彩さにより肺がんの原発性が容易に肯定できるとする点は、既にその前提を欠いているということになり、失当であるといわざるを得ない。前記(1)の認定事実に照らせば、右のような腫瘍の組織像の状況は、要するに死亡者松浦の各臓器等に見られる腫瘍は腺がんの組織像をとり、その分化度、胞巣の形状、異型細胞の混在などの点で変化が見られるにすぎないとされる可能性が高く、江波戸がいうような肺がんの原発性を特徴づけるとまで評価できる組織像の多彩さが認められるわけではないのである。

(ハ) しかしながら、江波戸証言の中には、右(ロ)で認定した限りでの死亡者松浦の左肺及び他の臓器等における腫瘍組織像の多様性であつても、江波戸の病理医としての経験に照らせば、肺がんの原発性を決定的に裏づけ、あるいはこれの特徴となるものではないにしろ、他の状況事実とあいまつて間接的には肺がんの原発性及びその転移を肯定するための一資料にはなり得るとの趣旨の供述もあるところ、本件では、江波戸の右の限度での経験則をも疑わしいとすべき証拠はなく、弁論の全趣旨によれば、右の経験則は採用できると解される。

(ニ) この点に関し、中村意見では、要するに死亡者松浦の右各臓器等の腫瘍の組織型は単一の腺がんであり、かつ優勢度による組織型判定をすれば腺管型又は乳頭型腺がんのいずれかになるのであるから、同人の右腫瘍の組織型如何は右(ハ)で述べた点も含めて肺がんの原発性の有無判断に関し何らの意味も有するものではないという。

しかし、右中村の指摘は、中村意見が、腫瘍の組織像、組織型に関する意見の表明に関し、全般的に膵臓原発がん及びその肺転移を強く主張する余り、この主張と最も適合する各臓器等の腫瘍の組織型分類における腺がんとしての単一性を強調しすぎる面があることを度外視しても、江波戸が具体的な組織像のレベルでの問題提起をするのに対し、その上位分類概念(当然に一種に収れんする)を持ち出したり、前記ロ(ロ)でも言及したような、複数の組織像が認められる場合に単一の組織型の診断を下すための多分に技術的な処理である優勢度による組織型診断を持ち出して、「組織型は一つ」とするものであり、少なくとも右(ハ)で述べた限度での江波戸の意見に対しては、必ずしも有効な反論となり得ていないと解される。

(5) まとめ

以上認定説示したとおり、死亡者松浦の各臓器等の腫瘍の組織像から肺の原発性がんの存在を容易に裏づけることができるとする江波戸意見を採用することは難しく、せいぜい前記(4)ハ(ハ)に述べた限度で、原告らに有利な事実関係が認められるにすぎないところ、本件では、ほかに右組織像から肺がんの原発性を裏づけ、あるいは膵臓原発がんの肺転移を否定するに足りる資料の存在を示す証拠はない。

(七) 肺がんの原発性自体に関する所見等について(原告らに有利な状況事実の存否)

原告らは、死亡者松浦の肺がんの原発性自体を基礎づける事実であるとして、既に右(六)で認定説示した腫瘍の組織像のほか、(1)同人の診療経緯等、(2)左肺の孤立性の腫瘍の存在及び右肺の腫瘍の状況、(3)左肺を中心とする直達性浸潤、病変の広がりを主張しているので、これらの点について検討する。

(1) 死亡者松浦の診療経緯等について

イ 死亡者松浦の診療経緯等は前記(二)(1)で認定したとおりであり、原告ら主張のように、同人については、昭和四五年一一月初旬に胸部エツクス線検査により左中肺野部に異常陰影が発見され、昭和四五年六月これが肺がんによる陰影であり進行した肺がんに罹患しているとの診断を受けて以来、臨床上は一貫して肺がんの診断病名の下で検査、治療がなされ、他臓器等のがんの所在については、同年八月二六日の手術時及びその直後の摘出左肺の病理検査報告により肺に係るリンパ節(具体的なことは後に検討する。)の腫瘍の存在が、死亡直前の同年一〇月に検査により胸膜と肝臓の腫瘍の存在がそれぞれ確認されたにとどまる。そして、右病理検査報告や死亡時の臨床診断が示すように、臨床では左肺がんが原発性のものであるとされ、他の臓器等の腫瘍はそれが転移して形成されたものであると診断されてきたこと、右のリンパ節、胸膜、肝臓以外の臓器等のがんの存在所見は見出されていなかつたことも明らかである。

右の事実は、確かに、同人の肺がんの原発性の認定に関する資料、特に、右の診療段階での臨床医の判断を否定するような他の診断所見や鑑定的意見(それが結果的に正しいか否かは別問題である。)等が全くない場合には、これをもつて直ちに同人の肺がんの原発性を認めるに足りる決め手となるであろう。しかし、これまで述べてきたように、同人の肺がんの原発性に関しては、これを否定する旨の前記(三)のような病理医の剖検診断等や中村意見などがあり、臨床における診断の当否自体が問題となつているのであるから、右の診療経緯等に係る事実をもつて、直ちに肺がんの原発性認定の決め手とすることは到底できず、せいぜい右事実は、右認定をする際に、他の状況事実が存する場合にこれとあいまつて肺がんの原発性の肯定に寄与する一資料、それもかなり弱いものになり得るにとどまるものである。

ロ また、前記(五)のとおり、同人の死亡直後になされた剖検時には、既に臨床においてがんの存在が見出されていた肝臓や胸膜のほかにも多くの臓器等にがんが広がつていたと認められるところ、臨床においては、これらのがん、特に膵臓の孤立性の腫瘍の存在は同人の死亡に至るまで発見されておらず、前記(三)のとおり剖検時にはじめて発見されたのであり、死亡時の臨床診断はこのような多くの臓器等におけるがんの存在所見を前提にした上のものではないと認められ、この点からも、前記の臨床における診断は肺がんの原発性を強く裏づけるものにはなり得ないことになる。本件では、前記(二)(1)でも触れたように、死亡者松浦の診療録等診療時の医療関係文書がほとんど書証として提出されていないが、前記(二)で認定した診療経緯等及び弁論の全趣旨に照らせば、同人の臨床における診療過程では、同人の病変として最初に左肺の腫瘍の存在が明らかになり、以後肺がん患者としての診療が進められ、検査、治療行為も主として左肺の病変に対し集中的に実施されてきたのであり、死亡直前に行われた肝臓の検査を除けば、左肺又はその周辺領域以外の臓器等のがんの存否につき積極的かつ精密な検査がなされた形跡はなく、臨床上同人の肺がんが原発性のものであるとされてきたといつても、それは、他の臓器等、特に膵臓のがんの不存在を確認し、あるいはその存在を把握した上原発性を否定するという作業を経た結果のものではないのであつて、当初から著明な病変として外在化していたのが肺がんであり、それ以外のものは臨床医の注意を引くような外面上の顕著な徴候が見られなかつたことに起因するものであると認められるのである。

(2) 左肺の孤立性の腫瘍の存在及び右肺の腫瘍の状況

イ(イ) <証拠略>によれば、〈1〉ある臓器中に相当程度の大きさの固まりとなつた孤立性の腫瘍(以下このような属性を持つものを「孤立性の腫瘍」という。)が形成されている場合、病理学上、常に右孤立性腫瘍をもつて原発性のものであるとすることはできないにしろ、一般に他からの転移によるのではなく、原発性のがんであるとすべき例が多く、本件に即していえば、死亡者松浦の左肺に孤立性の腫瘍が存在していれば、左肺のその余の部分や右肺に散在性の細かな腫瘍が存在するか否かにかかわらず、当該孤立性の腫瘍を原発性のがんであると解し得る場合が多いとされ、この限りで、左肺の孤立性の腫瘍の存在は、決定的ではないにしろ、他の状況事実とあいまつて肺がんの原発性の肯定に寄与する一資料となり得ることが認められる。

(ロ) また、右各証拠によれば、〈2〉死亡者松浦の左肺に孤立性の腫瘍が存在し、これに加えて、左肺のその余の部分や右肺には何らの腫瘍(特に散在性の細かな腫瘍)も存在しなければ、左肺の孤立性の腫瘍をがんの原発巣と認めるべきより一層有力な資料となり得ることが認められる。

(ハ) なお、右の〈2〉の点に関し、江波戸意見では、動脈の血流は静脈のそれに比べ速度が速く圧力が高いので、がんが血行性に転移する場合、動脈血に乗つて行くときは一箇所に孤立性の転移巣を形成しやすいが、静脈血に乗つて行くときは散在性の転移巣を形成しやすいという前提に立つて、肺の原発がんが他の臓器等に転移する場合には心臓から動脈血に乗つて行くので孤立性の転移巣を形成しやすく、他の臓器の原発がんが肺に転移する場合には「そこへ流れて行く血液は静脈血で、しかもゆるやかである」から肺の毛細血管で捕捉されて散在性の転移巣を形成しやすいとするが、中村証人に照らせば、右の血流の圧力の差により、形成される転移巣の形態に差異が生ずるという前提自体必ずしも一般に承認されているものとは認められない上、弁論の全趣旨によれば、血流の圧力が高いか低いかは内呼吸用の酸素結合量の多寡によつて区別される動脈血か静脈血かの差異によつて定まるのではなく、心臓から出て行く動脈を流れるのか、心臓に戻つて行く静脈を流れるのかによつて定まることは明らかであり、江波戸自らも他の部分で示すとおり心臓から肺に出て行くのは当然に動脈(肺動脈)であり、ただ、他の動脈とは異なつて右の意味での静脈血が流れているにすぎないのであるから、単に静脈血だから圧力が低いとするのは誤りなのであり、肺動脈の血流圧力が他の動脈よりも格段に低く、一般の静脈の血流圧力が他の動脈よりも格段に低く、一般の静脈流並みのものであることを証明しない限り、前記の前提理論から肺に関する具体的な転移巣の形成状況を導くこともできないはずである。

ところが、本件ではこのような肺動脈の血流圧力の弱さを証明する証拠はなく、結局、いずれの面からも、血流の圧力の差を理由とする限り、肺への転移の場合には、肺からの転移の場合以上に転移部分に散在性の腫瘍巣を形成しやすい(逆にいえば、肺からの転移の場合には、肺への転移の場合以上に孤立性の腫瘍を形成しやすい)という江波戸の立論を採用することはできないことになる。

(二) しかしながら、本件では、肺からの転移、肺への転移いずれの場合にその傾向がより強いかは別にして(この点を解明する証拠はない。)、江波戸意見、中村意見、剖検診断のいずれも、他臓器のがんが肺に転移した場合、左肺の孤立性の腫瘍のみが形成され、左肺のその余の部分や右肺に散在性の細かな腫瘍が形成されないという例はまれであることを前提にしており、この点は広く専門家の承認を得ているものと認められる。

ロ そこで、まず、右イの〈1〉の点に関し、死亡者松浦の左中肺野部の孤立性の腫瘍の存否につき検討するに、前記(二)(1)のとおり、同人の左中肺野部には、昭和四四年一一月初旬に四・〇×二・六の大きさのものとして発見され、その後拡大して昭和四五年六月(肺がんである旨の診断時)には七・〇×七・五となつたエツクス線写真像上の陰影が存したことには争いがないところ、この陰影がすなわち等大の孤立性の腫瘍そのものを示すことを具体的かつ明示的に教える証拠はなく、前記(二)(2)のとおり、左肺摘出手術(昭和四五年八月二六日施行)の執刀医による手術表(<証拠略>)の記載中にも、右の孤立性腫瘍を認知した旨の明示の記載はなく(ガチヨウ卵大に腫大していたとされているのは「腫瘍が転移したリンパ節」である。)、ほかにも、本件では左中肺野部の孤立性の腫瘍の実在そのものの肉眼的所見を明示的に示す証拠はない(前記のとおり同人の臨床における医療関係文書はほとんど書証として提出されていない。)。

しかしながら、前記(二)(1)の診療経緯、右手術表の記載全体の趣旨及び同表に記載されている同人の左肺の図面(特段の注書きはないが、斜線による図示がある。)並びに江波戸、中村各証言を総合すると、同人の左中肺野部には、既に昭和四四年一一月初旬には孤立性の腫瘍が存在し、これが左肺全摘手術時までに次第に大きくなつていつたこと自体は推認することができる。ただ、その具体的な大きさ、形態等については、エツクス線写真像として前記(二)(1)のような経過をたどつて昭和四五年六月当時には七・〇×七・五の大きさになつた陰影が認められた程度のものという以上にこれを認定する資料はない。

以上のとおり、前記イの〈1〉の点については、他の状況事実とあいまつて肺がんの原発性の肯定に寄与する原告らに有利な事実を認めることができる。

ハ(イ) 次に、前記イの〈2〉の点について検討するに、孤立性の腫瘍の存在が認められた左肺の、その余の部分における散在性の細かな腫瘍の存否については、前記(二)、(三)の各認定事実及び<証拠略>に照らせば、手術による摘出後の左肺の組織はもとより手術当時の左肺の組織中に孤立性の腫瘍以外の散在性の細かな腫瘍が存在していなかつたと認めることはできず、他にこの点を証明する証拠はない(むしろ右各証拠等によれば、右各当時右腫瘍が存在したことが認められる。)。

(ロ) 右肺の腫瘍(特に散在性の細かな腫瘍)の存否については、まず、右(イ)の各証拠等及び<証拠略>によれば、死亡者松浦の死亡直後に行われた剖検時に、剖検医の主として肉眼による所見によれば、同人の右肺には何らの腫瘍も認められないとされた結果、剖検記録上も右肺につき腫瘍の存在所見が記載されなかつた(前記(三)(1)イ(ホ))が、その後相当期間経過後、同人の右肺の組織像の顕微鏡検査によつて腫瘍の存在が確認され、剖検記録の病理解剖診断の項に右肺に転移巣が存した旨が書き加えられ(同ロ)、剖検診断書にもその旨記述されたこと(同(2)ロ(ロ))、この右肺の腫瘍組織は剖検所見の検討を行つた中村を含む病理医たちが膵臓がん原発・肺転移の診断(既に剖検時に表明されている。)の否定要因となるべきもののチエツクを進めた結果、顕微鏡による観察で検索、発見したものではあるが、右肺に微細な腫瘍がその当時存在していたこと自体は疑い得ないことが認められ、更に、この腫瘍は死亡時には存在していたことも容易に推認される。

(ハ) そうすると、死亡者松浦の右肺についても前記イの〈2〉の点は認めることができないように見える。

しかし、江波戸、中村各証言によれば、右肺に腫瘍が認められなければ左肺の孤立性の腫瘍を原発巣であると考えるべき有力な資料となり得るというのは、主として「左肺の孤立性腫瘍が他臓器の原発がんの転移によるものならば、これが形成された時点からそれほど遠くない時点で右肺にも腫瘍の転移巣が形成されることが極めて多い」という医学上の経験則に基づくものであるところ、前記ロで認定したように同人の左肺の孤立性腫瘍は既に昭和四四年一一月初旬には存在し、昭和四五年八月二六日の左肺全摘手術時まで次第に拡大していつたものであり、この点に照らすと、たとえ死後の剖検時には右肺にも腫瘍が存在していても、右の手術時までの時点で右肺には腫瘍(特に散在性の細かなもの)が存在していなければ、右の経験則に基づき、この事実をもつて左肺の孤立性の腫瘍をがんの原発巣として認めるべき有力な資料とするに十分であることになる。

手術時に右肺に腫瘍が存在しなかつたが、手術後死亡までの期間にこれが形成されたとしても、それは、「左肺の孤立性腫瘍から全身に転移した腫瘍が更に右肺にも転移した」などとして説明し得る事柄であるとする江波戸の意見にはうなずけるものがあり、必ずしも右肺について前記イの〈2〉の点を肯定することの妨げとはならないと解される。

そこで、本件では、更に、右(ロ)で認定した同人死亡時に存在した右肺の腫瘍が左肺全摘手術時にも存在したか否かを検討すべきことになるところ、前記(イ)の各証拠等によれば、一般に肺がん患者に対して左肺全摘手術が施行されるのは、患者本人の極めて強い希望があれば格別、臨床医の認識としては右肺に腫瘍が存在しないと判断される場合に限られ、死亡者松浦についても、右肺の腫瘍が存在しないと臨床上判断されたことに基づいて手術が施行されたこと、また、手術時にも執刀医は肉眼的所見として右肺の腫瘍を見出さなかつたことが認められる。

しかし、その反面、このような臨床における判断が、同人の右肺の組織を検索した上で病理組織学的検査を経てなされたものであることを示す証拠はなく、むしろ、微細な腫瘍の発見につき胸部エツクス線写真像が十分機能しないことは<証拠略>により認められるところ、前記(二)(1)の診療経緯及び<証拠略>によれば、手術時まで同人の右肺に腫瘍が存しないとされたのは、専らエツクス線写真像として陰影が発見されなかつたことに基づくものであり、これ以上に右肺を特定した上その腫瘍の不存在を示すような精密な検査は行われていなかつたのではないかと疑われ、また、執刀医が左肺手術時に右肺の腫瘍を肉眼的に見出さなかつたことも、ここで問題となる腫瘍の存否が顕微鏡的レベルでのものを含むことに照らせば、必ずしも右肺の腫瘍の不存在に直結するものではないと解される。

(ニ) このような点を踏まえて、右(ハ)で認定説示したところと前記(ロ)で認定した事実とを総合考慮すれば、左肺全摘手術時までに死亡者松浦の右肺に散在性の微細な腫瘍がなかつたと認定することは難しく、ほかにこの点を証明するに足りる証拠はない(反面、右総合考慮の結果このような腫瘍が手術時にも存在したと認定することもまた難かしく、ほかにこの点を証明するに足りる証拠もなく、結局、本件ではこの点は不明としかいいようがない。)。

(ホ) 結局、本件においては、死亡者松浦につき、左肺のその余の部分、右肺のいずれに関しても、前記イの〈2〉の肺原発の有力な資料となるべき事実を認めることはできないことになる。

(3) 左肺を中心とする直達性浸潤、病変の広がりについて

イ 前記(二)、(三)の各認定事実及び<証拠略>によれば、次の各事実が認められる。

(イ) 死亡者松浦の左中肺野部には、前記(2)ロで認定したとおり昭和四四年一一月初旬から既に孤立性の腫瘍が存在し、これが昭和四五年八月二六日の左肺全摘手術時まで拡大存続していたが、その発生時点は特定できないものの右手術時までにはこの孤立性腫瘍のほか左肺のその余の組織中にも散在性の細かな腫瘍が広がり、その中には、腫瘍が肺静脈や気管支壁を破つて浸入しているものもあつたこと。

(ロ) 同人死亡時には、剖検記録が示すとおり(前記(三)(1)イ(ハ))、○ほとんどの肋骨の肋問リンパ節には腫瘍の転移(狭義。血行性、リンパ行性又は播種等による転移をいう。)又は直達性の浸潤があり、一部では骨内への転移も疑われる状態であつた、○左第七肋骨付近に腫瘍浸潤、肋骨内にも浸潤が存した、○左胸膜全体が腫瘍のため肥厚、腫塊形成、心のう・胸壁への浸潤に移行している、○胸腔内に血性液約一〇〇〇cc貯溜、○心のうには血性液三五〇cc貯溜、腫瘍の浸潤は左胸腔に接して強く一部心のう内に腫瘍の浸潤を見る、以上のような左肺を中心にした胸膜等への腫瘍転移(狭義)、浸潤の顕著な病変が認められ、両側胸膜がん腫症(がん性胸膜炎)の症状を呈していたこと。

右(イ)、(ロ)の各事実が認められるところ、右各証拠等及び弁論の全趣旨を総合すれば、右認定のような左肺自体の腫瘍の存在状況、左肺を中心にした病変の広がり、胸膜がん腫症の発症という事態は、病理学的には、一般に、左肺以外の臓器の原発がんの転移によつて生じたものと考えるよりも、左肺の孤立性腫瘍ががんの原発巣であり、これに起因し生じたものと解するのが自然であるとされていることが認められる。

ロ ところが、右各証拠等によれば、一般に、肺がん患者について左肺の実質以外の左胸膜とか肋骨等に既に右イ(ロ)で認定したような病変が広がつていることが認められる場合には、臨床医としては、患者本人の極めて強い希望があれば格別、あえて左肺全摘手術に踏み切ることはあり得ず(手術をしてもがんの治療に効果がないばかりか、かえつて死期を早めることになる。)、死亡者松浦の左肺全摘手術当時にはこのような病変はないと臨床上判断されていたこと、手術時にも執刀医は肉眼的所見としては左胸腔内のこのような病変の存在を何ら報告していないこと、もし、仮に手術中このような病変が視認されたならば、手術の意義も失われることになるから何らかの事後的措置等がとられるはずであるが、それがなされた形跡もないこと、臨床段階で胸膜への転移が確認されたのは、手術後五〇日余を経過した昭和四五年一〇月一七日であること(死亡は同年一一月三日)が認められ、少なくとも、右手術の前後までには、左肺の実質以外の胸膜、胸壁、肋骨、心のう等に右イ(ロ)で認定したような容易に視認できるほどの顕著な病変は存在しなかつたことが推認される(前記のとおり、同人の診療段階での医療関係文書はほとんど書証として提出されていないが、右の点を推認することはできる。)。

ハ そして、中村意見では、この点を把えて、手術時までの時点では、前記イ(ロ)で認定した左肺を中心にした顕著な病変は存在せず、胸膜等への腫瘍の転移(狭義)、浸潤もなかつたのであるから、右の病変は手術後死亡までの約七〇日間に広がつた病変であるので、術後転移とみるべきであり、前記のような意味での肺がんの原発性の認定資料とはなり得ず、仮に、既に手術当時視認することができないほどの細かな腫瘍が存在していたとしても、左肺が摘出される前に右のような病変が広がつていなければ、やはりそれは術後転移にすぎず、右の結論に差異がない旨述べ、結局、左肺切除前の段階で、前記イ(ロ)で認定したような顕著な病変が生じている場合に、はじめてこの病変の存在をもつて左肺の孤立性の腫瘍を原発巣と認める一資料であると考えることができるとする。

ニ そこで、この中村意見につき検討するに、まず、前記イの各証拠等によれば、手術までの段階での同人の左肺を中心とした胸膜等の部位に腫瘍が存しないという臨床上の判断は、これらの部位の組織を検索した上で病理組織学的検査を経てなされたものではないこと、また執刀医がこれらの部位の腫瘍を肉眼的に見出さなかつたことも、細かな腫瘍の存否の認定が顕微鏡的レベルでの判断を必要とすることに照らせば、必ずしも手術当時の腫瘍の不存在に直結するものではないことが認められ、更に、剖検時の病変の著明さ等をも考慮すると、手術時までには、これらの部位には少なくとも肉眼で視認したり、あるいはエツクス線写真像からは判定できないような細かな腫瘍が存在していたと推認することができる。

しかるところ、中村は、右認定のような細かな腫瘍が存在していても、顕著な病変となつたのが手術後であれば、やはり術後転移にすぎないとするのであるが、そもそも、この「術後転移」なる概念につき本件においてその意味内容を十分具体的に明らかにする証拠はなく、中村自身も、「手術時に存在し、かつ、剖検時にも存在すること」が、その主張する膵臓原発を基礎づける積極要因又は肺原発を否定する要因となる右肺の腫瘍の存在については、この「術後転移」の概念を持ち出さず、剖検時には存在したので、手術時にも存在したはずであるという一方、「手術時に存在し、かつ、剖検時にも存在すること」が右主張の消極要因となる前記イ(ロ)の左肺を中心とする病変の広がりについては、剖検時には存在したが、それは術後転移であるから意味を持たないとして、果たして術後転移の真の意義(概念内容)がどこにあるのか混乱するような見解を述べているのである。

結局、「術後転移」の正確な意味内容はともかくとして、中村意見のいわんとするところは、とにかく、左肺が体内にある状態でその周辺に前記イ(ロ)のような顕著な病変が存すれば、「結果から原因を推察する形で」左肺の孤立性腫瘍が原発巣である可能性が高いが、このような同時存在が認められない限り右の可能性を肯定できないとする点にあると解される。

しかし、前記イの各証拠等によれば、孤立性の腫瘍が存在していた左肺が死亡者松浦の体内にあつた時期に胸膜等の周辺部位に腫瘍組織が存在していたとは認められない場合は格別、この点が認定されるならば、結果として左肺を中心にして前記イ(ロ)のような顕著な病変の存在が確認される場合には、中村意見のいう右のような同時存在まで確認されなくても、病理学上、一般に、左肺の孤立性腫瘍ががんの原発巣であり、これに起因して右病変が生じたものと解するのが自然であるとされていることが認められるのであつて、この点に関する中村意見は採用することはできないことになる。現に、中村自身も、「死亡者松浦の膵臓の孤立性腫瘍の存在と腹膜がん腫症を含む膵臓を中心とする腹部の病変の広がり」に関し、孤立性の腫瘍が存してはいるが、周辺臓器等には細かな腫瘍のみが存在した時期、周辺臓器等にも顕著な病変が広がつた時期等、病変の広がり方の経時的変化如何を問題とすることなく、結果として剖検時に孤立性腫瘍の存在と右のような病変の広がりが確認されたことをもつて、膵臓原発がんの存在の証左の一つとして挙げているのである。

ホ 以上によれば、前記イで認定した事実は死亡者松浦の肺がんの原発性を裏づける決め手となり得るものではないにしろ、他の状況事実とあいまつてこの点を肯定するかなり有力な資料にはなり得ると解される。

(4) まとめ

イ 以上によれば、本件においては、肺がんの原発性自体に関する所見等として、死亡者松浦の肺がんの原発性を決定的に裏づけるような決め手となる事実の存在は証明されないものの、前記(1)の診療経緯等、(2)の左肺の弧立性の腫瘍の存在、(3)の胸膜がん腫症を含む左肺を中心とする病変の広がりが、肺がんの原発性の肯定に寄与する状況事実として認められることになる。

そこで、前記(六)(4)ハ(ハ)で認定した状況事実と右各状況事実とを総合考慮すると、これらの中には前記(1)の診療経緯等のように相当に弱い資料も存するものの、全体的に見れば、現実に、これらの状況事実だけを前提にする限り死亡者松浦の肺がんの原発性を肯定することができるものであると認められる。

ロ したがって、前記(四)(2)で述べたとおり、以下、右の各状況事実を前提にして肺がんの原発性を肯定することを妨げるに足りるような事実関係の存否につき検討する(原告らとしては、前記(四)(2)ハ(ニ)で指摘した膵臓原発がんの肺転移の不存在立証までする必要はなくなつた。)。

(八) 肺がんの原発性自体に関する消極所見(肺門リンパ節等への腫瘍転移の状況)について

(1) 中村はその意見の中で、死亡者松浦の左肺摘出手術時の左肺門リンパ節には腫瘍の転移が見られないにもかかわらず、気管分岐部リンパ節には腫瘍の転移が確認されているとし、もし仮に左肺のがんが原発性のものであるなら、リンパ行に乗つた腫瘍細胞は、肺内→肺門→気管分岐部というリンパの流れからみて、この順序でリンパ節転移を起こすはずであるのに、現実には前記のようなリンパ節転移が見られることは、取りも直さず同人の左肺のがんが原発性のものではないことを強く示唆するものであると述べ、被告会社もこの旨主張する。

(2) そこで検討するに、本件においては、肺に原発したがんのリンパ行性転移に関する原理や法則をつまびらかにする証拠は他に提出されておらず、果たして左肺内に原発したがんがリンパ行の流路に存するリンパ節に順々に転移していくのがどの程度恒常的なものなのかは明確ではないが、<証拠略>を総合すれば、死亡者松浦の左肺摘出時のリンパ節への腫瘍の転移状況が右の中村意見のとおりであるならば、肺がんの原発性を肯定することを妨げ、肺がんの原発性につき疑念を抱せる働きをする状況事実の一つにはなると解される(ただし、右のとおり、本件では肺原発がんのリンパ行性転移に関する具体的知見を与える証拠が他にないので、肺原発を否定する決定的なものとまでは認めることはできない。)ところ、前記(二)(2)で認定したとおり、右手術に当たつた執刀医は、手術表(<証拠略>)に、手術時の所見として、肺門リンパ節(<証拠略>によれば、主気管支周囲リンパ節、葉気管支間リンパ節、葉気管支周囲リンパ節の総称であることが認められる。)に著明な腫瘍転移巣が存することを確認した旨明確かつ具体的に記述し、加えて、肺門リンパ節の腫瘤の状況のイラストによる描写まで付記し、この腫瘤の存在が手術の所見の中でも特筆すべきものであつたことを示している。

ところが、前記(二)(3)イのとおり、摘出左肺の病理組織検査結果としては、気管分岐部リンパ節にはがんの転移があるが、肺門下部リンパ節にはそれがない旨報告されている。

(3)イ そこで、右各事実を前提にして、中村が指摘するようなリンパ節転移の状況が存するかについて考察するに、気管分岐部リンパ節にがんの転移が存在した点については、前記(二)(2)の執刀医の所見と右検査結果との間に食い違いはなく、これを認めることができるが、肺門リンパ節のがん転移の不存在については、弁論の全趣旨によれば、右検査結果自体、すなわち検査部が第二外科から送付された摘出左肺の肺門リンパ節組織切片を検査したところ、当該切片にはがんの転移が存しなかつたということ自体は疑い得ないものの、この点を前提にしても、なお、次のような疑問点が残るので、右検査結果のみに依拠して摘出左肺の肺門リンパ節にはがんの転移はなかつたと認めることはできず、他にこの点を認めるに足りる証拠はない。

ロ すなわち、まず、前記(二)(3)イで認定したように検査部が検査した肺門リンパ節組織切片は一個であるところ、臨床医として長年の経験を積んだ(この点は中村証言により認められる。)執刀医が、肉眼による所見であれ、前記(2)(前記(二)(2)参照)のように手術所見中の特筆すべき事項として肺門リンパ節に存する著明な腫瘍の存在を確認し、手術表にもその旨明確かつ具体的に記載していることに照らせば、中村証言が指摘するがん転移の有無のため検査部に送付する組織切片は最も腫瘍のありそうな部分から取り出すのが一般であるということを考慮に入れても、なお、右の一個の組織切片中にはがんの転移は認められなかつたものの、肺門リンパ節自体には腫瘍の転移巣が存在していたのではないかという疑いは完全には払拭できないものである。

ハ 次に、より一層大きな問題点として、乙イ六七号証すなわち、死亡者松浦の肺がんが膵臓原発がんの肺転移によるものであることを明記した、中村作成の労基署に対する「松浦茂殿剖検報告書」と題する書面(中村証言によれば昭和五一年ころ作成のものと認められる。)の中で、中村は、「3手術剔出肺所見」という見出しの項において、「摘出左肺の腫瘍組織像が管状腺がんの像をとり、膵肝など腹腔諸臓器組織にみられる腫瘍の組織像と一致する。」旨述べた上、更に「肺門リンパ節にも同様の転移がある。」と明記していることが挙げられる。

中村は、この点に関し、その証言中で、前記(三)(1)のとおり剖検記録で右肺の肺門リンパ節にがんの転移があると記載されていたので、誤つてこれと取り違えて記載したものである旨述べている。

しかし、右報告書の記載は、単に「肺門リンパ節にも転移がある」というのではなく、「肺門リンパ節にも管状腺がんの組織像をとる転移がある」としていることや死亡者松浦の肺がんの原発性の判断に関し、左肺の肺門リンパ節のがん転移の存否及びその組織像如何の持つ意味が右肺のそれと比べ格段に重要な意味を有することはこれまで認定説示してきたとおりであり、弁論の全趣旨によれば、当時中村もこの点を十分に知悉していたことは明らかであることに照らせば、右の中村証言中の供述はにわかに信じ難く、中村が腫瘍の組織像の点においても膵臓原発・肺転移が明らかなことを強調するあまり、自ら検査することも含め実際には、摘出左肺の肺門リンパ節にがんの転移が存し、かつ、それが腺がんの組織像をとることを示す資料を得ていないにもかかわらず、あえて前記のような報告書の記載をなしたのでなければ、実際には、摘出左肺の組織標本等に肺門リンパ節へのがん転移を認めるに足りるような所見が存在していたのでないかという強い疑いが残るのである。

(4) 以上のとおり、肺門リンパ節等への腫瘍転移の状況に関しては、前記(六)、(七)で認定した状況事実を前提にして死亡者松浦の肺がんの原発性を肯定することを妨げる事実はこれを認めることができないことになる。

(5) 最後に、本件においては、以上認定説示したところに照らせば、逆に前記執刀医の所見や乙イ六七号証の記載から、直ちに死亡者松浦の摘出左肺の肺門リンパ節にもがんの転移が存在したと認定することもまた難しく、ほかにこの点を解明する解拠はない。したがつて、腫瘍のリンパ節転移の状況に関しては、同人の左肺のがんが原発性のものであることを肯定する方向に働く資料を見出すこともできないことになる。

(九) 膵臓原発がんの存在に関する所見等について

(1) はじめに

死亡者松浦の肺がんに関し、中村意見では、同人の肺がんは膵臓に原発したがんが転移して形成されたものであることが明白であるとし、被告会社もその旨主張するが、以下、前記(四)(2)ハで説示したところに従つて、この膵臓がん原発・肺転移自体の存否の判断ではなく、前記(六)、(七)で認定した各状況事実を前提にして現実に肺がんの原発性を肯定することを妨げる事実関係として、膵臓がんの原発性の肯定に寄与するような状況事実(現実にこれだけに依拠して膵臓がんの原発性が肯定できるまでの必要はない。)及びこの膵臓がんの肺転移の疑いが存するか否かにつき検討する。

しかるところ、中村意見や被告会社の主張では、剖検診断等の重要性が強調されているので、以下、まず、本件における肺がんの原発性の有無の判断に関し剖検診断の持つ意義等につき検討し、続いて、膵臓がんの原発性の肯定に寄与するような状況事実が存在するかについて検討し、肺転移の疑いの点については、次の(一〇)で検討することにする。

そして、膵臓がんの原発性の点に関しては、中村はその意見の中で、その存在を示す事実として、〈1〉膵体部の弧立性腫瘍の存在、〈2〉腹腔内の病変の広がり方、〈3〉腹膜がん腫瘍の発生、〈4〉下大静脈等への直達性浸潤、血栓形成状況、〈5〉腫瘍の臓器間転移のデータの各事実関係を挙げ、被告会社もこれに沿つた主張をしているので、右の各点につき、指摘される事実の存否及びその意義等について順次検討することにする。

(2) 死亡者松浦の剖検診断等について

イ 死亡者松浦の剖検記録上の所見・診断、剖検診断書上の診断の各内容は前記(三)で認定したとおりであり、いずれも同人の膵臓膵体部にはがんの原発巣が存し、かつ、これが肺を含め多くの臓器等に転移(狭義)、浸潤していつた旨を示している。

この剖検記録、剖検診断書の作成過程は前記(三)(1)ニ、(2)で述べたとおりであり、他に、その作成過程に特段の疑義を差しはさむべき点も認められない(前記(七)(2)ハ(ロ)で認定したような剖検記録への後日の書き加えも特に不当なものとは解されない。)。

ロ そうして、中村がその証言中で述べる「死亡患者の疾病罹患状況等の解明のための最も有効な手段は剖検であり、臨床時の診断に比べ剖検所見に基づく剖検診断が優越する。」との点は一般論としては容易にうなずけるところであり、たとえ肉眼的所見が中心となつている剖検所見であつても病理医の専門的知見や検討に裏打ちされたものであることに変わりはなく、一般的には十分尊重に値することもまた当然であろう。

ハ しかしながら、本件においては、剖検診断の当否自体が争われ、その趣旨と正反対の結論を導くような事実も既に認定されていることに鑑みれば、前記内容の剖検診断が存することのみをもつて膵臓がん原発・肺転移が決定的に裏づけられ、その結果、直ちに肺原発の証明がないことに帰してしまうとすることはできないと解され、結局、前記ロの点をも考慮に入れながら、剖検診断が依拠した状況事実やこれを基礎づけるような事実関係の存否・評価のレベルで膵臓がん原発、肺転移の疑いのあることを示す資料の有無を検討せざるを得ないと解される。

ニ 加えて、死亡者松浦の剖検所見、診断には次のような問題点が存することも看過できないところである。

すなわち、剖検上の判断においては解剖された体内の状況に関する肉眼的観察が大きく作用することは一般に承認されているところであり、同人の剖検においてもまた同様であることは中村証言や前記(三)の剖検記録、剖検診断書の記載内容から容易に推察される。剖検記録の記載によれば、剖検医は、膵体部の孤立性腫瘍の存在に大きく注目し、これと腹腔内の病変等の肉眼的所見とを総合して、剖検直後に、膵臓にがんの原発巣が存し、他の臓器等の腫瘍は転移(広義)によるものとの診断をしていること、剖検診断書も、組織型による判定不能の点を付加するほかは、右の剖検時の肉眼的所見を尊重しこれを同調していることが認められるのである。

しかし、同人の解剖死体に関する肉眼的所見は、孤立性腫瘍の存していた左肺のない状態(全葉摘出後)での観察に基づくものであり、左肺の腫瘍その他の病変、左肺を中心とした病変の広がり等に関して、左肺が体内に有姿で存する状態での肉眼的観察が欠落し、これを度外視した上でのものであるという制約の下にあり、かなり大きな弱点が存するのである。剖検における肉眼的観察の意義を考慮すれば、問題は、左肺が体内に有姿で存する状態でこれらをも視野に入れた総合的観察がなされたか否かであつて、たとえ剖検医が「摘出左肺にも腫瘍が存していた」という知見を有していたとしても、剖検所見が右制約から解放されるわけではないのである。

したがつて、このような制約、弱点が存することからも、右剖検診断を絶対的なものとみなすことはできないのであり、更に、右ハのような検討を行うに際しても、この制約、弱点の存在は十分考慮しなければならないと解される。

ホ なお、膵臓がん原発・肺転移を肯定する剖検診断の存在が、この点に関する他の状況事実が存する場合に、これとあいまつて、膵臓がん原発・肺転移の疑いの存在の認定に寄与する一資料になり得ること自体は当然である。

(3) 膵体部の孤立性の腫瘍の存在について

イ <証拠略>によれば、前記(七)(2)イ(イ)、(ロ)で認定説示したところと同様のことが膵臓の孤立性の腫瘍についてもあてはまり、〈1〉死亡者松浦の膵臓に孤立性の腫瘍が存在していれば、その余の膵臓組織中の細かな腫瘍の存否如何にかかわらず、当該孤立性の腫瘍の存在は、決定的ではないにしろ、他の状況事実とあいまつて膵臓がんの原発性の肯定に寄与する一資料となり得、また、〈2〉これに加えて、他に膵臓の実質内には何らの腫瘍(特に散在性の細かな腫瘍)も存在しなければ、右の孤立性の腫瘍をがんの原発巣と認めるべきより一層有力な資料となり得ることが認められる。

ロ そこで検討するに、右イの〈1〉の点に関しては、前記(三)の認定事実と右イの各証拠を併せると、死亡者松浦の死亡時に膵臓の膵体部の実質内に約五×五の充実した孤立性の腫瘍が存在していたこと、この腫瘍は、肉眼的には膵体部の中心部から出たと思われるような形で存在していたことが認められる。

ハ 次に、前記イの〈2〉の点に関しては、中村意見や被告会社の主張では、死亡者松浦の膵臓の実質内には、この孤立性の腫瘍以外に如何なる大きさの腫瘍も存在していなかつたとするが、右ロの各証拠等によれば、確かに剖検時の肉眼的観察の下では、右孤立性の腫瘍以外に腫瘍が発見できなかつたことが認められるものの、顕微鏡的レベルでの観察下においても細かな腫瘍が存在しなかつたとまで認めるに足りる証拠はない。右各証拠等によれば、右〈2〉の点については、顕微鏡的レベルでの微細な腫瘍が存しないことが必要であると認められるのに、膵体部の実質の組織につきこのような顕微鏡的レベルの観察状況を具体的に示す証拠はないのである。

中村はその証言中で、前記(七)(2)ハ(ロ)、(ハ)で認定説示した死亡者松浦の右肺の腫瘍の存否に関しては、自ら、前記イの〈2〉の点について、顕微鏡的レベルでの微細な腫瘍を含めて腫瘍が存在しないことが必要である旨述べ、現に、当初剖検時には肉眼的観察の下で右肺には腫瘍を見出せなかつたものを、顕微鏡で検索し、微細な腫瘍組織の存在をつきとめ、このような腫瘍の存在が左肺の孤立性腫瘍をもつて原発巣とすることを否定する要因になると強調しているところ、本件では、膵臓に関しては肺の場合と異なつて肉眼的観察下で腫瘍が発見されなければ前記イの〈2〉の点は満足されることを示す証拠はないのである。

ニ よつて、膵体部の孤立性の腫瘍の存在自体は、前記イの〈1〉の点から、他の状況事実とあいまつて、膵臓がんの原発性の肯定に寄与する一資料になり得るにとどまるものである。

(4) 腹腔内の病変の広がり方について

イ 前記(三)の認定事実、<証拠略>によると、死亡者松浦の死亡時、その腹腔内臓器、後腹膜臓器等広く腹部に存する臓器等(中村証言では、「広義の腹腔内臓器等」とする。以下このような意味で腹内に存する臓器等を示すときには「腹部臓器等」という。)には、中村意見や被告会社の主張するように、〈1〉腹腔内には約三〇〇〇ccの血性腹水が貯溜し、〈2〉大網は横行結腸と癒着し、〈3〉後腹膜付近に強い腫瘍の浸潤があり、後腹膜に腫瘍を形成し、〈4〉腫瘍の浸潤により横隔膜と肝臓は癒着し、〈5〉肝門部付近の後腹膜に腫瘍を形成し、〈6〉腸間膜リンパ節は大豆大ないし指頭大のものが散在し、〈7〉左腎被膜、右腎上極にクルミ大の転移(狭義)巣があり、右副腎の転移(狭義)巣に移行し、右副腎はこの転移(狭義)により腫瘍塊と化し、〈8〉肝臓は腫大著しく、正常人の約三倍の重量である三三七五gあり、右葉は壊死状態、液化して大空洞が形成されており、〈9〉肝表面に腫瘍浸潤があり、肝門部には膵臓周囲、後腹膜との間に腫瘍の連続性浸潤があり、〈10〉大腸の漿膜面は腫瘍の浸潤のため肥厚し、直腸漿膜にも腫瘍が浸潤して腫瘍を形成している、という著明な病変が広がつていたことが認められる。

この点に関し、原告らは、剖検記録上肝臓、腹膜に認められたのは浸潤ではなく転移(狭義)であると記載されているので、これらの臓器等に浸潤があつたとすることはできないとする。しかし、原告らの右主張は剖検記録のいわば「まとめ」に当たる前記(三)(1)ロ〈2〉の記載部分に依拠していると解されるところ、剖検記録のいわば「本文」に当たる個々の剖検所見を記述した前記(三)(1)イの記載部分の中では右認定のように個別的具体的に記載されているのであつて、これをまとめる際に、転移(狭義)と浸潤の区別を厳密に行うことなく記述したことが容易に推認され、剖検所見を正確に反映しているのは右「本文」部分であることは明らかであり、原告らの右主張を是認することはできない。

ロ 中村はその意見の中で、右イで認定した腹部の病変、殊に〈3〉〈5〉〈9〉のような病変の状況を前提にすれば、これらの病変はいずれも前記(3)で認定した膵体部の孤立性の腫瘍を中心にして、ここから肝門、後腹膜、腎門、下大静脈内腔等に連続性、不連続性に広がつていると認められるので、膵体部の孤立性の腫瘍が原発巣であるとすれば容易にこの病変の形成を説明することができる旨述べ、前記(三)(1)の剖検記録の記載によれば、剖検医もまた、右孤立性の腫瘍の存在と右イの腹部病変の広がり方に大きく依拠して、右腫瘍が原発巣である旨の判断をしていることも明らかである。

そうして、前記(2)で認定説示した剖検における肉眼的所見の持つ意義(腹部の病変の観察に関する限り、前記(2)ニで指摘した制約、弱点は大きく影響しない。)に加えて、前記イの各証拠等及び弁論の全趣旨を総合考慮すれば、右の中村意見にはうなずけるものがあり、右イで認定した腹部の病変の広がり方は、膵体部の孤立性腫瘍が原発性のものであることを決定的に裏づけるものではないにしろ、他の状況事実とあいまつてこの点の肯定に寄与する一資料になり得るものと認められる。

ハ この点に関し、原告らは、死亡者松浦の左肺摘出手術時ころまでに右イの各病変は存在していなかつたので、右病変の広がりをもつて膵臓がんの原発性を云々することはできない旨主張する。

確かに、前記(二)で認定した死亡者松浦の診療経緯等に照らせば、右手術時ころまでには、臨床上腹部の病変についてはほとんど注目されておらず、特段の徴候があるとも判断されていなかつたと推認される。しかし、これまで度々指摘したとおり、臨床上肺がん患者とされていた同人につき、右当時まで腹部に注目した上での精密な検査等を経た上で病変の不存在を確認した形跡はないのであるから、臨床上外部に顕在化した形で腹部の病変を見出していなかつたということは病変の不存在に直結するものではなく、この病変の広がり方の経時的変化自体については、剖検時の状況に鑑みれば相当に古い時期から形成されはじめたと推認されるものの、詳細な点を解明する証拠はない(肺がんと膵臓がんの発生時点の先後関係の問題については後に検討する。)。

そして、何よりも、この病変の広がり方を前提とする原発性のがんの所在の検討は、前記(七)(3)で左肺を中心とする病変の広がりに関して指摘したとおり、剖検時において、結果として孤立性腫瘍の存在とその周辺の病変の広がりが認められるという点に依拠しているのであり、右のように病変の広がり方の経時的変化が解明されなくても、これが前記のような意味での状況事実になり得ることを妨げないのである。

ニ 更に、江波戸意見では、膵臓の孤立性腫瘍を含め、前記イの病変は、もともと腹腔内最大の臓器であり、かつ、著明に腫大化していた肝臓を中心に広がつていると認定すべきであり、膵臓がんを原発性のものであるとしなければ説明できないものではないとする。

ところで、もともと前記ロで認定説示したのは、右病変が膵臓がんの原発性と必要十分的に結びついているということではなく、剖検時の腹部の有姿の状況を現認した上剖検医や中村の病理医としての経験に照らして判断された事柄は、決定的ではないにしろ、前記ロでいう限りの状況事実にはなり得るとするものであつて、江波戸意見のような見方が完全に否定されるというわけではない。

しかし、江波戸意見が右のような剖検時における腹部の有姿の状況の現認に依拠するものでないことに加え、前記(3)の認定事実や前記イの各証拠等及び弁論の全趣旨によれば、前記イで認定した腹部の著明な病変につき、単純に臓器の大きさを理由にして肝臓中心に広がつたものであると断ずることができず、病変の広がり方についての中村や剖検医の見方に不自然さはないことに鑑みれば、右の江波戸意見をもつて、前記ロのように認定することは妨げられないのである。

(5) 腹膜がん腫症の発生について

イ 前記(4)イの認定事実、<証拠略>によれば、死亡者松浦の死亡時、その腹部には著明な腹膜がん腫症の症状(前記(4)イの〈1〉、〈3〉、〈5〉、〈10〉などの状態)が現われていたことが認められる。

ロ そうして、<証拠略>によれば、病理学上、原発性膵臓がん、特に膵体尾部がんが存する場合、他の臓器等に原発したがんに比べ、腹壁を冒し腹膜へ進展して経体腔転移を起こしこの腹膜がん腫を引き起こすことが多いとされていることが認められ、この点から、死亡者松浦に腹膜がん腫症が認められたことは、膵臓がんの原発性を決定的に裏づけるものではないにしろ、他の状況事実とあいまつてこの点の肯定に寄与する一資料になり得ると解される。

ハ この点に関しても、原告らは、同人の腹膜がん腫症は左肺摘出手術時ころまでに存在していなかつたので、死亡時のこの症状の存在をもつて膵臓がんの原発性を云々することはできないとするが、前記(4)ハで述べたのと同じ理由から、原告らの右主張を採用することはできない。

(6) 下大静脈等への直達性浸潤、血栓形成状況について

イ 前記(三)の認定事実、<証拠略>によれば、死亡者松浦の死亡時下大静脈に腫瘍が浸潤し、内膜面に出現して、腫瘍浸潤部位の上に血栓が形成されていたこと、右腎静脈にも腫瘍が浸潤し、このため静脈が圧迫され、強度の狭窄状態になつていたことが認められる。

ロ しかるところ、右各証拠及び<証拠略>によれば、右の各静脈の腫瘍は、膵臓と副腎の各腫瘍からの浸潤によつて生じたものであること、原発性膵臓がん、特に膵体尾部がんに血栓形成傾向が強いとする報告があることが認められ、血栓形成部位が腫瘍浸潤部位に接していることをも併せ考慮すると、下大静脈の腫瘍浸潤は原発性膵臓がんによつて形成されたものであると考えることが自然であり、前記イの認定事実は、原発性膵臓がんの存在を肯定するかなり有力な資料になり得る事実であると解される。

ハ なお原告らは、剖検記録上副腎、腎臓への腫瘍浸潤の存在は記載されていないと指摘するが、ここで問題となつているのは、副腎、腎臓等への腫瘍転移(広義)の状況ではなく、副腎、膵臓からの右各静脈への浸潤の有無であり、剖検記録にも右各静脈に腫瘍浸潤が存すると明記されているのであつて、原告らの指摘は右ロのように解する何らの妨げにもならない。

(7) 腫瘍の臓器間転移のデータについて

イ 中村はその意見の中で、腫瘍の臓器間転移のデータとして、膵臓原発がんの肺転移の方が肺原発がんの膵臓転移よりも頻度が有意に高いとするが、<証拠略>によれば、

〈1〉 原発性肺がんからの転移による腫瘍の存在が認められた症例(おそらく剖検例であると認められる。)における転移先臓器等の調査結果(同一症例で複数の転移先臓器があるものを多く含む。)に関する三つの報告例の中で、膵臓への転移例がそれぞれ、七五例中一〇例(一三・三%)、六二例中六例(九・八%)、一一三例中九例(八・〇%)に認められたとされていること、

〈2〉 原発性膵体尾部がん患者の剖検例二八例における転移先臓器等の調査結果として、右二八例に対する割合なのか、このうち転移が認められた者(実数不明)に対する割合なのかは不明であるが、肺への転移例が五六%であつたとする報告があること、

が認められる。

しかし、本件全証拠によつても、膵臓原発がんの肺転移の方が肺原発がんの膵臓転移よりも統計学的に有意に高く存することを認めるに足りる証拠はなく、右〈1〉、〈2〉の報告例を単純に比較すれば、確かに前者の方が後者よりも高い頻度で発生することが示されているものの、後者の頻度が絶対的に低いというわけでもなく、右〈1〉、〈2〉のデータだけによつては、これをもつて、本件において死亡者松浦の膵臓がんの原発性の肯定に寄与する資料になり得るとすることはできないと解される。

ロ 次に、中村は、<証拠略>に記載されている国立がんセンターのデータの概略紹介の中で、原発性肺がん患者の剖検例一一八例の他臓器等への転移先状況調査の結果、未分化がん(<証拠略>によれば、これは前記(六)(1)で認定した現行の組織型分類でいう小細胞がんを含む分類概念であると認められる。)では膵臓への転移が四三%と高頻度で現われたことが示された上、「特異的なのは膵転移で、小細胞がんの場合に限られていた。」と記述されていることを把えて、仮に、死亡者松浦の膵臓がんが肺原発がんからの転移によるならば、同人の肺がんの組織型は腺がん(この点は、前記(六)で認定説示したとおり、腺がんの下位分類組織像のいずれが優勢かは別として、腺がんか否かの分類レベルでの優勢度判定に基づく同人の肺がんの組織型診断としては腺がんであるとすべきである。)であるから、右データと矛盾し、前記(四)(1)、(2)で説示した二者択一の関係に照らせば、結局膵臓がんの原発性を承認せざるを得ないとするものの如くである。

しかし、右概略紹介はそれ自体原報告の全容を正確に把握しにくいものであり、一一八例のうち小細胞がんの認められた症例数、ひいては膵臓転移のあつた症例数等も明らかではなく、また、果たして右データが、それに依拠して、個別の症例に関する具体的判断に際し、肺原発腺がんは決して膵臓に転移しないという形で直ちにあてはめることができるほど確固たるものなのかを示す証拠もなく、むしろ一報告事例にとどまるものではないかと窺われるのである。

したがつて、右の概略紹介の中に見られるデータの存在は、中村の指摘するような死亡者松浦の膵臓がんの原発性を決定的に裏づけるようなものとはなり得ず、せいぜい他の状況事実が存する場合にこれとあいまつて膵臓がんの原発性の肯定に寄与する一資料となり得る事実にすぎないと解される。

(8) まとめ

以上によれば、本件においては、前記(六)、(七)で認定した死亡者松浦の肺がんの原発性の肯定に寄与する状況事実を前提にして現実にこの点を肯定することを妨げる事実関係のうち、膵臓がんの原発性の肯定に寄与するような状況事実は多数認められ、これらは同人の膵臓がんが原発性のものであるとの疑いを認めるには十分なものであると解される(むしろ、仮に、これらの各状況事実だけに依拠すれば、現実に膵臓がんの原発性を肯定できると解される。)。

そこで、次に(一〇)で、膵臓原発がんの肺への転移の疑いの有無について検討する。

(一〇) 膵臓がんの肺転移の疑いについて

(1) 膵臓がんの肺転移の疑いに関する立証及び肺原発の肯定の可否について

以上(六)、(七)、(九)で認定説示したとおり、本件においては、死亡者松浦の肺がんの原発性肯定に寄与する状況事実((一〇)では「A事実」ともいう。)と膵臓がんの原発性肯定に寄与する状況事実((一〇)では「B事実」ともいう。)との双方が認められるところ、膵臓がんの肺転移の疑いの認定及びA事実を前提にする肺がんの原発性の肯定の可否については、次のとおりになる。

イ 肺転移の疑いの積極的立証

(イ) 状況事実の総合的判断

まず、前記(九)(2)で認定説示した剖検診断の存在を含め、B事実とA事実とを対比して、いわばどちらが優勢かを検討することによつて膵臓がんの肺転移の疑いの存否を考察することが考えられる。

(ロ) 重複がんの成否

次に、前記(九)(8)でも指摘したとおり、本件ではB事実だけに依拠すれば膵臓がんの原発性を肯定し得ると認められるので、これを前提にすると、A、B両事実のほかに、それのみによつて、あるいはA、B両事実とあいまつて重複がんの症例であるとすべき資料が認められれば、重複がんとして肺がんの原発性が証明されることになり、重複がんの成否という観点からは特段の資料も存しない(不明)ならば、重複がんの疑いが残る形で肺がんの原発性が証明されることになるが、A、B両事実のほかに、それのみによつて、あるいはA、B両事実とあいまつて重複がんの症例ではないとすべき資料が認められれば、少なくとも膵臓がんの肺転移の疑いが生じる(実体的には肺がんの膵臓転移の疑いも残るのであり、膵臓がんの肺転移が証明されるわけではない。)ことになる。

(ハ) 右(イ)、(ロ)のとおり、総合的判断によるか、重複がんでないとする資料の存在が認められるかのいずれか一つによつて膵臓がんの肺転移の疑いが認められれば、B事実の存在と併せて、A事実から現実に肺がんの原発性を肯定することが妨げられることになる。

ロ 肺転移の疑いに対する反対立証(がんの発生時期の先後関係について)

ところが、右イの(イ)又は(ロ)によつて、膵臓がんの肺転移の疑いが残るとされた場合であつても、A、B両事実や重複がんの症例ではないとすべき資料のほかに肺がん、膵臓がんの発生時期に関する状況事実が存在し、肺がんと膵臓がんの発生時期の先後関係につき、肺がん先・膵臓がん後と認められる場合には、肺がんの原発性が確固たるものとなり(実体的には肺がんの膵臓転移の疑いが残る。)、肺がん後・膵臓がん先と認められる場合及び先後不明の場合には膵臓がんの肺転移の疑いはそのまま残る(先後不明の場合実体的には肺がんの膵臓転移の疑いも残る。)ことになる。

したがつて、右イの(イ)、(ロ)のいずれか一つによる疑いの立証がなされたとしても、更に、前記のような資料に基づき肺がんが膵臓がんよりも先に発生したことが証明されることになれば、右の疑いは否定され、結局、A事実から肺がんの原発性を肯定することは妨げられないことになる。前記(九)で認定したB事実の存在だけではこの肺がんの原発性の肯定を妨げることができず、結局死亡者松浦の症例は膵臓との重複がんの疑いを残す形で原発性の肺がんであつたことになるのである。

ハ 以上のとおりであり、本件においては、膵臓がんの肺転移の疑いの存否に関し、以上のほかに考慮すべき事実関係が存することの主張はなく、また本件全証拠によつてもこのような事実関係を見出すことはできない。

(2) 状況事実の総合的判断

イ 前記(九)で認定したとおり、死亡者松浦の膵臓がんの原発性の肯定に寄与する状況事実としてかなり多くのものが認められ、その中にはかなり有力な資料となり得るものも含まれているところ、中村は、「その病理医としての経験及び専門的知見に照らせば、右のような状況事実が存在している以上、たとえ(六)、(七)で認定したような状況事実が存するとしても、膵臓がんの原発性が証明されることはもとより、更に進んで、この膵臓原発がんが肺に転移したと判定すべきである。また、この膵臓がんの原発性に係る状況事実と前記(三)の剖検診断を総合すれば、疾病の罹患状況に関する最終的確定診断とされる剖検診断に従つて膵臓原発がんが肺に転移したものとすべきである。」との趣旨の意見を述べている。

ロ そこで検討するに、前記(九)(8)でも指摘したとおり(九)で認定したB事実は、それだけに依拠すれば膵臓がんの原発性を肯定し得るものであり、かつ、前記(九)(4)、(5)で認定したような腹膜がん腫症を含む腹部の病変の広がりも、膵臓がんの原発性が認められるならばこれが転移(広義)して形成されたとみるべきであろう。

しかし、前記(九)で認定説示したところから明らかなように、B事実は、主として膵臓自体の状況、あるいは腹部の病変等に依拠して膵臓がんの原発性を基礎づけるものであり、肺や胸部の器官と直接間接に関連する要因をもつて膵臓がんの原発性を基礎づけるものではなく、前記(九)(6)で指摘した下大静脈等への直達性浸潤、血栓形成状況も、膵臓がんの原発性とその下大静脈への直達性浸潤自体についてはこれを示す有力な資料ではあるが、さりとて、ここから直ちに肺がんも膵臓原発がんの血行性転移によつて形成された疑いがあるとする機序が明らかになつているわけではないことなどに鑑みれば、その事実だけに依拠すれば肺がんの原発性を肯定し得る前記(六)、(七)で認定したA事実が存在するにもかかわらず、B事実の存在のみをもつて肺がんもまた膵臓がんが転移して形成されたと断定することはもとより、その疑いを抱く契機にも乏しいといわざるを得ない。

ハ 他面、このような契機が見出されなくても、中村の病理医としての総合的判断に基づく鑑定的意見に即自的に従い得るかという点については、同じく病理医である江波戸が中村とは正反対の鑑定的意見を提示し、かつ、個々的な事象に関する江波戸の意見等には証拠上従い得ないものがある(この点は中村意見でも同様である。)ものの、江波戸の病理医としての総合的判断能力自体に疑わしい点があるとすべき証拠はないのであるから、安んじて中村の意見を重視してこれを採用すれば足りるとするわけにはいかないのである。

ニ また、膵臓がん原発・肺転移の旨を示す剖検診断の存在そのものが決定的ではないことは前記(九)(2)で説示したが、右の診断内容のうち、膵臓がんの原発性を肯定する部分につきこれを基礎づけるB事実が認定されたことをもつて、前記ロのような状況の下で、直ちに膵臓がんの肺転移を肯定する部分をも肯認すべきであるということにはならない。更に、前記(九)(2)ホで説示したように、この剖検診断の存在は、他に肺転移に関する状況事実が存するときにはこれとあいまつてその疑いの認定に寄与する資料になり得るものの、肺原発を基礎づけるA事実の存在を前提にすれば、B事実の存在とこの点の剖検診断があることのみをもつて肺転移の疑いがあるとすることもできない。

腹部所見に大きく依拠している膵臓がんの原発性に関する剖検診断と比べ、その肺転移に関する剖検診断は、その前提となる剖検所見の取得自体に前記(九)(2)ニで指摘したかなり大きな弱点があるのであり、この点を考慮すると、A事実が認定される中で、剖検診断のみをもつて肺転移の疑いの存在を肯定することは一層難しいというべきである。

ホ 以上のとおり、剖検診断の存在を含め、A、B両状況事実の対比等による総合的判断によつては、A事実に依拠して肺がんの原発性を肯定することを妨げるに足りる、膵臓原発がんの肺転移の疑いがあるとすることはできない。

(3) 重複がんの成否について

<証拠略>によれば、病理学上、肺がんと膵臓がんとの重複がんに限らず、同一症例における重複がん(原発性のがんの重複症例)の発生は極めて例が少ないことが一般に承認されていること、腫瘍の組織像上の特徴などの点から、単一のがんの転移とみることの大きな妨げとなり、重複がんであることを明示するような特段の徴候、所見が見出せない限り、重複がんではないと診断するのが通例であること、江波戸も、中村も、それぞれ原発巣についての所見は相反するものの、一致して、死亡者松浦の症例については重複がんの可能性はないとしていること(前記(六)で認定した江波戸の腫瘍組織像所見も、諸臓器等の腫瘍組織像は多様、多彩な組織像であることにおいて変りはないとしているのであり、重複がんと認めるべき異形式の組織像の存在を指摘しているわけではない。)が認められ、現に、中村ら(昭和四七年)が、剖検例報告として我が国で最も信頼のおけるとされる日本病理学会議の日本剖検輯報掲載の昭和三三年から昭和四四年までの一二年間の剖検総数一八万六〇三六例中がん剖検例七万一八五六例について行つた調査結果によれば、重複がん剖検例総数は一一二一例でがん剖検例総数の一・五六%であつたこと、このうち肺がんとの重複がん例は二六九例(がん剖検例総数の〇・三七%、重複がん剖検例総数の二四%)であり、この二六九例のうち、組織像の記載・報告のある二〇〇例中膵臓がんとの重複がん例は四例にすぎず、その内訳は扁平上皮がん一例、腺がん一例、未分化がん(現行肺がん規約分類では多くは小細胞がんとされるべきもの)二例であつたこと、他の研究者の報告でも、調査対象全がん剖検例中の重複がん例の割合は極めて低いとされていることが認められ、以上の認定に反する証拠はない。

右認定したところを前提にする限り、江波戸、中村の双方が述べるとおり、死亡者松浦の症例は、原発性膵臓がんと原発性肺がんの重複がんの症例ではないとすべきことになる。

そうすると、A、B両事実のほかに右のような事実が認められる結果、前記(1)イ(ロ)で述べたとおり、膵臓原発がんの肺転移の疑いが生じることになり、A事実に依拠して同人の肺がんの原発性を肯定することが妨げられることになる(実体的には肺がんの膵臓転移の疑いも残ることになる。)。

(4) 肺転移の疑いに対する反対立証(がんの発生時期の先後関係)について

イ 前記(七)(1)・(2)で認定したとおり、死亡者松浦の左中肺野部の孤立性の腫瘍に起因するエツクス線写真像上の陰影は、既に昭和四四年一一月初旬には四・〇×二・六のものとして発見されており、左中肺野部のがんはこの昭和四四年一一月の時点以前に発生していたことは明らかである。

一方、前記(三)(1)、(七)(1)で認定したとおり、膵臓の孤立性の腫瘍の存在は昭和四五年一一月三日同人の死亡直後に行われた剖検時にはじめて発見され、それまで臨床上はその存在は確認されていなかつた。

このように、肺がんについては、臨床上の診療経緯から同人の死亡一年前には確実に存在していたことが明白であるところ、膵臓がんがこの肺がんの発生時期あるいは発見時期よりも後の時点で発生したことが証明されれば、A、B両事実、前記(3)で認定した事実を前提にしても、膵臓がんが肺に転移したということはあり得ず、膵臓原発がんの肺転移の疑いは払拭されることになり、結局A事実に依拠して肺がんの原発性を肯定することができることになる。

ロ しかるところ、江波戸はその意見の中で、次のように述べる。

(イ) 「仮に、膵臓がんが肺がんより先に発生していたとすると昭和四四年一一月ころより前には発生していなければならず、膵体部の腫瘍は発生して少なくとも一年以上は存在していたことになる。

ところが、少なくとも一年をかけて膵体部の腫瘍が徐々に増殖していつたとするなら、膵液を出す主膵管に通過障害を必ずもたらし、末梢の膵尾部に近い方の主膵管の膵液うつ滞・拡張、更には、内腔の拡大、破裂・膵液流出、膵尾部の組織の変性、壊死、慢性炎症等の病変が引き起こされ、最後には膵尾部の著しい萎縮に陥るのが通常であり、死亡者松浦の場合にも末期には必ず膵尾部にも病変が認められるはずである。

しかるに、剖検時には膵尾部に異常はなく膵体部にのみ孤立性の腫瘍が存していたのであり、このことは、取りも直さず、同人の膵臓がんが死亡の一年も前からは存在していなかつたことを示すものである。」

(ロ) 「同人の膵体部の組織には変性壊死が多く見られるが、これは、肺から転移した腫瘍が短期間内に急成長したため、血液の補給が間に合わなかつたことを示す。」

ハ そこで、江波戸の指摘する点につき検討するに、まず、ロ(ロ)の点については、<証拠略>によれば、死亡者松浦の膵体部の組織中には多くの変性壊死が観察されたことが認められる。

しかし、中村証言によれば、この膵体部の変性壊死の原因としては、がんの末期に生じる循環障害、膵臓の実質が比較的低酸素欠乏症などに抵抗力が弱くわずかなことで壊死に陥りやすいこと、膵臓実質の破壊によるタンパク質及び脂肪分解酸素の作用(自己消化)、死後変性、FAMTの影響等多様なものが考えられることが認められるのであり、前記変性壊死の存在から直ちにその原因は腫瘍の短期間の急成長であると推断することはできないと解され、他に、このような推断が可能であることを裏づける証拠はなく、江波戸の指摘する右ロの(ロ)の点は採用することはできない。

ニ 次に、前記ロの(イ)の点について検討する。

(イ) 前記(三)の認定事実、<証拠略>によれば、膵体部に腫瘍が発生し、これが少なくとも一年間存続増殖し、最終的には膵体部の実質内に五×五の孤立性の腫瘍を形成するに至つた場合、その間、膵液を出す主膵管にほとんど常に通過障害をもたらし、その結果、より末梢の膵尾部に近い方の主膵管に膵液がうつ滞し、主膵管が拡大するような病変が引き起こされること、更に、これが直接、間接に原因となつて、膵尾部の主膵管破裂、組織の変性、壊死、萎縮、炎症等の病変が引き起こされることが多いこと、したがつて、末期になれば、顕微鏡的レベルでの観察下ではほとんど必ず膵尾部の組織中にこれらの病変のうちいくつかが見出されるに至り、更に必ずしも重大・著明なものばかりとはいえないにしろ、肉眼的観察下においても、非常に高い頻度で何らかの異常を見出し得ることが認められる。

したがつて、死亡者松浦の剖検時に膵尾部に顕微鏡的レベルでの観察下でも、変性、壊死等何らの異常も発見できなかつた場合はもとより、顕微鏡的レベルでの観察下では異常が発見されても、肉眼的観察下で多少の病変、異常さえ発見できなかつた場合には、同人の膵体部の腫瘍は死亡前一年も前から存在していたものではないとすべきことになり、死亡前一年前には存在していた肺がんの方が膵臓がんよりも前に発生していたと認めるべきであり、前記(3)で認定説示した膵臓原発がんが肺に転移したのではないかという疑いは払拭されることになる。

一方、剖検時に膵尾部に重大・著明な病変は存在しなかつたが、少なくとも肉眼で観察される多少の病変さえもなかつたとはいい切れない場合には、右認定のように、本件では、膵体部の腫瘍が一年あるいはそれ以上前から発生存在していれば必ず、あるいは非常な高頻度で、膵尾部に重大・著明な病変が生じるとまでは認定できない(本件において膵臓の病理自体に関する各種医学的知見を示す証拠が少ない中で、<証拠略>と江波戸証言とに依拠してこの点まで肯認することは難しい。)のであるから、この場合には死亡一年前には存在していた肺がんの方が膵臓がんよりも先に発生していたという結論を導くことができず、右の疑いは払拭できないことになる。

(ロ) そこで、剖検時の膵尾部の状況如何について検討するに、剖検記録上、死亡者松浦の膵臓に関しては、前記(三)(1)イ(ヌ)のとおりの所見が記載され、膵尾部については「異常なし」と記載されている。そして、右(イ)の各証拠及び弁論の全趣旨によれば、右記載は剖検中又はその直後に記載されたものであり、後日書き加えられたものではないことが明らかである。

そうすると、この剖検記録上の記載の字義どおり、真実剖検時に膵尾部に何らの異常も認められなかつたとすれば、右(イ)で説示したとおり肺がんは膵臓がんより先に発生存在していたと認定すべきことになる。

(ハ) しかしながら、まず、<証拠略>(剖検記載)の記録上、右の「異常なし」の記載の原表記は「O・B」であり、中村証言によれば、これは通常「異常なし」と訳すが、「悪い所はない」という意味合いよりも「特記事項なし」(おそらく、オーネ・ベメルクングというドイツ語の略記ではないかと窺れる。)の意味合いで用いられることが多いと認められるところ、前記(イ)の各証拠等によれば、前記(七)(2)、(九)(2)・(3)でそれぞれ指摘したように、剖検時に剖検記録に記載される所見はほとんど剖検医の肉眼的観察によるものであり、(現に、前記の同人の右肺の腫瘍組織の存否判定において生じたように)顕微鏡的レベルでの観察によらなければ判明しないような病変や、肉眼では容易に判明できない異常状態については、真実存在していても取り上げられないことが常態であることが認められ、このような観察の下で膵尾部に特記事項なしという所見が示されても、直ちに右のような微細な病変、異常が存在しなかつたと認定することはできないのである。そして、前記(イ)の各証拠等によれば、むしろ、剖検時には膵尾部には顕微鏡的レベルでの観察下で認められるような病変、異常は存在していたと推認されるのである。

(ニ) 次に、肉眼で視認できる異常の有無、程度につき検討するに、まず、<証拠略>(剖検記録)の記載を前記(イ)の各証拠に照らして考える限り、剖検時に膵尾部には重大・著明な病変、異常は存しなかつたと認めるほかない。

そこで、結局、前記(イ)で説示したように剖検時に膵尾部に肉眼的観察の下で見出せる多少の病変さえ存しなかつたと認め得るか否かに問題が絞られるところ、中村意見や被告会社は、膵尾部の状況の剖検記録への記載に関して次のとおり述べる。

すなわち、〈1〉死亡者松浦のようながんの末期患者では全身に萎縮が種々の程度に認められ、また個人差もあるため高度の萎縮でない限り剖検記録上格別の記載が行われないことが多く、〈2〉また、がん患者の剖検に当たつては、がん巣ないしは腫瘍浸潤の事実が記載の中心になり、同人の例のように膵尾部にがん巣が存在しない場合には格別の記載が行われないこともあるので、前記剖検記録上の記載は厳密な意味で膵尾部異常なしと記載されたものではないとするが、まず、右の〈2〉の点は、<証拠略>(剖検記録)の記載状況及び膵尾部の正に直近部位に孤立性の著明な腫瘍塊が存在していたことに照らせば到底採用することはできない立論である。

しかし、右〈1〉の点については、前記(イ)の各証拠等に照らせば、膵臓が一般に死後変性等の著しい臓器であるとされ、多少の変性等は特記すべき事項とされない傾向も窺えることをも合わせて、前記のように重大・著明な病変、異常が認められない状況の下で、多少のものが認められたとしても、あるいは右〈1〉のように特記すべき事項なしとされてしまつたのではないかという可能性を否定することはできず、中村らがいうように病変等は十分視認できたが記載されなかつたとまで断定するに足りる証拠はないのであるが、他方、多少の病変であつても肉眼で観察し得るものは全く存在していなかつたという心証を獲得することもまたできず、ほかにこの点を証明する証拠はないのである。結局、本件において、死亡者松浦の剖検時に膵尾部に肉眼で観察し得る多少の病変、異常もなかつたか否か不明であるといわざるを得ない。

(ホ) そうすると、前記(イ)で説示したところから明らかなとおり、本件では、膵体部の腫瘍が肺がんよりも前から存在していたならば非常に高い確率で発現したと解される現象が発現しなかつたという立証はなされていないことになるので、肺がんが膵臓がんよりも時間的に先行して発生したとの結論を導くことはできず、前記膵臓がんの肺転移の疑いを払拭できないことになる。

ホ 本件では、肺がんの発生時期が膵臓がんのそれよりも早いことを示す主張立証はほかになく、結局、前記(3)で認定説示した膵臓原発がんの肺転移の疑いはそのまま残ることになり、A事実に依拠して死亡者松浦の肺がんの原発性を肯定することはできないことになる。

(一一) まとめ

以上検討してきたところによれば、前記一1(三)で説示した推認の方法によらない検討(前記(一)(3)参照)によれば、死亡者松浦の肺がんの原発性は証明されないことになり、かつ、以上の認定説示に照らせば、たとえ前記1(二)で指摘した同人のクロム被暴、吸入に関する特殊例外的な事情が証明されたとしても、右の推認を妨げるに足りる同人の肺がんの原発性に関する反証が十分になされていることも明らかであるから、結局この推認の方法によつてもこの点を認定することはできないことになり、いずれにしても、本件においては同人の肺がんの原発性は認められないことになる。

3 死亡者松浦のクロム被暴、吸入と肺がん罹患の個別的事実的因果関係の不存在

以上1、2で認定説示したところによれば、前記一1(二)で指摘したとおり、クロム被暴、吸入との一般的因果関係が認められるのはあくまでクロム酸塩等製造作業者の肺に原発したがんであることから、被告会社との関係では、仮に、死亡者松浦について前記1(二)で指摘したクロム被暴、吸入に関する特殊例外的な事情が証明され、六価クロム被暴、吸入に係る暴露期間の点での右一般的因果関係適用の妨げがなくなつたとしても、同人の肺がんが原発性のものと認められない以上、右一般的因果関係の存在を基礎にして、前記1(一)で認定したクロム酸塩等製造作業従事と同人の肺がん罹患、死亡との間の個別的事実的因果関係の存在を肯定することはできない。また、被告国は、被告会社の死亡者松浦に対する加害原因行為の存在及び同人の六価クロム被暴、吸入に係る暴露期間が肺がん発症との一般的因果関係を適用するに足りるものであることを争つていないのであるが、被告国との間でも、右同様同人の肺がんが原発性のものと認められない以上右個別的事実的因果関係の存在を肯定することはできないことになる。

そうして、原告らは、ほかに、同人の肺がん(あるいは膵臓がん)罹患、死亡が前記1(一)で認定したクロム酸塩等製造作業従事と個別的事実的因果関係にあることを示す事実を何ら主張立証しておらず、結局、本件では、被告ら双方との関係で死亡者松浦に対する被告会社の加害行為は立証されていないことになる。

五  死亡者大渕について(原告ら・被告会社間)

1 死亡者大渕のクロム酸塩等製造作業従事及びクロム粉じん等の被暴、吸入

原告らと被告会社との間で、死亡者大渕が被告会社栗山工場に勤務していたこと、原告ら主張の同人の勤務期間のうち昭和一八年四月から昭和二九年一一月一〇日までの部分は争いがなく、同人の同工場のクロム酸塩等製造作業従事に関しては、同人が昭和二三年から昭和二六年まで重クロム酸ソーダ製品包装、昭和二七年配合、昭和二八年から昭和二九年一一月二〇日まで蒸発の各作業に従事していたことは争いがないが、本件では、右争いのないところを超えて同人のクロム酸塩等製造作業従事歴を認めるに足りる証拠はない。

そして、死亡者中村ら七名や同小坂の場合と同様に、右争いのない事実に前記第三章で認定説示したところを併せ判断すると、原告らと被告会社との間でも、死亡者大渕が右クロム酸塩等製造作業従事中に六価クロムを含む大量のクロム粉じん、ミスト又は液滴に被暴、吸入し、その暴露期間(クロム被暴作業従事期間)は四年以上に及ぶこと(被告会社の加害原因行為)が認められ、右認定に反する証拠はない。

2 死亡者大渕の肺がん罹患及び死因について

原告らは、死亡者大渕も右クロム被暴、吸入の結果肺がんに罹患し、これが死因となつて昭和四一年八月二日死亡した旨主張するところ、被告会社は、この点に関し詳細な反対主張をして争つているので、(原告らと被告会社との間で)この点について検討する。

(一)(1) <証拠略>によれば、死亡者大渕は昭和三九年七月栗山赤十字病院に入院して治療を受けたが、昭和四一年八月二日同病院で死亡したこと(死亡年月日自体は原告らと被告会社との間で争いがない。)が認められるところ、同病院における診療録である<証拠略>には、同人の治療経過、罹患疾病名につき次のような記載がある。

昭和三九年一一月二日 冠硬化性高血圧症、糖尿病、肺腫瘍

昭和四〇年一月四日  肺結核

昭和四一年四月五日  急性肝炎

同年五月二日     肝性昏睡前症状

同年六月二五日    肺膿瘍(縁膿菌感染)

同年七月一四日    肺カンジタ症

同年八月二日     死亡

また、同病院での主治医谷口医師作成の死亡診断書である<証拠略>には、死亡者大渕の死因が「肺膿瘍(右肺)」であり、その発病より死亡までの期間が二年三か月である旨及びその他の罹患疾病として糖尿病、肺結核があり、右期間は前者が約三年、後者が一年七か月である旨記載されている。

他方、右各証拠(診療録、死亡診断書)には、死亡者大渕の肺がん罹患及びこれに対する治療の事実、肺がんが死因であることなど、肺がんに関する記載は全くなされていない。

(2) 更に、右各証拠及び<証拠略>によれば、死亡者大渕については、右病院に入院中のものも含めて、同人が肺がんに罹患していた旨を記載したり、同人に対し、肺がんに対するものとしての化学療法、放射線治療、開胸手術を実施したことを記載した診療録等や、死亡後の剖検によつて肺にがん巣を発見した旨を記載した剖検記録等の医療関係文書は他に存在しないことが認められ、また、現に、肺がん治療のための開胸手術、死後剖検は行われていないことが認められる。

(3) そうすると、<証拠略>に依拠する限り、死亡者大渕が肺がんに罹患し、これによつて死亡したと認定することができないことは当然であり、診療録、死亡診断書の記載どおり、同人は肺結核を併発した肺膿瘍に罹患し、これが死因となつて死亡したと認めるほかないことになる。

(二)(1) ところが、<証拠略>によれば、栗山工場の元作業員の罹病調査の過程で、昭和五二年当時死亡者大渕について労災認定がなされないままになつていることを知つた渡部真也が、前記病院で死亡者大渕の入院後昭和四一年五月までその治療に当たつた沢医師と、その後治療を引き継ぎ前記死亡診断書も作成した谷口医師に同人の罹病状況や死因を問い合わせたこと、甲三二号証は右問合わせに対する沢医師の昭和五二年一〇月一五日付け回答を、甲三、三号証は同じく谷口医師の同月二四日付け回答を記載した渡部に対する私信(署(記)名捺印のある供述書の体裁をとつている。)であることが認められるところ、右各書証には、いずれも、死亡者大渕の真実の罹患疾病及び死因は肺がんであり、同人の胸部エツクス線写真には大きな肺がんの陰影のあつたことをよく覚えていること、前記診療録や死亡診断書の記載内容は虚偽である旨が供述記載(以下、ここでは「供述」とも表現する。)されている(なお、本件では、右両医師の証人尋問申請はなされていない。)。

(2) しかしながら、たとえ、医師が肺がんという重篤致命的な疾病に関し、自ら記載した部分については、職業倫理上非難されるとともに、犯罪にも問われかねない所為をなしたとの自認をも含む供述内容であつても、そもそも、死亡者大渕の死後一〇年以上を経過してなされた担当医の右のような供述があることのみをもつて、直ちに前記診療録、死亡診断書の記載が虚偽であり、ひいては、同人の肺がん罹患及び肺がんが死因になつたことが証明されるとすることができないのは当然である。

すなわち、右の各供述記載とあいまつて、右診療録等の記載内容が虚偽であることを合理的に説明し得るとともに、右各供述記載に信用性があることを示して積極的に同人の肺がん罹患の証明をもなし得るような事実関係が明らかにされない以上、前記(一)(3)で述べたとおり、本件においては、右両医師が供述し、原告らが主帳するような同人の肺がん罹患及びこれが同人の死因になつたとの事実が証明されたとすることはできないのである。

(3) しかるところ、以下に述べるとおり、本件においては、前記(1)の供述記載部分を含め右両医師の供述にはそれ自体として不自然な点もある上、更に、右各供述とあいまつて前記診療録等の記載内容が虚偽であることを合理的に説明して、右原告らの主張を証明するに足りるような事実関係は立証されておらず、結局、原告らと被告会社との間では、右各供述記載(甲三二、三三号証)に依拠して死亡者大渕の肺がん罹患及びこれが同人の死因になつたとの事実を認定することはできないことになる。また、他に右の事実を証明するに足りる証拠もない。

(イ) (甲三二、三三号証)の各記載を見ると、まず、右の「虚偽記載」のなされた経緯について、沢医師は「自分が退職した後、後任の谷口医師が患者家族による何かの都合で(生命保険?)、肺膿瘍としたのではないかと思われる」旨述べ、谷口医師への引き継ぎ後に「虚偽記載」がなされたとするのに対し、谷口医師は「沢医師に肺がんではないかと尋ねたら肺結核による肺膿瘍にした方が保険上都合がよい(傷病手当てが長期に出るためか、医療保険を受けるのに都合がよかつたのかは忘れました)ということでこういう病名にしてあるということでした」旨述べ、両医師とも、右「虚偽記載」自体については断定的に強調する一方で、互いに他の一方の医師が虚偽の病名を付することを発案したのであつて、自らは「虚偽記載」がなされた経緯に関与していないとしているところは、被告会社の指摘するとおり、不自然かつ理解に苦しむ点であるといわざるをえない。

(ロ) 特に、沢医師の供述記載については、右の供述部分が正しいとしたら、前記(一)(1)の診療録の記載のうち昭和四一年五月までの部分は死亡者大渕の病状を正確に記載していることになる(原告らは診療録の記載も虚偽であると主張している。)が、そうすると、沢医師が同時に述べている「死亡者大渕の入院当初の胸部エツクス線写真を見れば一目瞭然に肺がんの陰影が認められ、更に陰影が日時の経過に従つて増加した」旨の供述が虚偽であることになり、逆に前記の「虚偽記載」の経緯に関する供述が正しくないとすれば、沢医師は、自己の診療録「虚偽記載」については何ら自認せず、その理由を曖昧な形でさえ述べていないことになるのであつて、首尾一貫性にも欠け、右の死亡者大渕の入院当初の所見に関する供述部分を含め、全体として信用性に乏しいといわざるを得ない。

(ハ) 更に、仮に、沢医師の右所見に関する供述が正しいとすれば、谷口医師の述べるとおり、同人の入院当初から死亡までの約一年九か月にわたつて肺がんという重篤致命的な疾病につき診療上の「虚偽記載」がなされたことになるが、そもそも栗山赤十字病院のようなかなり大規模な病院(この点は弁論の全趣旨から明らかである。)で、長期間このようなことを続けるためには、他の医師、看護婦等はもとより、事務担当者を含め多くの関係者の組織的な協力が不可欠のはずであり、「保険給付受給の便宜」という正当性を持ち得ない理由に基づいて、このような組織的協力を得、かつ、持続できたとは容易に納得し得るものではないところ、右両医師はこれらの点について何ら言及せず、かつ、組織的協力の有無を含めこの点を明らかにする証拠はない。

ロ 次に、右両医師とも「虚偽記載」の理由として極めて曖昧な形で「保険の都合」ではないかと述べ、原告らはこの点について結核予防法による療養給付手続を受けるためであつたと主張しているが、本件においては、このような「虚偽記載」がなされたことにより、当時、死亡者大渕又はその家族に具体的にどのような保険や福祉制度に基づく如何なる利益がもたらされたかを明らかにする証拠はない。

また、このような保険給付受給等の便法として右の「虚偽記載」がなされたとすれば、同人の家族らからの働きかけ、あるいは家族らとの示し合わせもあつてしかるべきであるのに、同人の長女でありその看病に当たつていた原告ミチヱ本人尋問の結果も含め、当時、このような動きがあつたことを示す証拠もなく、右両医師の供述記載が真実であるとすると、医師が、患者や家族からの働きかけなどがないのに、一方的に「虚偽記載」をなしたことになつてしまうのである。

ハ また、右両医師(特に沢医師)は、死亡者大渕の胸部エツクス線写真像からすれば肺がん罹患が明暸であつた旨強調しているが、前記診療録、死亡診断書の記載が虚偽で右肺がん罹患が真実ならば、たとえ右診療録上記載しなかつたとしても、昭和三九年七月の入院当初の段階で既に明らかであつたという肺がんについて、化学療法、放射線治療等何らかの治療行為が行われてしかるべきであるのに、前記(一)(2)のとおり、当時から右治療行為実施を示す医療関係文書は存在しないと認められる上、本件においては他に右治療行為実施を証明するに足りる証拠も提出されていない。沢医師の「死亡者大渕は結核病棟には収容されていなかつた」との供述部分から直ちに右のような治療行為がなされたと推認することもできない。

結局、右両医師の「虚偽記載」に関する供述記載が真実であるとしたら、診療録への「虚偽記載」があつただけでなく、真実の疾病に対する現実の治療行為も行われなかつたことになつてしまうのである。

ニ 更に、原告らは、当時担当医から死亡者大渕の家族に対し同人が肺がんに罹患している旨の説明があつたと主張し、前記原告ミチヱの本人尋問の結果中には一部これに沿う供述も見られるが、右供述部分自体断片的である上、右イないしハで述べたところに照らすと、右供述部分をもつて、右両医師の各供述記載を補強することはできない。

ホ なお、原告ら主張のとおり、死亡者大渕については、昭和五三年一月栗山工場のクロム酸塩等製造作業従事に起因して肺がんに罹患、死亡した旨の労災の業務上疾病認定がなされており(この点は、原告らと被告会社との間で争いがない。)、<証拠略>によれば、右認定は主として前記両医師の供述書又はこれと同内容の書面に依拠してなされたと認められるところ、以上イないしニで述べたところに照らすと、右の事実をもつて前記各供述記載を補強することもできない。

3 まとめ

右2のとおり、本件においては、原告らと被告会社との間では、死亡者大渕の肺がん罹患及びこれが同人の死因となつた事実を認めることができないところ、原告らは、ほかに、同人が前記1で認定したクロム被暴、吸入と因果関係の存するような身体障害に罹患して死亡したとの事実を何ら主張立証していない。

したがつて、本件においては、前記一2、3のとおり、被告国は死亡者大渕に対する被告会社の加害行為の存在を自白しているが、被告会社との間では、同人については被告会社の加害原因行為と個別的事実的因果関係のある被害発生が認められず、同人に対する被告会社の加害行為は立証されていないことになる。

六  死亡者山田について(原告ら被告ら間)

1 死亡者山田のクロム酸塩等製造作業従事及びクロム粉じん等の被暴、吸入

(一) <証拠略>によれば、死亡者山田については、昭和五〇年当時被告会社にはその就業記録等が全く見当たらず、被告会社関係者が行つた栗山工場の元従業員らに対する聞き取り調査によつても同人の就業の事実自体が判明しなかつた模様であるが、前記第二章第一で認定した事実及び<証拠略>を総合すると、死亡者山田が昭和一一年四月ころから昭和一六年四月ころまで同工場に勤務したこと、その間初めはフエロアロイ製造工程で、退職時には重クロム酸ソーダ製造工程(焼成工程、精製液工程)で作業していたこと、昭和一四年三月ころには重クロム酸ソーダ製造工程に移つていたこと、右工程では浸出の作業に従事したことがあることが認められ、右認定に反する証拠はない。しかし、本件全証拠によつても同人の右工程での作業開始の具体的時期、右浸出作業以外の作業従事の有無等は判然とせず、前記各証拠によれば、同人の重クロム酸ソーダ製造工程での作業従事期間はせいぜい二、三年であるとしか認めることはできない。

(二) そして、死亡者中村ら七名や同小坂の場合と同様に、右認定事実に前記第三章で認定説示したところを併せ判断すると、死亡者山田が右の重クロム酸ソーダ製造工程での作業従事中に六価クロムを含む大量のクロム粉じん、ミスト又は液滴に被暴、吸入したこと(被告会社の加害原因行為)が認められ、右認定に反する証拠はない。

2 死亡者山田の肺がん罹患及び死亡並びにこれに係る因果関係

(一) <証拠略>によれば、死亡者山田が昭和四四年一〇月二〇日死亡したこと及びその死因が昭和四四年三月ころ発病した肺がんであることが認められる。また、右証拠によれば、同人の死因について、担当医師は、直接死因は肺がんであること、肺がんの原因となつた疾病や併発疾病はない旨診断していることが認められるところ、右医師の判断を疑わせるような反証は全くなされておらず、右診断結果から直接同人の肺がん原発性を認めることができる。

(二)(1) ところで、前記第四章第四の二11で要約説示したとおり、クロム酸塩等製造作業における六価クロム被暴、吸入と肺がん発症との間の一般的因果関係は、原則として六価クロムの暴露期間(クロム被暴作業従事期間)が四年以上にわたる場合に限つてこれを認めることができ、右期間が四年未満の場合には、例外的に作業者が現実に極めて大量の六価クロム被暴、吸入をするなど特段の具体的事情が認められるときに限つて右一般的因果関係を認めることができるものである。

(2) ところが、前記1で認定したとおり、死亡者山田の同工場のクロム酸塩等製造作業における六価クロム被暴作業従事期間はせいぜい二、三年であるので、同人に関し、右の特段の具体的事情の存否について検討する。

イ 確かに、前記第三章第二で認定説示したとおり、戦前の栗山工場の重クロム酸ソーダ製造工程の作業環境は、クロム酸塩等の生産量が少なかつたことを考慮しても極めて劣悪であり、環境保全設備は皆無に等しく、機械化も進まず、原始的な作業、人力、手作業に負う部分がほとんどを占め、各主工程のいずれの工程部分においても、六価クロムを含む大量のクロム粉じん、ミスト又は液滴が発生し、これが職場に飛散、発散、拡散し、作業員がこれに被暴、吸入するという状態にあつたといえる。

ロ しかし、右イの事実を前提にして、死亡者山田に前記のような特段の事情があるというためには、同人が前記製造工程において具体的に如何なる期間どのような作業に従事したのかということや、現実に極めて大量のクロム粉じん、ミスト又は液滴に被暴、吸入したことを示す具体的な事実、同人の当時の身体の状況等が相当程度明らかにされる必要があるというべきである。

ところが、本件においては、同人について右のような状況を具体的に明らかにする証拠はほとんどなく、関係証拠と弁論の全趣旨を総合しても、前記1(一)の程度の事実を認定できるにとどまるのである。そして、前記1(一)程度の事実しか認められないような状況の下では、右イの認定事実を前提にしたとしても、せいぜい、前記1(二)の事実(すなわち暴露期間が四年以上にわたる場合には前記一般的因果関係を「適用」できるような事実)が認められるとにとどまり、これを超えて、同人について前記の特段の事情が存したとまで認めることは難しいのである。

(三) そうすると、前記、1(二)、2(一)の各認定事実に前記第四章第四の二で認定説示したクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん発症との一般的因果関係(因果則)をあてはめることによつては、同人の同工場におけるクロム被暴、吸入と肺がん罹患、これによる死亡との間に個別的事実的因果関係が存するとすることはできないことになる。

3 まとめ

以上のとおり、本件においては、一般的因果関係の存在から、死亡者山田に対する被告会社の加害原因行為とその肺がん罹患、死亡との個別的事実的因果関係の存在を導くことはできないところ、他に、右両者間の個別的事実的因果関係の存在を証明するに足りる証拠もない。

したがつて、本件においては、被告ら双方との関係で同人に対する被告会社の加害行為は立証されていないことになる。

七  被告会社の死亡者らに対する加害行為のまとめ

以上一ないし六で認定説示したところに基づいて、被告会社の死亡者らに対する加害行為についてまとめると、次のとおりである。

1 死亡者中村、同小坂、同櫻庭、同中井、同佐藤、同今西、同池田、同工藤について

原告らと被告ら双方との間で、以上認定説示した事実関係、すなわち右死亡者八名が、いずれも栗山工場のクロム酸塩等製造作業に従事して、その際その劣悪な作業環境の下で大量のクロム粉じん、ミスト又は液滴に被暴し、これを吸入した結果、これに起因して死亡者中村、同櫻庭、同中井、同佐藤、同今西、同池田、同工藤は肺がんに罹患し、同小坂は喉頭がんに罹患し、これらを死因として死亡するに至つたということは、被告会社の右各死亡者に対する加害原因行為及びこれと個別的事実的因果関係のある被害発生があつたことを示すものであり、本件においては、被告会社の右各死亡者に対するそれ自体として違法な加害行為が存在したものと認められる。

2 死亡者大渕について

(一) 原告ら、被告会社間

原告らと被告会社との間では、被告会社の同人に対する加害行為の存在は立証されていないので、その被害発生の予見可能性、結果回避義務違反の有無等を論ずるまでもなく、この段階で同人の死亡に係る被告会社の不法行為が成立しないことが明らかである。

(二) 原告ら、被告国間

前記一2(二)で説示したとおり、原告らと被告国との間では、死亡者大渕についても同中村らと同様に被告会社の加害原因行為及びこれと個別的事実的因果関係のある被害発生があつたことに争いがなく、被告会社の死亡者大渕に対するそれ自体として違法な加害行為が存在したものと認められる。

3 死亡者松浦、同山田について

原告らと被告ら双方との間で、被告会社の死亡者松浦、同山田に対する加害行為の存在は立証されていないので、その被害発生の予見可能性、結果回避義務違反の有無等を論ずるまでもなく、この段階で右両名の死亡に係る被告会社の不法行為、ひいては(被告会社の右加害行為を要件とする)本件各公務員の不法行為のいずれもが成立しないことは明らかである。

第六章  被告らの行為義務及び責任〔請求原因第六章〕

第一節  被告会社の不法行為責任〔請求原因第六章第一節第一〕

第一被告会社の責任に関する判断の前提事項等

一 過失責任の主張

原告らは、本件において、栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入の結果、各生存原告、死亡者が被つた被害につき不法行為に基づく損害賠償請求を行つているものであるが、被告会社の責任原因として、これらの被害発生につき、被告会社が結果発生を十分認識しながら、それを認容した上、被害発生を防止するための措置をとることを怠り、劣悪な作業環境を改善せず、あえて生存原告ら及び死亡者らを同工場の劣悪な作業環境の下で作業に従事させ、クロム被暴、吸入をなさしめたという主張、すなわち、右被害発生に関し被告会社に民法七〇九条に基づく故意責任が存する旨の主張は行つていない。

原告らの準備書面等の一部には、被告会社が同工場の作業改善を怠たつたことなどにつき「故意ともみるべきもの云々」のような記述が見られるが、原告らの主張全体の構造及び弁論の全趣旨に照らせば、これは、あくまで被告会社の過失責任に関し、クロム被暴、吸入と各種身体障害発生との一般的因果関係の認識を伴う形態のものであること、あるいは劣悪な作業環境改善の懈怠の程度が著しく、過失の程度が重いことなどを強調しているものにほかならず、右に述べたような法的意味において、被告会社が被害発生を認容してあえて加害行為をしたというその故意責任の存在を主張しているものではないと解される。

したがつて、本件では、以下、前記のとおり事実摘示した被告会社の過失責任の存在に関する原告らの主張の当否につき検討、判断する(なお、以下の認定説示から明らかなとおり、本件では、被告会社に過失責任がないと判断される被害発生については、同時に故意責任が成立する余地もない。)。

二 判断対象について

これまで認定説示してきたとおり、原告ら主張の生存原告らの受けた各種身体障害の一部や一部の死亡者の肺がん罹患・死亡については、既に被告会社の加害行為の存在の立証がないとされたものがあり、これらについては、被告会社の過失の存否を判断するまでもなく原告らの不法行為に基づく損害賠償請求が成立しないことが既に明らかであるから、以下、被告会社の加害行為の存在が立証された生存原告らの被害、死亡者らについてのみ被告会社の過失の存否を検討判断することにする。

すなわち、以下右過失の存否の判断の対象となるのは、次のとおりである。

1 生存原告ら

生存原告らについては、前記第五章第二で認定説示したとおり、当該生存原告に係る被告会社の加害行為が一切立証されていない者(既にその者に対する被告会社の不法行為が成立しないとされた者)は存しないが、原告ら主張の胃腸障害、肝臓障害、腎臓障害の各被害発生については被告会社の加害行為の存在は立証されておらず、以下右加害行為の存在が立証された別添四九記載の皮膚障害、上気道(鼻)の障害、気管支・気管・肺の障害(以下、これらを「認定障害」又は「認定被害」ともいう。)の各発生について被告会社の過失の存否を判断する。

2 死亡者ら

死亡者らについては、前記第五章第三で認定説示したとおり、被告ら双方との関係で死亡者松浦、同山田に対する被告会社の加害行為の存在が、被告会社との関係で死亡者大渕に対する右加害行為の存在が、それぞれ立証されておらず、被告会社との関係では、既に右三名の死亡者に対する被告会社の不法行為が成立しない(右三名に係る被告会社に対する不法行為に基づく損害賠償請求は失当)とされているので、以下、被告会社との関係で加害行為の存在が立証された死亡者中村、同櫻庭、同中井、同佐藤、同今西、同池田、同工藤の肺がん、同小坂の候頭がん罹患、これらによる死亡(以下、この八名の死亡者を「被害者たる死亡者」ともいう。)について被告会社の過失の存否を検討判断する。

三 予見可能性及び結果回避可能性の不存在の判断について(被告会社の抗弁第一章との関係)

本件において、原告らは被告会社に対し、不法行為に基づく損害賠償請求権と並んで安全配慮義務違反(債務不履行)に基づく損害賠償請求権とを選択的に併合請求しているところ、前記第一章第二で述べたように本判決では、まず前者の請求の成否につき判断することにした。

ところで、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求については、原告らが請求原因第六章第一節第二で主張するように、被告会社にクロムの有害性(因果関係)の認識・予見の存在が認められる場合には被害発生、被害拡大防止行為義務が、右認識・予見の存在が認められない場合には有害性調査予見行為義務及び右各行為義務が、それぞれ被告会社の安全配慮義務の内容になると解されるところ、被告会社が客観的に右義務を尽くさなかつたために生存原告や死亡者に被害が発生した(債務の不完全な履行があつた)と認められる場合にも、被告会社の側で、抗弁として、右被害発生、被害拡大防止行為義務違反に対するものとして被害発生、被害拡大防止の可能性(結果回避可能性)の不存在が、右有害性調査予見行為義務違反に対するものとしてクロムの有害性(因果関係)認識・予見の可能性(結果予見可能性)の不存在が、それぞれ主張立証されれば、結局、被告会社には債務の不完全な履行につき過失がなかつたことに帰し、安全配慮義務違反及びこれに基づく損害賠償義務は成立しないことになる(被告会社の抗弁第一章)。

そうすると、以下不法行為に基づく損害賠償請求の成否に関して、右二で説示した生存原告ら、被害者たる死亡者らの被害発生に係る被告会社の過失があるかにつき検討した結果、「右結果予見可能性及び結果回避可能性がある」とは認めることができないとされたため、過失があるとはいえないことになり、右請求は成立しないと判断されても、選択的に併合された安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求に関し客観的な債務の不完全な履行の事実が認定される場合には、再び、右結果予見可能性及び結果回避可能性につき今度は「これらがない」という抗弁事実を認めることができるか(ひいては過失がないといえるか)を検討すべき余地は依然として残ることになる。

そこで、以下、被告会社の過失の存否の検討に当たつては、右の点を考慮して、単に「右両可能性が存する」と認めることができるかの点のみならず、「右両可能性が存しない」と認めることができるかについても併せて考察し、右両可能性の存在、不存在、存否不明のいずれであるかを明らかにする形で検討判断することにする。

第二被告会社の過失の内容及び構造等

一 加害行為と過失

前記第三章ないし第五章で認定説示したように、本件では、「栗山工場の劣悪な作業環境の下で各生存原告及び各被害者たる死亡者がクロム酸塩等製造作業(塩基性硫酸クロム工程の作業を除く。以下同じ。)に従事し、その際クロムを含有する大量の粉じん、ミスト等に被暴、吸入したこと」(加害原因行為)並びに「その結果、各生存原告が各認定障害に罹患し、各被害者たる死亡者が肺がん又は喉頭がん(死亡者小坂)に罹患し、これを死因として死亡したこと」(個別的事実的因果関係、被害発生)が認められ、被告会社の各生存原告及び各被害者たる死亡者に対するそれ自体で違法な加害行為が存在したと認められるところ、被告会社の過失とは、被告会社が、右加害行為を惹起させないための行為をなす義務、すなわち、右加害原因行為による右認定障害や肺がん等罹患・死亡の発生という違法な結果発生(加害行為成立)について、結果発生を回避するための行為義務(結果回避義務、加害行為回避義務)を怠ることである。

したがつて、被告会社に右のような結果回避義務違反が存したことが認められれば、被告会社には右加害行為に関し責任原因たる過失が存することになり、右加害行為の結果各生存原告及び各被害者たる死亡者に生じた損害の賠償義務が発生することになる。

二 被告会社の過失の構造、要件等

1 被告会社の過失の要件

本件において、被告会社の過失すなわち結果回避(加害行為回避)義務違反が存するとされるためには、次のような要件の存在が認定されなければならない。

(一) 主観的要件について

(1) 本来の要件

被告会社が、加害原因行為時において、

〈1〉 加害原因行為の結果これと個別的事実的因果関係の存する被害が発生し、各生存原告、被害者たる死亡者に対する加害行為が惹起されるということを認識・予見していたこと、すなわち結果予見(加害行為成立予見)の存在、

〈2〉 右結果予見の存在が認定されなくても、右の事実を認識・予見し得べき状況、すなわち結果予見可能性(加害行為成立予見可能性)の存在、

右〈1〉〈2〉のいずれかが認定されることが必要である。

(2) 一般的因果関係の認識・認識可能性との関係

イ ところで、右の被告会社の結果予見の可能性の存在とは、具体的には、前記第三章で認定した栗山工場のクロム酸塩等製造工程の劣悪な作業環境の下で各生存原告及び各被害者たる死亡者が作業に従事し、現実に六価クロムを含むクロム被暴、吸入をした(前記第五章第二の一・二、第三の二1・2、三1・2)結果、これと個別的事実的因果関係のある認定障害や肺がん、喉頭がんに罹患すること(同第二の三1ないし8、第三の二3・三3)の認識・予見が、各生存原告及び各被害者たる死亡者の右作業従事当時存在することであり、結果予見可能性の存在とは、右クロム被暴、吸入をした結果右各被害が発生することの認識・予見可能性が右当時において存在することである。

ロ 次に、こと被告会社に関しては、自己の運営する栗山工場のクロム酸塩等製造工程における作業員のクロム被暴、吸入の事実自体を知り得なかつたことを示すような特段の事情(例えば、各職場でのクロム粉じん、ミスト等の発生、飛散、拡散に可視的な表微が全く又はほとんど存しないことなど)が認められない限り、被告会社は右の事実を知り又は知り得たと認めるべきである。

そして、本件全証拠によつても、右のような特段の事情の存在を認めることはできず(被告会社はこの点につき特段の主張立証をしていない。)、むしろ、前記第三章で認定説示した事実及び弁論の全趣旨によれば、昭和一二年六月の前記製造工程の稼動開始当初から昭和四八年六月のその廃止に至るまで、被告会社は右事実自体は知つていたと推認することができる。

ハ そうすると、被告会社において、個別の生存原告ら、被害者たる死亡者らに対する加害行為との関係で、結果予見(加害行為成立予見)が存在し、又は結果予見可能性(加害行為成立予見可能性)が存在した場合というのは、右ロの認定事実を前提にして、被告会社において、前記第四章で認定説示したクロム被暴、吸入と認定障害、肺がん等発症との一般的因果関係の存在(右各障害がクロムによる職業性疾患であること)を、結果予見に結びつく程度に認識し、又は結果予見可能性に結びつく程度に認識し得べき状況(認識可能性)が存在した場合と一致することになる。右の一般的因果関係の認識又は認識可能性の存在が認められる場合には、これと対応して被告会社の予見又は予見可能性の存在が認められることに帰するのである。

ニ (置き換えられた要件)したがつて、本件においては、前記(1)の本来の主観的要件は次のように置き換えることが可能である。

すなわち、被告会社が、加害原因行為時(各生存原告、各被害者たる死亡者の前記作業従事当時)において、

〈イ〉 結果予見と結びつく程度に、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と各認定障害及び肺がん、喉頭がん発症との一般的因果関係の存在を認識していたこと、

〈ロ〉 右認識の存在が認定されなくても、結果予見可能性に結びつく程度に、右一般的因果関係の存在を認識し得べき状況、すなわち右認識可能性が存在していたこと、

右〈イ〉〈ロ〉のいずれかが認定されればよいことになる(以下、右の意味での一般的因果関係の認識、認識可能性を「因果関係の認識」、「因果関係の認識可能性」ともいう。また、どのような内容の認識、認識可能性が必要かについては後に述べる。)。

(二) 客観的要件について

(1) 被告会社の結果回避(加害行為回避)義務違反の客観的要件としては、前記加害原因行為時において、

〈1〉 結果回避行為義務の存在

被告会社が結果回避(加害行為回避)のため一定の行為・措置をなすべきこと(具体的には右義務を基礎づける事実関係の存在)、

〈2〉 結果回避の可能性の存在

右の行為・措置をなすことによつて、結果発生(加害行為成立)を回避できる可能性があり、かつ、これらを被告会社がとり得べき状況が存したこと、

〈3〉 結果回避行為の不存在

被告会社が当該行為・措置をとらなかつたこと、のいずれもが認定されることが必要である。

(2) 右の〈1〉の点に関しては、これまで認定してきた加害原因行為、被害の発生に係る具体的な事実関係等を基礎にして判断することになる(前記第三章第一の一参照)。

(三)結果回避義務違反と加害行為成立との因果関係

最後に、結果回避義務(加害行為回避義務)違反自体の要件ではないが、被告会社が右(二)のような結果回避行為・措置をとらなかつたことと、前記のような加害行為が惹起されたという結果発生との間に因果関係が存在する必要がある。

(四) 被告会社の過失の要件は以上のとおりであるが、第三以下において、被告会社の結果予見、予見可能性(因果関係認識、認識可能性)、被告会社の結果回避義務及びその違反、結果回避義務違反と加害行為成立との因果関係の順序で右要件の存否につき検討判断する。

2 結果回避義務違反の存在すべき時期

右1でも指摘したとおり、被告会社の各生存原告、各被害者たる死亡者に対する加害行為に係る過失、すなわち結果回避義務違反は、被告会社の加害原因行為時、換言すれば各生存原告及び各被害者たる死亡者が栗山工場におけるクロム酸塩等製造工程でクロム被暴作業に従事していた時期において存在することが必要である。

3 結果予見義務について

(一) 被告会社の結果予見(加害行為成立予見)に関しても、結果回避の場合と同様に、(単に十分注意をするということを含めて)各種調査等結果予見のための行為・措置が考えられることはいうまでもないが、前記1のとおり、被告会社の過失の要件としては直接的には、結果回避のための一定の行為・措置をしなかつたことが問題となるのであり、当該行為が結果回避行為の一環となり得ることは別論として、被告会社が結果予見のための一定の行為・措置をなさなかつたこと自体、すなわち具体的な結果予見行為義務違反自体が被告会社の過失そのものになるわけではない。

(二) ところで、前記1のとおり、被告会社において結果の予見がない場合にも、結果予見可能性が存すれば、被告会社は、結果を予見していなかつたが故に結果回避行為をとり得なかつたときであつても、結果回避義務違反に問われることになるのは当然である。

そうすると、右(一)のように個々の結果予見行為義務違反が過失そのものではないということとは別個の問題として、被告会社の結果予見(因果関係認識)が認められないものの結果予見可能性(因果関係認識可能性)が認められる場合には、被告会社は結果発生を未然に防止するために結果を予見すべきであり、被告会社には結果予見義務(因果関係認識義務)を尽くした上、結果回避行為をなすべき義務があると観念することができ、前記のような場面を把えて、結果予見義務(因果関係認識義務)に違反したため過失が存すると見ることもできることになる。

第三被告会社の結果予見、予見可能性(因果関係認識、認識可能性)の存否

〔請求原因第六章第一節第一の二・三、第二編第六章第一節第一の二・三、第三編第四章〕

一 検討方法、因果関係認識・認識可能性の内容等及び認定に供した証拠

1 検討方法

以下、第一、第二で説示したところを前提にして、前記第二の二1(一)(2)ニで示した置き換えられた要件、すなわち被告会社が加害原因行為時において、結果予見に結びつく程度に認定障害及び肺がん、喉頭がん発症とに係る前記一般的因果関係の存在を認識していたか、あるいは右認識の存在が認められなくても、結果予見可能性に結びつく程度にその認識可能性が存在していたかを、生存原告らの認定障害、被害者たる死亡者の肺がん、喉頭がんの順序でそれぞれ検討することによつて、被告会社の各生存原告及び被害者たる死亡者に対する加害行為に係る結果予見の存否及び結果予見可能性の存否について判断する(なお、前記第一の三参照)。

2 因果関係認識・認識可能性の内容

本件において、前記一般的因果関係に関し、どのような内容の認識があり、又はその認識の可能性があれば、認識内容の面で結果予見、予見可能性に結びつくのか(認識可能性の程度如何は別問題である。)について、前記第二章ないし第五章で認定説示したところ及び弁論の全趣旨を総合考慮して検討するに、次のとおりになると解される。

(一) すなわち、被告会社が、加害原因行為当時において、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と当該身体障害発生との因果関係に関し、〈1〉原因物質の特定などを含めて、具体的機序解明による因果関係の存在につき認識がある場合及び〈2〉原因物質の特定や具体的機序解明による因果関係の存在までの認識はないものの、前記第四章で認定説示したような原因と結果との間の高度の蓋然性としての因果関係の存在につき、これに係る限定等とともに認識がある場合はもとより、〈3〉概括的にであれ、クロム被暴、吸入と障害発生との間に右の高度の蓋然性としての因果関係が存することにつき認識がある場合には、被告会社に結果予見があるといえ、右〈1〉〈2〉〈3〉のような内容の認識の可能性があれば、結果予見可能性があると解される。

次に、被告会社において、右〈2〉〈3〉とは異なり〈4〉概括的にであれ本来の因果関係の存在(高度の蓋然性の存在)の認識はなく、クロム被暴、吸入と当該障害発生との間にかなりの程度の蓋然性、相関関係が存するとの認識がある場合には、直ちに結果予見があるとはいえないものの、結果予見可能性は存すると解される。

そして、更に進んで、被告会社において(4)のような内容の認識を現に持つには至らなかつたが、その可能性は認められるという場合にも、本来の因果関係自体の認識可能性があるとはいえないものの、少なくとも被告会社は、自己の加害行為の結果当該障害の発生があり得ることを予見し得べき状況にあるといえるので、結果予見可能性は存すると解される。

(二) しかしながら、被告会社において、右〈4〉のような内容の原因と結果との間の関係についての認識の可能性さえも認められない場合、例えば、クロム被暴、吸入によつて当該障害が発生することの漠然とした不安感や憶測を抱き得るにとどまるような状況が存するだけでは、結果予見はもとより結果予見可能性も存しないと解される。

後に指摘する被告会社の化学工業を営む企業としての高度の注意義務などを考慮に入れても、本件においては、被告会社に右(一)〈4〉のような認識可能性もない場合にも結果予見可能性を肯定すべきであるとする事情は見出せず、このような場合には、被告会社には結果予見可能性はないと解するほかない。

(三) 結局、結果予見、結果予見可能性の存在と結びつく程度に被告会社が因果関係を認識し、又は認識可能である場合とは、前記(一)の〈1〉ないし〈4〉のような内容の認識、認識可能性がある場合であり、以下、この意味での認識、認識可能性の存否につき検討判断することにする。

3 医学情報、資料の存在と被告会社の認識可能性

(一) クロム酸塩等製造等クロム取扱産業の場面におけるクロム被暴、吸入と一定の障害の発生との因果関係の存否というのは、一定の物質の人体に対する影響(病理作用)に関する自然科学的知見の一つである。

そうすると、一定時期における被告会社の右因果関係の存在の認識可能性の有無の検討(認識がないことを前提とする。)に際しては、右因果関係の存在に係る医学的知見が、当該時期より十分古い時期に明らかにされるなどして相当程度無前提的に受け入れられている場合等は格別、そうでないならば、多かれ少なかれ専門的情報、資料の形で存する右因果関係に関する医学、とりわけ産業医学の情報、資料の獲得可能性如何が被告会社の認識可能性の有無に影響する場合が多いことになる。

特に、右因果関係の存在という医学的知見の取得に直結するような産業医学情報、資料が存する場合には、被告会社においてその獲得可能性があつたとされるときには、一般に右因果関係の認識可能性もあつたとすべきことになる(ただし、逆に右獲得可能性がなかつたとされるときには、因果関係の認識方法は既存の医学情報等の収集に限られないのであるから、必ずしも直ちに右認識可能性がなかつたことに帰結しない。)。

(二) ところで、後記4で掲げる各証拠によれば、このような産業医学情報、資料は、専門的な論文、専門書、総合解説書、一般解説書、教科書、手引書、報告書、医学記事等産業衛生や職業病に関する多種多様な文献の中で示され、このような文献を通じての産業医学情報、資料の獲得可能性の存否、程度等は一様ではないと解される。

(三)(1) そこで検討するに、まず、国内文献についてみれば、前記第二章、第三章で認定説示したところと<証拠略>を総合すると、被告会社は、栗山工場でクロム酸塩等製造を開始した昭和一二年六月当時には、既に化学工業たる右製造事業のほか金属工業に属するフエロクロムその他のフエロアロイ製造事業等を営んでおり、以後これらの事業を継続してきた者であるが、このような事業の開始、継続に当たつては、各工程における化学反応等や物理的作用等に関する多くの精密な化学的、物理学的知識、情報はもとより、各種の夾雑要因を抱えた工場的生産に関する工学的、技術的知識、情報を十分に取得し、かつ、蓄積しなければならないことは明らかであり、現に被告会社はこれらの知識、情報を(当該時点を基準として)十分に取得、蓄積してきたものと認められ、更に、その取得、蓄積の過程では、当然に当該分野の専門的な高度の文献を含めて多くの文献を閲読、参照してきたことは容易に推認される。

しかるところ、専門分野を異にする知識、情報が医学的知見の取得に直接関連するものでないことは当然ではあるが、右のとおり被告会社が有していた「自然科学上の高度の専門的情報、資料を収集する能力」自体は、医学情報、資料、とりわけ工場的生産活動と密接な関係のある産業医学の分野に関するものの入手、閲読又は参照についても、これに大きく寄与する一般性を持ち得るものであると解される。

(2) また、一般に被告会社のように化学工業を営む企業においては、その製造工程の稼動に当たつて、人の生命、身体に対する有害物質の発生等の有無を十分調査研究した上、自己が管理支配する作業環境下にある作業員に右有害物質に起因する各種身体障害(職業性疾患)が発生することを未然に防止する措置をとるべき高度の結果予見義務、結果回避義務を負うと解される。この点に鑑みれば、被告会社は、栗山工場のクロム酸塩等製造工程において発生するクロム粉じん等に起因する各種身体障害発生の有無の調査について、右(1)の情報収集能力の活用を含め、十分な努力をすべき立場にあつたというべきである。

(3) 右、(1)、(2)の点を併せ考慮すれば、少なくとも、国内文献に関しては、クロム被暴、吸入と各種身体障害発生との因果関係についての産業医学情報、資料を示す文献が存在している場合、当該文献が専門家にとつても極めて入手・参照しにくいものである等の特段の事情が認められない限り、被告会社は、当該文献を閲読・参照することが可能であり、ひいては、当該医学情報、資料を獲得することが可能であつたと推認することができると解される。

この点は、クロム被暴、吸入と一定の障害発生との因果関係に関する外国の医学情報、資料を、これが記載されている国内文献を通じて獲得する場合も同様である。

(四) 他方、外国の医学文献自体の閲読・参照に関しては、被告会社が前記のように情報、文献の収集能力を十分に発揮すべきことは同様であつても、後記4で掲げる各証拠に照らせば、クロム被暴、吸入と一定の障害発症との因果関係に関する医学文献の存在自体を前提にして被告会社の文献閲読・参照の可能性を肯定する前記推認の方法を承認できるほどには、外国医学文献自体の入手・閲読等は容易ではなかつたことが認められるので、被告会社の当該外国文献自体の閲読・参照の可能性の存否については、右推認の方法によらないで、個々的に検討するほかないと解される(もとより、一般的に外国文献の入手・閲読・参照が不可能と推認されるわけでもない。)。

4 認定に供した証拠

以下の第三における事実認定に当たつては、個々の証拠を摘示した上での認定を行うほか、多くの場面で次の各証拠を総合考慮した認定を行うので、あらかじめここに掲記しておき、後の記述ではこれらの証拠を「前記関係証拠」という呼称で引用摘示することにする。

<証拠略>

二 被告会社のがん以外の身体障害(認定障害)発生の因果関係の認識・認識可能性(生存原告らに係る結果予見・予見可能性)

1 被告会社の因果関係認識状況の判断が必要な時期

前記第五章第二の一、二で認定したとおり、生存原告らが栗山工場のクロム酸塩等製造作業に従事して六価クロムを含む大量のクロム被暴、吸入をした時期(クロム被暴作業従事期間)は、右製造工程の稼動開始時たる昭和一二年六月からその廃止時たる昭和四八年六月までの約三〇年間の操業期間の全般にわたつているので、以下、この期間における被告会社の右クロム被暴、吸入と前記認定障害発生との一般的因果関係の認識状況(結果予見状況)につき検討する。

2 争いのない事実

原告らと被告会社との間で、被告会社が前記製造工程の稼動開始直後である昭和一三年ころから、クロム酸塩等製造作業における六価クロムを含むクロム被暴、吸入と、前記第四章第四の一1で認定した皮膚炎・皮膚潰瘍、皮膚潰瘍の瘢痕等の皮膚障害の発生、同2(二)(2)で認定した鼻炎、鼻粘膜潰瘍等発症及び同2(二)(3)で認定した鼻中隔穿孔発症との一般的因果関係の存在を認識していたことにつき争いがない。

よつて、以下、認定障害のうち、右皮膚障害、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等・鼻中隔穿孔以外のもの、すなわち、(別添四九記載の)鼻汁過多・鼻出血等の鼻炎類似の慢性的症状・鼻の全般的機能障害、慢性副鼻腔炎(慢性篩骨洞炎、慢性上顎洞炎を含む。)、嗅覚障害、鼻腔腫瘍、じん肺、続発性気管支炎・慢性気管支炎、肺機能障害、肺気腫(以下ここでは「争いのある認定障害」ともいう。)の発症に関する右一般的因果関係についての被告会社の認識状況につき検討する。

3 栗山工場操業開始直後(昭和一三年)ころの状況

原告らは、まず、栗山工場の前記製造工程の稼動開始直後である昭和一三年ころまでには、被告会社は右2の争いのある認定障害についてもクロム被暴、吸入との一般的因果関係を認識していたとし、仮に右当時右因果関係を現実に認識していなかつたとしても、被告会社にはその認識可能性が存した旨主張するので、この点について検討する。

(一) 先進諸国における知見の状況等

前記第四章第四の一の認定事実及び前記関係証拠によれば、イギリス、ドイツ、フランス等の先進諸国では、クロム、特に六価クロム化合物の人体に対する一次刺激性、催炎性、腐食性は古くから注目されており、一八二七年スコツトランドの内科医カミンによつて、クロム被暴に起因する皮膚潰瘍発生が報告されたのを嚆矢として、一八五七年同じくカミンによつてクロム被暴、吸入と鼻中隔穿孔発症との関係が明らかにされ、以後、デルペシユ、レツゲ、レーマンらによつてクロム被暴、吸入による皮膚、上気道の障害、鼻中隔穿孔、アレルギー性ぜん息等に関する研究結果が報告されるなど、早い時期から、クロム被暴、吸入と一次刺激性皮膚炎・皮膚潰瘍、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等、鼻中隔穿孔発症との因果関係の存在を肯定する知見が確立していたことが認められる。

また、遅くとも昭和初期までには、右先進諸国、とりわけドイツにおいては、同じく六価クロムの強力な酸化力による一次刺激性(催炎性、腐食性)に起因する慢性副鼻腔炎、嗅覚障害等の上気道の障害、慢性気管支炎、肺炎、肺気腫、肺機能障害等の肺の障害発症についても、各種医学文献の中で因果関係の存在を肯定する見解が多く示され、じん肺についても右因果関係の存在を肯定する研究報告等があつたことが推認される。

(二) 皮膚障害、鼻中隔穿孔等発生の因果関係に関する被告会社の認識状況

前記関係証拠によれば、次のとおり認められる。

右(一)で認定したようなクロムによる職業性疾患に関する先進諸国、とりわけドイツにおける医学情報は我が国にも早い時期から紹介され、六価クロムの酸化作用に起因する一次刺激性、催炎性、腐食性によつて、前記第四章第四の一1(一)で認定したように一次刺激性皮膚炎や皮膚潰瘍が発生し、更には、クロムホールや皮膚潰瘍の瘢痕が形成されること、同2(二)(2)、(3)で認定したように、くしやみ、発作、水様性鼻漏などの症状を経て鼻炎が生じるとともに、鼻粘膜の発赤、腫脹、充血が起こり、鼻粘膜潰瘍、鼻中隔潰瘍が生じ、更に鼻中隔の前下部を好発部位として穿孔が生ずるに至ること、また、鼻腔や鼻粘膜に対するこのような六価クロムの障害作用は広範かつ強力であり、前記第五章第二の三2(二)、6(一)で認定したように患者には長く鼻痛、鼻汁過多、鼻閉、鼻出血等の症状が残り、鼻の機能の全般的低下がもたらされることについては、我が国においても、既に遅くとも大正末期には、産業衛生、職業病の専門家はもとより、クロム酸塩等製造業を含むクロム取扱産業の企業関係者、工場安全衛生の実務家等の間でも知見が確立されていた。そして、これらの関係者の間では、右各疾病は、クロム取扱作業者に頻発する典型的、特徴的な病変であると位置づけられていた。

このような状況の下で、被告会社自らも認めるとおり、被告会社も、どんなに遅くとも前記栗山工場のクロム酸塩等製造工程の稼動開始直後である昭和一三年ころには、クロム被暴、吸入と前記皮膚障害、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等、鼻中隔穿孔発症との因果関係の存在を知悉していたのであり、また、鼻汁過多、鼻出血等の鼻炎類似の慢性的症状、鼻の全般的機能障害発生との因果関係の存在も認識していたものである。

(三) その余の鼻の障害及び気管支・気管・肺の障害発生の因果関係に関する被告会社の認識状況

そこで、右(二)で認定したもの以外の鼻の障害及び気管支等の障害発生に係る被告会社の因果関係の認識状況につき検討する。

(1) 因果関係の存在の推測について

イ まず、右(二)の認定事実と前記第四章第三、第四の一の各認定事実及び前記関係証拠とを総合すると、右(二)のように我が国でも大正末期までには確立されていた六価クロム被暴、吸入と前記各障害発生との因果関係を肯定する医学的知見は、水に可溶性の六価クロムが強力な酸化力(その意義については前記第三章第二の一3(二)(6)で説示した。)を有し、これが人体の皮膚や鼻腔粘膜に作用すると当該部位を刺激して炎症を起こし、また当該組織のタンパク質等の化学的変性、腐食作用を惹起する結果、前記各障害が発生するという、障害発生の原因、機序に関する正しい演繹的知見に裏打ちされていたことが認められる。

そうして、被告会社においても、遅くとも昭和一三年ころには、医学的に精密・詳細なものではないにしろ、前記(二)の各障害発生の原因、機序に関し、少なくとも右認定の程度の知見を有していたと認められる。

ロ 次に、前記第四章第四の一の認定事実、前記関係証拠及び弁論の全趣旨を総合すると、昭和一三年当時、その厳密な医学上の定義等はともかく、副鼻腔炎(俗称蓄膿症)、嗅覚障害、鼻腔腫瘍、じん肺、慢性気管支炎、肺機能障害、肺気腫という病名で把えられている疾病が存在すること自体についての認識及び「副鼻腔炎、気管支炎、肺気腫が炎症性疾患あるいは炎症の増悪を一因とする疾患であり、嗅覚障害が鼻腔中の嗅覚組織の障害によつてもたらされ、(良性)鼻腔腫瘍が鼻腔組織の高度の病変の一つであり、じん肺が大量の粉じん吸入に起因するものであり、肺機能障害が気管支や肺の組織の障害によつてもたらされるものである。」程度の認識は、当然被告会社にも存在したと認められる。

ハ そうすると、右イ、ロの各認定事実を併わせると、当時被告会社において、右イの原因、機序に関する知見があつた以上、吸入された六価クロムの一次刺激性、催炎性、腐食性は、副鼻腔や鼻中の嗅覚組織に対しても右イと同様に作用して副鼻腔炎や嗅覚障害を引き起こすのではないか、更に、六価クロムが気管支・気管・肺にも達してこれらの組織にも右イと同様に作用し、気管支炎、肺機能障害、ひいては肺気腫を引き起こすのではないか、粉じん中に六価クロムが含まれていれば、じん肺の症状も出やすいのではないか」という推測をすることは比較的容易なことであつたと解される。

そうして、右の推測は、クロム被暴、吸入による皮膚障害、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等、鼻中隔穿孔発症という事実認識から単純かつ短絡的にクロム被暴、吸入は他にも障害をもたらすのではないかとする単なる憶測ではなく、いつたん右各障害発生の原因、機序まで遡り、そこから演繹的、下向的に導き出されるものであるから、その限りで十分に合理性を有するものであつて、当時被告会社においてこのような推測が比較的容易であつたことは、直ちに、クロム被暴、吸入と右ロの各障害(鼻腔腫瘍を除く。)発生との因果関係の認識可能性の存在そのものを意味するとは断じ得ないものの、その存在の認定に寄与する重要な状況事実になるものと解される。

ニ また、前記関係証拠に照らせば、前記ロの各障害のうち鼻腔腫瘍の発症については、昭和一三年当時被告会社において、右ハで述べたような当該疾病名を特定する形での推測は必ずしも容易ではなかつたと認められるが、少なくとも、前記イの六価クロムの一次刺激性等の有害作用による鼻腔内の病変には顕著なものがあり、鼻腔組織については、重い病変も惹起され得るという推測をすることは可能であつたと認められる。

(2) 各種文献について

次に、昭和一三年ころまでに、我が国の国内文献において示されたクロム被暴、吸入による前記(1)ロの各障害(争いある認定障害)発生に関する医学情報、資料の状況について検討するに、前記関係証拠によつて個別的にその内容が明らかになつた文献として、次のようなものがある(各文献の記述内容自体については、原告らと被告会社の間に争いがない。)。

イ 農商務省「金属中毒ノ豫防注意書」(<証拠略>)

大正八年一二月、当時の農商務省工務局は、ドイツにおける金属中毒の研究成果を基にして、我が国の金属元素取扱工業企業等を対象にした一般解説書である「中毒豫防注意書(其ノ一)金属中毒豫防注意書」を刊行した。

この文献の記述内容は、原告らが請求原因第六章第一節第一の二1(二)(2)イで主張するとおりであり、クロム酸塩等製造作業におけるクロム粉じん等の被暴、吸入により、皮膚潰瘍、皮疹、鼻中隔潰瘍・同穿孔、口腔・咽頭潰瘍、咳嗽・胸痛、慢性気管支炎、小葉性肺炎、胃障害、腎臓炎等が引き起こされる旨明確に指摘し、その症状・発生部位等に関する記述も詳細であり、加えて、工場側、「職工」側の双方からの予防対策、措置等につき極めて詳細な記述をしている。

この文献は、前記のとおり工場関係者を対象とした工場安全衛生に関する平易な実務的解説書であり、被告会社にとつて極めて容易に閲読・参照できるものであつたと認められる。

ロ 大西清治の報告(<証拠略>)

昭和二年、農商務省社会局の技師大西清治が「日本之医界」、「労働時報」等の誌紙に「クローム中毒とその豫防法」等と題して、クロム被暴、吸入による皮膚障害、鼻中隔穿孔等の発症の病理について詳しく解説し、その予防法、治療法についても詳細な記述をした(請求原因第六章第一節第一の二1(二)(2)ロのとおり。)。

右文献、特に「労働時報」は企業関係者向けのものであり、被告会社にとつて容易に閲読・参照できるものであつたと認められる。

ハ 小此木修三らの調査報告(<証拠略>)

昭和二年、慶応義塾大学医学部耳鼻咽喉科教室の医師小此木修三らは、先進国における研究によりクロム被暴、吸入による鼻炎、鼻中隔潰瘍、同穿孔の発症が明らかにされていることを前提にして、以前に行つたクロムメツキ工場におけるクロム中毒に関する我が国最初の実地調査報告に続いて、当時我が国唯一の日本化工のクロム酸塩等製造工場において、作業員の鼻腔の健康状態等の実地調査を行い、その調査結果等を、昭和三年刊行の「耳鼻咽喉科」誌に「『クローム』中毒ニ就テ、重『クローム』酸加里工場従業者ノ鼻腔変化ニ就テ」と題して報告、発表した。

その記述内容は、原告らが請求原因第六章第一節第一の二1(二)(2)ハで主張するとおりであり、右従業員に見られた鼻の障害の詳細な記述、その発生状況に関する統計的報告等がなされている。

ニ 石原勝の報告(<証拠略>)

昭和一二年、内閣印刷局(当時)の技師石原勝が、「労働科学」誌に同局内の印刷版面クロムメツキ作業におけるクロム中毒予防法等について「『クローム』中毒豫防施設について」と題して報告し、この中で、クロムによる中毒症状として鼻腔膜潰瘍、鼻中隔穿孔等のほか、咽喉頭及び気管粘膜障害、皮膚湿疹を挙げ、更に、慢性気管支炎あるいは腎臓炎を引き起こす旨指摘した。

ホ 林與吉郎らの調査報告(<証拠略>)

昭和一一年一一、一二月、八幡製鉄所(当時)病院内科の医師林與吉郎、同芳川博保が、製鋼用炉材とするクロム、マグネシアレンガ(耐火レンガ)製造工場の作業員四八名を対象にして健康状態の実地調査を行い、その調査結果等を、昭和一三年刊行の「九州医専医学会誌」に「某『くろーむ』、『まぐねしあ』煉瓦工場従業員ノ健康状態」と題して報告、発表した。

その記述内容は原告らが請求原因第六章第一節第一の二1(二)(2)ニで主張するとおりであり、クロムによる身体障害として皮膚や嗅覚異常を含む鼻の障害、慢性気管支炎、気管支ぜん息等があると指摘している。

また、右報告は、ブレジナ(Brezina)やデリベレ(Deriberé場では、粉じん量は多いが、ケイ酸含有量が少ないことや化学的に安定している三価クロム成分が主であることなどから、胸部エツクス線写真検査の結果定型的じん肺の症例は発見できず、じん肺の第一期像を認めただけであると記述している。

ヘ 鯉沼茆吾の解説書(<証拠略>)

昭和一三年、名古屋医科大学(当時)教授鯉沼茆吾は、産業衛生、職業病の解説書として「職業病と工業中毒」を著わし、そのクロム潰瘍に関する説明の中で「ロシアのクロム工場においてじん肺の発生を見たという報告がある。」旨紹介した。なお、右解説書では、鼻中隔穿孔自体の症状として嗅覚障害が生じるわけではない旨記述している。

右文献は工場安全衛生の実務家向けの平易な解説書であり、被告会社にとつて容易に閲読・参照できるものであつたと認められる。

ト 林信治の調査報告(<証拠略>)

前記第三章第四の一2(一)のとおり、昭和一二年一一月、北海道庁健康保険課所属北海道庁技師(当時)林信治はクロム酸塩等製造開始約半年後の栗山工場の男子従業員一二五名を対象にして健康状態の実地調査を行い、その調査結果等を、昭和一三年刊行の「健康保険医報」紙に「『クローム』工場従業員の健康状態に関する調査特に職業性疾患に就て」と題して報告、発表した(林信治報告)。

右報告においては、調査対象者の罹病状態、職業性疾患の状況についておおむね別添三五記載のように詳細な記述がなされているが、クロム被暴、吸入によつて皮膚、鼻の障害にとどまらず、広く呼吸器の疾患が引き起こされる疑いが強いことが注目され、また、化学部すなわちクロム酸塩等製造部門における罹病率が冶金部(フエロアロイ製造部門)や事務・分析部門に比べ著しく高いことも明らかにされている。

この調査報告は栗山工場の従業員を対象とするものであり、被告会社は必ずこれに接し、その内容は熟知していたものと認められる。

チ 飯沼壽雄の調査報告(<証拠略>)

昭和一三年、内閣印刷局(当時)病院耳鼻咽喉科の医師飯沼壽雄は、同局内の印刷版面クロムメツキ作業に従事する男子メツキ工二〇名の健康状態調査結果等を、「労働科学研究」誌に「クローム鍍金作業の上気道に及ぼす影響に就て」と題して報告、発表した。

その記述内容は、原告らが請求原因第六章第一節第一の二1(二)(2)ヘで主張するとおりであり、レーマンの解説を参照するなどして、六価クロムの刺激作用、腐食作用を説明した上、クロム酸塩等を取り扱う工場でのクロム被暴、吸入に起因する疾病として、慢性結膜炎・鼻炎・副鼻腔炎・扁桃膜炎・咽頭炎・気管支炎等の炎症、鼻中隔潰瘍・同穿孔、鼻出血、嗅覚障害、口腔内潰瘍、皮膚湿疹・潰瘍等、更に肺結核を挙げ、その症状等につき詳しく述べるとともに、これらの疾病発症の予防法等につき解説している。

リ 以上の各文献のほか、他の解説書、教科書等の書物においても、がん以外のクロムによる各種身体障害に関する内外の研究結果等が記述されていたこともまた認められるところ、被告会社の閲読・参照が容易であつたことを指摘したイロヘトの各文献以外のものについても、その入手・閲読・参照が極めて困難であつたことなど特段の事情を示す証拠はないので、前記一3で述べたとおり、被告会社はこれらを閲読・参照することが可能であつたと推認される。

(3) 検討

イ そこで検討するに、前記、(一)、(二)の各認定事実に右(2)の認定事実を併せ考慮すると、我が国の医学界においても、遅くとも昭和一三年ころには、内外の諸研究の結果、前記(二)の各障害に限らず、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と副鼻腔炎、嗅覚障害、慢性気管支炎、肺機能障害発症との因果関係の存在を肯定する知見がほぼ確立され、じん肺、肺気腫発症との因果関係の存在についてもこれを肯定する見解が極めて有力であり、更に、六価クロムによる鼻腔組織の強度の病変も生じ得ることも確認されていたことが推認され、また、これらの医学的知見に関する情報は右(2)で挙げた各文献をはじめ多数の関係国内文献の中で紹介されており、右(2)リで述べたとおり、当時被告会社がこれらの文献を閲読・参照することは可能な状況にあつたのであるから、これらの文献を通じて、被告会社は当時における右の産業医学情報、資料を獲得できる状況にあつたことが認められる。

ロ そうすると、前記(1)で認定説示したところと右イの点を総合考慮すれば、遅くとも昭和一三年ころには、被告会社において、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と副鼻腔炎、嗅覚障害、慢性気管支炎、肺機能障害発症との因果関係の存在を認識することは極めて容易であり、じん肺、肺気腫発症との因果関係の存在を認識することも可能であつたと認められ、更に、良性鼻腔腫瘍発症との因果関係の存在に関しても、少なくとも前記一2(一)〈4〉のような「かなりの蓋然性、相関関係の存在」程度の認識に至ることは可能であつたと認められる。

ただし、右の総合考慮によつても、右認定の認識可能性の存在を超えて、昭和一三年ころまでに被告会社が右各障害発生に係る因果関係の存在を現実に認識していたとまで認めることは難しく、他にこの点を証明する証拠はない。

(四) 被告会社の認定障害発症の結果予見、結果予見可能性(要約)

以上認定説示したところによれば、原告ら主張のとおり、栗山工場のクロム酸塩等製造工程の稼動開始直後である昭和一三年ころまでには、被告会社は、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と前記2の争いのある認定障害中、鼻汁過多・鼻出血等の鼻炎類似の慢性的症状・鼻の全般的機能障害発症との因果関係の存在を認識しており、それ以外の争いのある認定障害発症との因果関係の存在については現実に認識をしていたとは認められないものの、その認識可能性は存在していたことになる。

したがつて、右要約したところと前記2の争いのない事実を前記第二の二1で述べたところに照らせば、被告会社には、栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入に起因する生存原告らの認定障害発生という被害発生について、遅くとも昭和一三年ころまでには、結果予見(皮膚障害、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等、鼻中隔穿孔、右の鼻炎類似の慢性的症状・鼻の全般的機能障害)又は結果予見可能性(その余の認定障害)が存したことになる。

三 被告会社の肺がん及び上気道のがん発症の因果関係の認識状況認定の基礎事実等

以下、被告会社の被害者たる死亡者の肺がん、上気道のがん罹患の予見及びその予見可能性の存否を検討するに当たつて、ここではまず、被告会社の右各疾病発症に係る一般的因果関係の認識状況認定に必要な基礎事実等に関し認定説示し、次に項を改めて、右基礎事実等に依拠して右認定状況につき検討判断し、更に右予見、予見可能性の存否につきまとめることにする。

1 被告会社の因果関係認識状況の判断が必要な時期等

(一) 被告会社の因果関係認識状況の判断が必要な時期

前記第五章第三の二1・2(別添五〇参照)、三1・2で認定したとおり、被害者たる死亡者らが栗山工場のクロム酸塩等製造作業に従事して六価クロムを含む大量のクロム被暴、吸入をした時期(クロム被暴作業従事期間)も、右製造工程の稼動開始時たる昭和一二年六月からその廃止時たる昭和四八年六月までの約三〇年間の操業期間の全般にわたつているので、以下、この期間における被告会社の右製造工程でのクロム被暴、吸入と肺がん及び喉頭がん発症との一般的因果関係の認識状況(結果予見状況)につき検討する。

(二) 上気道のがんたる喉頭がんとしての検討

前記第四章第四の二では、死亡者小坂のクロム被暴、吸入と喉頭がん発症との個別的事実的因果関係の存否の判断の前提となる一般的因果関係に関して、原告ら及び被告会社双方の主張や検討結果報告書をはじめ多くの研究報告の採つている立場と同様に、右一般的因果関係としては、喉頭がんを内包する上気道のがんの分類レベルでの一般的因果関係の存否が明らかにされれば足りるという前提に立つて認定説示したが、前記関係証拠によれば、被告会社の右喉頭がん発症に係る一般的因果関係の認識及び認識可能性の有無の判断についても、上気道のがん発症に係る一般的因果関係の認識及び認識可能性の有無が明らかにされれば足りると解される(被告会社もこの点については全く争つていない。)ので、以下これに沿つて検討判断することにする。

2 被告会社の認識状況、認識可能時期等に関する原告らの主張の骨子

(一) 被告会社のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん、上気道のがん発症との因果関係の認識状況、認識可能時期等に関する原告らの主張の骨子は次のとおりである。

すなわち、原告らは、まず、クロムによる肺がん発症を示すドイツにおける症例報告の存在及びその医学情報の我が国への流入を理由に、被告会社には、遅くとも栗山工場の右製造工程稼動開始直後の昭和一三年ころには右認識可能性が存していたと主張し、仮に、右時期に右認識可能性が存しなかつたとしても、戦後米国において疫学的研究が進み、遅くとも昭和二八年までには右因果関係の存在が確認されるに至つたので、右時期までには被告会社も右因果関係を認識するに至り、仮にそうでないとしてもその認識可能性は存したと主張する。

(二) 前記第四章第四の二8(一)で認定説示したとおり、我が国において最初になされたクロム被暴、吸入による肺がん等発症に関する、原研究としての本格的疫学的研究は、昭和四八、九年になされた渡部真也ら、大崎饒による各調査研究であるところ、原告らは、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係に関する原研究の多くはドイツ、米国でなされたことを前提にして、主としてそこで得られた医学的知見に関する情報を(文献の閲読・参照等の形で)獲得することによつて、被告会社が右因果関係の認識を得、あるいはその認識可能性が生じるに至つた旨主張するものである。

(三) そこで、以下、被告会社の前記認識状況認定の基礎事実として、まず、昭和二八年ころまでのドイツ、米国における右因果関係に関する研究報告の状況を明らかにし、次に、右両国における医学情報、資料の我が国への流入等の状況を検討することにする。

3 外国におけるクロムによる肺がん等の研究報告状況(昭和二八年ころまで)

前記第四章第四の二の認定事実及び前記関係証拠によれば、昭和二八年(一九五三年)ころまでのドイツ、米国におけるクロムによる肺がん等に関する研究報告等の状況について、次のとおり認めることができる。

(一) ドイツにおける症例報告

(1) プフアイルの症例報告

イ クロムと肺がんとの関係が疑われはじめたのは一九三〇年代になつてからであり、ドイツの工場医プフアイルを先駆とする。

ロ プフアイルは、ドイツのある染料製造企業(染料の酸化剤として重クロム酸塩使用)の古いクロム酸塩等製造工場(一九二三年閉鎖)の作業員の中で、一九一一年と一九一二年に当時としては発見されることが珍しかつた肺がん患者二例を発見したところ、二例とも同一工場で働いていたことから、右の肺がんについては同工場に原因があるのではないかと考えた。

右のプフアイルの疑念は、いつたん右二症例の鑑定に当たつたレーマンによつて否定されたものの、プフアイルは、同じ工場の元作業員中に一九三〇年から一九三五年までの間に更に五例の肺がん死亡例を見出したことから、以上七症例がクロム被暴、吸入によつて生じたものであると確信し、一九三五年(昭和一〇年)「ドイツ医事週報」誌に「クロム酸塩工場における職業病としての肺腫瘍」と題して報告、発表した。

ハ プフアイルは、更に、この論文の中で、クロム酸塩粉じんの中に発がん作用を有する特別の要因が存在するに違いないとし、既に法で規定されているクロム酸塩等取扱作業者の健康管理の中に肺がん早期発見のための処置を追加するとともに、クロム肺がん患者に対しては職業病としての補償をするよう法改正を行うことを提言している。

ニ なお、プフアイルの右論文記述までの間に、レーマンは、一九三二年プフアイルの紹介した二症例につき、クロムによる肺がんの症例として報告、発表している。

(2) その後のドイツにおける症例報告

イ テレキー(一九三六年)は、ドイツのあるクロム酸塩等製造工場におけるがんの疑いのある六例を調査した結果、うち一例は肺がんであつたと報告した。

ロ アルヴエンスとヨーナス(一九三八年)は、グリースハイムにあつた染料製造企業の古いクロム酸塩等製造工場(一九三一年閉鎖)の(元)作業員に一九二九年から一九三七年までの間に合計二〇例の肺がん症例を見出し、うち一〇例は同工場のクロム酸塩等製造部門に専従し、残りの一〇例は直接右製造部門の作業に従事していなかつたが、クロムの間欠的暴露を受けていたと報告し、アルヴエンス(一九三九年)は、更にドイツの他の三か所のクロム酸塩等製造工場における肺がん症例を一例ずつ追加報告した。

ハ ケルシユ(一九三八年)は、スイスにもクロムによる肺がん症例が一例あると報告したが、詳細は明らかにしていない。

ニ グロス(E. Gross)(一九三九年)は、その著作の中で右当時までにドイツにおいてクロム酸塩等製造工場の作業員に発生した肺がんとして三九例が報告されていると解説した。

ホ 戦前のドイツでは、以上のほかにも、クロム酸塩等製造作業員に見出された肺がん症例の報告がなされ、前記第四章第四の二7のとおり、ベイチヤー(一九五〇年)は、ドイツでは、クロムによる肺がんの症例として一九五〇年までにクロム酸塩等製造工場におけるものが五工場五二例、クロム色素製造工場におけるものが四工場一〇例報告されたとしている。

(3) ドイツにおける職業病としての規定

ドイツでは、一九三七年、クロム酸塩等製造作業者に発生した肺がんを職業病として労働災害保険による補償の対象とする旨の法改正(行政立法)がなされた。

(二) 戦後の米国における疫学的研究

(1) マツクルとグレゴリウスの報告

イ 米国においても、戦前からクロム酸塩等製造作業者における肺がんの症例報告があつたが、一九四七年あるクロム酸塩等製造会社の経営陣がその雇用労働者の肺がん発生状況を調査した際、調査に携わつたマツクルが右労働者の死亡率等に関する資料を分析して右労働者の中で肺がんによる死亡率が高いことを実証したところ、これを伝え聞いた他のクロム酸塩等製造会社も右同様の調査を希望したため、当時の米国クロム酸塩等製造工業会(全米五企業が参加)の保健委員会の提唱により、一九四八年(昭和二三年)観察対象を全米の五企業七工場のクロム酸塩等製造作業者に拡大して、その肺がん等発症状況に関する大規模かつ本格的な疫学調査が実施された。この調査は、マツクルとグレコリウスによつて進められたが、雇用記録、死亡記録等の資料の収集・提供など右委員会の全面的協力の下に遂行された。

ロ この疫学調査は、クロム被暴、吸入による肺がん等発症に関する世界最初の本格的疫学調査であり、マツクルとグレゴリウスは、同年その調査研究結果を報告、発表した。

その報告内容は、前記第四章第四の二8(一)(2)(別表一〇ないし一二)で詳述したとおりであり、観察対象たるクロム酸塩等製造作業者における肺がん、上気道のがん(及びこれらの上位分類概念としての呼吸器系のがん)による死亡発生が、対照群と比較して高率であること、とりわけ肺がんによる死亡発生は、死亡比による相対危険度、死亡率による相対危険度いずれの面でもその高率の死亡発生が統計学的有意差(エクセスリスタ)として認められた旨明らかにされている。上気道のがんについては、右のとおりその死亡発生の高率は具体的数値(相対危険度)をもつて確認されたが、症例数が少なかつたことから、これをもつて有意差であるとはされていない。

なお、前記のとおり、マツクルらは、右報告中で、このような肺がん等呼吸器系のがん発症の原因物質となるクロム化合物についても論及している。

(2) マンクーソーらの報告

マンクーソーは、一九四九年、マツクルらが調査対象とした七工場のうちの一つであるオハイオ州のクロム酸塩等製造工場の労働者を観察対象として疫学調査を行い、その調査研究結果をヒユーバーとともに一九五一年(昭和二六年)報告、発表した。

その報告内容は、前記第四章第四の二8(一)(3)で詳述したとおりであり、右疫学調査によつても、クロム酸塩等製造作業者における呼吸器のがんによる死亡発生が対照群と比較して高率であることが明らかにされた。

(3) ベイチヤーの報告

ベイチヤーは、クロム酸塩等製造工場のあるボルチモア市の二つの病院の入院カルテを用いて、ケース・コントロール・スタデイの手法により、クロム被暴、吸入と肺がん発症との関連性を検討し、一九五〇年(昭和二五年)その調査研究結果を報告、発表した。

その報告内容は、前記第四章第四の二8(一)(4)で述べたとおりであり、右報告では、クロム酸塩等製造作業者においては、対照群と比較して肺がんが統計学上有意に高く発生することが明らかにされている。

(4) 米国連邦公衆衛生局の報告

イ 以上(1)ないし(3)のように、米国では戦後早い時期から、従前から症例報告として報告されていたクロム酸塩等製造作業者における肺がん等呼吸器のがんの多発について、これを疫学的研究によつて実施しようとする各種調査研究が行われてきたところ、これらの調査研究結果を踏まえて、連邦政府自ら、一九五一年から一九五三年にかけて、クロムの人体に対する影響、各種臓器のがんを含むクロムによる身体障害発生の有無、状況等に関し、総合的かつ大規模な調査研究を実施した。

右調査研究は、連邦安全保障庁(Federal Security Agency)の公衆衛生局(Public Health Service)の所轄下、ガフアーフアーの指揮によつて行われ、その調査研究報告は、一九五三年(昭和二八年)、政府刊行物として合衆国政府印刷局(US. Gove-rnment Printing Office)から刊行、公表された。

ロ その報告内容のうち肺がん等呼吸器のがん発症に関するものは、前記第四章第四の二8(一)(5)(別表一三)で詳述したとおりであり、観察対象たる右製造作業者(前記全米七つの工場の労働者)における呼吸器系(喉頭を除く)のがん、鼻腔及び咽頭のがんによる死亡発生が高率であること、とりわけ右呼吸器系のがんによる死亡発生は、対照群と比較して、年令訂正期待死亡数を用いた死亡数による相対危険度、訂正死亡率による相対危険度いずれの面でも極めて高率であり、かつ、統計学的有意差が認められたことが明らかにされている。

(三) その他の外国文献等

前記(一)(1)(2)((2)のニを除く)で挙げた各文献、右(二)(1)ないし(4)で挙げた各文献(報告)は、いずれも原論文、原著であるところ、これらのほかにも、一九三五年以降の戦前のドイツにおいて、右(一)(1)、(2)の各原論文で示された症例報告を引用、紹介する総合書、解説書、教科書等が存在し、一九五三年以前の戦後の米国で、ドイツにおける症例報告や米国における各疫学的研究結果を引用、紹介する総合書、解説書、教科書等が存在していたことも認められる。

(四) 動物実験等について

実験動物を用いたクロム化合物の投与、埋め込み等による発がん実験は、一九五三年(昭和二八年)ころまでその報告例はなく、一九五四年のモシンジヤー(M. Mosinger)らによるクロム酸カリウムの家兎への投与実験、ヒユーパーによるマウス、モルモツト、ラツト等への金属クロム、クロム鉱石粉末を用いた発がん実験が最初の報告例であると認められる。右前者の実験例では、腫瘍の発生を見ず、後者の実験例では、ラツトでは注入部又は注入部と異なる部位に肉腫をはじめ種々の腫瘍発生を見たが、羊毛脂、ゼラチンのみを注入した対照群との間で腫瘍発生率に有意差は認められなかつた。

動物を用いた右発がん実験は、前記第四章第四の二9(二)(別表三五)で認定説示したとおり、一九五五年以降、特に一九六〇年代に米国で盛んに行われるようになり、多くの成果が報告されているが、これは、前記(二)(4)の米国公衆衛生局の調査研究報告(一九五三年)を一つの節目として、ヒユーパー、ベイチヤーらを中心に専門家の関心が実験的研究によるクロムの発がん性の確認、実証作業に向けられるようになつたことの現われでもある。

なお、一九五三年当時、変異原性試験によるがん原性のスクリーニングの手法は開発されていなかつた。

4 我が国におけるクロムの発がん性に関する外国の医学情報の流入等(昭和二八年ころまで)

前記第四章第四の二の認定事実及び前記関係証拠によれば、右3で認定説示したようなクロム被暴、吸入による肺がん等発症に関する外国の医学情報、資料の、昭和二八年ころまでの我が国への流入等の状況について、次のとおり認めることができる。

(一) 我が国の刊行物によるドイツにおける症例報告等の紹介等

まず、本件において、ドイツにおける症例報告等を明示的に引用、紹介する国内文献として、個別的にその内容が明らかになつたものは次のとおりである(原告らの各引用主張に対して、被告会社が当該文献の趣旨を曲げた引用である旨主張しているので、関係記述部分の全体を引用認定する。)。

(1) 黒田靜の紹介(<証拠略>)

八幡製鉄所(当時)病院の医師黒田靜は、昭和一二年に発表した発生炉ガスによる肺がん発症例に関する学会報告「原発性肺臓がんの業務上発生に就て」の中で「ひるがえつて、職業性がん腫についての記載を見るに、欧米では既に昔から煙突掃除人に見らるる陰のうがん、タール又は瀝青工に発する皮膚がん、アニリン工に現わる膀胱がん等の報告があるが、本邦においては未だこの種の発表に接せぬ。更に職業性肺臓がんの存在に関しては、ドイツ東南の国境に見らるるシユネーベルク肺がんは、一鉱山のみに現わるるがん腫として病理学方面に余りにも有名である。しかしてこの肺臓がん以外にがん腫として産業的に成立するものなきは、肺臓がん研究の第一人者フイツシヤー、産業医学の権威者ケルシユのつとに公表するところである。ただし、近年葉巻タバコ、クロム塩、硫酸及び塩酸を取り扱う職工、戦時用毒ガスの中毒患者にして、肺臓がんを認めたりという報告を散見するも、これはむしろ稀有なる存在である。私は本日報告せし如く発生炉工に頻発する職業性肺臓がんにつきては、バーデル教授が寄書せしとおりに内外とも未だ全くその記載を見ず、その発生はがん研究にははなはだ興味あるのみならず、社会衛生学上重大な意義を有するものである」。旨記述し、右報告は、同年刊行の「労働科学研究」誌に掲載された。

(2) 林與吉郎らの紹介(<証拠略>)

林與吉郎らは、前記二3(三)(2)ホの文献(昭和一三年刊行の「九州医専医学会誌」掲載の論文)の中で、「一九三二年レーマン氏がクロム酸工場における肺臓がんの最初の二例を報告し、次いで一九三五年プフアイル氏が、更に一九三六年アルヴエンス、バウケとヨーナス氏らがそれぞれ肺臓がんの症例を報告してより俄然学会の注目を惹き、職業がんとしての地歩を占むるに至れり。然れどもその報告は末だ数例の域を出でず、職業がんとしては極めて稀なるものなり。しかもその報告例は、いずれもクロム酸塩類を処理せる工場における発生例にして、予らの工場におけるが如く、酸化クロム工場においても発生する可能性ありやは疑問なり。予らの工場においては現在はもちろん、過去においても未だ肺臓がんの発生を見ざるなり。」旨記述した。

(3) 鯉沼茆吾の紹介(<証拠略>)

鯉沼茆吾は、前記二3(三)(2)ヘの文献(昭和一三年刊行の産業衛生・職業病の解説書)の中(クロムの項)で、「ドイツのグリースハイムの化学工場で、一九二九年から三四年の一〇年間に一五名の原発性気管支がんが発生し、うち一〇名は臨床上診断され、一一名は解剖により確証された。主としてクロム酸製造に従い、六名は就業期間数十年、平均三二年、年令五〇ないし六一歳、発病に至る就業年数二二ないし四〇年、ほかに鼻中隔穿孔、気道粘膜の炎症性刺激症状が認められた。」旨、(別の箇所で)更に「最近ドイツのクロム酸工場で多くの気管支がんの発生が報告された。」旨記述した。右文献が解説書であることから、右記述部分には引用出典が明記されていないが、引用にやや不正確な点が窺われるものの前記3(一)(2)ロのアルヴエンスとヨーナス(一九三八年)の文献あるいはその原資料がその出典であると認められる。

(4) 久保田重孝の紹介(昭和二三年、<証拠略>)

久保田重孝は、昭和二三年、産業衛生、職業病の概説的解説書として「業務上疾患の管理(職業病)」を著わし、クロムによる疾病に関する説明の中で、「ドイツのある化学工場での報告によるとクロム酸製造に従事していたものにおいて一〇年間に一五名の原発性気管支がんが発生し、この中一一名は解剖して確かめられた。その就業年数は二二年から四〇年に及ぶ者であつたという。」旨記述した。右文献が解説書であることから、右記述部分には引用出典が明記されていないが、右(3)の鯉沼の文献のいわゆる孫引きか、あるいは右文献の同様アルヴエンスらの文献に基づく記述であると認められる。

(5) 久保田重孝の紹介(昭和二八年、<証拠略>)

久保田は、更に、昭和二八年、産業衛生、職業病の解説書として「最近の職業病」を著わし、クロムによる疾病に関する説明の中で、米国のパテイの著わした教科書(一九四九年刊行の「産業衛生と中毒学」)から引用して、「ニツケルとクロムがいずれも職業性の肺がんの原因として注目されていることは興味が深い。クロムによるものは今日まで二五例あつた。」と記述した。

(6) 「労働安全衛生ハンドブツク」の記述(昭和二八年)

労働医学心理学研究所が昭和二八年編集刊行した労働安全衛生実務の手引書である「労働安全衛生ハンドブツク」に、クロムによる皮膚障害、鼻・上気道の障害が記述されるとともに、肺及び気管支がんを起こす物質としてクロムが記載された(野村茂執筆部分)。

(7) 昭和三〇年代初期の文献について

昭和三〇年代初期においては、左のとおりの記述がみられる。

イ 「労働衛生年鑑(昭和三〇年版)」(<証拠略>)の記述

労働省労基局労働衛生課監修の「労働衛生年鑑(昭和三〇年版)」において、各種の中毒原因物質とそれに起因する疾患及びその症状を一覧記述する箇所で、クロム化合物による疾患として鼻の障害等と並んで肺がんが明記され、更に、職業がんの一覧表の中で肺・気管支のがんの誘発物質としてクロム酸が、発生職種としてメツキ工・化学工がそれぞれが明記されている。後者の記載は、右一覧表の「註」の記述と併せ考えると、クロム酸による肺・気管支のがん発生は確立された医学上の知見であるとの趣旨の記載になつている。

ロ 「職業病の知識」(<証拠略>)の記述

久保田が昭和三二年編集刊行した産業医学、職業病の解説書である「職業病の知識」の中のクロム中毒に関する説明部分において、石津澄子は、はしがきで「皮膚、鼻粘膜の障害だけでなく、最近肺臓がん、気管支がんなど呼吸器系のがんが問題となつている。」と指摘した上、本文中でも、クロムによる各種症例報告の一覧表の中で「プフアイルその他の報告では肺臓がん二五例摘出」と紹介するとともに、「肺がんその他呼吸器系のがん腫」という一項を設けてプフアイル、テレキーらによるドイツの症例報告に加えて、ベイチヤーの前記第四章第四の二8(一)(4)の疫学調査結果を肯定的に紹介した。

そうして、石津は、クロムによる肺がん等の発症に関しては、「なお決定的な成果は得られていないが、確かに興味ある分野ということができよう。」とし、ベイチヤーとの動物実験結果を引用した後に「クロムの体内分布が検索されると同時に、各臓器の病変も観察され、特に、肺組織については深い研究が進められている。しかし、残念ながら何故に肺がんが起こるかという謎を解くまでには至つていないというのが正直な現状である。」と結んでいる。

この文献は、少なくとも総合書、解説書レベルでは、我が国で最初に戦後の米国における疾学調査結果を引用紹介した文献である。

(二) ドイツ、米国の文献そのものの我が国への流入状況

(1) 右(一)で認定した国内文献による紹介状況と前記関係証拠を併せ考えると、前記3(一)の戦前のドイツにおける症例報告を記述した原文献(論文等を所収した刊行物)やこれを引用、紹介するドイツの解説書等の多くは、その発表、刊行時からそれほど時を移さず我が国にも取り寄せられており、少なくとも我が国の産業衛生、職業病の専門家、研究者は容易にこれらを閲読、参照できる状態にあり、現に多くの右専門家等がこれらを閲読していたと推認される。

ドイツにおいて一九三八年に発表されたアルヴエンスらの論文の内容を同年刊行の鯉沼の解説書が引用していること(必ずしも発表論文自体からの引用ではないとも窺れるが)などは、右のような文献の早期流入の状況を如実に示すものである。

(2) 次に、前記3(二)の戦後の米国の疫学調査結果については、前記のとおり、昭和三二年の久保田編「職業病の知識」の中で紹介されるまで、ほとんど我が国の文献で引用、紹介されてはいなかつたのであるが、前記関係証拠特に<証拠略>によれば、マツクルとグレコリウスの報告、ベイチヤーの報告、米国公衆衛生局の報告を掲載した各刊行物は、その刊行時からほとんど時を移さず我が国にも取り寄せられており、少なくとも我が国の前記専門家等は容易にこれらを閲読・参照できる状態にあり、現に多くの右専門家等が閲読・参照していたと認められる。

マンクーソーらの報告を掲載した刊行物は、産業外科医学関係書であることから、必ずしも当時の我が国の大学の公衆衛生・産業衛生学専攻部門のすべてが購入していたような文献ではなかつたが、我が国への早期の取り寄せ自体はなされており、右専門家等にとつて閲読・参照自体は可能なものであつた。

また、右各報告を引用、紹介する米国の解説書等の多くも、刊行時からそれほど時を移さず我が国に取り寄せられ、右専門家等がこれらを閲読・参照できる状態にあり、現に多くの右専門家等がこれらを閲読していたと推認される。

四 被告会社の因果関係の認識状況(被害者たる死亡者に係る結果予見・予見可能性)の検討判断

右三で認定説示したところを前提にして、これまでの各認定事実等をも総合考慮しながら、以下、被告会社のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん、上気道のがん発症との因果関係の認識状況、ひいては、肺がん等発症の結果予見・予見可能性の有無につき検討判断する。

1 被告会社の外国における医学情報、資料の獲得可能性(知見の取得可能性)

(一) 戦前のドイツにおける産業医学情報、資料

(1) 前記のとおり、がん以外の身体障害に関するものと比べ、戦前、クロムによる肺がん等に関するドイツの産業医学情報を紹介する国内文献の数は、確かに少数にとどまつていたが、前記三4(一)(1)ないし(3)の各国内文献を被告会社が入手・閲読・参照することが特に困難であつたことを示す証拠はなく、被告会社は、戦前既にこれらを閲読・参照することができたと認められる(前記一3(三)参照)。このうち、鯉沼の解説書は工場関係者をも対象にした平易な解説書であり、被告会社にとつて、むしろ容易に閲読・参照が可能な文献であつたと認められる。

また、右各文献の記述内容も、被告会社のいうような否定的な紹介ではなく、最新の医学情報として、ドイツの医学的知見の存在自体は明示的肯定的に紹介している。

黒田の紹介記述も、被告会社のいう疑問を呈しつつの記述ではなく、黒田自身が従前職業がんとして指摘されていなかった発生炉ガスによる肺がん発症の症例報告(この報告自体の意義も大きいとされている。)をしているのであつて、黒田は、「従前職業がんとしての肺がんにつき医学界の問題意識が稀薄であり、クロムによる肺がんなど少数の報告例しかないが、今後はこの面の研究が重要になる。」旨強調しているのである。

(2) また、前記一3(三)(2)で指摘したように、一般に被告会社を含め化学工業を営む企業は、その工程から発生する有害物質による作業員の職業性疾患発生防止に関し、高い注意義務を負うと解されること及び当時被告会社がクロムによる皮膚障害、鼻中隔穿孔等の鼻の障害発症を知悉していたことに照らせば、被告会社は、クロムによる他の障害の発症如何についても関係国内文献の調査を行うとともに、国内文献で一定の障害につき外国の医学情報が示されていれば、産業医学の専門家等に照会するなどしてその点に関しより多くの情報を獲得すべき立場にあつたと解される。

(3) 右(1)、(2)の点に鑑みれば、本件においては、前記一ないし三で認定説示したところを前提にして、被告会社には、戦前においても、前記の各国内文献を通じて、あるいはその閲読・参照を契機に専門家等に照会するなどして、前記三3(一)(前記第四章第四の二7)で認定説示したドイツにおける医学情報、資料及び職業病としての肺がんの法定などの情報を獲得し、ドイツの医学上の知見を得る可能性は十分にあつたと推認することができる。

(二) 戦後(昭和二八年ころまで)の米国における産業医学情報、資料

(1) 前記三4(一)のとおり戦後昭和二〇年代にも、クロムによる肺がん発症を肯定する外国の医学情報を紹介する解説書やクロム肺がんを明記する労働安全衛生に関する手引書が刊行され、これらの文献は、当時の我が国の代表的かつ標準的な一般向けの解説書、労働衛生に関する手引書であり、内容も平易であつて、被告会社にとつて極めて容易に閲読・参照可能なものであつたと認められる。

ただし、前記のとおり久保田の「最近の職業病」の紹介記述も、米国の文献からの引用ではあるが、米国における疫学調査結果を明示的に紹介するものではなく、昭和二〇年代まで、少なくとも総合書、解説書、教科書レベルのものでは、前記三3(二)(前記第四章第四の二8(一)(2)ないし(5))の各疫学的研究報告を紹介記述する文献はなかつた(前記三4(一)(7)ロ参照)。

(2) しかるところ、前記三4(二)(2)で認定説示したとおり、前記米国の各疫学的研究報告を掲載した刊行物は、その刊行から時を移さず、我が国の専門家において、その大半を現に閲読・参照し、その余のものも閲読・参照可能な状況にあつたものである。

また、前記(一)(2)のとおり、もともと被告会社は、クロムによる各種障害発生如何につき関係国内文献の調査を行うとともに、国内文献で一定の障害につき外国の産業医学情報が示されていれば、専門家等に照会するなどしてその点に関しより多くの情報を獲得すべき立場にあり、加えて、戦後も、引き続き平易な解説書や労働安全衛生の手引書にクロムによる肺がん発症を肯定的に述べる紹介記述がなされたこと、戦後、クロムによるがん以外の障害発生に関する我が国の専門家等の研究も充実し、これを記述する各種国内文献も豊富になつてきたこと、昭和二二年生産再開後被告会社が栗山工場で順調に生産活動を続け生産量も伸ばしてきたこと(右の二点は前記関係証拠により認められる。)を考慮すれば、戦後昭和二八年ころには、被告会社がクロムによる肺がん等発症に関する外国の産業医学情報をより積極的に収集することが可能になり、かつ、これが求められるようになつたと解される。

(3) 右(2)の点に鑑みれば、本件においては、前記一ないし三で認定説示したところを前提にして、戦後昭和二八年ころには、米国の疫学的研究報告を直接紹介記述する国内文献がなかつたとしても、被告会社において、クロムによる肺がんに言及する前記国内文献の閲読・参照を契機に専門家等に照会し、あるいは、関係者の協力を得て我が国の大学や研究機関が所蔵する米国の当該刊行物を直接閲読・参照する(<証拠略>によれば、当時我が国の大学の公衆衛生研究部門では、ほとんど例外なく、マックルら、ベイチャー、米国公衆衛生局の各報告掲載刊行物を購入所蔵していたと認められる。)などして、前記三3(二)(前記第四章四の二8(一)(2)ないし(5))で認定説示した米国における疫学的研究結果を知り得る状況になつていたと推認することができる。

(三) 専門家等への照会等について

前記(一)(3)や右(二)(3)で述べた専門家等への照会は、後記の独自の症例研究などとは異なり、被告会社がいうところの「時代的制約」(第二編第六章第一節第一の一5)を十分考慮に入れても容易に実行可能なものであり(専門家等への照会自体について、事業に関する化学的物理学的事項なら照会可能であつたが、産業衛生に関する事項は照会不可能であつたというような状況もなかつたと認められる。)、前記三4(一)、(二)のとおり、専門家等は、戦前からドイツの産業医学情報、資料を十分に取得し、戦後の米国の疫学的研究結果についても当該文献の大半を閲読・参照し、あるいは他の米国の関係文献にも接していたのであるから、右照会により、被告会社においても、これらの産業医学情報や研究報告の内容を知り得るところとなつたと解されるのである。

2 被告会社の因果関係の認識可能性(結果予見可能性)

(一) 因果関係の存在確認の状況と認識可能性等

(1) クロムによる肺がん等発症の因果関係の存在確認の性格

これまで認定説示してきたとおり、現在では、専門家会議を含め、我が国の産業衛生、職業病の専門家、研究者の間では、クロム酸塩等製造作業における(六価クロムを含む)クロム被暴、吸入と肺がん及び上気道のがん発症との間に因果関係が存することは、ほぼ確立された事実認識であり、労働法規上も、業務上疾病との関係で右因果関係の存在を肯認する規定が定められている。また、<証拠略>によれば、世界的に見ても、右因果関係の存在は医学上ほぼ確立された知見になつていると認められる。

当裁判所もまた、前記認定説示(第四章第四の二)のとおり、専門家会議と同様の見地から右因果関係の存在を肯定したものである。

しかしながら、前記第四章第四の二で詳述したように、現在においても、具体的機序解明によるものとして、自然科学的に厳密な意味での右因果関係の存在が解明されているわけではなく、前記両者の間に原因と結果との関係を是認し得る高度の蓋然性があるという意味での因果関係(以下ここでは「相当因果関係」ともいう。)の存在が確認されているにとどまるのである。

すなわち、クロムによる肺がん等発症の解明については、既解明のクロムの化学的性質、生理作用等を出発点とし、クロムの肺や上気道に対する有害作用、病理作用を順次解明して、がん発症に至るまでを演繹的に証明していくという側面がほとんど欠落しているのであつて、「このような本来の解明方法によつて概略までは明らかにされており、その先はある程度の不確定要因を残しつつも専門家の直観的判断や経験則で補う」という形でさえも具体的機序解明による因果関係は明らかにされていないのが現状である。

しかるところ、前記の相当因果関係は、右の解明方法とは質的に異なる集団的現象の数理的把握の手法すなわち疫学的証明を最大の根拠としてその存在が確認されているのであり、被告会社のいう「実験疫学」による完全な追試が行われていない以上帰納的な証明としても自然科学的な厳密さを欠くことは否めないものの、分析疫学の段階で原因と結果の結びつきを明らかにする疫学的研究結果があれば、前記の高度の蓋然性の限度で因果関係の存在を肯認する大きな根拠となり得るとされているのである。

そうして、右の相当因果関係の存在を肯認するに当たつては、右疫学的研究の結果、有意差、量―反応関係等の諸要素に関し、不十分な点が見られたとしても、動物実験等の実験的研究の結果や類似又は同系統の器官のがん発症状況などの状況事実とあいまつて(上気道のがん発症の因果関係認定の場合)、あるいは、量―反応関係に関する疑似的代用的要素(暴露期間)の把握等に基づいて、これを肯認することができるが(前記第四章第四の二11参照)、不十分なものであつても右疫学的研究結果が全く、又はほとんど存しない場合には、これを(客観的なものとして)肯認することはできないことになる。

換言すれば、その完成度はともかくとして、右相当因果関係の存在を肯定する方向での疫学的研究結果が存在することが、右因果関係の存在を肯認するための不可欠の必要条件となつていると解されるのである(肺がん発症に係る相当因果関係の場合のように、右研究結果の完成度が高ければ、次第に十分条件化していく。)。

(2) 因果関係の存在確認の状況と認識可能性

イ 右(1)で述べたところを前提にすれば、前記製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係の存在が、現在以上に具体的機序解明の方法では明らかにされておらず、右解明作業もほとんど進んでいなかつた過去の一定時点においても、右両者の間に相当因果関係が存することを医学上(客観的なものとして)肯認するためには、右(1)で述べたような疫学的研究結果が存することが必要条件になつていたことは明らかである。したがつて、当該時点においても、相当因果関係の存在を医学上肯認でき、それが確認されていたというためには、前記のとおり右疫学的研究結果がかなり完成度の高いものであつたか、あるいは他の状況事実によつてその不十分な点が補完されていたという状況になければならないことになる。

ロ そうして、まず、〈1〉過去の一定時点において、右相当因果関係の存在が右のように医学上確認されるという状態にまでなつていた場合には、被告会社がこの医学上の知見を得ることが可能であつたと認められれば、被告会社には右相当因果関係の認識可能性があつたといい得る。また、前記一2で説示したところに照らせば、この場合被告会社が認識可能であつた知見の内容は少なくとも前記一2(一)の〈3〉のレベルのものであるから、右認識可能性の存在は、被告会社の栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入による肺がん等発症の予見可能性の存在に結びつくものである。

次に、〈2〉当該時点では、疫学的研究結果が存在してはいたが、内容的に不十分なものであり、かつ、これを補完すべき前記のような状況事実の研究も十分には進んでいなかつたため、右〈1〉のように相当因果関係の存在が医学上(客観的なものとして)肯認され得るという状態にまでなつていなかつた場合であつても、疫学的研究自体はある程度まで進んでおり、将来各種研究の進展に伴つて医学上肯認され得るに至るだけの客観性を持つた知見として、右相当因果関係の疫学的証明作業や状況事実に関する研究が進んでいたときには、被告会社が右知見を得ることが可能であつたと認められれば、やはり、被告会社には、前記予見可能性に結びつく右相当因果関係の認識可能性があつたといい得る。

なぜなら、前記一2(一)〈4〉のとおり、被告会社の認識内容として、クロム被暴、吸入と肺がん等発症との間にかなりの程度の蓋然性、相関関係が存在するとの認識の可能性がある場合、前記結果予見可能性が存するといい得ることに照らせば、右〈2〉のような状況の下でも、被告会社には、右の意味で前記結果予見可能性に結びつく右相当因果関係の認識可能性は存したとすべきであるからである。

これに対し、〈3〉当該時点において、右〈1〉〈2〉のような状況には至つていない場合、特に、不完全ながらも右相当因果関係の肯定に寄与する疫学的研究結果が全く、又はほとんど存在していなかつた場合には、当時、他に右相当因果関係の存在を客観的に裏づけるべき特段の研究結果等があつたとされない限り(前記のように具体的機序解明は進んでいなかつたことを前提にしている。)、当時、クロムによる肺がん等発症に関する医学的知見の取得可能性から右相当因果関係の認識可能性が導かれるという状況にはなかつたというべきである。

すなわち、前記(1)、(2)イで述べたところに照らせば、当時、クロムによる肺がん等発症を肯定し得るとする一定の医学的知見があつたとしても、それが不完全であれ疫学的証明手段を伴わないものであれば、たとえ被告会社が右知見を得ることが可能であつたと認められても、被告会社には、前記一2(一)〈4〉の意味においても前記予見可能性に結びつくような右因果関係の認識可能性があつたとはいえないのである。

(二) 戦前における被告会社の因果関係認識可能性(予見可能性)

本件全証拠によつても、被告会社が戦前既にクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係の存在を認識していたことを示すに足りるものはないところ、以下、これまで認定説示してきたところを前提にして、右当時における被告会社の右因果関係の認識可能性の存否につき検討判断する。

(1) 戦前のドイツにおけるクロム酸塩等製造作業者の肺がん等発症に関する医学的知見の状況は前記三3(一)(第四章第四の二7)のとおりであり、前記1(一)のように、戦前、被告会社が右知見を得ることは可能であつたと認められる。

そこで、当時、被告会社の右知見の取得可能性が右因果関係認識可能性に結びつくものであつたかについて検討する。

イ 前記第四章第四の二11、前記三3(一)の各認定事実及び前記関係証拠によれば、次のとおり認められる。

(イ) 前記のとおり、戦前一九三五年(昭和一〇年)以降ドイツでは、クロム酸塩等製造作業者に発生した肺がん(気管支がんを含む。)に関して多数の症例報告がなされた。

これらの症例報告の多くは、当該症例が右製造作業従事の際のクロム被暴、吸入に起因する肺がんであるとの報告者の見解の下になされたものであるところ、当時のドイツの産業衛生、職業病の専門家等の間では、右見解はかなりの支持を受け、有力なものになつていたと認められる。

ロ しかし、これらの症例報告は、あくまで、報告者の認識としては、当該肺がん症例が右クロム被暴、吸入に起因すると認められる旨を表明するものであり、それ自体の中で、あるいは症例報告とは別個に右認識するところを客観的に実証する手だてを欠いたものであり、その面でいわば「主張」のレベルにとどまつていた。右症例報告中では、クロム酸塩等製造作業者に肺がんが多発すること及びこの現象が右因果関係の存在の証左であるとの報告者の認識・評価が記述されてはいたものの、このような記述自体はあくまで報告者の主観的意図、示唆の域を出ず、もとより疫学的研究の結果を示すものではなく、右症例報告は、右因果関係の実証というレベルでは、あくまで疫学的研究が行われる際の基礎素材となる事実の報告・提供の域を出なかつたのであり、加えて、当時のドイツには、不完全な形ではあつても右症例報告を基にした疫学的研究は行われていなかつた。

(ハ) 当時、ドイツにおいて、クロムによる肺がん発症の可能性を唱えていた専門家等の状況認識としては、確かに、クロム酸塩等製造作業者の中に発生する肺がん患者・死亡者の数は相対的に多数であり、肺がんの多発という現象があると信ずるに足りるものがあり、かつ、このような状況認識は、他の専門家等の共感を呼ぶに値するものであつて、社会的にも支持される傾向があつたことは疑い得ない。

しかし、このこととクロムによる肺がん発症の因果関係の存在が、当時既に客観的な証明の要素を伴つた知見として存していたか否かは別問題なのであり、当時のドイツでは、クロムによる肺がんについて、もとより具体的機序解明による因果関係の解明が進んでいたわけではなく、また、報告された右作業者の肺がん症例に関する資料を整理し、系統的に分類した上、観察対象集団及び対照群を設定して一定の時間的規模の中で観察対比するといつた疫学的研究が行われた形跡はないのである。

また、前記のとおり、当時、ドイツを含め世界的にみてもクロムによるがん発生に関する動物実験等実験的研究も行われておらず、ほかに、疫学的研究以外の方法で前記症例報告の主張する右因果関係の存在を裏づけることに寄与するような特段の研究がなされていたわけでもない。

(ニ) 加えて、後日の調査研究によれば、戦前ドイツにおいてクロム被暴、吸入による肺がんとして報告された症例の中には、肺がん発症に関し別個の要因も考えられるものが少なくないことも明らかにされ、特に、染料製造企業のクロム酸塩等製造作業者における肺がん症例については、クロム化合物以外にも発がんのおそれのある物質(例えば、アントラセンとその誘導体、キノン類など)の暴露を受けていた症例もあつたと指摘されており、前記の症例報告者の認識していたところが結果的には客観的にもすべて正しかつたとされているわけでもないのである。

ロ 以上のとおり、戦前のドイツでは、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん等発症との相当因果関係を医学上(客観的なものとして)肯認するための必要条件である疫学的研究結果が不完全な形でも存在していなかつたのであり、右因果関係の存在は、医学上確認された知見にはなつておらず、また、将来各種研究の進展に伴つて医学上肯認され得るに至るだけの客観性を持つた知見にもなつていなかつた(前記(一)2の〈3〉の状態にとどまつていた。)。

そうすると、前記(一)で述べたところに照らせば、前記1(一)のように、被告会社が戦前、ドイツにおけるクロムによる肺がん発症に関する医学情報を獲得し、前記症例報告の内容等右因果関係の存在を主張・肯定するドイツの医学的知見を得ることができたとしても、このことは、被告会社の右因果関係の存在の認識可能性には結びつかないものであつたと解するほかない。

右のようなドイツの医学情報を獲得し、知見を得ても、被告会社がクロム被暴、吸入と肺がん等発症との間に前記2(一)〈4〉のようなかなりの程度の蓋然性、相関関係が存在するとの認識を得る可能性さえなかつたといわざるを得ないのである。

ハ ところで、確かに、前記のとおり、戦前のドイツの産業医学界では、前記製造作業におけるクロム被暴、吸入によつて肺がんが発生し、右製造作業者の肺がんは職業性疾患であるという見解が有力であり、あるいは定説化していたのかも知れない。このような状況の下で、右の肺がんを職業性疾患であるとする趣旨の行政立法も行われていた。

しかし、このことを把えて、当時被告会社がドイツにおける右の医学上の知見を取得したならば、被告会社もドイツの産業医学界の見解を受け入れて、クロム被暴、吸入と肺がん発症との因果関係を肯定する認識を持ち得たはずであるとし、したがつて、被告会社には右因果関係の認識可能性があつたと導くことは正しくないのである。

というのも、ここで問題とされている因果関係の認識可能性とは、前記第二の二1(一)で述べたとおり、栗山工場における作業員のクロム被暴、吸入という事実があつて、これに当該一般的因果関係の存在に関する知見をあてはめてみれば、作業者の肺がん罹患の可能性を予見するに至ることを、間接的にも法的に強制できるような客観性を持つた因果法則の認識可能性なのであり、前記(一)のとおり、この「強制」の根拠となる客観性の有無は(その完成度はともかく)疫学的研究結果の存否にかかつていると解される以上、当時被告会社においてこの客観性の要素を欠いたドイツの産業医学界の「定説」を受け入れ、信じた可能性があつても、必ず右のような予見に至ることを強制できるわけではないのである。

もとより、前記のような症例報告は、クロムによる肺がん発症につき重要な問題提起を行い、疫学調査等の基礎素材を提供するものであり、また、クロム酸塩等製造企業をはじめ関係者に対し注意を喚起する大きな役割を果たすことも認められる。

しかし、当時、この症例報告等が注意喚起したところに従わなかつた者、気がつき得るのに気がつかなかつた者に対し、将来、この問題提起された事柄の多くが客観的に正しかつたとされたことをもつて、「右症例報告等のなされた時期に客観的証明の要素が欠落してはいても、その内容とするところを信ずることは容易であつたし、信じたところに従つて結果回避行為をなし得たはずである」との見地から、右症例報告等の存在・内容に気がつかなかつたことは結果予見義務に反したことになるとすることはできないのである。

(2) 次に、原告らが請求原因第六章第一節第一の二2(四)で指摘主張する「被告会社は戦前既にクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入とがん以外の身体障害発生との因果関係の存在を認識していたが、このことは、クロム被暴、吸入が肺や上気道に対し有害な作用を与えることを認識することにほかならず、この認識に加えて、ドイツの前記医学情報を得ることによつて、クロム被暴、吸入に起因してより重大な身体障害である肺がん等が発生するという因果関係を認識し得た」との点につき検討するに、被告会社が戦前昭和一三年ころまでには、既に、前記製造工程におけるクロム被暴、吸入と皮膚障害、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等・鼻中隔穿孔などの発生との因果関係の存在を認識していたことは前記二3(二)で認定したとおりであるが、以下のとおり、この点から原告ら主張のような結論を導くことはできない。

イ まず、前記のとおり、被告会社は、当時、右各障害が六価クロムの強力な酸化作用に基づく刺激性、催炎性、腐食性による炎症、組織タンパク質等の化学的変性、腐食作用に起因して発生するという(概略的ではあつても)障害発生の原因、機序に関する知見も有していたと認められる。

そうすると、仮に、肺がん等発症に関して、精密・詳細な点はともかくとしても、右のような六価クロムの化学的性質に基づき同様な機序を経てがん発生が引き起こされるという原因、機序がある程度解明されていたならば、前記二3(三)(1)のように、いつたん前記各障害発生の原因、機序まで遡り、そこから演繹的、下向的に六価クロムは肺や上気道の組織に対しても同様の作用をし、同様の機序を経て肺がんを発生させるであろうとする推測は合理性を有し、原告らのいうとおり、被告会社の因果関係認識可能性の存在認定に寄与する重要な状況事実になるであろう。

しかし、これまで度々指摘したとおり、戦前はもとより現在においても、クロムによる肺がん等が右のような原因、機序によつて発生するとは概略的にも確認されておらず、クロムによる肺がん等が六価クロムの酸化力による一次刺激性により招来されると断ずることはできず、むしろ、このように断じ得ないというところまでは解明されている状況にあるのである。

したがつて、当時においても、前記皮膚障害、鼻の障害の原因、機序に関する知見から前記のような推測を行うことは合理性を欠いたものであつたというべきである。

ロ 更に、仮に右当時、被告会社が前記鼻の障害等以外に気管支や肺等の障害についても右クロム被暴、吸入との因果関係の存在を認識していたとしても、「右認識はクロムが肺や上気道に有害作用を及ぼすという認識にほかならず、右製造作業者における肺がんの多発を報告する症例報告に接すれば、肺がんや上気道のがんもまたクロムの有害作用によるものであるとの認識を得ることができた」というような「推論」も合理的な推測とはいえず、クロムによるがん以外の障害発生を理由に、単純かつ短絡的にクロムは同一臓器等にがん発生をももたらすのではないかとする憶測でしかない。

クロム化合物の有害性というのは、具体的な原因、作用機序の解明の有無にかかわらず、当該物質の一定の化学的物理的作用が原因となり、一定の作用機序を経て人体の一定の正常な機能を阻害するということにほかならない。したがつて、当該物質が一定の形態の疾病を引き起こすことが明らかにされた場合、これを根拠に合理的に推測できる範囲は、当該物質が、右疾病とおおよそ同様の原因・作用機序を経て引き起こされるとされる他の疾病の原因となり得るであろう、というところまでであり、同一臓器等の疾病であつても、他の原因・作用機序に基づいて発生するものや、原因・作用機序の不明なものについて、当該物質→前記疾病発生という一定の原因・作用機序がそのままあてはまる(有害性がある)と導くことができないのは当然なのである。

ハ 以上のとおり、原告らの前記主張中クロムの有害性の認識に基づく「推論」に関する部分は明らかに失当であり、また、当時被告会社において右で述べた限りでの憶測が可能であつたとしても、前記(1)で述べたドイツの医学情報の獲得可能性が前記因果関係の認識可能性に結びつかないことに変わりはないのである。

(3) 以上(1)、(2)によれば、被告会社には戦前クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん及び上気道のがん発症との因果関係の認識可能性はなかつたことになる。

(三) 戦後における被告会社の因果関係認識可能性(結果予見可能性)

(1) 被告会社の認識の存否及び昭和二八年ころより前の認識可能性

本件全証拠によつても、戦後昭和二八年ころには被告会社はクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係の存在を認識していたとする原告らの主張を認めるに足りるものはない。

そこで、以下、右当時には被告会社には右因果関係の認識可能性があつたとする原告らの主張について検討判断する。

ところで、前記1(二)のとおり、被告会社が、戦後の米国における前記製造作業者の肺がん等発症に関する疫学的研究結果等を知り得るようになつたのは、昭和二八年ころであると認められる。

そうすると、戦後昭和二八年ころより前の時期においては、被告会社は戦前と同様前記因果関係に関して前記ドイツの医学情報を得ることができる状態にとどまつていたのであるから、被告会社の右因果関係の存在に関する認識状況は前記(二)で認定した戦前の状況と変わりないと認められ、この点から、被告会社には昭和二八年ころより前には右因果関係の認識可能性はなかつたと解される。

したがつて、以下、前記原告らの主張について、被告会社が昭和二八年ころ米国の右疫学的研究結果を知り得るようになつたことが右因果関係の認識可能性に結びつくのか、という観点から検討することにする。

(2) 各疫学的研究結果の資料的価値等について

米国において昭和二八年までに報告、発表された四つの疫学的研究結果の内容等については、前記第四章第四の二8(一)(2)ないし(5)及び前記三3(二)で認定説示したとおりであるが、ここで、前記関係証拠に基づいて、右各疫学的研究結果の資料的価値等について考察してみる。

イ マックルらの報告

マックルらの疫学調査は、前記第四章第四の二8(一)(2)や別表一〇ないし一二、二六で示すとおり、対照群として一般人口を設定せず、したがつて、一般人口との対比での死亡数による相対危険度(観察死亡数/期待死亡数)、標準化死亡比(SMR)は明らかにされていない。また、同8(一)(1)で述べたように、死亡比の対比、粗死亡率による対照群との対比には、数値分析方法上の難点がないわけではない。

しかし、右調査は、観察対象集団の規模の大きさ、作業従事歴・死因等に関する基礎資料の確実性の面で優れたものであり、また、観察期間も一部を除いてかなり長く、対照群についても十分に規模の大きな集団を設定していることなどから、死亡比、粗死亡率による各相対危険度、有意差の分析としては完成度の高いものになつている。加えて、マックルらの分析は克明かつ注意深いものであり、不確実な要因を排して検討を行うという姿勢が貫かれている。

ロ マンクーソーらの報告

(イ) マンクーソーらの疫学調査における死亡発生状況の対比自体には、死亡比の対比であること以外にも、必ずしも正確な統計学的有意差検定が行われていないことなど難点が残るとされている。

しかし、マンクーソーらは、右報告中で、「マックルらの疫学調査の結果、クロム酸塩等製造作業者における呼吸器のがん多発を示した従前のドイツの症例報告が正しかつたことが裏づけられた。」旨指摘し、その調査研究の過程でも、自らの調査結果に基づく死因別死亡発生状況の分析によつて重ねて右の点の疫学的証明を行うこともさることながら、むしろ、このような分析に加えて、クロム酸塩等製造作業者におけるクロム被暴、吸入による呼吸器のがん発症という事実が既に実証されていると措定した上で、その具体的原因物質、クロム肺がん等発症とクロム被暴量との関係、発症の潜伏期間、人体内でのクロムの代謝状況、(組織分析による)各作業者の各種臓器中クロム蓄積量等の究明に重点を置いて調査研究し、その結果を前記疫学調査結果とともに報告しているものである。

(ロ) 右報告は、クロム被暴、吸入による肺がん等発症に関し、このような側面から各種の測定値等に基づいて分析研究したものとしては初めての本格的研究報告であり、報告発表当時のクロムによる肺がん等発症に関する研究の幅を広げ、かつ、その水準を高めたものであり、この面での資料的価値は高いと評価されている。

とりわけ、マンクーソーらは、前記報告の中で、調査対象工場での肺がん死亡例七例(一九三八年から一九五〇年までのもの)につき、前記第四章第四の二8(二)(4)(別表三〇)のとおり、そのクロム暴露、潜伏期間を明らかにした上、その推定被暴量を計算して報告したが、右分析結果は、当時はもとより、現在においても、クロムによる肺がん等発症の量―反応関係に関する重要な資料であるとされている。

ハ ベイチャーの報告

(イ) ベイチャーの調査研究も、従前のドイツにおけるクロム酸塩等製造作業者の肺がんの症例報告が主張していた、右作業者における肺がんの多発という事実が実証され得るかという観点から行われたものであるが、ベイチャーはマックルらの採用した観察対象集団の死亡状況を対照群と対比する手法(コーホート・スタディ)とは別の手法(ケース・コントロール・スタディ)を採用して、右作業者に有意に高く肺がんが「発生」することを明らかにしたものである。

したがつて、ベイチャーの報告は、クロムによる肺がん等発症の疫学的証明に関し新たな資料を提供して、報告発表当時の右研究の幅を広げ、かつその水準を高めたものであり、現在でもその資料的価値は高いと評価されている。

(ロ) また、ベイチャーは、前記報告中で、右疫学調査結果とともに、従前のドイツ、米国における症例報告を精力的に集約した上、これに基づく詳細な研究結果を記述した。

とりわけ、ベイチャーは、前記第四章第四の二8(二)(3)(別表二九)のように、右集約した症例報告中九八例につきそのクロム被暴作業従事期間別肺がん発症数を報告したが、これは、当時はもとより現在においても、クロムによる肺がん等発症の量―反応関係に関する重要な資料として評価されている。

ニ 米国公衆衛生局の報告

(イ) 米国公衆衛生局の疫学調査は、観察対象集団の規模の大きさ、作業従事歴、死因等に関する基礎資料の確実性の面に加えて、対象群として全米男子一般人口を設定し、観察死亡数と年令訂正期待死亡数との対比を行い、死亡数による相対危険度(その一〇〇倍の数値が標準化死亡比となる。)を明らかにした点に特徴があり、観察期間も一部を除いてかなり長い点と併せて、完成度の高いものになつている。前記第四章第四の二8(一)(1)で指摘したとおり、一般人口を対照群とした年令訂正期待死亡数による対比、訂正死亡率による対比は、死亡発生に関する時間的要素の組み込み、観察対象集団と対象群の年令構成の等条件化の双方の要請を充たし、数値分析方法として優れたものである。

(ロ) 前記報告は、クロムによる肺がん等呼吸器のがん発症の点のみならず、クロムの一般的生理・病理作用を含め、広くがん以外の各種身体障害及び各種臓器等のがんの双方について、クロム被暴、吸入との関係如何、罹病状況、病理等を、詳細な疫学調査、実態調査等の結果に基づいて報告し、広範囲にわたつて当時の研究の成果、到達点等を示すものである。

ホ 各報告の記述方法等

以上イないしニの各報告の記述方法は、報告者が採用した調査手法、基礎資料等を明示して、これらの持つメリット、デメリットなどを摘示した上、調査研究結果を記述し、不明なものはその旨示すなど全体として飛躍した議論が少なく、明解かつ客観性の高いものになつている。

また、いずれの報告も、産業医学に関する専門的知識がなくても、比較的容易に内容理解の可能な報告である。

(3) 肺がん発症に関する因果関係の認識可能性

イ 前記第四章第四の二8(一)(2)ないし(5)・(二)、前記三3(二)、(三)及び右(2)で各認定説示したところを総合考慮すれば、米国では、遅くとも米国公衆衛生局の報告がなされた時点(一九五三年)においては、前記四疫学的研究の結果、クロム酸塩等製造作業者における肺がん死亡発生の高率、対照群との大きな統計学的有意差の存在が確立され、かつ、量―反応関係についても疑似的・代用的要素(暴露期間)の把握等がかなりの程度まで進んでおり、右製造作業におけるクロム被暴、吸入による肺がん発症を明らかにするこのような疫学的研究の成果の集積によつて、右両者間の相当因果関係の存在が、客観的な医学上の知見としてほぼ確立されていた状況にあつたと認められる。

ロ 前記1(二)のとおり、被告会社は、昭和二八年ころには米国の疫学的研究報告等の医学情報、資料を閲読・参照しその内容を知ることができる状態になつたところ、(文献等の参照等に必要な時間的経過を考慮しても)昭和二〇年代末までには、右の米国で確立された知見を知り得る状態になつたと解される(前記(一)(2)〈1〉の状態になつた。)。

そうすると、前記(一)(2)で述べたところに照らせば、昭和三〇年には被告会社には右因果関係の認識可能性があつたといい得ることになり、反面、これより前には被告会社には右認識可能性がなかつたことになる。

原告らの前記主張は右認定の限度でこれを認めることができる。

ハ そうして、前記関係証拠によれば、昭和三五年刊行、報告された前記角田報告は、具体的に栗山工場の粉砕配合等の三職場について、粉じん量に関するデータを挙げながら、マックルら、ベイチャー等によつて報告されたクロムによる肺がん発生の可能性も考慮される旨明記するに至り、被告会社は当然に当時右報告を閲読していたと認められる。

したがつて、後記3で認定する昭和三〇年代以降のクロムによる肺がんに関するその他の国内外の文献を通じての知見の取得可能性を度外視したとしても、右昭和三五年以降被告会社の右認識可能性は極めて強いものになつたと認められる。

(4) 上気道のがん発症に関する因果関係の認識可能性

イ 前記第四章第四の二8(一)(2)ないし(5)及び前記三3(二)、(三)によれば、前記四報告の中でマックルらの報告及び米国公衆衛生局の報告は、クロム酸塩等製造作業者における上気道のがん死亡の高率の発生を報告し、このうちマックルらの報告は対照群との対比による高い相対危険度の存在をも示している。

そして、前記(2)のとおり、右各報告内容の資料的価値自体には特に大きな問題点はない。

しかし、マックルらの報告でも、右の相対危険度を統計学的に有意なものとまでは評価しておらず、(現在におけると同様)当時、米国においても、上気道のがん発症に関する有意差は確認されていなかつた。

また、前記三3(四)のとおり、昭和二八年までの段階では、クロムによる発がんに関する動物実験の報告例もなかつた。

ロ そうすると、前記第四章第四の二11(一)で述べたところに照らせば、昭和二八年ころ、米国においても、疫学調査結果のみに依拠して前記製造作業におけるクロム被暴、吸入と上気道のがん発症との相当因果関係の存在を医学上肯認できるという状況にはなく、また、右イの疫学調査結果の不十分な点を補完して、右相当因果関係の存在を肯認させ得るような状況事実に関する知見(特に動物実験結果の持つ意味が大きい。)が存在していたとも認め難いことになる。

ハ しかしながら、右イの認定事実に加えて、前記(3)のように昭和二八年当時、上気道のがんと同じく呼吸器系のがんに分類される肺がんについては、前記の四疫学的研究結果により前記相当因果関係の存在を肯認する知見がほぼ確立された状況にあつたこと、マックルらの報告、米国公衆衛生局の報告は、いずれも「呼吸器又は呼吸器系のがん」としての死亡発生の高率には対照群との間に有意差がある旨報告していること、前記関係証拠によれば、上気道は人体の主要なクロム吸収の経路にある器官・部位であり、人体に吸収され、又は痰等として排出されるクロムのほとんどは上気道を通過し、あるいはここに滞留するという程度の認識は当時医学上の知見として存在していたと認められること、を総合考慮すれば、一九五三年前記米国公衆衛生局の報告がなされた段階においては、既に上気道のがん発症に関する疫学的研究も進んでおり、将来各種研究の進展に伴つて、医学上肯認され得るに至るだけの客観性を持つた知見として、かなりの程度まで前記相当因果関係の存在が明らかになつていた(前記(一)(2)〈2〉の状態になつていた)と推認される。

そうすると、前記(一)(2)で述べたところに照らせば、被告会社は右知見を知り得ることによつて、前記一2(一)〈4〉で説示した「クロム被暴、吸入と上気道のがん発症との間にかなりの程度の蓋然性、相関関係が存在する」との認識を持ち得る可能性があつたというべきである(なお、前記関係証拠によれば前記のクロムの上気道通過・滞留の点についても当時被告会社は認識可能な状況にあつた。)。

ニ 前記1(二)のとおり、被告会社が米国の疫学的研究結果等の内容を知り得るようになつたのは昭和二八年ころであるから、被告会社は、(文献等の参照等に必要な時間的経過を考慮しても)昭和二〇年代末までには、右の米国の知見を知り得る状態になつたと解され、昭和三〇年には被告会社には上気道のがん発症に関し予見可能性に結びつく因果関係の認識可能性があつたといい得ることになり、反面、これより前には被告会社には右認識可能性がなかつたことになる(前記のとおり昭和二八年(米国公衆衛生局の報告)より前には米国においても右知見は成立していなかつたと認められる。)。

原告らの前記主張は右認定の限度でこれを認めることができる。

(四) 被告会社の肺がん、上気道のがん発症の結果予見可能性(要約)

前記(二)(3)、(三)(3)・(4)の各要約説示を前記第二の二1(一)で述べたところに照らせば、被告会社は、昭和三〇年以降、栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入の結果、作業員に肺がん及び上気道のがん発症という被害が発生することを予見し得べき状況にあり、昭和三〇年より前の時期においては、右のような状況になかつたことになる。

なお、被告会社主張の前記各疫学的研究結果の普遍性の欠如、我が国の専門家等の評価・認識状況については次の3で判断するが、そこで説示するとおり、右各主張はいずれも失当であり、以上の判断に影響を及ぼさない。

3 米国の研究結果の普遍性及び我が国の専門家等の評価等と被告会社の認識可能性等(被告会社の主張について)

(一) 被告会社の主張の要旨

被告会社は、「原告ら主張の加害原因行為がなされた時点において、我が国において、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係の存在を示すに足りるような我が国の症例報告及びこれを素材とする疫学的研究が存すれば格別、本件においては、前記認定のとおりこのような研究等はなかつた(渡部真也らの調査結果の速報(中間報告)は栗山工場の右製造工程廃止と同年になされている。)のであり、このような場合、たとえ外国において、右因果関係の存在を肯定する疫学的研究等がなされ、多くの医学文献等でもこれを肯定する記述がなされていても、右加害原因行為の時点において、我が国の産業医学、職業病の専門家等においてさえ、これらの外国の調査研究結果等を『我が国でもあり得ること』としては評価せず、単に『外国にはそのような報告が存在するが、我が国では特に問題とならない。』という限りでの認識を持つにとどまり、結局のところ、右因果関係の存在そのものについて認識していなかつたときには、被告会社には、当時右因果関係の存在につき認識可能性はなかつたというべきである」とし、「本件においては、正に右のような状況にあつたのであるから、被告会社には、どんなに早くても昭和四八年六月渡部らの第一次疫学調査の中間報告がなされた時点より前には右認識可能性はなかつた。」旨主張する。

また、被告会社は、「我が国の専門家においては、とりわけ、人種、民族、生活様式、習慣等(以下「人種等」ともいう。)によつてがん発症の有無が左右されることが重視され、右疫学的研究についても、単に『外国で前記製造作業者に肺がんの発症が見られるという現象があり、それに関する調査研究が存する。』という限りでの知見を得ていたにすぎなかつた」旨主張する。

そこで、以下、まず、昭和二八年より後の米国等の疫学的研究等の発展を見た後、米国の疫学的研究が外国の研究であることから、そもそも我が国における前記製造作業者の肺がん等発症の予見に結びつく認識を導くことの妨げとなる要因が客観的に存在したのか(右研究の普遍性)について検討し、次に、被告会社が指摘する我が国の専門家等の評価・認識状況について認定した上、当時の専門家等の右状況が被告会社の情報獲得(知見取得)可能性又は認識可能性に影響を与えるものであつたかについて検討する。

なお、右の各点は、後に検討判断する本件各公務員の作為義務の存否との関係でも重要な意義を有するので、ここで右判断の基礎的事実となるものも含めて認定説示することにする。

(二) 米国等の疫学的研究等の発展の概観

前記三3(四)のとおり、一九五三年の米国公衆衛生局の総合的研究報告後、米国では専門家等の研究意欲が主として疫学調査結果の裏づけとなる動物実験や人体内でのクロム代謝研究などのクロムの生体影響に関する実験的研究、あるいは工場の設備改善、予防方法の関発などの実践的側面に向けられるようになり、これらの面で多くの成果が得られるようになつた(動物実験結果については、前記第四章第四の二9(別添三四、三五参照)。また、疫学的研究の面でも、コーホートを長期間にわたつて観察し、時間的要素との関連で精密な各種数値分析を行つた一九六六年のテイラーの重要な研究報告(前記第四章第四の二8(一)(6))などが行われ、前記因果関係の存在に関する知見はますます精密かつ確実なものになつていつた。

更に、イギリスにおいても、ビドストラップとケイス(一九五六年)の研究報告をはじめ右因果関係の存在を肯定する疫学調査が行われた(前記第四章第四の二8(一)(9)・(10))。

なお、実験動物を用いたクロム化合物による発がん実験等クロムの生体影響に関する実験的研究は、我が国でも昭和三二、三年ころから行われるようになり、イギリス、ドイツ、フランスでも同様であつた。

(三) 米国の疫学的研究結果の普遍性について

(1) 昭和二八年当時までの米国の各疫学的研究の結果形成されたクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん発症との相当因果関係の存在を肯認する医学的知見や、上気道のがん発症に関するこれに準ずるような医学的知見は、今日においては広く客観的かつ普遍的なものであつたとされているところ、当時においてもまた、それ自体として客観的かつ普遍的なものとして承認されるべきものであつたことは、これまで認定説示してきたとおりである。

(2) ところで、米国における疫学的研究は、いうまでもなく米国人を対象としたものであり、日本人を対象としたものではないが、右疫学的研究が外国人を対象とした外国の研究結果であることの一事をもつて日本人には妥当しないとすることは、原告ら主張のとおり、米国人の肺や上気道と日本人のそれとがそもそも生物学的、化学的に全く異質のものであるといえない限り、余りにも非科学的な見解であつて、右疫学的研究の普遍性を否定する根拠に到底なり得ないことは当然である。

そうして、前記関係証拠によれば、被告会社が主張する「時代的制約」を十分考慮しても、昭和二八年ころから昭和四八年までの間に我が国の医学界において、外国の疫学的研究であるが故にそもそも日本人には妥当しないというような見解は全くとられていなかつたことが明らかであり、当時、右の点を理由にして、米国の疫学的研究結果から我が国における前記製造作業者の肺がん等発症の予見に結びつく認識を得ることが妨げられるとする医学的知見はなかつたのである。

(3)イ 次に、前記関係証拠によれば、がんは一般に、人種、民族、生活様式、習慣等の差異によつてその発症の有無が左右される傾向の強い疾病であるということ、例えば、消化器系のがんは日本人に多く、欧米人には少ないが、呼吸器系のがんはこの逆であるなど、人種等の違いによつて発生傾向に差異が見出されることは、今日広く承認された医学上の知見であり、かつ、この知見は昭和二八年当時から既に承認されていたものであることが認められ、また、現在においてもそうであるが、かつては一層右の「呼吸器系のがんは欧米人に多く、日本人に少ない」という一般的傾向が強かつたことも認められる。

ロ ところで、クロムによる肺がん等発症の因果関係の存在確認の性格及び因果関係の存在確認の状況と認識可能性に関しては前記2(一)で詳述したとおりであり、過去の時点でも、右因果関係の存在の肯認のためには(その完成度はともかくとして)客観的・普遍的な証明の性質を有する疫学的研究結果が存することが必要条件であつたと解され、したがつて、前記2(二)のとおり、戦前のドイツの医学的知見が専門家等のどんなに有力な一般的見解であつても、この要件を欠いたものである以上、右因果関係が客観的なものとして肯認されてはいなかつたことに帰するのである。

ハ そこで、米国の疫学的研究結果の普遍性と前記イの専門家等の一般的見解との関係を検討するに、米国の疫学的研究結果は、前記のとおり、クロム酸塩等製造作業者における肺がん等発症という具体的問題に関し、一定の方法論に従い経験科学のレベルで推論を重ねて一定の結論を導いたものである。

これに対し、前記関係証拠によれば、前記イの知見は、マクロ的な直観、経験則としては多くの専門家等に受容されているかも知れないが、右のような個別の疾病に関する外国の疫学的研究結果が日本人には妥当しないとか、妥当しない疑いがあるということを、具体的機序解明のレベル(例えば、米国人の肺の組織構造が日本人のそれとは異なつてクロムの一定の発がん作用の影響を受けやすいことなど)で解明したものでもなければ、右疫学調査の精度に匹敵する精度をもつて個別の疾病発症に関する集団的現象の数理的分析を経たものでもなく、結局、右の一般的見解が科学的認識の範ちゆうに入るとしても、前記の疫学的研究結果とは異なる認識のレベルでのものであつて、当時も現在も、前記2(一)で述べた意味での科学的・普遍的な証明の性質を有する右疫学的研究結果に対する同レベルでの反対知見たり得るものではないことが認められる。

ニ 後記のとおり、「米国の疫学的研究結果によれば『科学的・普遍的知見』として確認されたことについて、我が国ではこれまでそれが起きたとする報告がない」という事態を、「日本人には人種的民族的にクロムによる肺がんは起こりにくい」と同義反復的に説明する次元の問題と、前記イのような知見が右ハで述べた意味で反対知見として作用するから、客観的に右疫学的研究結果から日本人におけるクロムによる肺がん発生という認識を導く妨げとなるとすることは別個のものなのであり、昭和二八年ころから昭和四八年ころまでの間に、右後者のような意味で反対知見として作用するに足りるがん発生と人種等との関係に関する知見が、我が国で医学上肯認されていたというような事実は全くなかつたと認められるのである。

ホ 仮に、前記イのような一般的見解の存在をもつて、米国の疫学的研究結果から普遍的に我が国のクロム肺がん等発症に係る因果関係の認識を導き得ないとするならば、それは、被告会社がその不当性を強く主張する前記ロのドイツの一般的医学的知見から右因果関係の認識を導き得るとすることの全く裏返しになつてしまうのである。

すなわち、個別の疾病発生についての疫学的研究結果との対比においては、外在的な憶測のレベルでのものでしかない「日本人にはクロムによる肺がんが少ない」等の認識をもつて、まがりなりにも証明のレベルで決せられた事柄の普遍性を否定することにほかならないのである。

(四) 我が国の専門家等の評価・認識状況等

(1) 昭和三〇年以降の国内文献の状況等

昭和二八年ころまでの国内文献におけるクロムによる肺がん等発症に関する紹介記述は、前記三4(一)のとおりであるが、前記関係証拠によれば、昭和三〇年以降昭和四七年までの間、右の点につき記述する主要な国内文献としては、別紙「クロムによる肺がんに関する主要な国内文献(昭和三〇年~昭和四七年)一覧表(以下「別添五一」という。)記載のものがあり、更に、右国内文献の記述状況等について次のとおり認めることができる。

イ 別添五一(前記三4(一)(7)ロ)からも明らかなとおり、昭和三二年刊の2「職業病の知識」が総合書、解説書レベルでは初めて米国の疫学的研究結果を紹介した後、引用外国文献を明示する国内文献では米国の疫学的研究報告が示されるようになり、また、他のものも次第にこれに依拠した記述をするようになつた。

ロ しかし、昭和四八、九年、渡部真也ら、大崎饒らの調査研究がなされるまでは、我が国のクロム酸塩等製造作業者について、クロム被暴、吸入による肺がん等の症例であるとする症例報告はなされなかつた。わずかに、4鈴木報告(昭和三四年)が日本化工小松川工場の作業員の中に肺がん罹患の疑いのある者一名を見出し、経過観察中と報告したが、その後この者について特段の調査報告等がなされた形跡はない。

ハ また、12「環境がんと職業がん」(昭和三七年)や13「職業がん研究の方法論」(同年)の中で土屋健三郎は、昭和三二年から昭和三四年までの間の我が国のクロム、ニツケル取扱作業者の中での肺がん観察死亡数を明らかにし、他方、全国の産業労働者四一万五一七一名を年令階層別に区分した上、各階層ごとの人員に当該年令階層の全国一般人口における肺がん死亡率を掛けて「期待死亡数」を算出し、その合計数と前記観察死亡数とを対比させ、後者が前者の約二倍になつている旨を明らかにした。

これは、別添五一記載のとおり、我が国で初めてのクロム取扱工場従業者の肺がんに関する疫学的見地からの調査報告と評価し得るものである。

しかし、右分析は、クロムとニツケルという別個の要因を持つた集団を一括して観察対象集団としていること、観察集団の持つ諸特性の記述を欠いていること、観察期間が短いこと、数値分析上の手法が不適切なこと(前記第四章四の二8(一)(1)参照。本来の期待死亡数を算出しているわけではない。)など多くの点から見て、疫学的研究としては不完全であり、記述疫学の域を出ず、記述疫学としても不十分なものであつた。

(2) 我が国の専門家の評価・認識及び問題意識等

そこで検討するに、前記第四章第四の二、前記三、四1・2、前記(一)ないし(三)、(四)(1)の各認定事実、別添五一の記載及び前記関係証拠並びに弁論の全趣旨を総合考慮すると、昭和二八年ころ及びそれ以降昭和四八、九年までの我が国の産業衛生、職業病の専門家等の前記評価・認識状況について、次のとおり認めることができる。

イ 疫学的研究結果等についての知見

前記認定のとおり、我が国の右専門家等は、戦後米国の疫学的研究結果を、それが米国で報告された後ほとんど時を移さず閲読・参照し、又は閲読・参照し得る状態にあつたが、昭和三〇年以降には、ほとんどの者がそれまでに報告された前記四報告全部の存在及びその内容を知るに至つた。

特に、このうち米国公衆衛生局の報告は、肺がん等のみならず、その他のクロムによる身体障害についても詳細な報告をし、また、疫学調査結果プロバーの記述にとどまらず広く臨床的所見等をも論述していたことから、我が国の専門家等にとつても重要かつ便利な研究資料になつていたと推認される。

また、我が国の専門家等は、前記昭和三〇年代以降の米国等における疫学的研究結果の存在・内容や、昭和三〇年代になつて米国をはじめ(我が国を含めて)多くの国で発がん動物実験等クロムの生体影響に関する実験的研究が進んでいたことについても知つていた。

ロ 相当因果関係の存在肯認

そうして、この間、米国等での疫学的研究に関し、その調査方法・数値分析手法の不完全などを指摘して、クロム被暴、吸入と肺がん等発症の相当因果関係の存在を証明するに足りないものであるとする研究、クロム酸塩等製造作業者における肺がん等多発の原因はほかにあるとか、ほかにある疑いが残ると指摘して、右疫学調査結果に依拠して右相当因果関係の存在を導くことはできず、あるいは疑いが残るとする研究、又は、前記の「人種等による発がん状況の差異」などを理由にして、反対証明のレベルで、米国の疫学的研究結果は我が国の前記製造作業者には妥当せず、あるいは妥当しない疑いがあるとする研究などが、我が国の専門家等によつてなされたことを示す報告は全く見当たらず、このような問題提起さえなされなかつたのが実情である。

すなわち、我が国の専門家等は、米国の疫学的研究結果が示す〈イ〉クロム酸塩等製造作業者に肺がん等が相対的に多発しているという事実報告(この点は、前記のとおり、主観的ながら戦前からドイツでも行われてきた。)と〈ロ〉その肺がん等多発と右製造作業でのクロム被暴、吸入との間に相当因果関係が認められるという疫学的分析の双方について、特段の疑いを差し挟まず、疫学的研究結果に依拠した右相当因果関係の存在肯認ということの客観性、普遍性自体は広く承認しており、科学的な認識のレベルでは、右相当因果関係の存在を肯認していたことは疑い得ない。

別添五一の2「職業病の知識」において石津が示したような疑問は、「『疫学調査』のレベルでは相当因果関係の存在は認められる。しかし、実験的研究によつても『具体的機序解明による因果関係の存在』は未だ明らかではなく『謎』としかいいようがない。」ということであり、多くの専門家等においてもこれと同様、疫学的研究の面では相当因果関係の存在は確認されている、しかし、発がんの機序等は未解明、というのが一般的な評価・認識状況であつたと推認される。

ハ 認識と症例報告の不存在とのギヤツプ、評価と問題意識

ところで、右ロの〈イ〉〈ロ〉の二点のうち、いわば固有の分析疫学に属するものは〈ロ〉の点であり、我が国の専門家等は、米国の疫学的研究結果の示す〈ロ〉の点に関する結論を肯定、評価していたのであるが、〈イ〉の点についても、ドイツや米国において当該事実(症例の発生)があつたこと自体は正しいと評価していたものの、前記のとおり、現実には我が国では、〈イ〉と同様の事実の存在が報告されていないという状況にあつた。

そのため、我が国の専門家等の評価・認識は、「〈ロ〉の点は正しい。したがつて、我が国でも、〈イ〉のように前記製造作業者における肺がん等の症例が報告されたならば、その肺がん等については、〈ロ〉の知見があてはまるから、クロム被暴、吸入に起因するものと考えるべきである。」との段階にとどまるか、あるいは、〈ロ〉の知見が必然的に「我が国の右製造作業者にも肺がん等が多発する可能性がある」という推論を導くことにまで問題意識を広げた者にあつても、右推論と我が国で症例報告が存しないということとのギヤツプを、前記のように「米国の疫学的研究報告内容が誤つているのではないか」という問題提起として把えたり、あるいは、逆に「我が国でも発症例があるのではないか。悉皆的な調査をしていないから発見されていないにすぎないのではないか」とか「我が国のクロム酸塩等製造の歴史が浅いので現在は『潜伏』状態にあるのではないか」という方向の問題提起をした者はほとんどおらず、前記のとおりがん発症については人種差等による差異が大きいという一般的知見に依拠して、結局は右のギヤツプの存在を単に同義反復的に説明するにすぎない「日本人にはクロム肺がんが起こりにくいのかも知れない」(別添五一の22「新労働衛生ハンドブツク」(昭和四九年)参照)ということで済ましていた者が多かつたのが実情である。

前記期間中にクロム酸塩等製造工場の実地調査の機会を得た鈴木ら、角田ら、館らは、さすがに米国の疫学調査結果の示す事柄を意識して、栗山工場の一部工程の粉じんの多さが肺がん発症につながる可能性があると危惧したり(角田報告)、エツクス線写真像により肺がん罹患者の有無を見ている(鈴木、館両報告)が、右各調査の主目的はいずれも別の点にあつたため、右のような指摘、検査はいずれも部分的かつ不徹底なものに終わり、到底戦後米国で行われたような大規模かつ徹底した症例調査、工程改善勧告等に比肩するようなものではなかつた。また、右三名が不徹底ながらも示した問題意識自体、当時としては例外的なものであつたと窺われるのである。

ニ 評価と問題意識

以上の認定説示からも明らかなように、右ハの「日本人云々」というようなことは、我が国の専門家等の間で、前記(三)のとおり、疫学的研究結果に対する反対知見として肯認されていたものでないことはもとより、右ハのとおり、問題提起として語られていたわけでもなく、要するに単なる憶測、あるいは憶測にさえ至らない感想のレベルのものであつて、かつ、専門家等自身においてもその程度のものであると自覚していたのである。

したがつて、専門家等自身右の点から、疫学的研究結果の客観性、普遍性自体を否定したり、疑念を呈していたわけではなく、決して、被告会社のいうように「日本人云々」という点を理由にして、右研究結果の内容を低く評価していたということではないのである。

そうして、クロム被暴、吸入による肺がん等発症という事柄に対する当時の我が国の産業衛生、職業病の専門家、研究者の対応は、右ハの認定説示からも明らかなとおり次のようなものであつたと認められる。

すなわち、我が国の専門家等においては、医学的知見のレベルで、米国の疫学的研究結果が我が国には妥当しないと本気で考えていた者はおらず、総じて右研究結果を評価していたのではあるが、クロムによる肺がん等発症の問題に強い関心を示してこれを自己の研究課題として取り組み、問題意識を持つて、我が国のクロム酸塩等製造業及びその作業者を対象にして、現実の発症状況の調査から始めて、症例が発見できなければ、なぜ発見できないかなどにつき経験科学のレベルで右疫学的研究結果と矛盾なく説明する、というような研究をしようという意欲を示した者がいなかつたのである。

我が国の専門家等においては、被告会社のいう医学的知見自体への低評価ではなく、右の研究意欲、問題意識の希薄さが顕著であつたのである。

ホ 研究意欲、問題意識の希薄さ

昭和三七年別添五一の11「職業がん」が土屋健三郎によりほん訳刊行されたことが一つの契機となつて、我が国の産業衛生、職業病の専門家等においても、次第に「職業がん」が独立した研究分野として位置付けられるようになつたが、有機溶剤等による職業性がん発症と比べ、クロムによる発がんについての研究意欲、問題意識はそれほど高まらずに推移し、昭和四〇年代になつても、別添五一の20「職業がん」(昭和四四年、倉恒匡徳の論文)のように高い問題意識を示すものも現われたものの、総じて問題意識は低かつたと認められる。

このように、我が国の専門家等においては、米国で明らかにされた医学的知見の示すところのものを自己の研究課題として取り組み、我が国でも発症例の有無の掘り起こしを含めて疫学的研究等を進めなければならないとする問題意識は希薄であつたことから、昭和四〇年代になつて行われた労働省主導による産業の場での有害物質発生等防止対策の総合的検討の場面でも、クロムによる肺がん等を取り上げることを提唱した専門家等はいなかつた。

その結果、久保田重孝を委員長として昭和四五年発足・設置された労働環境技術基準委員会の検討項目としてもこの点は取り上げられず、昭和四七年の特化則制定の際にも、がん原性物質としてのクロム化合物規制は盛り込まれなかつたのである。

証人館が専門家会議での検討を徹底的に行つた理由の一つとして「昭和三〇年代の轍を踏まないようにと考えた。」旨供述するとおり、当時、我が国の専門家等には、「我が国においても前記製造作業者に肺がん等が多発する可能性がある」という前記疫学的研究結果から必然的に導かれる結論を、実際に研究課題として検証したり、企業や労働行政に対して積極的に警告したり、労働安全衛生に関する諸立法作業の中に反映させていくという姿勢はほとんど見られないままに推移したのである。

ヘ 問題意識等の希薄さの背景等

このような研究意欲、問題意識の希薄さの理由について、倉恒匡徳は前記論文の中で、専門家の立場から、我が国の職業がん研究一般に関し、専門家等の過小評価、早急に解決すべき急性職業病が他にあつたこと、企業の閉鎖性、秘密主義、戦争による研究の中断を挙げているが、これはおおむね的確な指摘であると解される。

しかるところ、クロムによる肺がん等発症の研究については、倉恒の右の一般指摘のほか、当時、我が国においては次に述べるような大きな客観的制約も存したと認められる。

すなわち、我が国の専門家等が徹底的な症例調査、疫学的研究等を行おうとすれば、まず、死亡例を含めクロム酸塩等製造作業者又はその経験者を対象とする診断がなされ、これに基づく具体的な肺がん等症例の有無の事実把握が先行しなければならない。しかし、右の診断は、産業衛生の分野の専門家等のよくなし得るものではなく、臨床医、病理医の十分な協力を得なければ実行できないものである。そのほか、症例、臨床像の具体的把握についても、臨床医、病理医の研究・協力が必要なことはいうまでもない。

ところが、昭和二八年当時はもとより、昭和三〇年代全般においても、我が国の肺や呼吸器に関する臨床、病理の最大の関心事はいうまでもなく肺結核の発見、治療、予防であり、精力の大半を肺結核の撲滅に向けて傾注させていたという実情にあり、これに比べれば症例数も少なかつた肺がんの、しかも、限定された産業分野での職業がんとしての肺がんの症例研究等を行おうとする関心や問題意識は希薄であつた。

これに加えて、もともと肺がんの確定診断自体が容易ではないとされていることや、昭和三〇年代まで臨床における効率的な肺がん発見・診断方法(特に肺結核との的確な識別が可能な方法)も開発されていなかつたこともあつて、産業衛生の分野の専門家等が、臨床医、病理医の十分な協力を得て症例の有無の調査確認から研究作業を進めるということがかなり困難な状況にあつたのである。

渡部らの前記疫学的研究の成功についても、経験十分な呼吸器疾患の専門臨床医である大崎による死亡例まで含めた確定診断が先行していたことが大きく寄与しているのである。

右のような状況の下で、我が国の産業衛生、職業病の専門家等が、前記のとおり「症例報告がないこと」について長く受身の姿勢に立つていたことにはそれなりの理由があつたものと認められるのである。

(五) 専門家等の評価・認識状況等と被告会社の因果関係認識可能性等

(1) 情報獲得可能性・知見取得可能性

前記1(二)のとおり、被告会社の米国の産業医学情報、資料の獲得、医学的知見の取得の可能性については、昭和二八年ころには、被告会社が我が国の産業衛生、職業病の専門家等に照会するなどして、右専門家等が既に当時閲読・参照し、あるいは閲読・参照可能であつた米国の産業医学文献を入手・閲読・参照することができ、前記疫学的研究結果等が示していた因果関係の存在を肯認する医学的知見を得ることができた旨認定説示したものであるが、右(四)で認定した右専門家等の右研究結果に対する評価・認識状況の下で、右のような形での情報、知見の獲得が十分に可能であつたことはいうまでもなく、右(四)の認定説示は前記1(二)の認定を到底左右するようなものではない。

右(四)で認定した右専門家等の研究意欲、問題意識の希薄さが、前記1(二)、(三)で認定した程度の専門家等の協力を求めることの妨げとなつたとは考えられないのである。

(2) 認識可能性

まず、被告会社が米国の各疫学的研究報告の内容を知り得ることによつて、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん、上気道のがん発症との因果関係の存在を認識し得べき状態になつたとする前記2(三)の認定に関しては、前記(四)のとおり、我が国の専門家等は、右医学上の知見を肯定、評価して、客観性のあるものとして肯認していたのであるから、右専門家等の評価・認識状況が右認定の妨げとならないことは当然である。

右各研究結果に示されていることを前提にして被告会社が右因果関係の存在自体を認識するについては、前記のとおり、我が国の専門家等による症例研究、疫学調査等特段の研究を待つ必要はないのであつて、右専門家等の研究意欲、問題意欲の希薄さは右認識の何らの妨げにもならないのである。

(3) 予見可能性

イ 次に、前記第二の二1(一)、第三の一2で説示したように、右因果関係の存在の認識可能性から、被告会社の栗山工場の前記製造工程におけるクロム被暴、吸入に起因する肺がん、上気道のがん発症の予見可能性が導かれるについても、右専門家等の研究意欲、問題意識の希薄さは何らの妨げにもならない。

右予見可能性も、我が国の専門家等による前記のような特段の研究等を待つまでもなく、前記疫学的研究結果が示す医学上の知見の認識可能性と前記製造工程の作業環境についての認識とから導き出されるものである。

ロ 更に、前記(三)で詳述したとおり、がん発症と人種等との関係についての一般的知見も、右疫学的研究結果が示す医学上の知見が日本人についても妥当し、栗山工場の右製造作業者における肺がん等発症の可能性があると認識することについて、その妨げとなるようなものではなかつたことは明らかである。

ハ ところで、被告会社は、右ロの一般的知見が、客観的には右の具体的な予見可能性を導くことの妨げとなるものではなかつたとしても、前記(三)(3)、(四)(2)で認定したように、我が国の専門家等が「日本人にはクロム肺がんが起こりにくい(のかも知れない)」としていたので、被告会社も当然にそれを信じ得べきものであつたから、前記因果関係の存在の認識可能性から右予見可能性が導かれるような状況にはなかつた、とも主張する如くである。

(イ) しかるところ、確かに、我が国の専門家等の間では、一方では正当と評価される米国の疫学的研究結果の存在、他方では我が国の症例報告の不存在というギヤツプを、症例の有無の実地調査や、経験科学のレベルで矛盾なく説明するための研究によつて整合させていくのではなく、「日本人にはクロム肺がんが起こりにくい(のかも知れない)」という憶測、あるいは感想の域を出ない説明で済ます傾向が強かつたことは前記認定のとおりである。

(ロ) しかしながら、まず、右の事実は本件において明らかになつた事実ではあるものの、前記三4(一)、別添五一の各認定事実及び前記関係証拠によれば、右の「説明」を明記している国内文献は、昭和四九年刊の別添五一の22「新労働衛生ハンドブツク」以外に見当たらず、果たして、昭和二八年ころから昭和四八年ころまでの間に被告会社がこのようないわば産業医学界の内部事情を知つていたのか疑わしく、被告会社の右主張については、当時被告会社が右のような傾向があることを知つていた(又は知り得べきであつた)というその前提自体に疑問が残るものである(当時我が国の専門家等において右のような傾向があつたということは、現在において知り得る事実なのであり、被告会社自ら強く主張する「現在において知り得る事実は当然に当時も知り得たとはなし得ない」場面の一つでもあると考えられる。)。

(ハ) 次に、右の点をさて措いても、前記認定のとおり、当時、人種差等とがんの発生状況に関する知見に依拠して前記各疫学的研究の普遍性に疑問を呈し、問題提起をするような我が国の専門家等による研究は全くなく、また、前記(四)の認定事実によれば、前記の「日本人云々」との点も、要するに従前我が国では症例報告がないことによる憶測、感想にしかすぎないと容易に理解可能な状況にあつたと推認されるのに、被告会社が右の点を信じ得べき状況にあつたとすることは難しいと解される。

(ニ) また、仮に、被告会社において、このような「説明」を信じ得べき状況があつたとしても、前記(三)(3)のとおり疫学的研究結果との対比においては憶測のレベルのものでしかない一般的見解に依拠して、当該専門家等によつても明らかに憶測・感想のレベルのものとして語られていたにすぎない、「日本人にはクロム肺がんは起こりにくい(のかも知れない)」という「説明」を被告会社が信じ得べきであつたことをもつて、右研究結果の内容から前記予見可能性を導くことの妨げとなつたと解することはできないのである。

(ホ) 更に、被告会社は、昭和二八年ころから昭和四八年ころまでの間一貫して前記主張のような状況であつたというが、別添五一の7の角田報告の前記明示的記述の存在に照らせば、前記2(三)(3)ハのとおり被告会社が昭和三五年ころその報告内容を知つてからは、右(ロ)ないし(ニ)のような分析を経るまでもなく、こと被告会社に関しては、前記の「日本人云々」を信じたというようなことはほとんどあり得ず、仮に信じたとしても極めて不当、不合理な思い込みであつたことが明らかである。

(六) 要約

以上(一)ないし(五)のとおり、被告会社の前記(一)の主張が指摘するような点を理由にして、前記2における被告会社の前記因果関係認識可能性、予見可能性の存在認定が妨げられることはないことになる。

4 原告ら主張の被告会社のその余の調査義務等について

最後に、原告らは、請求原因第六章第一節第一の三2において、被告会社には、自ら又は大学等の研究機関に委嘱するなどして、症例調査はもとより疫学的研究まで含めて、クロムによる肺がん等の発症に係る因果関係を正確に把握、認識すべき義務があり、このような調査研究によつて右因果関係が解明され得た状況があつたとされる限り、被告会社には右因果関係の認識可能性が存した旨をも主張する。

そこで、被告会社の外国の医学情報の獲得可能性、これに基づく認識可能性という観点からの検討によれば、前記2のとおり被告会社には右認識可能性がなかつたとされる戦前(昭和一二年六月から)から昭和二〇年代までの期間において、原告らの右主張のような観点から、被告会社に右認識可能性が存在したとなし得るかにつき検討する。

(一) 戦前の状況

(1) ドイツの症例についての疫学的研究実施

前記認定のとおり、戦前クロム酸塩等製造作業者におけるクロム被暴、吸入による肺がんであるとの明示的な症例報告の存した国はドイツのみであつたが、前記三、四1ないし3の各認定事実、前記関係証拠及び弁論の全趣旨を総合すれば、戦前被告会社が自ら、又は当時の我が国の産業医学の専門家等に委嘱することによつて、ドイツの右症例報告を素材にして、ドイツ自体でも行われていなかつたドイツにおけるクロム肺がん等発症に関する疫学調査を実施し、前記因果関係の解明作業を行うことなど到底不可能な状況にあつたことは明白である。

(2) 我が国の症例についての疫学的研究実施

イ また、前記第四章第四の二8(二)のとおり、一般にクロムによる肺がん等発症の潜伏期間は長いとされていること(平均一五ないし二五年)や、渡部らの調査によれば、栗山工場の前記製造作業者における(クロムによると思われる)初めての肺がん死亡例は昭和三五年一月の死亡例であるとされていることから、戦前同工場の(元)作業員に対する疫学的調査を行つても、死因構造の分析等による相対危険度の把握などもともと不可能な状況にあつたと窺われるところ、この点を度外視しても、右証拠等によれば、戦前、被告会社が自ら、又は我が国の専門家等の協力を得て、大正初期にクロム酸塩等の工場的生産を開始していた日本化工の(元)作業員を含めて、我が国の前記製造作業者、同作業従事経験者に対する疫学調査を実施することも到底不可能な状況にあつたと認められる。

ロ 前記関係証拠によれば、外国における症例報告は存在するが、我が国ではまだ自然発生的にもこのような報告がなされていないという状況の下で、当該時点においても未知の事項の解明のために、右のような症例検索、疫学調査を初めて実施するに当たつては、肺がん等の病理等に関する医学的研究の発展、一定水準以上の診断法・診断技術が我が国に相当程度平均的に普及していること、従業歴・既応症歴等の経時的情報記録・整理態勢の充実整備、観察対象集団・対照群の双方の諸要素の記述分析を支える統計的データの整備、工場安全衛生体制の充実、産業医学の発展、疫学的手法自体を十分にマスターした研究者の存在、数値分析法に対する理解等の社会的、医学的前提条件がかなりの程度整い、加えて、当該問題に関する専門家等の強い研究意欲、問題意識の存在とこれを支える研究体制の整備がなされていることが必要であると認められるところ、前記第四章第四の二、前記三、四1ないし3の各認定事実、前記関係証拠及び弁論の全趣旨を総合すると、戦前の我が国においては、右のような前提事項が多くの面で欠けており、専門家等の研究意欲、問題意識の面でも、前記3(四)で認定した状況以前の状態であつたと認められ、たとえ、被告会社が強力なイニシアテイブをとつたとしても、疫学的研究等が可能になる状況ではなかつたと推認される。また、そもそも、右のような状況の下で、被告会社が疫学的研究の実行に関しイニシアテイブをとること自体、不可能であつたとも推認されるのである。

(二) 戦後昭和二〇年代の状況

(1) 次に、前記第四章第四の二、前記三・四1ないし3の各認定事実、前記関係証拠及び弁論の全趣旨を総合すると、戦後昭和二〇年代においては、右(一)(2)ロで指摘した社会的、医学的前提条件も次第に整備され、疫学的手法自体に関する米国の知見も紹介されるようになり、専門家等の認識状況も前記3(四)で認定したところと同様のものになつてはきたが、なお、被告会社が疫学的研究につきイニシアテイブをとり、専門家等がこれに呼応協力して疫学的研究を行うことが可能な状況にまでは至つていなかつたと認められる。

(2) 確かに、前記認定のとおり、米国のクロム酸塩等製造企業は、戦後いち早くクロムによる肺がん等発症の調査研究を、自ら強力なイニシアテイブをとつて実行し、世界で初めての貴重な疫学的研究結果(マツクルらの報告)を得たのであるが、右認定の当時の我が国の状況に照らせば、当時米国社会において米国の企業、研究者に可能であつたことはすなわち我が国の企業、研究者にも可能であつた、と判断することには躊躇せざるを得ないのである。

(3) 本来生産増強、効率的生産等のための技術的、工学的側面での改善には強い意欲を持ち、またこれを持つことが当然視される生産企業であつて、現に長く各種工場的生産を続けてきた被告会社が、(利益状況に異なる面があつても)自己の運営管理する生産工程の技術的改善の一環でもある作業環境改善措置をとるという側面については、後記のとおり、一定時期において米国の同様の企業の生産工程でなし得た改善措置の多くは、多少の時間的経過を要したとしても、被告会社でもとり得たと解することができよう。

しかし、これとは異なつて、産業医学の専門家等に対してイニシアテイブをとつて、従前我が国ではなされたことのない医学上の新しい研究手法に基づき、我が国におけるクロムによる肺がん等の発症状況とその数理的把握という新たな知見を得るための研究を企画・実行することについては、本件全証拠によつても、昭和二〇年代までの段階で、米国の企業がなし得たことは、当然その当時被告会社においても実行すべきであつたと義務づけるまでの基礎事実、事実関係を見出することはできないのである。

(三) したがつて、原告らの前記主張する観点からも、被告会社には、戦前及び昭和三〇年より前の戦後の時期において、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん、上気道のがん発症との因果関係の存在の認識可能性はなく、したがつて、結果予見可能性はなかつたといわざるを得ないのである。

5 まとめ

以上認定説示のとおり、被告会社には、昭和三〇年以降は、栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入による作業員の肺がん及び上気道のがん発症について結果予見可能性があり、右製造工程稼動開始(昭和一二年六月)当時から昭和三〇年より前(昭和二〇年代まで)の時点では右予見可能性はなかつたことになる。

そうすると、前記被害者たる死亡者のうち死亡者小坂のクロム被暴作業従事期間は、前記第五章第三の三1・2で認定したとおり、昭和二二年から遅くとも昭和二六年ころまでであり、昭和二六、七年には右作業から離業しているのであるから、被告会社は死亡者小坂に対する加害原因行為時においては、加害原因行為(前記製造作業者におけるクロム被暴、吸入)による被害(喉頭がん発症・死亡)発生の予見可能性がなかつたことに帰するので、同人の右被害発生に係る被告会社の結果回避義務違反(客観的要件)の存否等を論ずるまでもなく、この段階で、同人の死亡に係る被告会社の不法行為が成立せず、不法行為に基づく損害賠償請求が失当であることが明らかである。

その余の死亡者中村ら七名の被害者たる死亡者については、別添五〇から明らかなように、被告会社には、前記加害行為時に右予見可能性が存していたことになる。

(なお、前記認定のとおり、死亡者松浦、同大渕、同山田はいずれも昭和二九年までに被告会社栗山工場を退職しているので右三名の同工場勤務期間中には被告会社には右予見可能性はなかつたことになる。)

第四被告会社の結果回避義務違反等

〔請求原因第六章第一節第一の四ないし六、第二編第六章第一節第一の四ないし六〕

一 検討順序、判断の必要な被害者及び時期、認定に供した証拠

1 検討順序

前記第二の一で指摘したとおり、本件における被告会社の結果回避義務とは、前記第三章ないし第五章で認定説示した「栗山工場の劣悪な作業環境の下で各生存原告及び各被害者たる死亡者がクロム酸塩等製造作業(前記のとおり塩基性硫酸クロム工程の作業を除く。以下同じ。)に従事し、その際クロムを含有する大量の粉じん等に被暴、吸入した(加害原因行為)結果、各生存原告が各認定障害に罹患し、各被害者たる死亡者が肺がん等に罹患した(個別的事実的因果関係、被害発生)。」という違法な加害行為(結果)の発生を回避するための行為をなすべき義務であるところ、以下、前記第二の二1(二)で説示した被告会社の過失の客観的要件である被告会社の右結果回避義務及びその義務違反の存否について、次のような順序で検討する。

まず、被告会社の結果回避義務(加害行為回避義務)の存否の判断の必要な被害者及び時期を明らかにした上、次に、右加害行為を回避するための具体的な結果発生回避措置・行為としてどのようなものが認められるか、その存否、内容につき検討し、更に、被告会社が右回避措置等のうち如何なるものをとるべきであつたか、当該時期において当該回避措置等をとり得べきであつたか(実行可能性の存否)、及びとり得るべきであつたのにとらなかつたのかの各点につき順次検討して、被告会社の結果回避義務違反の存否について認定説示することにする。

また、右検討判断の結果、被告会社に結果回避義務違反があつたと認められる場合には、前記第二の二1(三)で説示した結果回避義務違反と前記加害行為成立(結果発生)との因果関係の存否につき考察することにする。

2 被告会社の結果回避義務違反の存否の判断の必要な被害者及び時期

(一) 判断の必要な被害者

前記第三の四5で要約説示したとおり、死亡者小坂の喉頭がん罹患、死亡については、被告会社の加害行為は存したものの、当該加害原因行為時に被告会社には結果予見可能性がなく、この点から、既に同人に対する右加害行為については被告会社の過失を認めることができないことになつたので、被告会社の結果回避義務違反(客観的要件)の存否を検討判断する必要はない。

他方、生存原告らの各認定障害罹患、その余の被害者たる死亡者らの肺がん罹患・死亡については右のような事情にはないので、以下、右の生存原告ら、死亡者らに対する加害行為に関して被告会社の結果回避義務違反(客観的要件)の存否につき検討判断する(以下、右のその余の死亡者である死亡者中村、同櫻庭、同中井、同佐藤、同今西、同池田、同工藤の七名を「被害者たる死亡者」と呼ぶ。)。

(二) 判断の必要な時期

前期第三で認定説示(第三の二3(四)、同四5で要約説示)したとおり、栗山工場の前記製造工程の稼動期間(昭和一二年六月から昭和四八年六月まで)中、被告会社が、生存原告らに対する加害行為につき結果予見・予見可能性があつたのは昭和一三年ころ(稼動開始直後)以降の時期であり、被害者たる死亡者に対する加害行為につき結果予見可能性があつたのは昭和三〇年以降の時期であるから、以下、生存原告ら、被害者たる死亡者らそれぞれとの間で、右各期間における被告会社の結果回避義務違反の存否について検討する。

3 認定に供した証拠

以下の事実認定に当たつては、個々の証拠を提示した上での認定を行うほか、多くの場面で次の各証拠を総合考慮した認定を行うので、あらかじめここに掲記しておき、後の認定では、これらの証拠を「前記関係証拠」という呼称で引用摘示する。

<証拠略>

二 結果回避措置・行為の存否、内容

被告会社に対し、前記のような行為義務違反としての結果回避義務違反を問うためには、まず、当該加害行為の態様、内容、性質等に照らして、結果発生を防止、回避するに足りる措置等が存したことが必要である。

右のような一定の措置等が認められることを前提にして、加えて、被告会社が加害原因行為時において右措置等をとるべきであり、とることが可能であつたと認められる場合には、被告会社には当該措置等をとるべき結果回避義務があつたことになる。

そこで、右のような観点から、ここでは、結果発生回避を可能にするような措置等の存否及びその内容について検討する。

1 結果回避を可能にする措置等の意義等

(一) 本件において被告会社の結果回避義務の具体的内容となるべき結果発生回避のための措置・行為とは、当該措置等のみをとることによって栗山工場のクロム酸塩等製造作業に従事した生存原告ら、被害者たる死亡者らの認定障害、肺がん罹患を完全に防止できたというようなものに限られないことは当然である。

すなわち、当該措置等が他の措置等とあいまつて、あるいはそれ自体で相当程度まで、右結果発生回避に寄与し、これを可能にするようなものであれば足りるのである。

(二) これまで認定してきたような、生産工程における作業従事の際の作業員の有害物質被暴、吸入による身体障害発生という本件の加害行為の態様に鑑みれば、後記のとおり、右(一)の意味で右結果回避を可能にする措置・行為(以下単に「結果回避措置等」ともいう。)は、それが結果回避に機能する場面及び結果回避への寄与度(有効性)の程度の双方において多種多様なものになるが、このような複数の多様な措置等の中で、被告会社は、当該時点においてとるべきであり、とり得べきであつたものを実行する義務を負つていたことになるのである。

したがつて、右の多様な措置等の中には、前記のとおり前記製造工程におけるクロム含有粉じん発生を根源から断ち切るような徹底した結果回避措置もある。しかし、後に判断するとおり、結果回避義務違反が問題となる時点において、被告会社が右のような根源的措置をとり得べき状況になかつた場合には、当該措置を実行しなかつたことをもつて、結果回避義務違反があつたとはいえないことになる。

反面、ある時点において、被告会社が右の根源的措置をとり得なかつたとされる場合でも、結果回避に寄与する他の措置等があり、被告会社がそれをとり得べきであつたにもかかわらず実行しなかつたときには、結果回避義務違反になることは当然である。

2 結果回避措置等

前記第二章ないし第五章の各認定事実及び前記関係証拠を総合すれば、栗山工場のクロム酸塩等製造工程における作業従事の際(六価クロムを含む)クロム被暴、吸入によつて作業員である生存原告ら、被害者たる死亡者らが認定障害に罹患し、又は肺がんに罹患死亡することを防止、回避する措置等として次のようなものがあると認められる。

(一) 工程等からのクロム含有粉じん、ミスト等の発生自体の防止措置として、

(1) 最も根源的な措置として、主工程、工程部分のすべて又は大半を密閉系又は準密閉系の機構とすること。

(2) 粉じん、ミスト等の多発する工程の個別的密閉化・自動化・機械化。

(3) キルン、反射炉、ドライヤー等のクロム含有物質に高熱を加える装置の準密閉化、系内で発生するガス、高熱粉じん等の排気系の整備等。

(4) 鉱石粉末倉庫、パルブ置場、配合粉貯槽、配合壜、各種ホツパー、乾燥製品貯蔵容器等、粉状・粒状のクロム含有物質の貯蔵機器の隔離、密閉化、職場内への粉じん等発散防止のための排気系の整備等。

(5) コンベア、トロツコ、運搬車(二輪車等)、トラツク等クロム含有物質の移送系からの発じん等防止のため、移送系の密閉化・自動化・機械化。

カバー、フード等、個別の移送用機器からの発じん等防止器具取付け。

(6) クロム含有物質を落下その他(粉末製品の取出等)重力により下方へ移動させる部分の密閉化又は当該部分へのカバー、フード等発じん防止器具取付け。

(7) 加酸槽、煮つめ槽、反応槽、濃縮槽(真空蒸発缶等)、晶出槽、貯留槽、計量槽、洗浄槽などのタンク、送液パイプ・ポンプ等のクロム含有液収蔵機器の密閉化。

特に、内容液の発熱・加熱反応を行い、あるいはかく拌等により内容液に力を加えるようなタンクの密閉化。

右収蔵機器の内部の空気の排気装置の整備等。

(8) クロム成分含有液を散布し、あるいはその液滴飛散が著しい機器(洗浄槽、遠心分離機等)の密閉化、あるいはカバー、防護壁等取付け。

(9) ミル、ろ過器等クロム含有物質、溶液を収容して、これに力を加える等の作用を行う各種機器の密閉化。

(10) 各種計量作業の自動化・機械化、計量装置の密閉化。

(11) 外部に開放される高温のクロム含有物質の冷却装置設置。

沸騰状態の溶液等高温のクロム含有液からのミスト・液滴の飛散防止装置設置。

(12) 乾燥した粉状、粒状のクロム含有物質が外部に開放される部分の湿潤化。

(13) ラビリンス構造、グランドシール等個別のクロム含有物質等漏出防止措置。

(14) 以上の各機器等が不整状態に陥った内部からクロム含有物質・溶液の漏出、発散等が生じることを防止し、その有効機能を図るための点検・保守態勢の整備充実。

(15) 職場のクロムによる汚染状況測定の充実。

(二) 工程等で発生するクロム含有粉じん、ミスト等が職場の大気中に飛散・発散・拡散し、あるいは滞留することの防止措置として、

(1) 工場建家の全体排気装置、各工程の粉じん、ミスト等発生部分等の局所排気装置の整備充実。

自然通風による排気・設備のほか、動力による強制排気装置の設置。

窓等の自然換気設備の有効利用。

排気装置が職場の空気の排気に十分機能するような排気系の有効配置。

(2) 工場建家内の各工程、各職場の配置状況の改善、粉じん等発生部分と他の部分との隔壁、間仕切りの設置。

(3) 粉じん等の付着、堆積防止のため、各種機器、構築物の構造、材質、配置の工夫・改善。

同じく床面、壁面の構造、材質の工夫・改善。

付着、堆積したクロム含有物質等の除去、掃除の励行。

(4) 職場内への新鮮な空気の供給装置の設置。

(三) 工程で発生、飛散・発散・拡散するクロム含有粉じん、ミスト等に作業員が被暴し、これを吸入することの防止措置として、

(1) 作業員がクロム含有物質に直接又は至近距離で接する作業の機械化による入力、手作業の廃止。

(2) 右のような作業の作業用具、作業方法の改善。

(3) 作業室、機器操作室(メーター室)等の隔離・密閉化。

(4) 休憩室等の設置、当該区画への新鮮な空気の供給。

(5) マスク、手袋等の安全保護具の供給、整備体制の確立。

(6) 高性能の保護具の供給、整備。

特に、クロム含有物質に直接又は至近距離で接する作業や、粉じん等が発生する機器の近辺での作業を行う作業員に対する高性能の保護具の供給、整備、とりわけ、前者については全身を防護するような保護具の供給。

(7) 作業員に保護具の完全着用を強く指導し、励行させること。

(8) 浸出作業等作業員が直接クロム含有物質、溶液に接する作業であつて、保護具の完全着用が作業能率を阻害するような部分では、保護具自体の改善とともに、高密度の重筋高熱労働の改善・廃止、十分な要員の確保等、作業体制を改善すること。

(9) 皮膚障害や鼻の障害等については、塗り薬、軟こう等の予防薬品の供給、整備体制の確立。

(10) 鼻や顔面等の洗浄施設、入浴設備、被服の洗濯設備の整備充実。

(四) 被害の拡大、増悪等を防止するための措置として、

(1) 作業員に対する健康診断の充実。

(2) 一定の障害罹患が発見された者に対する就業制限、配置転換、診療の機会の付与等。

(五) 作業員自身の被害発生防止等についての注意、自覚等を喚起する措置等として、

(1) 安全衛生教育の徹底。

(2) クロムの有害性につき十分調査して、作業員に対し、その知見、情報を積極的に与えること。

(3) 安全衛生管理体制の強化、確立。

(六) 以上の(一)ないし(五)の措置の実行を支えるものとして、

(1) クロムの人体に対する有害性に関する産業医学上の知見、情報の収集等の調査研究。

(2) 有害物質の発生、飛散・発散・拡散防止のための作業用具、生産機器、工程の機構等の改善に関する技術的、工学的側面からの調査研究。

以上のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。

三 被告会社の結果回避義務違反の存否

1 被告会社がとるべき措置等

(一) これまで認定してきたように、被告会社は、加害原因行為時に結果発生(加害行為成立)の予見、予見可能性があつたにもかかわらず、前記第三章ないし第五章で認定した加害原因行為により、生存原告ら、被害者たる死亡者らに各疾病罹患又は更に死亡という被害を発生させて、違法な加害行為をなしたものであり、加えて、右二で認定したとおり、このような結果発生の防止、回避を可能にする措置等が存したことも明らかである。

このような場合、特段の事情がなければ、被告会社は、当該加害原因行為時においてとり得べきであつた結果回避措置等をとり、右のような違法な結果発生の防止、回避に努めるべきであり、このような措置等をとらなかつたことに起因して発生した結果(加害行為)につき、不法行為における過失責任を負うべきことになると解される。

(二)(1) そこで、被告会社において、右の特段の事情が存するかについて検討するに、まず、前記関係証拠によれば、クロム酸塩等製造事業は我が国の産業の基礎的原料を提供する社会的に有益、有用な産業活動であると認められるが、このことをもつて、直ちに被告会社において実行可能な結果回避措置をとらなくても結果回避義務違反に問われないとすることはできない。

右二2で挙げた各結果回避措置等は、それ自体としてはクロム酸塩製造業を継続することを前提にしても実行可能なものなのであり、このような措置を被告会社が実行し得るにもかかわらず、これを実行せずに前記の各被害を発生させることが法的に容認されるほど、右製造業が法的、社会的に許された危険であつたと認めるに足りる事実関係は、本件全証拠によつても、被告会社の結果回避義務違反が問題となる前記の全期間を通じて、これを見出し得ないのである。前記第五章第二で認定した生存原告らの受けた被害(身体障害)の中には、一部の皮膚障害など比較的軽度のものもあるが、このような被害の発生についても、生存原告らに対する直接の加害者である被告会社の加害行為が、右の意味で許された危険であつたとするに足りるほど軽微なものであることなどを示す証拠はないのである。

(2) また、被告会社が強く主張する「時代的制約」等を十分に考慮しても、前記関係証拠によれば、戦時中あるいは戦後の一時期などにおいて、クロム被暴、吸入による作業員の身体障害発生を全く無視してクロム酸塩等生産を増強することを、被告会社が軍等の外部勢力から強制されたというような事実も全くない(むしろ、前記認定のとおり、右の時期には右生産を一時停止していた。)と認められるのである。

(3) 右(1)、(2)で述べたところ以外にも、前記のような特段の事情を認めるに足りる証拠はない。

(三) したがつて、前記のとおり、本件においては、被告会社が前記一2(二)で説示した期間において、前記二2で挙げた各結果回避措置等をとり得べきであつた(実行可能性の存在)ならば、当時被告会社には当該措置等をとるべき結果回避義務が存したことになる。

2 被告会社の結果回避措置等の実行可能性の判断基準

(一) 被告会社主張の判断基準について

前記一2(二)のとおり、被告会社の結果回避義務違反の存否が問題となるのは、生存原告らとの関係では昭和一三年ころから昭和四八年六月まで、被害者たる死亡者との関係では昭和三〇年から昭和四八年六月までの各期間であるが、右各時期における被告会社の結果回避措置等の実行可能性の存否の検討に当たつては、被告会社が指摘する(第二編第六章第一節第一の一5等)ように、当該時期における我が国の科学技術、工業技術、医学研究等の進歩水準等の状況を考慮した上で判断することは当然である。

しかるところ、このことは、被告会社が強調する「右のような時代的制約を無視して、現在の我が国における各種工業技術等の水準の下で実行可能な措置等は、すなわち過去において実行可能であつたと即断してはならない」ということを意味すると同時に、戦前や戦後のいわゆる高度成長期より前の時期にあつては我が国の工業技術等の水準がゼロに等しいほど低く、個別の生産企業において作業環境保全措置をとることなど一切不可能であつたと決めつけてはならないことをも意味する。

特に、被告会社のいう「遅れた時代」にあつて、一方ではかなり高度の生産技術、工程管理手法に依拠して、これを駆使して工場的生産活動を行つてきた企業において、他方では、右の「時代的制約」を根拠に短絡的に、作業環境保全措置に限つては、それが既存の技術の利用の範囲にとどまるようなものであつても実行不可能であつたとすることは正当とはいい難いのである。

また、結果回避義務違反の成立の要件となるのは、いうまでもなく法的評価を踏まえた実行「可能性」の存在なのであつて、現実に被告会社が過去の一定時期において一定の措置等をとらなかつたということと、当時全般的に我が国の工業技術等の水準が低かつたこととを安易に直結させて、その実行「可能性」もなかつたと即断することもできないのである。

(二) 判断に当たつて考慮すべき事項等

(1) 被告会社の結果回避措置等の実行可能性の存否の判断に当たつては、右(一)で述べた事柄や前記第三の一3(三)(2)で指摘したように、一般に被告会社を含め化学工業を営む企業は、その工程から発生する有害物質による作業員の職業性疾患発生防止に関し、高い注意義務を負うと解されることに加えて、次のような事項等について考慮すべきであると解される。

(2) すなわち、まず、前記二2で挙げた結果回避措置等の中には、生産機器等の整備改善、工程の機構・配置状況等の改善、環境保全設備等の設置など、クロム酸塩等の工場的生産における工学的・技術的側面における措置等(作業環境改善措置)に属するものが多く含まれているところ、前記第二章、第三章の各認定事実及び前記関係証拠によれば、被告会社の右の側面における結果回避措置等の実行可能性の存否の判断に当たつて考慮すべき事柄として、次のようなものが認められる。

イ 被告会社は、栗山工場でクロム酸塩等製造を開始した昭和一二年六月当時には、既に化学工業たる右製造事業のほか金属工業に属するフエロアロイ製造事業を営んでおり、以後これらの事業を継続してきたが、このような事業の開始、継続に当たつては、各工程における化学反応、物理的作用等の原理に関する多くの知識はもとより、工場的生産に関する工学的、技術的知識・情報を十分に取得、蓄積しなければならず、現に被告会社はこれらの知識情報を古くから(当該時点を基準として)十分に取得・蓄積してきた(前記第三の一3(三)(1))。

ロ 無機化学工業、金属工業は、多くの化学的物理的知識、生産技術を集約し、かつ、多種多様な装置を管理操作して行われる産業分野であり、戦前はもとより戦後においても長く、生産技術、工程管理等の面で我が国の工業の中ではむしろ相対的には先進的部分に属するものであつた。

クロム酸塩等製造業に限つてみても、多くの化学反応、物理的作用を工場的規模で展開し、例えば、各種原料の組成比の調整、キルン内での熱的平衡状態の維持、不純物を多く含むクリーンカーからのクロム酸ソーダの抽出、その重クロム酸塩への転換、反応時の化学的平衡状態の維持、温度と溶解度との微妙な相互関係を利用して析出手法、各種精密装置を用いた反応等々、少なくとも、機械工学的、応用化学的側面に関してはかなり高度の技術、生産管理・工程管理手法が求められ、これに依拠してなされる生産事業であつた。

ハ 栗山工場にあつても、古くから、右の工程管理等の一環として、必然的に各工程における各化学的物理的作用について、各物質の収量比やフローにおける量的変化が綿密に把握され、クロム含有物質に限らず各工程内での原料、添加物、製品、中間生成物等の取扱物質のハンドリングロスなども詳細に計算されていた(前記第三章第三の一)。

また、生産増強、効率的生産の推進という観点からの工程や生産機器の改善は、機器・工程の改善の側面における作業環境改善と技術的に同一レベル、同一種類のものであることも多かつた。

したがつて、被告会社が機器・工程の改善の側面における作業環境改善を図ろうとすれば、多くの場合、生産技術の側面で得た右の各種資料・データを利用し、既存の生産技術、工程管理手法に依拠して、これらを応用、発展させる方法でなし得た状況にあつた。

ニ 被告会社は、生産機器・工程の改変による同工場のクロム酸塩等製造事業の生産増強、効率的生産の推進については、戦前から強い意欲を持つており、現に、戦中及び戦後の一時期を除いて、古い時期においても、クリンカーの移送方法、浸出方法(オートクレーブ方式からの改善)、加酸方法等の改善を行い、更に、昭和三〇年代、特にその半ば以降には、右の観点から、数多くの生産機器・方式、工程機構の改変等を行つている(前記第三章第二)。

また、被告会社は、右当時これらのほか、酸化クロム工程での各種製法の採用、塩基性硫酸クロム工程の新設なども行つたが、これらを支える技術陣を擁していたのである。

ホ 被告会社は、昭和三〇年代、特にその半ば以降には、キルンやドライヤー等からの屋外排気を浄化して工場外での公害を防止するための措置として、当時では最新鋭の機能を有するスクラバー等の機器を順次導入、設置してきた(前記第三章第二)。

ヘ 被告会社は、昭和三〇年代初めには、同工場の前記製造工程における粉じん等大量発生について、岩見沢労基署等関係機関からも指摘、指導を受けるようになり、昭和三五年ころには、同工場は、道労基局や同労基署から衛生管理特別指導事業場に指定され、具体的な粉じん対策、環境保全対策を進めることを強く求められていた。

また、昭和三六年当時、被告会社は、配合工程における粉じんと燃料用微粉炭粉じんの大量発生を自認した上、配合工程の機械化及び炭じん排出用フアンの設置を検討する旨同労基署長に回答するなどしている(前記第三章第四の三)。

ト 被告会社は、昭和三〇年代末ころには新たなクロム酸塩等製造工場建設計画を具体化させ、昭和四〇年代初めには徳島県阿南市の臨海工業立地に最新の生産設備を備えたクロム酸塩等、フエロアロイ、金属ケイ素の一貫製造工場を建設することを決め、昭和四四年五月からこの徳島工場での生産を開始した。

そうして、被告会社は、右工場では、作業環境保全の面でも相当程度徹底した措置をとり、又はとろうとし、クロム酸塩等製造工程の密閉化、準密閉化、充実した局所排気装置や作業環境監視機器等の設置についてもかなりの程度企画、実行した(前記第三章第四の四)。

チ 産業衛生、職業病に関する戦前の我が国の国内文献においては、早い時期から、保健、医療上の措置のみならず、工学的、技術的側面からのクロムによる障害発生予防措置等が紹介されていた。

既に大正八年刊の前記「金属中毒ノ予防注意書」に、工場側のとるべき予防策として生産機器の自動化、排気装置の整備、粉じん等発生部分の隔離が実行可能なものとして挙げられ、昭和二年刊の前記大西清治の報告、昭和一二年刊の前記黒田靜の報告・石原勝の報告、昭和一三年刊の前記鯉沼茆吾の解説書・前記飯沼壽雄の報告等にも、右予防策として、工程の機械化、自動化や局所排気装置の設置を含め、排気、換気装置の整備充実、機器・工程の適正配置等の必要性などが具体的に指摘されている。

とりわけ、右石原の報告は、ミスト等の発生部分の隔離、強力かつ有効な局所排気装置の設置等によつて作業員の皮膚や鼻の障害発生を減少させた実務例を、機器の図面等まで示して詳しく紹介するものであつた。

また、戦後の国内文献においても、もとより右の側面からの予防策が記述されており、より詳細かつ具体的に各種環境保全措置が紹介されるようになつた。

これらの国内文献については、前記のとおり、被告会社はこれを閲読・参照し、右の各記述内容を知り得る状況にあつたものである。

なお、被告会社が必ず閲読したと認められる前記角田報告には、予防対策として、まず第一に換気装置や局所防じん装置の設置による発じん防止が挙げられている。

リ 米国では、戦後、前記各疫学的研究結果が明らかにされた後、特に一九五五年以降、クロム酸塩等製造企業は、徹底した工程、生産器機等の改善を実施し、右工程におけるクロム被暴、吸入による肺がん発生等を相当程度減少させることに成功した。

米国企業に対し、右の具体的な改善策の提言を行つた各疫学的研究報告、特に米国公衆衛生局の報告内容を被告会社が知り得たことは前記のとおりであり、更に、米国における改善措置実施の状況も、昭和三七年ころから国内文献で紹介されるようになつた。

とりわけ、別添五一の11の土屋健三郎の訳書「職業がん」では詳しい紹介がなされており、この文献が、広く安全衛生の実務家向けのものであつて、かつ、我が国の産業衛生、職業病の研究に大きな影響を与えたことを考慮すると、当時被告会社において十分その内容を知り得たものである。

(3) 次に、保護具、予防薬品等の供給・整備、健康診断の実施、安全衛生教育等、保健・衛生・医療等の側面における結果回避措置等について、考慮すべき事項として、前記第四章の認定事実及び前記関係証拠によれば次のとおり認められる。

イ マスク、手袋等の安全保護具、ワセリン、各種軟こう等の予防薬品の供給・整備、鼻や顔面等の洗浄施設・入浴設備・被服の洗濯設備等の整備充実、作業員に対する保護具着用指導、安全衛生教育の実施などが、クロム酸塩等製造作業者のクロム被暴、吸入による各種障害発生防止策として重要不可欠なものであることは、前記「金属中毒ノ予防注意書」でも詳細に記述されるなど、戦前から関係文献で例外なく指摘されていたところであり、この点は、クロム取扱産業においていわば常識化していたことである。加えて、これらの措置等は、その実行に多額の費用を要するというものでもなかつた。

また、戦後は、じん肺対策が進められたこともあつて、粉じん等吸入防止のためのマスク等の性能改善も進み、防護服等も性能のよいものが開発されてきた。

ロ 同様に、作業員に対する健康診断、疾病罹患の早期発見・治療の重要性も、戦前から強く指摘されていたところである。

クロムによるがん以外の障害である前記認定障害の診断、早期発見・予防は、戦後はもとより戦前の我が国の医学水準の下でも特に困難なものとはされておらず、産業衛生や臨床の専門家等の高度の調査研究等を経なければなし得ないという状況にはなかつた。

肺がんの検診についても、昭和三〇年以降の時期においては、その診断法・診断技術もかなり向上してきており、昭和四〇年代には更に高度の診断技術が定着した。

また、昭和三〇年代には、特殊健康診断の実施(クロム酸塩等製造作業者もその対象になつていた。)など労働安全衛生行政においても、有害物質等取扱作業者の職業性疾患罹患防止のため、健康診断を充実させることが重視されるようになつた。

(4) 更に、前記第三章第三の認定事実及び前記各証拠によれば、次のとおり認められる。

イ 精度にやや劣る点はあつたものの、空気中クロム量の定量分析法自体は戦前から明らかにされており、もともと取り立てて複雑な装置等を用いなくてもクロムの定量分析を行うことは可能であつた。

戦後は、前記「労働環境測定指針」等の中でも、事業場内での測定の諸制約を考慮した比較的簡便な分析方法も紹介されるなど、早い時期から高度の装置、技術なくして恒常的な空気中クロム濃度の測定が十分に可能な状態になつていた。

ロ 戦前の労働者扶助法規(労働者災害扶助法等)所定の業務上疾病認定の運用に関しても、クロムが有害物質であるとの前提に立つた行政解釈が確立されており、戦後は、前記第四章第四の一で認定したとおり、労基法施行当初から業務上災害認定との関係で、クロムを有害物質であるとする明文の規定が置かれた(同法施行規則旧三五条一七号)。

また、戦後は、労基法施行当初から、労働安全衛生法規の上でも、労働法施行規則一八条等により、クロム取扱作業が有害物質取扱作業であることが示されていた。

ハ 事業場等における空気中クロム量の規制値に関しては、前期第三章第三の三で認定説示したとおりであり、戦後早い時期から、行政通達上の規制値〇・五mg/m3に代つて、実際には〇・一mg/m3が空気中クロム濃度のいわゆる恕限量として通用していた。

また、一九五五年ころ以降には、米国において、発がん物質としてのクロムの恕限量として右数値が採用されており、このことは、我が国の労働安全衛生の実務の中でも十分知られていた。

(5) 最後に、クロムの人体に対する有害性に関する調査研究については、前記第三で認定したとおり、被告会社がこれに関する医学上の知見、情報を収集することは、可能な状況にあつた。

なお、前記関係証拠によれば、遅くとも昭和四〇年代半ばにおいては、前記第三の四4(二)で指摘したようなクロムによる肺がん発症の症例研究、疫学調査等をなすについての社会的、医学的前提条件は我が国においても十分整い、被告会社が、専門家等に対して問題提起を行いイニシアテイブをとることもまた、期待できる状況になつたと認められる。

3 被告会社の結果回避義務違反

そこで、前記第三章ないし第五章で認定説示したところに右2で認定説示した各事項を併せ総合考慮することによつて、前記各期間において被告会社が前記二2の結果回避措置等のうちとり得べきものを実行していたのかについて検討判断する。

(一) 実行可能性

前記第三章ないし第五章の各認定事実、前記2で認定説示した事項及び前記関係証拠を総合すると、次のとおり認められる。

(1) 昭和一三年ころから昭和二〇年代まで(生存原告らの認定障害発生回避に関するもの)

右当時、栗山工場のクロム酸塩等製造工程で稼動していたのは、焼成、精製液、重クロム酸カリ(昭和一六年四月ころから)、無水クロム酸(昭和二七年五月ころから)の四工程であるところ、右当時、被告会社が右製造工程に関し、前記二2(一)(1)・(2)・(5)のうち密閉化・自動化の点、(10)のうちかなりの部分・(11)のうちかなりの部分、(三)(1)の各措置等をとることは、いずれも実行不可能であつた。

しかし、右当時でも、同(一)(3)・(4)・(7)ないし(9)・(12)・(15)、(二)(1)・(3)・(4)、(三)(3)・(4)・(6)、(四)(1)、(五)(3)の各措置等についてはいずれもかなりの部分が実行可能であり、同(一)(5)のうちカバー等の取付けの点、・(6)・(13)・(14)、(二)(2)、(三)(2)・(5)・(7)ないし(10)、(四)(2)、(五)(1)・(2)、(六)(1)・(2)、の各措置等は実行可能であつた。

(2) 昭和三〇年代(生存原告らの認定障害、被害者たる死亡者の肺がん各発生回避に関するもの)

この時期には、前記四工程に加え酸化クロム工程(昭和三三年一二月ころ)も稼動開始した(なお、塩基性硫酸クロム工程も昭和三九年五月ころから稼動)ところ、前記二2(一)(2)・(5)のうち密閉化・自動化の点の各措置等については、昭和三〇年代前半にはいずれもかなりの部分が被告会社において実行可能になり、右(一)(1)の措置等についても、昭和三〇年代後半にはかなりの部分が実行可能になつた。

同(一)(10)・(11)についても、昭和三〇年代前半にはかなりの部分が実行可能になつた。

また、従前かなりの部分まで実行可能であつた同(一)(3)・(4)・(7)ないし(9)・(12)・(15)、(二)(1)・(3)・(4)、(三)(3)・(4)・(6)、(四)(1)、(五)(3)の各措置等も、昭和三〇年代半ばにはいずれもほぼすべての面で実行可能になつた。

(3) 昭和四〇年代(昭和四八年六月まで、前同)

昭和四〇年代になると、前記二2(一)(1)ないし(15)、(二)(1)ないし(4)、(三)(1)ないし(10)、(四)(1)・(2)、(五)(1)ないし(3)、(六)(1)・(2)の各措置等のいずれについても被告会社がとり得べき状況になつた。

右(一)(1)についても、少なくとも準密閉系のシステムを採用することは十分可能になつた。

(二) 被告会社の結果回避措置等実行状況

(1) 前記二2で挙げた結果回避措置等のうち、前記製造工程における生産機器の整備改善、工程の機構・配置状況等の改善、環境保全整備等の設置、安全保護具・予防薬・各種洗浄施設の供給・整備などに係るもの(作業環境改善措置、前記二2(一)(1)ないし(15)、(二)(1)ないし(4)、(三)(1)ないし(6)、(8)ないし(10))の実行状況は、前記第三章第二ないし第四で認定説示したところである。

イ 右認定説示が示すとおり、戦前昭和一三年ころから昭和二〇年代までの間にあつては、右の各点に係る措置等のうち、前記(一)(1)で認定した当時被告会社がとり得べきであつた措置等の中で、被告会社の従業員たる作業員へのガーゼマスク、手袋等の支給、貸与や、極めて不完全な屋根上設置の自然通風式ベンチレーター設置が行われていたことなどを除いて、右結果回避措置等はほとんど実行されていなかつたことは明らかである。

ロ(イ) 次に、前記第三章第二ないし第四で認定したとおり、昭和三〇年代前半までは、従前の状況とあまり変わるところがなかつたところ、昭和三〇年代後半以降昭和四二年ころまでにかけて、前記の各環境改善措置等として、鉱石等粉砕・乾燥・配合工程、クリンカー移送方法、浸出方法の各改善といつた大規模な措置等のほか、各種タンクへの上蓋設置、カバーやフードの設置、連続遠心分離機の採用(一か所のみ、昭和四三年八月以降)、製品貯蔵容器への排気管結合などの個々の生産機器等の改善、一か所の間仕切設置、屋根上電動換気扇の設置、更に予防薬の備え置き、洗浄施設の設置などがなされた。

(ロ) しかしながら、まず、前記第三章第二ないし第四で認定説示したとおり、右の各改善措置は、栗山工場のクロム酸塩等製造工程全体の作業環境改善という点から見て、不徹底、不完全なものであり、前記(一)(2)・(3)で認定した被告会社が昭和三〇年代、昭和四〇年代において実行可能であつた措置等の一部分を実行したものにすぎず、その余の実行可能な措置等がとられなかつたことは明らかである。前記第三章第二ないし第四で認定した昭和三〇年代、昭和四〇年代の右製造工程の状態は、正に被告会社のこのような措置等の不実行の状況を示すものである。

(ハ) 前記(イ)の各措置等の中で配合工程の改善措置は、被告会社が行つた改善措置の中で、作業環境改善の側面で最も評価すべきものではあるが、他の工程等との総合的改善でないこと、必ずしも機器の原理的仕様どおりの作動状態が維持されていなかつたことなどを度外視しても、関係監督機関からの強い行政指導に応じながらも、生産増強・工程合理化に直接つながるものを中心に実行した感が強く、この点と直接関係しない部分の改善、例えば、配合ミルの改善、フアーストパルプ移送系の密閉化などは取り残され、それ自体としても、被告会社がなし得るところを必ずしも十分になしたものではないといわざるを得ないのである。

クリーンカー移送方法、浸出方法の各改善、特に後者は、生産合理化の面に主眼があり、直接、焙焼・浸出工程の作業環境改善の面を重視して被告会社がなし得るところを十分に実行した措置ではない。

その余の個々の機器の改善措置等は、前記認定の被告会社の当時実行可能な諸措置等の質・量と対比すると、全体から見れば少数の機器に、多くの場合不十分な改善を行つたにすぎないといわざるを得ない。

(ニ) 前記のとおり、被告会社は、キルンやドライヤーからの屋外への排気の浄化装置(工場外の公害防止機器)の設置については鋭意実行してきたが、工場内の職場の全体排気・局所排気装置、特に後者の整備には消極的であつたことも前記第三章第二で詳しく認定したとおりである。

(ホ) 反面、前記のとおり、被告会社は、ガーゼマスク、手袋等の安全保護具については、被告会社の従業員の通常の作業に係るものに関する限りその供給、整備体制を整えてきた。

しかし、まず、このような安全保護具を構内作業の下請作業員にまで供給、整備する体制は整えられず、また、煙道のすすの排出、キルンの土手落とし、跳出し、芒硝・製品包装等の極めて大量のクロム粉じん等被暴、吸入のある作業のための保護具、防護服等につき高性能のものを供給、整備するよう努めた形跡もないのである。

(ヘ) また、前記第三章第四の四の認定説示したとおり、被告会社は、昭和四〇年代、新鋭の徳島工場でその設置を企画・実行した高度の各種作業環境改善措置等を、部分的にも栗山工場においても実行しようとした形跡はない。

(2) 次に、前記二2(一)ないし(六)の各結果回避措置等のうち、前記(1)で挙げた措置等以外のものの実行状況については、前記第三章ないし第五章の各認定事実及び前記関係証拠によれば次のとおり認められる。

イ まず、前記二2(四)(1)、(2)の措置等に関して、被告会社は、その従業員たる作業員に対して、昭和二〇年代には労基法五二条所定の健康診断を実施し、昭和三一年以降行政指導に基づき特殊健康診断(前記昭和三一年五月一八日基発三〇八号労働省労基局長通達等によるもの)を、昭和三五年以降じん肺健康診断をそれぞれ実施してきたが、特にクロムによる障害の早期発見を目的とした独自の健康診断は行つたことはなかつた。

また、障害罹患者に対する就業制限、配置転換等の措置も、少なくとも昭和三〇年代後半までは積極的に行われた形跡はない。

ロ 次に、前記二2(五)(3)の措置等に関して、栗山工場においては、被告会社が第三編第一章第四の一で主張するような組織・機構を持つた委員会等が設置されていたが、被告会社自ら主張するとおり、昭和二九年より前には形式的にも安全衛生管理体制は整備されておらず、昭和二九年の栗山工場安全衛生委員会設置、昭和三六年の粉じん予防対策委員会設置を経て、組織機構としてかなり整つた内容実質を持つた安全衛生管理機構が設けられていたのは、同工場廃止前の六、七年間の期間でしかない。

また、右粉じん予防対策委員会が、所轄労基署等の強い指導の下に設置されたこと、前記製造工程の作業環境の改善に大きく寄与することはなかつたことは前記第三章第四の三で詳しく認定説示したとおりであるが、昭和四〇年代に設けられた各種機構も、安全衛生に関する整つた規程等を有してはいたものの、現実の作業環境改善にはほとんど寄与していなかつた。

ハ 更に、同(三)(7)、(五)(1)・(2)の各措置等に関しては、同工場の右製造工程の作業現場では、少なくとも昭和四〇年代初めまでは安全保護具の着用等につき、各種規程で着用を勧奨してはいても、継続的、系統的に現実に強い着用指導等が行われた形跡はなく、多くの場合右着用の不徹底は、現実には見過ごされていた。

また、安全衛生教育も、かつてはほとんど行われず、昭和三〇年代半ばころには行われるようになつたと窺れるが、これもおざなりで極めて形式的なものに終始しており、ましてや、クロムの有害性等につき作業員に対し知見、情報を積極的に与えるというようなことは行われていなかつた。

ニ 最後に、同(六)(1)、(2)の措置等に関して、被告会社は、戦前から一貫してクロムの人体に対する有害性に関する産業医学上の知見、情報の収集等の調査研究には極めて消極的であり、栗山工場自体を調査対象とした前記角田報告、館報告が紹介記述する各種の知見等についてさえ、積極的に調査研究する姿勢を示すことが少なかつた。

また、被告会社は、各種作業用具、生産機器等の改善に関する技術的研究等については、相当程度力を注いでいたが、栗山工場の作業環境改善の面で研究成果を生かしたことは、配合工程等の改善のほか例は多くない(徳島工場の工程・機器に関してはその成果を生かしたものが多いと窺れる。)。

(三) 要約

以上のとおり、被告会社が、前記の各期間において、生存原告ら及び被害者たる死亡者に対する加害行為につき、具体的な結果回避措置等をとるべきであり、かつ、これをとり得べきであつた(結果回避義務の存在)にもかかわらず、右措置等をとらなかつたことは明らかであり、本件においては、被告会社には、右加害行為に関し結果回避義務違反が存したことになる。

四 結果回避義務違反と加害行為成立(結果発生)との因果関係

1 以上認定してきたところによれば、被告会社の右三の結果回避義務違反と、前記第三章ないし第五章で認定したところの、被告会社の加害原因行為に起因して生存原告らの認定障害罹患、被害者たる死亡者らの肺がん罹患・死亡という被害が発生したという加害行為の成立(結果発生)との間には因果関係が存することは明らかである。

2(一) ところで、被告会社は、右生存原告ら、被害者たる死亡者らが作業中マスクを着用していれば、右各被害の発生は回避でき、専らマスク不着用が右被害発生の原因であるかの如き主張をしている(本件では、この点は、過失相殺に係るものとしては主張されていない。)。

しかし、そもそも、個々の被害者がマスク着用を怠つていたという事実が認められたとしても、それだけで右の因果関係が遮断されるわけではないと解されるし、加えて、本件全証拠によつても、右生存原告ら、右被害者たる死亡者が作業従事中にマスク着用を怠つていたという事実を明らかにするものはない。

(二) また、被告会社は、前記二2(一)(1)、(2)のような根源的措置のみがクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入による身体障害発生の回避措置となり得、その余のものは、「仮に被告会社が実行したとしても被害発生防止に寄与しないもの」であるから、そのような措置等をとらなかつたことは結果発生につながらない旨の主張をもする如くである。

しかし、結果回避措置等の意義については前記二1で説示したとおりであり、更に、右説示したような意味で結果回避措置等になると考えられる、前記二2(一)ないし(六)の各措置等のうち、右三で被告会社が実行しなかつたとされるものが、その実行があつても現実には結果回避にはつながらなかつたことを、個別的、具体的に示す証拠もなく、この点からも前記因果関係は遮断されない。

第五まとめ

以上認定したところによれば、被告会社は、栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入による各生存原告の別添四九記載の各身体障害罹患及び死亡者中村、同櫻庭、同中井、同佐藤、同今西、同池田、同工藤の肺がん罹患・死亡について不法行為における過失責任を負うことになる。

第二節  被告国の国家賠償責任〔請求原因第六章第二節〕

第一国家公務員の特定及びその加害行為の態様、要件等

〔請求原因第六章第二節第二の一・二、第二編第六章第二節第二の一・二等〕

一 国家賠償法に基づく請求

原告らは、本件において、栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入の結果、各生存原告、各死亡者が被つた被害について、被告国に対しても損害賠償請求を行つている。

右の請求は、後記のとおり、本件各公務員が労働基準法(昭和二二年四月七日法律第四九号。多くの規定は同年九月一日施行。本件で問題となる旧四二ないし旧五五条を含めその余は同年一一月一日施行。以下、従前どおり「労基法」又は単に「法」ともいう。)又は労働安全衛生法(昭和四七年六月八日法律第五七号。多くの規定は同年一〇月一日施行。以下、従前どおり「労安法」ともいう。)に定められた行政権限を行使しなかつたことをもつて国家公務員の不法行為に当たるとして、国家賠償法(昭和二二年一〇月二七日法律第一二五号。同日施行。以下「国賠法」ともいう。)一条一項に基づき被告国の賠償責任を主張するものである。

ところで、原告らの準備書面等の一部には、「昭和一二年六月の右製造工程の操業開始以降、一貫して被告国の労働安全衛生法規が不備であり、かつ、被告会社に対する具体的行政措置等もとられなかつた。」との趣旨の記述が見られる。しかし、原告らは、労基法施行前の関係国家公務員の行政権限の内容及びその不行使の状況や、国賠法施行前の当該公務員の不法行為に関し被告国が賠償責任を負う根拠(同法附則六項参照)について、何ら具体的な事柄を主張立証しておらず、結局右のような記述も、「本件各公務員の権限不行使の態様の不当性」を強調するものにすぎず、労基法、国賠法双方の施行時より前の関係公務員の不法行為に基づく被告国の賠償責任を主張しているものではないと解される。

したがつて、本件では、以下、前記のとおり事実摘示した本件各公務員の労基法、労安法に基づく行政権限等不行使に係る不法行為に関する、国賠法に基づく被告国の損害賠償責任についての原告らの主張の当否につき検討判断することにする。

二 国家公務員の特定及びその加害行為の態様、要件

1 国家公務員の特定

原告らは、右一の国家賠償請求に係る国家公務員として、労基法施行時から栗山工場のクロム酸塩等製造廃止時(昭和四八年六月)までの間に在職した労働大臣、労働省労働基準局長(以下、従前どおり「労働省労基局長」ともいう。)、北海道労働基準局長(以下、従前どおり「道労基局長」ともいう。)、栗山工場所在地を管轄する岩見沢労働基準監督署長(以下、従前どおり「岩見沢労基署長」ともいう。)、同署所属の労働基準監督官(以下、従前どおり「監督官」ともいう。)の五者(本件各公務員。以下、従前どおり前二者を「労働大臣ら」、後三者を「所轄監督官等」ともいう。)を挙げ、右本件各公務員の各生存原告、各死亡者に対する不法行為が、国賠法一条一項所定の公務員の不法行為に当たる旨主張する。

なお、原告らは、本件各公務員の不法行為の態様としては、過失によるもののみを主張し、故意行為の主張はしていない。

(右の「労基法施行時」というのは、前記一の説示に照らせば、厳密には労基法、国賠法の双方が施行された時を指すが、前記のとおり本件で問題となる労基法の規定のうち一部は国賠法施行前に、一部は同法施行直後にそれぞれ施行されているので、以下、「労基法施行時」とは、労基法の全規定と国賠法とが施行になつた昭和二二年一一月一日を指すことにする。)

2 本件各公務員の加害行為の態様、要件

(一) 原告ら主張の加害行為の態様

右不法行為の要件たる本件各公務員の生存原告ら、死亡者らに対する加害原因行為として原告らが主張するところは、本件各公務員が直接的に生存原告ら、死亡者らに対し権利侵害行為を行つたとするものではなく、被告会社の右の者に対する加害行為、すなわち各生存原告、各死亡者が栗山工場の劣悪な作業環境下でクロム酸塩等製造作業に従事し、その際クロムを含有する粉じん、ミスト等に被暴し、これを吸入した結果、原告ら主張のような各種身体障害に罹患し、更に各死亡者は死亡するに至つた、という事態が惹起されることを防止すべき行政権限等を行使しなかつたという点にある。

原告らは、このように、本件各公務員の不作為、それも他人の加害行為を防止する行為をしないという不作為をもつて、生存原告ら、死亡者らに対する加害原因行為であるとし、この不作為の結果、被告会社の加害行為が惹起され、右の者らに右各被害が発生したことが、ひいては本件各公務員の右加害原因行為に起因する被害の発生に当たり、本件各公務員の右の者らに対する「権利侵害」たる加害行為が存したことになる旨主張するものであり、この点に本件国家賠償請求の大きな特徴があるのである。

(二) 加害行為成立の要件

右(一)の点を踏まえると、本件各公務員の右加害行為が存したとするための要件は次のとおりであると解される。

(1) 加害原因行為

〈1〉 被告会社の生存原告ら、死亡者らに対する加害原因行為及びこれに起因して発生した被害の存在、すなわち右の者らに対する被告会社の加害行為の存在。

〈2〉 本件各公務員が、右加害行為の成立(結果発生)を防止・回避する(特に加害原因行為を防止する)ことを可能にする行政上の措置をとり、権限を行使する権能を有していたこと(以下、この措置と権限とを合わせて「行政権限等」のように、措置をとり、権限を行使することを合わせて「行政権限等の行使」のようにもいう。)。

〈3〉 本件各公務員が原告ら主張のように右権限等を行使するについて特段の法的制約等がなかつたこと(権限等行使の法的許容性の存在)。

〈4〉 本件各公務員が右権限等を行使しなかつたこと。

〈5〉 右権限等不行使の時点において、本件各公務員が右権限等を行使すべき作為義務が存したこと(具体的には作為義務の存在を基礎づける事実関係の存在)。

(2) 個別的事実的因果関係の存在、被害の発生

〈6〉 本件各公務員の右加害原因行為に起因して、〈7〉各生存原告及び各死亡者に被害が発生したこと。

(3) 右〈2〉のうち「被告会社の加害行為の防止・回避を可能にする」との点が要件となるのは、他人の加害行為を防止しなかつたことが不法行為になるとするためには、まず、右結果発生を防止できるような作為行為があり得たことが大前提となり、このような作為をしないことが一応外形的には加害原因行為となつた上、次いで不作為者にその作為義務が存したことにより、これが違法な加害原因行為と評価されることが必要であるからである。

したがつて、右の被告会社の加害行為を防止・回避する可能性のある権限等とは、当該権限等の行使によつて被告会社の加害行為を確実に完全に防止できたというものに限らず、右加害行為を防止・回避することに相当程度寄与するものであればよい。

ただし、このような権限等行使の作為義務に関して、別個の観点から、より確実な右加害行為の防止・回避可能性の存在が要求される場合があることは別論である。

また、当該権限等の行使(作為)が法的に許容されるものであつてはじめて作為義務の存否を論ずることができるのであるから、当然に右〈2〉のうち「本件各公務員が権限等行使の権能を有していた」との点及び右〈3〉の要件の充足が必要になるのである。

最後に、原告らは本件各公務員の不作為による不法行為を主張しているのであるから、いうまでもなく、右〈5〉の要件が充足されなければ、本件各公務員の権限等不行使がそれ自体として違法な加害行為を構成するとは評価されないのであり、〈5〉の点は本件各公務員の加害原因行為成立の不可欠の要件である。

(三) なお、原告らは、右加害原因行為の時期に関し、本件各公務員の前記(一)のような不作為による不法行為は、前記昭和二二年一一月から昭和四八年六月までの間継続した旨、すなわち、右(二)(1)の〈1〉ないし〈5〉の各要件は右期間中継続して存在していた旨主張している。

三 検討順序、認定に供した証拠

以下、右二2(二)の各要件の存否を順次検討して、本件各公務員の各生存原告、各死亡者に対する加害行為の存否につき認定説示することにする。

なお、以下の事実認定に当たつては、個々の証拠を摘示した上での認定を行うほか、多くの場面で次の各証拠を総合考慮した認定を行うので、あらかじめここに掲記しておき、後の記述ではこれらの証拠を「前記関係証拠」という呼称で引用摘示することにする。

<証拠略>

第二被告会社の加害行為

一 生存原告ら

前記第三章、第四章の認定事実を前提にして前記第五章第二で認定説示したとおり、本件においては、被告国との関係でも、被告会社の全生存原告に対する加害行為が立証され、加害行為が一切立証されていない生存原告はいないが、原告ら主張の胃腸障害、肝臓障害、腎臓障害の各被害発生については被告会社の加害行為の存在は立証されておらず、別添四九記載の生存原告らの皮膚障害、上気道(鼻)の障害、気管支・気管・肺の障害(認定障害)について右加害行為の存在が立証されたにとどまる。

二 死亡者ら

右同様に前記第五章第三で認定説示したとおり、本件においては、被告国との関係では、死亡者中村、同櫻庭、同中井、同大渕、同佐藤、同今西、同池田、同工藤の肺がん、同小坂の喉頭がん各罹患、死亡についての被告会社の加害行為は立証されているが、同松浦、同山田に対する右加害行為は立証されていない。

三 要約

したがつて、原告ら主張の生存原告らの受けた各種身体障害のうち右胃腸障害・肝臓障害・腎臓障害や、死亡者松浦、同山田の肺がん罹患・死亡については、右のとおり被告会社の加害行為の存在が認められず、前記〈1〉の要件を欠くので、この点から、本件各公務員の行政権限等不行使など他の要件の存否を検討するまでもなく、本件各公務員の加害行為が成立しないことは明らかである。

以下、生存原告らの右認定障害罹患、右死亡者中村ら八名の肺がん、死亡者小坂の喉頭がん各罹患・死亡(以下、この九名の死亡者を「被害者たる死亡者」ともいう。)に関して、本件各公務員の行政権限等不行使など、その加害者行為に係る他の要件の存否につき検討判断することにする。

第三労働安全衛生に関する労基法の規定並びに関係国家公務員及びその権限等

〔請求原因第六章第二節第一、第二編第六章第二節第一〕

一 労働安全衛生に関する労基法の規定

(以下の点は、原告らと被告国との間で争いがない。)

1 戦後の労働安全衛生に関する中心的な法律は、昭和四七年までは労基法であり、右以降は労安法である。労安法制定に伴い、労基法の安全衛生に関する規定は削除され、「労働者の安全及び衛生に関しては、労働安全衛生法の定めるところによる。」(労基法四二条)とされている。

2 労基法は、労働安全衛生に関する主要事項の一つとして次の三点を定めていた。

(一) 粉じん等の有害物による危害防止等使用者が安全衛生上講ずべき措置等(旧四二条から旧五四条まで)。

(二) 右の措置の具体的基準は労働大臣が労働省令をもつて定立すること。右省令としては、旧労働安全衛生規則(昭和二二年一〇月三一日労働省令第九号。同年一一月一日施行。以下、従前どおり「旧労安規」ともいう。)などがこれに当たる。

(三) 労基法施行のため設けられた国の直轄機関たる監督組織を通じて、右具体的基準を使用者に遵守させるため、必要時に行政権限等を行使させること(旧五五条、第一一章)。

二 労働安全衛生に関与する国家公務員及びその権限等

(以下のうち、1、2の点は原告らと被告国との間で争いがない。)

1 労基法施行のための監督組織

前記一2(三)の監督組織としては、労働省の内部部局として労働基準局が、地方支分局として各都道府県に都道府県労働基準局が、各都道府県内に労働基準監督署が置かれている(法九七条)。

2 監督機関たる公務員の権限等

右1の監督組織に対応して監督機関が設けられ、その労働安全衛生に関する権限は次のとおりである(法第一一章)。

(一) 労働大臣

労働安全衛生に関する制度の統轄責任者であり、労働省労基局長以下関係公務員を直接間接に指揮監督し、労働安全衛生行政に携わる公務員の配置、予算執行等制度運営の全般的最終的権限を有し、具体的にも、前記一2(二)の労基法旧四五条所定の具体的基準を定める省令の立法権限を有していた。

(二) 労働省労働基準局長

労働大臣の指揮監督を受けて、都道府県労基局長を指揮監督し、労働基準法令の制定改廃、監督官の任免教養、監督方法についての具体的規程の制定・調整等その他労基法の施行に関する事項を掌り、所属の官吏を指揮監督する。

(三) 都道府県労働基準局長

労働省労基局長の指揮監督を受けて、管内の労基署長を指揮監督し、監督方法の調整等その他労基法の施行に関する事項を掌り、所属の官吏を指揮監督する。

(四) 労働基準監督署長

都道府県労基局長の指揮監督を受けて、労基法に基づく臨検、尋問、許可、認定等その他労基法の実施に関する事項を掌り、所属の官吏を指揮監督する。

(五) 労働基準監督官

事業場等の臨検、関係書類の提出請求、使用者等に対する尋問等の権限を有するほか、労基法違反の罪について司法警察員の職務権限を有する。

3 労基法旧五五条及び旧一〇三条所定の権限

(一) 労基法旧五五条

同条は、労働者を就業させる事業の建設物、設備等又は原材料が安全衛生に関し定められた基準に違反する場合においては、行政官庁は、使用者に対してその全部又は一部の使用停止、変更その他必要な事項を命じ、また、同様のことを労働者にも命ずる権限を有する旨定めていた。

(二) 労基法旧一〇三条

同条は、右の基準違反があり、かつ、労働者に切迫した危険がある場合においては、監督官は右旧五五条の行政官庁の権限を即時に行使できる旨定めていた。

(三) 右両権限の意義等

(1) 右法旧五五条の権限の主体は、「行政官庁」と規定されていたが、同条とつながる法旧五四条、旧労安規五六条、法旧一〇三条等の規定の趣旨からすれば、右行政官庁とは労働基準監督署長のことを指すと解される。

また、右権限は、労基法旧四五条等に基づいて労働大臣が命令(省令)で定めた各種安全衛生に関する基準を前提にして、建設物、設備、原材料等の状況が右基準に違反する場合に、その是正のため使用停止・変更等を使用者に命じ、その義務を課するものであり、命令内容の実現のためには使用者の行為を必要とする。

(2) これに対して、法旧一〇三条の権限は、その主体は労働基準監督官であり、急迫の危険がある場合には監督官自ら強制力を用いて、使用者の行為を介することなく危険施設の除去等による使用停止・変更措置を即時強制する権限である。

4 行政上の指導監督

(一) 前記1、2で説示した労基法における監督組織、監督機関の権限や安全衛生に関する労基法及び旧労安規等その付属法令の諸規定に照らせば、監督官、労基署長、都道府県労基局長は、法旧五五条、旧一〇三条所定の使用停止・変更命令等の強制的権限の発動のほかに、広く安全衛生に関し、各種改善措置をとらせるなど使用者を指導監督する権限をも有していたことは明らかであり、使用者の安全衛生基準違反についても、この指導監督の方法によつてその是正を求めることができたことはいうまでもない。

また、労働大臣・労働省労基局長が各種規程・通達等を定めるなどして、直接間接に所轄監督官等を指揮して右の行政上の指導監督を行わせる権限を有していたことも明らかである。

(二) 前記関係証拠によれば、この指導監督は、広く労働環境改善方策の一環として行われることが多く、前記基準違反の是正に関しては、違反の程度、是正履行の難易、使用者の意欲、労働実態等を総合的に勘案考慮しながら、有効かつ現実的な是正策をとらせるという点に意義があり、その内容も、助言的な勧告からより強力な各種指導監督へと様々な段階・手法があつたと認められる。

このように、右の行政上の指導監督はその程度・手法等が幅広く多様なものであり、強力な指導監督を行うことと、例えば法旧五五条所定の「その他必要な事項」を命ずることとの間には、必ずしも実質的に截然とした区別が存したわけでもなかつたことが認められる。

結局、労基法の下では、安全衛生に関する基準違反の是正を含め、労働環境改善に係る行政上の措置、権限としては、大枠としてこの多様な指導監督と前記の各強制的権限とがあり、その中で、監督機関において合理的な裁量に基づいて、どのような手法をとるかなどを決するという制度が採用されていたと解される(以下、この行政上の指導監督と前記各強制的権限行使とを合わせて「行政監督」ともいう。)。

5 労働安全衛生法制定後の状況

労安法制定後も前記1ないし4で述べたところに基本的変化はなく、労基法旧五五条、旧一〇三条の規定したところについては、寄宿舎関係の安全衛生基準違反の場合の措置が労基法九六条の三として残つたほかは、労安法九八条、九九条によつて、より精密な規定が設けられた。労安法九八条では、使用停止命令等の権限の主体が都道府県労基局長又は労基署長と明定され、更に、同法九九条では、明文の基準規定違反の場合に限らず、労働災害発生の急迫の危険、緊急の必要がある場合の右両監督機関の使用者・労働者に対する必要措置命令権限をも規定している。

なお、右の点に加えて、前記のとおり、原告ら主張の本件各公務員の権限等不行使による加害原因行為時は労安法施行(昭和四七年一〇月)から間もない昭和四八年六月(栗山工場のクロム酸塩等製造廃止時)までの時期であることに鑑み、以下の認定説示においては、本件各公務員の権限等に関しては、主として、労安法施行前の労基法の規定によるものを前提にして検討することにする。

第四本件各公務員の具体的な行政権限等及びその不行使

〔請求原因第六章第二節第一の三・第三の一、第二編第六章第二節第一の三・第三の一、第四編第二等〕

一 原告らの主張の要旨

1 本件各公務員は、労働安全衛生に関与する国家公務員として前記第三の二で述べた行政権限等を行使する権能を有していたところ、これらのうち、原告らが、被告会社の加害行為の防止、回避を可能にしたもの(前記〈2〉の要件の存在)として具体的に主張するのは以下のとおりである。

すなわち、原告らの主張するところは、次のとおり、大きく、(一)安全衛生に関する具体的基準を定める省令立法(法旧四五条)に係る権限等、(二)法旧五五条・旧一〇三条所定の監督機関の使用停止命令等に係る権限等、(三)その余のもの、に分けられ、それぞれについて本件各公務員の具体的な権限等が挙げられている。

(一) 安全衛生に関する具体的基準を定める省令立法に係る権限等

(1) 労働大臣

労働大臣が、右省令立法権限を行使して、昭和五〇年改正後の特化則(昭和四七年九月三〇日労働省令第三九号)に規定されている程度のクロムによる被害防止措置等を内容とする安全衛生基準を制定するという具体的立法行為をなすこと。

(2) 労働省労基局長

省令立法に関する労働省労基局長の権限を行使して、右の内容を持つた省令制定の企画・立案・推進等をすること。

なお、法一〇〇条一項は、労働省労基局長がこのような省令制定に関し固有の行政権限を有する旨規定している。

(3) 所轄監督官等

労働省労基局長や労働大臣に対し、右内容の省令制定を具申すること。

(二) 法旧五五条、旧一〇三条所定の監督機関の使用停止命令等に関する権限等

(1) 労働大臣、労働省労基局長

所轄監督官等を直接間接に指揮して、栗山工場のクロム酸塩等製造工程における基準違反の設備等や操業状態に対し、右各権限を行使させる措置をとること。

(2) 所轄監督官等

イ 道労基局長 右設備等や操業状態に対して、岩見沢労基署長に法旧五五条の命令権限を、所轄監督官に法旧一〇三条の強制権限をそれぞれ行使させる措置をとること。

ロ 岩見沢労基署長 右設備等や操業状態に対して、自ら法旧五五条の命令権限を行使し、かつ、所轄監督官に法旧一〇三条の強制権限を行使させる措置をとること。

ハ 所轄監督官 右設備等や操業状態に対して、自ら法旧一〇三条の強制権限を行使すること(なお、原告らは、所轄監督官自ら監督官としての地位に基づいて法旧五五条の命令権限行使をなす権能を有していたかのように主張するが、前記第三の二3(三)(1)で説示したところによれば、右の主張は失当である。)。

(三) その余の措置

労働大臣、労働省労基局長において、所轄監督官等が栗山工場に対し適切な監督活動をなし得るよう必要な人員の監督官を任命配置し、監督活動に必要な機械器具類を充実させる措置をとること。

2 次に、原告らは、本件各公務員は右1の各権限を行使し、又は措置をとる権能を有し、加えて、右権限等行使につき特段の法的制約等もなかつたが、いずれの権限も行使されず、措置もとれなかつた旨(前記〈2〉〈3〉〈4〉の各要件の充足)主張する。

3 原告らの主張の要旨は以上のとおりであるが、右で述べたところからも明らかなように、本件において、原告らは前記〈2〉〈3〉〈4〉の各要件に関して、被告会社の加害行為の防止・回避を可能にするような前記第三の二4の行政上の指導監督措置の存在及びその法的許容性(法的制約等の不存在)、本件各公務員らの右指導監督措置の不実行については何ら主張していない。

4 (生存原告小笠原の請求について)ところで、前記第一の一で指摘したところによれば、原告らは、国賠法施行後の本件各公務員の権限等不行使のみを(意味あるものとして)主張していると解されるところ、以上のように、具体的にも、右権限等として、本件各公務員が労基法施行後に行使できる権限等であつて、かつ、右時点以降の被告会社の加害原因行為による被害発生の防止・回避のみを可能にするような権限等の存在及びその不行使に限つて主張しているのであり、右施行前の時点で終了した被告会社の加害原因行為による被害が発生するのを防止・回避し得たような、本件各公務員の権限等の存在及びその不行使については何ら主張していない(立証もしていない。)。

しかるところ、前記第五章第二の一、二で認定したとおり、生存原告小笠原の栗山工場のクロム酸塩等製造工程におけるクロム被暴作業従事期間は既に昭和一八年末で終了しており、したがつて、被告会社の同原告に対する加害行為もその時点で終了していることになる。

そうすると、前記説示に照らせば、同原告については、その被告国に対する国家賠償請求の要件の主張(及び立証も)がなされていないことになり、その余の点を判断するまでもなく、この段階で、同原告の右請求が失当であることは明らかである(したがつて、以下「生存原告ら」や「各生存原告」という場合には原告小笠原を除くその余の生存原告を指すことにする。)。

二 検討

そこで、原告らの右一の各主張の当否を検討する。

1 本件各公務員の具体的権能

前記第三の二2、3で説示したところを前提にすれば、本件各公務員が前記一1のような行政権限を行使し、措置をとる権能を有していたことは、これを肯定することができる。

2 各行政権限等行使と被告会社の加害行為防止・回避可能性

次に、前記第三章、第六章第一節第四の二・三の各認定説示、前記第三の二の説示及び前記関係証拠を総合すると、次のとおり認められる。

(一) 前記一1(一)の安全衛生に関する具体的基準を定める省令立法に係る、(1)労働大臣及び(2)労働省労基局長の各権限並びに同一1(二)の法旧五五条、旧一〇三条所定の監督機関の使用停止命令等に係る、(1)労働大臣・労働省労基局長及び(2)所轄監督官等の各権限等については、それらが行使されると、前記内容の省令立法がなされることによつて、栗山工場の前記製造工程の機構・配置状況の改善、各種生産機器の整備改善、環境保全設備の設置等が促され、また、右製造工程の設備等の使用停止・変更等の命令がなされることによつて、粉じん等が多く発生する工程・機器・設備等の改善等が促されることになり、右各権限等の行使は、いずれも右製造工程の作業環境改善に相当程度寄与するものであつたと認められる。

したがつて、被告会社の前記加害行為を確実に防止・回避し得るものであつたか否かはともかくとして、本件各公務員の右各権限等は、その行使によつて少なくとも右防止・回避に相当程度寄与し、これを可能にするようなものであつた(前記〈2〉の要件の充足)と解される。

(二) しかしながら、前記一1(一)(3)の所轄監督官等の省令制定に関する具申行為については、もともとこれをなさないことが、(前記第一の二2(二)(3)で述べたように)一応外形的には所轄監督官等の生存原告らや被害者たる死亡者に対する加害原因行為を構成するといい得るほどに、個別的具体的に被告会社の前記加害行為の防止・回避と密接に関連しているものではないと認められ、この点から、そもそも、右防止・回避に相当程度寄与する措置であつたと評価する余地のないものであると解される。

確かに、右のような具申行為がなされることが一つのきつかけとなつて、前記内容の省令制定に至るような場面も想定されないわけでもない。

しかし、前記のとおり、右省令立法に関する権限は法律上労働大臣、労働省労基局長に帰属し、いうまでもなく右のような具申行為があつたとしても労働大臣らは法的にはこれに何ら拘束されるものではないのであるから、右のような想定が不可能ではないことをもつて、右具申行為が個別具体的に被告会社の加害行為の防止・回避と密接に関連するものであると解することはできないのである。

(三) また、前記一1(三)の労働大臣らのその余の措置については、このような人的物的施設等の充実が所轄監督官等の監督機関としての一般執務態勢を充実させる重要かつ基本的な要素であり、その状況如何が、労働安全衛生に関する各種行政監督制度の適正・効果的な運用にも影響するところが大きいことは経験則上明らかである。

しかし、問題は、抽象的に右一般執務態勢が充実すれば労働安全衛生行政が遺漏なく執行されるであろうというようなレベルの事柄ではなく、このような制度の全般的運営に係る事項に関する措置が、具体的にどのような形で、どのような関連性をもつて、前記製造工程につき作業環境改善措置がとられ、前記加害行為が防止・回避されることにつながるのかということであり、本件全証拠によつても、右のような意味で、労働大臣らの前記各措置が被告会社の加害行為の防止・回避と個別具体的に結びつき、これを可能にするようなものであつたことを示すものはない。

(四) 要約

以上のとおり、原告ら主張の本件各公務員の行政権限等のうち、被告会社の加害行為の防止・回避を可能にするようなものであり、前記〈2〉の要件を充足していると認められるのは、前記一1(一)(1)・(2)、(二)(1)・(2)の各権限等であり、同一1(一)(3)、(三)の各措置は右〈2〉の要件を充足しているとは認めることができないことになる。

したがつて、以下、本件各公務員の前記一1(一)(1)・(2)、(二)(1)・(2)の各行政権限等(以下、このうち右一2(一)(1)・(2)の省令立法に関する権限を(労働省労基局長の権限を含めて)「省令立法権限」とも、同(二)(1)・(2)の使用停止・変更命令等に関する権限等を「命令権限等」ともいう。)について検討を進めることにする。

3 本件各公務員の行政権限等行使の法的許容性(法的制約等の不存在)

(一) 前記第一の二2(二)(3)のとおり、昭和二二年一一月から昭和四八年六月までの間において、本件各公務員が具体的に前記各権限等を行使することを許さないような特段の法的制約等があつたならば、そもそも当該権限等を行使しないことが生存原告らや被害者たる死亡者らに対する加害原因行為になる余地はないことになる(前記〈3〉の要件の欠缺)。

(二) そこで検討するに、右期間中、労働大臣が労基法旧四五条の委任に基づいて、原告ら主張の前記内容の安全衛生に関する基準を定める省令を立法することについて、特段の法的制約等は存しなかつたことは明らかである。

右省令立法は、いうまでもなく一般の行政行為とは著しく性格を異にする一般的法規範の定立行為であり、その立法権限の行使につき一般の行政行為と同様の意味での要件規定はないのであつて、法の委任に基づき、委任の範囲内で(もとより、更に憲法に適合する範囲内で)、労働大臣が合理的な裁量によつて定めるものである限り、前記内容の省令立法をなすにつき特段の法的制約等は存しなかつたと解される。

(三) これに対して、法旧五五条、旧一〇三条所定の各権限は、いずれも「安全衛生に関し定められた基準」の存在がその行使の要件になつていたところ、被告国は、旧労安規一七二条などに有害物質の発生する施設等の改善に関する規定があつたものの、これらの規定内容は一般的包括的なものであつて、クロム酸塩等製造作業に関する安全衛生の具体的基準にはなり得ず、結局、旧労安規の下では、法令上右具体的基準が欠缺していたことに帰し、そもそも、所轄労基署長等が栗山工場の前記製造工程に関し前記命令権限を行使する要件に欠け、右権限行使は法的に許容されていなかつた旨主張する。

そこで、以下、右の点について考察する。

(1) 確かに、昭和四六年(旧)特定化学物質等障害予防規則(昭和四六年四月二八日労働省令第一一号。これまで述べてきた特化則(昭和四七年九月三〇日同省令第三九号)が新たに制定される前のもの。以下「旧特化則」ともいう。)が制定されるまでは、右「安全衛生に関する基準」としては、法旧四五条に基づき定められた旧労安規一七二条に粉じん等を発散する作業場における措置として「ガス、蒸気又は粉じんを発散し、有害放射線にさらされ、騒音を発し、病原体によつて汚染される等衛生上有害な作業場においては、その原因を除去するため、作業又は施設の改善に努めなければならない。」と、同一七三条に粉じん等を発散する屋内作業場における措置として「ガス、蒸気又は粉じんを発散する屋内作業場においては、場内空気のその含有濃度が有害な程度にならないように、局所における吸引排出又は機械若しくは装置の密閉その他新鮮な空気による換気等適当な措置を講じなければならない。」と、同一七四条に「排気又は排液中に有害物又は病原体を含む場合には洗浄、沈殿、ろ過、収じん、消毒その他の方法によつて処理した後、これを排出しなければならない。」と、それぞれ定められていた以外に、右の「有害」や「含有濃度の有害な程度」、「適当な措置」等につき具体的に定めた法令の規定は存しなかつた。

(2) しかしながら、まず、右の各規定内容は、一般的包括的であることは否めないものの、これに依拠して前記命令権限を行使することを一般的に不当、違法なものであるとするほど行政権限行使の要件規定として極めて不明確かつ漠然としたものではないと解される。

もともと、産業施設等に係る基準のような専門的技術的領域の事項に関しては、法令上ある程度抽象的な基準が設定されることもやむを得ない面があり、例えば、「有害」の概念についても、当時の産業医学や産業衛生上の一般的通念によつて十分具体的に同定し得たものであり、必ずしも、有害性の基準が空気中クロム量等の一定数値をもつて法令上示されていなければ、一般的に前記要件規定の内容としては不十分である、とまではいえないと解される。

(3) 次に、

イ 前記第三章第三の三で認定したように、旧労安規四八条等に関するものではあるが、昭和二三年八月一二日基発一一七八号通牒によつて、クロムについては空気中に〇・五mg/m3以上含有する場所をもつて「有害物の粉じん、蒸気又はガスを発散する場所」とする行政解釈が、昭和三三年五月二六日基発三三八号通牒によつて、クロム酸塩等取扱作業におけるクロムの抑制目標濃度を〇・一mg/m3とする行政解釈がそれぞれ示されていたこと、

ロ 昭和三三年四月一七日基発二三八号通牒「労働環境における有害なガス、蒸気又は粉じんの測定方法について」やこれを更に敷衍解説した「労働環境測定指針」の中で、作業現場でも容易になし得る標準的空気中クロム量測定方法等が明示されていたこと、

ハ 前記旧労安規一七三条の運用に関し、同条所定の「局所における吸引排出」、「機械若しくは装置の密閉」、「新鮮な空気による換気」、「換気等の等」などの意義につき詳しい行政解釈が、昭和二三年一月一六日基発八三号通牒や昭和三三年二月一三日基発九〇号通牒によつて明示されていたこと、

などに照らせば、前記各条項は、その規定内容の包括性、抽象性が実際には行政解釈によつて補われ、相当程度具体化した基準としての通用力も有していたと解される。

したがつて、法令の規定内容自体は一般的包括的であることから、右各条項を根拠にした前記命令権限行使の運用には慎重を期すべき面はあつたものの、そもそも所轄労基署長等において右権限を行使する要件に欠けていた、とまでいうことはできないと解される。

(4) 更に、前記関係証拠及び弁論の全趣旨によれば、旧労安規による安全衛生に関する基準の立法に際しては、労基法等制定により一新された我が国労働法制の下で、できる限り広範囲の産業分野の状況にもれなく対処できるような一般規則を制定することに主眼が置かれ、その後、(実際に対応し得たか否かはともかく)、状況の変化に対応して個々の分野ごとに更に精密な特別規則を制定していくという立法態度がとられてきたと認められ、単に規定内容が一般的包括的であるということをもつて、前記各条項が前記命令権限行使の根拠規定になることを排斥することは、立法者の意思にも反するのではないかと考えられる。

(5) 以上によれば、前記被告国の主張は失当であり、前記期間中、安全衛生基準の欠缺を理由に右命令権限等行使が一般的に法的に許容されないという状況にはなかつたと解される。

(四) 次に、前記期間中、現実に栗山工場の前記製造工程の設備等や操業状態が右(三)で説示した安全衛生基準に違反し、監督機関の前記命令権限行使が許される状態にあつたかについて検討するに、前記第三章の認定事実、右(三)の認定説示、前記関係証拠及び弁論の全趣旨を総合すれば、右製造工程には、監督機関が前記旧労安規の規定等に照らし安全衛生基準に違反しているとして法旧五五条の命令権限を行使しても、これが不当、違法なものとまではいえず、法的には許容されたと解される設備等や操業状態が、昭和三〇年代前半まではかなり多く存在し、それ以降も少なくなかつたといえ、法旧一〇三条の強制権限についても、その行使には相当に慎重な態度が求められたものの、右製造工程についてそれを行使することが法的に全く許容されないというまでの状況ではなかつたと認められる。

また、本件全証拠によつても、以上(三)、(四)の点のほかにも、右期間中、右命令権限行使につき特段の法的制約等があつたことを示すものはない。

(五) 要約

以上のとおり、本件各公務員の前記各権限等行使については、前記〈3〉の要件も充足されていることになる。

4 本件各公務員の行政権限等不行使

前記関係証拠及び弁論の全趣旨によれば、次のとおり認められる。

(一) 労働大臣らの省令立法権限

(1) 労働大臣は、前記昭和二二年一一月から昭和四八年六月までの期間中、昭和四六年四月の旧特化則制定までの間、原告ら主張の「昭和五〇年改正後の特化則に規定されている程度の被害防止措置等を内容とする安全衛生基準」を労働省令として立法しなかつた。

また、労働者労基局長も、旧特化則制定時ころまでは、前記の省令制定に関するその権限を行使しなかつた。

(2) 労働大臣は、昭和四六年四月旧特化則を制定して、クロム化合物を含む有害物質等の規制、これに関する詳細な安全衛生基準等を定め、次いで、労安法制定に伴い特化則を同法の付属省令として新たに制定し、旧特化則の規定内容をこれに盛り込み、更に、昭和五〇年九月三〇日労働省令第二六号によつて、主としてがん原性物質規制の観点から、かなり大幅な特化則の改正立法を行つた。

また、労働省労基局長も、右各省令立法に対応して、前記の省令制定に関するその権限を行使した。

(二) 本件各公務員の使用停止・変更命令等に関する権限等

(1) 労働大臣及び労働省労基局長は、前記期間中、所轄監督官等を直接間接に指揮して、栗山工場のクロム酸塩等製造工程について、法旧五五条や旧一〇三条所定の強制的権限(労安法施行後は同法九八条、九九条所定の強制的権限。以下同じ。)としての使用停止・変更命令等の権限を行使させる措置をとつたことはない。

(2) 道労基局長は、右期間中、右製造工程について、岩見沢労基署長に法旧五五条の右命令権限を、所轄監督官に法旧一〇三条の右強制権限をそれぞれ行使させる措置をとつたことはない。

(3) 岩見沢労基署長は、右期間中、右製造工程について、自ら法旧五五条の命令権限を行使し、あるいは所轄監督官に法旧一〇三条の強制権限を行使させる措置をとつたことはない。

(4) 所轄監督官は、右期間中、右製造工程について、自ら法旧一〇三条の強制権限を行使したことはない。

(三) 要約

以上のとおり認められ、本件各公務員の右各権限等に関しては、いずれも前記〈4〉の要件も充足されることになる。

そこで、次に、右当時における本件各公務員の右各権限等行使の作為義務の存否について検討判断することにする。

第五本件各公務員の作為義務

〔請求原因第六章第二節第三、第二編第六章第二節第三、第四編〕

一 はじめに

1 不作為による不法行為が成立するためには、不作為者に作為義務が存しなければならないことは当然であり、前記第一の二2で述べたとおり、本件各公務員の前記権限等不行使が生存原告らや被害者たる死亡者に対する違法な加害原因行為に当たるとするためには、単に前記〈1〉ないし〈4〉の要件が充足されるだけでは足りず、本件各公務員に、右権限等不行使の時においてそれを行使すべき作為義務が存したこと(前記〈5〉の要件)が不可欠の要件になることはいうまでもない。

2 本件各公務員の右作為義務に関し、原告らは、請求原因第六章第二節第三の三でその要件として三点を挙げ、本件各公務員の右権限等不行使については、右三要件がいずれも充足されていた旨主張する。原告らの挙げる右三要件は、その主張から明らかなとおり、一般の不作為による不法行為において考えられているものと大差なく、これに依拠すれば、公務員の権限等不行使による不法行為の成立が認められる場面が大きく広がることになる。

これに対して、被告国は、もともと、労働者との関係で本件各公務員の右権限等行使が義務づけられたり、その不行使が違法なものになることはない旨主張し、更に、仮に本件各公務員が右権限等行使の作為義務を負うとされる場合があり得るとしても、極めて特殊例外的な場合に限られるとして、原告ら主張のものとは別個の三要件を挙げて、本件各公務員の右権限等不行使についてはこれらの要件が充足されていない旨詳しく反対主張をしている。

3 そこで、以下、原告ら及び被告国の右各主張を考慮しながら、本件各公務員の作為義務の存否の判断にかかわる基礎事実等につき順次検討を加えた後、右作為義務の存否につき具体的に検討判断することにする。

二 クロム酸塩等製造に関する安全衛生法令等及び栗山工場に対する行政監督の推移等(作為義務存否の判断の基礎その一)

前記第四の二4で認定したとおり、昭和二二年一一月から昭和四八年六月までの期間中、本件各公務員は原告ら主張の内容の省令を立法せず、あるいは栗山工場のクロム酸塩等製造工程に対する法旧五五条、旧一〇三条所定の強制的権限等を行使しなかつたものであるが、もとよりクロムによる被害防止等に関する労働安全衛生行政は右内容の省令立法、権限等行使に尽きるものではない。

そこで、右期間を中心にして、以下、クロム酸塩等製造に関する安全衛生法令等及び同工場の右製造工程に対する行政監督の推移等につき検討するに、前記関係証拠及び弁論の全趣旨によれば、次のとおり認められる。

1 戦後の労働衛生行政の流れ(概略)

(一) (昭和二〇年代)昭和二二年労基法の制定により我が国の労働基準法制は一新されたが、昭和二〇年代には、労働基準行政の重点は、行政体制の整備、法の周知普及、啓蒙に置かれる一方、戦前から存した強制労働、中間搾取、長時間労働、女子年少者の酷使等前近代的な労働関係の除去にも多くの行政努力を求められたとされている。

この間、労働衛生行政の面でも、行政上の指導監督を通じ、労使の衛生意識の高揚や労働衛生管理の充実を図ることに力点が置かれ、また、職業病対策としては第一に肺結核対策が重視され、硅肺、一酸化炭素中毒、鉛中毒などについても各種行政上の手当てがなされたとされている。

昭和二〇年代後半になると労働環境における各種有害物質による障害の早期発見対策についても関心が持たれるようになり、昭和二八年労働衛生委員会(会長久保田重孝)が設置され、次の(二)で述べる特殊健康診断に関する検討が開始された。

(二) (昭和三〇年代)昭和三〇年代には、経済復興とともに中小企業における労働基準の遵守が大きな課題となつてきたことなどを背景にして、労働基準行政の基調は、形式的画一的な取締りを排し、企業の実態その他社会的経済的諸条件を考慮しつつ、労使の納得と協力の下に各種行政上の指導監督を行うということにあつたとされている。

労働衛生行政の面でも、右のような基調の下で職業病対策が重視されるようになつたとされている。

従前からの肺結核、硅肺等に加えて、技術革新の進展に伴いベンゼン等の有機物質や硫化水素、四塩化炭素等の化学物質による健康障害などが続発、報告されるようになつたため、行政上の指導監督による労働環境等改善策が進められるとともに、昭和三五年以降じん肺法、電離放射線障害防止規則、有機溶剤中毒予防規則、高気圧障害防止規則等の労働衛生関係法令が制定され、規制が強化されたとされている。

一方、昭和三一年から、有害業務従事労働者の職業病予防対策(一六種類の有害業務を規定)として、特殊健康診断が行政指導により実施されるようになり、また、昭和三三年には、粉じん、各種化学物質等による職業病予防に関して前記「労働環境における職業病予防に関する技術指針」が示されるなどした。

また、昭和三三、四年には前記「労働環境測定指針」が刊行され、多種多様な有害物質につき標準的定量分析方法が紹介されたが、これが後の旧特化則による環境測定の義務づけにつながつたとされている。

(三) (昭和四〇年代)昭和四〇年代には、いわゆる高度成長経済の下で、一般労働条件の改善向上、労働福祉の増進が強く求められるようになるとともに、企業の経済的実力も飛躍的に向上してきたことなどから、労働基準行政も、昭和三〇年代のいわゆる納得行政から脱却し、法定の措置を背景に使用者に法の遵守を迫るものに転換していつたとされている。ちなみに、全国の昭和三五年の司法事件送致件数四〇九件、使用停止等処分件数五件に対し、昭和四五年にはそれぞれ一七二六件、六万四七二〇件に増加した。

この時期、労働衛生行政は、職業病対策を中心にして労働基準行政の最重点課題として進められたとされ、鉛中毒予防規則、炭鉱災害による一酸化炭素中毒症に関する特別措置法、四アルキル鉛中毒予防規則、事務所衛生基準規則、酸素欠乏症予防規則などが制定されたほか、各種化学物質、振動工具、超音波等による障害が社会問題化したのに対応して、これらに関する行政上の指導監督体制の整備が求められたとされている。また、各事業場における健康診断体制の充実等も図られたとされている。

昭和四五年全国の監督官等を動員して各種有害物質取扱事業場の一せい総点検と特殊健康診断結果の総合調査が実施され、同年設置された「労働環境技術基準委員会」が右結果を踏まえて行つた報告(「有害物等による障害の防止に関する対策について」)を基礎にして、旧特化則が制定されるに至つた。

そうして、我が国産業経済の発展、各種技術革新の進行等を背景に労働安全衛生行政の質的転換が強く求められるようになり、昭和四七年、労働安全衛生に関する詳細な単行法たる労働安全衛生法が制定されるに至り、我が国の労働安全衛生法体系は格段に充実したものとなつたとされている。

特化則も同法制定に合わせて同年再制定された。

なお、昭和四〇年代後半には、職業病対策の中で職業がんの予防・治療等が注目重視されるようになつてきたとされている。

(四) (昭和五〇年代前半)昭和四〇年代から引き続き我が国の産業経済が進展する中で、昭和五〇年代前半には、産業構造の複雑多様化が進み、労働基準行政も、より一層の労働条件向上とともに各種の格差是正、新規の労働分野への対応を求められるようになつたとされている。

労働衛生行政の面でも、労働者の福祉向上という観点から多面的な指導監督が求められるようになる一方、職業がんなどの職業病対策が労働基準行政の重点課題にされ、職業病に関する基礎研究から、予防、健康管理、治療、補償、職場復帰まで一貫した体系的措置の総合的推進が検討されるようになつたとされている。

これらの作業の一環として、作業環境測定法、粉じん障害予防規則制定や、数次にわたる労安法、特化則の改正などが行われたが、右改正によつて、労働環境におけるがん原性物質の規制に関する広範かつ充実した措置が規定されたとされている。

2 クロム酸塩等製造に関する労働安全衛生法令等の推移

(一) (昭和二二年)

(1) 労基法制定。

旧四二条ないし旧五五条に安全衛生に関する規定を置く。

(2) クロムの粉じん等を発散する場所における業務について、労基法施行規則(以下「法施行規」ともいう。)一八条九号により法三六条但書所定の有害業務である旨、旧労安規四八条二号(ヲ)により法五二条一項所定の健康診断の必要な有害業務(年二回の健康診断が義務づけられる。)である旨、女子年少者労働基準規則八、九条により法六三条二、三項の女子及び満一八歳未満の労働者を就かせてはならない有害業務である旨、それぞれ規定される。

右各規定の運用通達として、前記第四の二3(三)(3)イの昭和二三年八月一二日基発一一七八号通牒で、空気中クロム量〇・五mg/m3以上の場所が「クロム粉じん等の発散する有害な場所」に当たる旨定められる。

(3) 法旧四五条所定の安全衛生基準のうちクロム粉じん等発生防止に係るものとして、前記第四の二3(三)(1)で述べた旧労安規一七二ないし一七四条が規定される。

右旧労安規一七三条の運用通達として、前記第四の二3(三)(3)ハの昭和二三年一月一六日基発八三号通牒等で詳しい行政解釈が示される。

また、旧労安規一八一、一八二条等で保護具備え付け等に関する基準が規定される。

(4) 前記のとおり、法旧五五条、旧一〇三条により右基準違反に対する強制的権限行使につき規定される。

なお、法旧五四条で衛生上有害な設備等設置・変更に関する手続的規制が規定される。

(5) 労災補償に関し、法七五条二項に基づき施行規三五条一七号が、クロム又はその化合物による潰瘍その他の疾病を業務上疾病として規定。

なお、昭和三一年五月一八日基発三〇八号及び昭和三四年五月一四日基発三五九号通牒で、クロム酸塩等製造作業がクロム中毒発生のおそれのある作業である旨定められる。

(6) ACGIH(米国労働衛生専門官会議)がクロム酸及びその化合物の許容(空気中)濃度を〇・一mg/m3とする旨公表。

(二) (昭和三一年)

前記特殊健康診断実施通達(「特殊健康診断指導指針について」昭和三一年五月一八日基発三〇八号)により、クロム又はその化合物の粉じん等を発散する場所における業務としてクロム酸塩等取扱作業が有害又は有害のおそれのある主要な作業の一つとして右健康診断の対象とされる。

なお、右検査項目として鼻炎・潰瘍・鼻中隔穿孔等、皮膚障害が、検査方法として視診がそれぞれ定められていた。

(三) (昭和三三年)

(1) 昭和三三年四月一七日基発二三八号通牒により、労働環境における有害物質としてのクロム粉じん等の測定方法が示される。

更に、右通達を具体化したものとして、同年及び昭和三四年に「労働環境測定指針」が刊行される。

(2) 昭和三三年五月二六日基発三三八号通牒により「労働環境における職業病予防に関する技術指針」が示され、クロム取扱作業につき(その他の特殊健康診断対象業務についても規定)、具体的有害物、抑制目標濃度、測定措置、局所排気等の労働環境に対する措置、衛生保護具等による措置、その他の措置が詳しく定められる。

右抑制目標濃度は前記のとおり〇・一mg/m3とされる。

(四) (昭和三五年)

じん肺(昭和三五年三月三一日法律第三〇号)制定に伴い、同法施行規則に基づきクロム鉱石粉砕工程等が同法にいう粉じん作業に指定され、じん肺健康診断実施が義務づけられる。

(五) (昭和四五年)

(1) 前記1(三)の全国一せい総点検がクロム酸塩等製造事業場も対象にして実施される。

(2) 同年一二月、前記基準委員会の検討開始。

(六) (昭和四六年)

(1) 基準委員会の前記報告がなされる。その中でクロムの許容濃度は〇・一mg/m3とすべき旨提言される。

なお、右報告中では、クロム化合物はがん原性物質としては把えられていなかつた。

(2) 旧特化則制定。

クロム酸及びその塩は、第二類物質(がん原性物質とはされていない有害物質)として規制され、クロム酸塩等製造作業に関し、一定性能を有する局所排気装置・除じん装置・漏洩防止装置等の設置、作業主任者の選任、定期的環境測定・記録保存、休憩室・洗浄施設設置、保護具等の備置き、定期(六ヶ月ごと)健康診断実施等が義務づけられる。

特化則に基づく労働省告示によりクロムの抑制濃度(局所排気装置等の必要性能値として規定)は〇・一mg/m3と定められる。

また、健康診断の検査項目として、作業条件の調査、呼吸器症状の既応歴の有無、鼻粘膜の異常又は鼻中隔穿孔の有無、皮膚障害の有無が定められる。

(七) (昭和四七年)

(1) 労安法制定。

クロム規制に関するものとして、一四条に作業主任者の選任が、二二、二三条、二七条に事業者の講ずべき措置等が、六五条に作業環境測定・記録保存が、六六条に健康診断実施が、それぞれ規定されたが、以上おおむね旧特化則の内容を引き継ぐものである。

新規のものとしては、四五条に局所排気装置・除じん装置の自主検査・記録保存が、五七条にクロム酸塩等の譲渡・提供に際しての名称等表示が、八八条に局所排気装置の設置の際の計画届出がそれぞれ規定された。

(2) 特化則制定。

クロム酸塩等は従前どおり第二類物質とされる。前記(六)(2)の旧規則の規定内容にほとんど実質的変化なし。

(八) (昭和四八年)

栗山工場のクロム酸塩等製造作業従事経験者に肺がん多発の情報。労働省は、北大医学部教授村尾誠(実質的には助教授大崎饒)及び同助教授渡部真也にそれぞれ実地調査研究を委託。

(九) (昭和四九年)

(1) 右委託調査研究の結果、クロム被暴、吸入と右(八)の肺がん多発との間に因果関係が存する旨指摘される。

そこで、労働省は各種法令の改正作業に着手。

(2) 職業がんについての基本対策検討のため、同年一一月職業がん対策専門委員会が設置される。

(一〇) (昭和五〇年)

(1) 労安法施行令改正により、クロム酸塩等製造業務を健康管理手帳交付対象業務に指定、労安規改正により作業従事歴五年以上の者を交付対象者と定める。

(2) 同年八月、日本化工小松川工場跡地のクロム鉱滓公害が社会問題化。

(3) 同年九月、クロム障害に関する専門家会議設置、検討開始。

(4) 特化則大幅改正(同年九月三〇日労働省令第二六号)。主要な改正点は、がん原性物質の管理規制強化。

右改正により、クロム酸塩等は、第二類物質中の管理第二類物質に分類され、更に特別管理物質に指定されて職業がん予防の観点から規制されることになる。特別管理物質とは、人体に対する発がん作用が疫学調査の結果明らかになつた物質等であり、遅発性の健康障害を与え、又は治癒が著しく困難であるなどの有害性に着目し、特別の管理をなすことが定められた物質である。

クロムに関する主要な改正点は、環境測定記録の三〇年間保存、物質の名称・人体への作用・取扱上の注意・使用すべき保護具の掲示、作業従事記録の三〇年間保存、健康診断の検査項目拡充(肺がん等をはじめ呼吸器疾患に係るものを盛り込む)、健康診断記録の三〇年間保存、事業廃止の際の各記録等の労基署長への報告等である。

(5) 前記五〇二号通達により、クロムによる各種障害につき業務上疾病認定基準(作業従事歴九年以上の者の肺がんの業務上認定等)が定められる。

(一一) (昭和五一年)

(1) 同年一月、前記専門家会議の中間報告書が提出される。

(2) 右報告書の内容を受けて、前記一二四号通達により、クロムによる各種障害につき業務上疾病認定基準が改正される(上気道のがんの追加、作業従事歴を四年以上に改めるなど)。

また、労安規改正により健康管理手帳の交付要件が作業従事歴五年から四年に、特化則改正により健康診断項目中の作業従事歴要件が右同様にそれぞれ改められる。

(3) 労働省が「職業性疾病対策要綱」を示し、前記1(四)の体系的措置の総合的推進を開始。

(一二) (昭和五三年)

法施行規の改正(昭和五三年三月三〇日労働省令第一一号)により、前記第四章第四の一、二2(二)で各認定したとおり、右規則三五条が全面的に改められ、右規則に基づく労働省告示と合わせて、クロムによる業務上疾病の範囲が法令上拡大明定される(肺がん等についても明定)。

3 栗山工場に対する行政監督の推移等

(一) 栗山工場所在地を管轄する岩見沢労基署の管内は我が国でも有数の炭田地帯に属し、昭和四〇年代初めころまでは数多くの炭鉱業事業場が所在していた地域であり、この中で栗山工場は、比較的少数の大規模製造事業場の一つであつた。

岩見沢労基署、あるいは道労基局も、右地域の労働安全衛生行政に関し、その行政能力の多くを右炭鉱業事業場に対する指導監督等に注がざるを得ない状況にはあつたが、右労基署、労基局は、早い時期から栗山工場(別添一五のとおり、当時はクロム酸塩等製造のみならず、フエロアロイやカーバイド生産等も行つていた。)に対しても労働安全衛生に関する行政上の指導監督を行つてきた。

すなわち、前記1(一)のとおり主として制度の周知普及や啓蒙活動に重点が置かれていた昭和二〇年代には、監督機関は、これに沿つて職場の衛生管理体制の充実を含め、各種指導を行い、前記2(一)の法令等の規定の遵守を求め、あるいは前記第一節第四の三3(二)(2)ロの栗山工場安全衛生委員会を設置させたほか、同工場の工程・作業の実情についての照会・調査、作業方法改善等についての助言・指導等をなしたと推認される。

ただ、前記1(一)のような状況の下で、この時期の同工場に対する行政上の指導監督は、概して助言・勧告的なものが多く、個々の生産機器・工程等を指摘して、作業環境改善を強く求めるような措置がとられることは少なかつた。

(二)(1) 昭和三〇年代になると、北海道内の労働基準行政の体制も次第に整えられてきたことから、前記労基署や労基局は、昭和三〇年代初めには、同工場のクロム酸塩等製造工程における粉じん等発生状況をはじめとしてその作業環境につき正確かつ具体的な実情報告を求め、あるいは適宜調査して、具体的に不十分な点を指摘し、改善方を指導するようになり、特に、鉱石粉砕・配合工程でのクロム粉じんや焙焼工程での燃料用微粉炭じんの大量発生防止策、各種屋外排気浄化設備等の導入設置、安全保護具・各種予防薬品の整備充実、休憩室や洗浄施設等の設置などについて強力な指導を行うようになつた。

昭和三一年から開始された前記特殊健康診断についても、当初から同工場の作業員に対する右健康診断実施を指導してきた。

また、昭和三五年のじん肺法制定に伴い、じん肺健康診断の実施を指導するとともに、粉じん等発生防止に関する指導を強化した。

(2) そうして、右労基署、労基局は、同工場の作業環境の劣悪な実態に鑑み、その是正改善を求めるため、昭和三五年ころ同工場を衛生管理特別指導事業場に指定(労基署の課長を担当責任者とした。)して、被告会社に対し、同工場のクロム酸塩等製造工程について、具体的な発じん防止対策の企画推進、粉じん対策機構の設置などを強力に指導監督した。

その指導内容(被告会社に文書で指示したもの)は、

イ 粉じん・ガス等有害物質の測定による作業環境の把握、

ロ 作業方法・施設・保護具等の改善計画の樹立・労基署への報告、

ハ 健康診断の実施・診断結果の労基署への報告、

ニ 技術担当者の選定、

ホ 有害業務対策委員会の設置、

ヘ 保護具等の使用方法についての労働者の訓練、

ト 設備等の改善措置、具体的には、作業場の配置の工夫・発じん源に対する措置・粉じん堆積の防止・建家の気積拡大と全体換気・床面のコンクリート化・運搬施設の改善・道路等の配置の配慮など広範囲にわたる設備等の改善措置をとること、

チ 日常的管理の徹底、具体的には、整理整頓と清掃の励行・局所排気装置等防じん施設の点検整備・防じん施設及び保護具の使用並びに手入方法の教育訓練の徹底・床面への散水等・運搬工程の改善・作業方法の改善・粉じん抑制措置の効果の判定など広範囲にわたる改善措置をとること、

以上のとおりであり、極めて広範かつ具体的なものであつた。

また、昭和二〇年代末ころ以降、右労基署、労基局は、被告会社に対し、前記製造工程のキルン、ドライヤー等の外部排気系の整備、各種屋外排気浄化装置導入についても強く指導した。

(3) 昭和三四年同工場を対象にして実施された、前記岐阜県立医科大学教授(当時)館正知らの労働環境や作業員の健康状態に関する実地調査について、労働省労基局、道労基局はこれを後援し、右調査の便宜を図るなどした。

(三) 昭和四〇年代になつても、同工場に対し従前と同様の行政監督が続けられたが、昭和四一年から昭和四五年までの間、前記労基署、労基局は、再び同工場の前記製造工程を特別安全管理指導事業場、衛生管理特別指導事業場に指定して、実地の指導監督を実施し、あるいは作業員の健康診断の充実や排気装置の整備等による作業環境改善につき指導した。

また、同工場は、前記全国一せい総点検の対象事業場となり、その際に同工場に対する指導監督が実施され、更に、昭和四七年にも特定化学物質取扱事業場としての監督が実施された。

(四)(1) 右(二)、(三)で述べたような強力な行政上の指導監督の下で、被告会社は、昭和三〇年代後半以降、前記第三章第二・第四、第六章第一節第四の三3(二)で認定したように、鉱石等粉砕・乾燥・配合工程、クリンカー移送方法、浸出方法の各改善等の大規模な措置等のほか、キルン、ドライヤー等へのダストボツクス・各種スクラバー設置等の各種外部排気装置、排気浄化装置等の導入整備、各種タンクの上蓋設置・カバーやフードの設置・連続遠心分離機の採用・製品貯蔵容器への排気管結合等の個々の生産機器等の改善、問仕切設置、屋根上電動換気扇設置、各種安全保護具の供給整備、作業服等の貸与、予防薬の備え置き、各種洗浄施設の設置などの作業環境改善措置をとり、また、焙焼用燃料の重油転換を実行し、更に、栗山工場粉じん対策委員会を設置し、あるいは昭和四〇年代になつて組織的にもかなり整つた内容実質を持つた安全衛生管理機構を設置するようになつたものである。

(2) しかし、被告会社が前記製造工程につき行つた右各措置等は、右製造工程全体から見れば質・量ともに一部の不十分な改善にとどまり、現実には当該工程部分におけるクロム含有粉じん等発生、その職場への飛散・発散・拡散を十分に防止できず、あるいは、作業員が大量のクロム被暴、吸入をする箇所が多く残されていたことは前記第三章第二ないし第四で認定説示したとおりであり、また、右各措置等は、被告会社が当時、作業員のクロム被暴、吸入による障害罹患防止のため実行し得たところをすべて実行したものでもなかつたことは、前記第一節第四の三3で認定説示したとおりである。

4 岩見沢労基署の陣容等

(一) 岩見沢労基署は、岩見沢市、夕張市、美唄市、三笠市及び栗山町を含むその周辺町村(現在の行政区画による。)を管轄区域とする労基署であり、昭和二三年設置当初は職員数一六名のうち監督官数三名、課・係制なしの状態で発足し、以後その人的陣容は、昭和二五年 職員数二四名うち同右八名・四係制、昭和二七年 職員数三四名うち同右八名・四課制、昭和二九年 職員数三五名うち同右八名・三課制、昭和三八年 職員数三五名うち同右六名・三課制、昭和五七年 職員数二五名うち同右七名・三方面二課制、のように推移してきた。

(二) 労働省の統計によれば、全国の労基法適用事業場数は、昭和二三年約五〇万八〇〇〇、昭和五六年約三二二万一〇〇〇であり、適用事業場労働者数は、昭和二三年約九七七万九〇〇〇、昭和五六年約三八一七万一〇〇〇である。これに対して、全国の監督官数は、昭和二三年二四八一、昭和五六年三八一四である。

また、道労基局管内(北海道)の労基法適用事業場数は、昭和二三年約二万四〇〇、昭和三五年約六万七二〇〇、昭和五九年約二六万七二〇〇であり、これに対して、管内監督官数(労基局及び各労基署配置の合計数)は、昭和三五年一一一、昭和五九年一一二である(古い時期のものは不明)。

三 本件各公務員の行政権限の法的性格等(作為義務存否の判断の基礎その二)

1 労基法の公法的効力等

労基法は、労働者の生活を保障するために労働条件の最低基準を設定し、これを民事上実現する(同法一三条)とともに、右基準の遵守を使用者に義務づけた上、その実効性を行政監督や罰則により確保している。

労基法の持つ公法的効力は、このように使用者の国に対する公法上の義務を定め(一部規定は例外的に労働者の義務も定める。以下同じ。)、国が右義務の履行を監督し、義務違反を規制する監督取締法規としての効力である。

この行政監督を効果的に遂行して各種基準違反を未然に防止し、あるいは基準違反の状態を是正して法の定めるところを実現させるために、前記の各監督組織や監督機関が国の直轄機構として設けられ、労働基準行政は国の直接行政として執行されているのである。

2 一般的法的義務の不存在及び直接の私法上の利益保護目的の欠缺

(一) 省令立法権限

(1) 法旧四五条所定の安全衛生に関する基準に係る省令立法は、法の委任に基づき、右1で述べた使用者の国に対する義務の内容となる具体的基準自体を一般的法規範の形で定立する行為である。このような基準の内容が専門的技術的事項にわたることが多く、また、状況の変化に機能的に対応することが求められることなどに鑑みて、法は右具体的基準設定を省令(命令)に委任したのであり、右委任に基づく労働大臣の省令制定は、いうまでもなく、実質的内容において純然たる立法行為であつて、同じく労働大臣のなす行為であつても一般の行政行為とは著しく性格を異にするものであることは多言を要しない。

そうして、省令による右基準の設定は、直接的には使用者の国に対する義務内容を具体化するものではあるが、同時に、労使の私法上の労働関係を規律する強行法規の内容を定めるものでもあり、この両面において、労働者の労働環境を規制する重要な法規範になり、その内容如何は労働者の労務供給過程に多大の影響を与えるものではある。

しかし、右省令の制定は、あくまで、右のような両面の効力を有する一般的法規自体を定立し、公法的・私法的両側面において労働基準法秩序を形成する作用なのであつて、本来、労働大臣が直接労働者に対し、一定内容の基準を立法すべき法的義務を負うものでないことは当然であり、もとよりこのようなことを定める法令の規定もない。

(2) また、省令による基準の設定は、労働者のために最低の労働条件を保障する立法の一環としてその内容が私法上の労働関係を規律する一般的規範にもなつて、多くの場合労働者有利に働くものであろうが、法的には、右基準設定は個別具体的な労働者の私法上の利益保護(身体健康の保護をも含む。以下同じ。)自体を直接の目的とするものでないことは明らかである。

(3) 労働省労基局長の右省令立法に関する権限についても右(1)、(2)と同様である。

(二) 命令権限等

(1) 前記1のとおり、労基法及びその付属法令は使用者の遵守すべき各種基準を定めるものであるが、これらの基準に従い、労働条件の維持向上、労働者の安全衛生、労働災害の防止等を図ることは、一次的にも最終的にも使用者の義務であると解され、国は、後見的立場において、前記のとおり、使用者の国に対する義務であると観念される各種基準の遵守状況を監視し、行政上の指導監督を行い、更には強制的権限等を行使するものである。

安全衛生に関する基準として労基法やその付属法令が定めるところも、労使の私法上の労働関係を規律すると同時に、使用者の国に対する義務の内容であつて、前記の監督機関による行政監督や罰則によつて右義務の履行を確保するという制度がとられているのである。

このように、右行政監督は、あくまで、使用者の国に対する義務を遵守履行させるための権限行使なのであつて、本来、監督機関が直接労働者に対し、右権限行使の法的義務を負うものでないことは当然であり、もとよりこのようなことを定める法令の規定もない。

(2) また、監督機関による右行政監督は、個別具体的な事業場について基準違反の防止、是正をなし、究極的には労働者に対し法令の定める労働条件を保障し、労働者保護に資することを目的としてなされるのが通常であろう。しかし、右行政監督は、法的には、本来個別具体的な労働者の私法上の利益保護自体を直接の目的としてなすものではなく、あくまで公益的立場から前記使用者の義務履行を求めるものであり、右行政監督の結果労働者が受ける利益は、法的には間接的、二次的なもの、いわゆる反射的利益に当たると解するほかない。

法旧五五条、旧一〇三条の前記規定内容も、労働者の右利益保護のため強制的権限を行使すべき旨を定めたものであると解することはできない。

(3) 労働大臣や上級の監督機関が直接間接の指揮によつて、労基署長に法旧五五条の権限行使を、監督官に法旧一〇三条の権限行使をさせる措置をとることについても右(1)、(2)と同様である。

(三) 一般的法的義務の不存在及び直接の私法上の利益保護目的の欠缺と本件各公務員の不法行為

(1) 右(一)、(二)のとおり、〈イ〉本件各公務員は直接労働者に対して、本来、一般的には前記権限等行使の法的義務を負わず(以下、この意味での法的義務を「一般的法的義務」ともいう。)、〈ロ〉右権限等行使は、本来、個別具体的な労働者の私法上の利益保護を直接の目的としない(以下、このことを「直接の私法上の利益保護目的の欠缺」ともいう。)と解されるところ、右〈イ〉、〈ロ〉の各点が本件各公務員の不法行為(違法な加害行為)の成否につきどのような関係を持つのかについて検討する(被告国は、第四編第一の二、三で右各点を理由にして、そもそも右不法行為が成立する余地はないと主張している。)。

(2)イ まず、確かに、右〈イ〉の点から、一般的には個別の労働者には右権限等行使を求める実体的権利がない(本件各公務員に個別労働者に対する右権限等行使の実体的義務がない)とすべきであり、また、右の各点は、抗告訴訟等において個別の労働者が本件各公務員の右権限行使の効力自体を争い、あるいは、右権限等行使・不行使の行政的行為としての違法性自体の確認を求めるなどする際に、多くの場合、当該労働者にその請求資格要件としての利益が欠缺するとする理由にはなると解されるが、本件のような形で、右権限等不行使によつて、労働者が被害を被つたと主張して不法行為に基づきその損害賠償を請求する事案においては、被告国がいうように右各点を理由にして、直ちにそもそも右権限等不行使が不法行為を構成することは一切あり得ないと断ずることはできない。

ロ というのも、不作為による不法行為において、作為義務の存在は、当該不作為が違法な加害行為を形成するもの(加害原因行為)として評価されるための要件であるから、その存否の判断は、要するに当該不作為の違法性の存否の判断として具体的事案に即して総合的になされるべきものであり、この点は、主張されている不作為が行政権限等不行使である事案でも異ならないはずである。

そうして、本件において、前記〈1〉ないし〈4〉の要件が充足されている場合に、前記各権限等の行使が前記(一)(1)、(二)(1)のような意味で本来被害者に対する法的義務にはならないというだけでは、右の違法性存否の判断において右権限等不行使が常に違法ではなかつたということにはならず、諸般の事情を考慮して、右権限等不行使が違法、すなわち、作為義務に違反したとする余地は残つているのである。

本件各公務員は、前記のとおり、個別の労働者との関係で本来右権限等を行使すべき法的義務を負わず、また個別の労働者が本件各公務員に対し右権限等行使の履行を求める実体的権利を有しているわけでもないが、右権限等不行使に起因して発生したとされる個別労働者の被害の事後的救済の場面においては、右権限等不行使が作為義務に違反した違法なものであつたと認められる余地があるのである。

ハ また、右権限等不行使が直接被害者の私法上の利益保護を目的としない場合であつても、被害者が現に受けた身体障害を不法行為における被害であると評価することが常に妨げられるわけではなく、右権限等不行使がこのような被害を惹起させた不作為として違法なものであつたと評価される余地もまた残つているのである。

ニ 特に、前記命令権限等については、使用者による安全衛生基準の遵守が労働者の利益保護にとつて重要な意義を持ち、使用者に右遵守を求める行政監督が、法的には間接的な利益ではあつても、実際上当該事業場の労働者の個別具体的な利益保護に大きく寄与することに鑑みれば、前記の各点から直ちに、右権限等不行使が個別労働者との関係で一切不法行為になる余地がないとすることは、妥当ではないと解される。

(3) 他方、このように前記〈イ〉、〈ロ〉の各点をもつて直ちに本件各公務員の右権限等不行使が不法行為を構成しないとすることはできないものの、右各点、特に〈イ〉の点を前提にすれば、本件各公務員の作為義務の成立する場面が限られたものになることは当然である。

とりわけ、労働大臣らの省令立法権限不行使については、前記説示したところに鑑みれば、右作為義務が成立する余地は極めて限定されることになると解される。

3 本件各公務員の各権限等行使の裁量行為性

(一) 省令立法権限

前記第四の二3(二)で述べたとおり、労働大臣の前記省令制定については、一般の行政行為と同様の意味での要件規定は存せず、労働大臣は法の委任の趣旨に従い、諸般の事情を考慮しながらその合理的な裁量に基づいて、個別の立法の要否、具体的な立法内容如何等について判断すれば足りることも当然である。

そうして、右労働大臣の権限行使が立法行為であることに加えて、法旧四五条がほぼ全面的に具体的な基準内容を労働大臣の定めるところに委ねていたこと、立法内容が公益的、専門的、技術的な事項にわたることなどに鑑みれば、労働大臣の右省令立法権限の行使に関する裁量の範囲は極めて広いものであつたと解される。

労働省労基局長の右省令立法に関する権限についても右と同様であると解される。

(二) 命令権限

法旧五五条の使用停止・変更等命令権限、法旧一〇三条の即時強制権限は、使用者の基準遵守履行を求める監督機関の措置としては(刑事立件と並んで)最も強力なものであるが、これらの強力な監督措置をとるか否かの判断は、右各権限規定の文理及び権限行使の公益性、専門性、技術性に照らしても、監督機関の合理的裁量に委ねられていたと解されるのであり、監督機関は、右基準違反の事実がある場合に必ず右強制的措置をとらなければならないという法的拘束を受けていなかつたことは当然である。

というのも、前記第三の二4で説示したとおり、監督機関は、右強制的権限行使のほかに、安全衛生に関し各種改善措置をとらせるなど使用者を指導監督する権限をも有し、この指導監督によつて使用者の安全衛生基準違反の是正を求める権能をも有していたところ、この指導監督には助言的勧告からより強い措置まで多様な手法があり、強力なものについては実質的には右強制的権限行使との区別は必ずしも截然とせず、要するに、基準違反是正を含め、労働環境改善に係る行政上の措置、権限としては、大枠としてこの多様な指導監督と右各強制的権限行使とがあり、その中で監督機関において合理的な裁量に基づいて、どのような措置、手法をとるかなどを決する、という制度が採用されていたと解されるのである。

すなわち、監督機関は、使用者の安全衛生基準違反について、使用停止命令等の強力な措置をとるか、これをとるとしても具体的にどのような命令を発するか、行政上の指導監督を行うか、これを行うとしても、具体的にどの程度の措置をとるか、あるいはいずれの措置をとることをも見合わせるか、などの判断を、違反の程度、違反是正のための有効確実な方法如何、当該措置の労使に与える影響など諸般の事情を考慮して、合理的な裁量によつて行うことができるのである。

労働大臣や上級の監督機関が、直接間接の指揮によつて、労基署長に法旧五五条の権限行使を、監督官に法旧一〇三条の権限行使をさせる措置をとることについても、右と同様である。

(三) 裁量行為性と本件各公務員の不法行為

(1) 右(一)、(二)のとおり、本件各公務員の前記権限等の行使については、その行使・不行使の判断を含めて、当該公務員の合理的な裁量に委ねられていたと解される。

いうまでもなく、このような裁量行為においては、裁量権の範囲内の行為については当不当の問題は生じても、違法の問題は生じない。したがつて、本件においても、本件各公務員の右権限等不行使が著しく合理性を欠く場合には、当該労働者との関係で違法であると評価される余地があることになる。

しかるところ、本件各公務員の右権限等行使に関する合理的な裁量の範囲について一般的な準則があるわけではなく、結局具体的事案において個別的に右権限等行使不行使が著しく合理性を欠いたか否かを決するほかなく、右権限等不行使が不作為による不法行為に当たると主張されている本件のような事案においては、右権限等不行使が作為義務に違反した違法なものであるかという判断の中に、右の裁量権の範囲逸脱の有無の判断が取り込まれることになると考えられる。

すなわち、右権限等不行使が不法行為法の観点から作為義務に違反したものであるとされるのは、裁量権の範囲逸脱の一場面であり、したがつて、作為義務の存否の判断に当たつては、当該権限等の性格、内容等に照らしておよそ裁量権の範囲逸脱とは考えられないような権限等不行使の場合にまで作為義務が存したとすることがないよう留意すべきことになる。

(2) 右の点を前提にすれば、特に、労働大臣らの省令立法権限行使に関しては、前記のとおり省令立法の実体的側面、すなわち如何なる内容の基準を設定するかについて極めて広範囲の裁量権が存したと考えられ、この点と前記2(一)、(三)(3)で説示したところを併せ考慮すると、労働大臣が原告ら主張のような一定内容の省令立法をしなかつたことが生存原告らや被害者たる死亡者に対する関係で作為義務に違反し、違法な加害原因行為となり、不法行為を構成するとされるのは、極めて特殊例外的な場合に限られることになると解される。

四 作為義務存否の検討その一 危険状態の認識・認識可能性の意義、劣悪な作業環境の認識・認識可能性の存否等

1 危険状態の認識・認識可能性の存在の必要性等

前記第三章ないし第五章で認定説示したところから明らかなとおり、被告会社の生存原告らや被害者たる死亡者に対する加害行為とは、右の者らが栗山工場のクロム酸塩等製造作業に従事した際、クロムに被暴し、これを吸入した結果、各種身体障害に罹患し、更には死亡するに至つたという危険状態が存在したことにほかならないところ、前記のとおり、原告ら主張の本件各公務員の作為義務とは、右加害行為の防止・回避に寄与する行政権限等を行使すべきであつたとするものであるから、本件各公務員に右作為義務が存したとするためには、その不作為の時において右のような被告会社の加害行為が現に惹起し、又は今後惹起されるという危険状態の存在についての認識又は認識可能性が存したことが大前提となる。

なぜなら、右の認識、認識可能性がなければ、たとえ、前記認定のとおり本件各公務員が右加害行為の防止・回避に寄与する権限等を有し、かつ、その行使を妨げる特段の法的制約等がなかつたとしても、本件各公務員が右権限等を行使する契機に欠け、具体的な権限等行使の客観的可能性がなかつたことになるのであり、本件各公務員の右権限等につき個別具体的にその行使の作為義務の存否を検討判断する前に、いわば作為義務を基礎づけるための共通かつ最小限度の要件として、右認識、認識可能性が存在しなければならないのである。

よつて、以下、まず、本件各公務員の前記権限等行使の作為義務の一般的前提要件として、右の危険状態の認識、認識可能性の存否について検討した後、個別具体的に右作為義務の存否を検討判断することにする。

2 本件各公務員の危険状態の認識・認識可能性の意義

(一) 前記1で説示したところに照らせば、本件各公務員の作為義務の一般的前提要件としての危険状態の認識、認識可能性とは、労働災害の重大性の有無、行政的介入を義務づけるほどの重大な危険の認識、認識可能性の存否、認識の容易性・認識可能性の切迫性の有無、認識対象としての一般的因果関係の存在に係る知見の一般性・確実性の有無、認識可能性の存在を前提にして現実に認識・権限等行使に至ることの期待可能性の有無、権限等行使への信頼・期待の存否等の要素を介在させない、いわば事実認識そのものとしての前記被告会社の加害行為の存在・成立についての認識、認識可能性である。

(二) 次に、前記第三章ないし第五章の認定説示に照らせば、本件各公務員の右危険状態の認識とは、〈1〉前記製造工程における作業員のクロム被暴、収入の事実を認識すること(劣悪な作業環境の認識)に加え、〈2〉前記第四章で認定説示したクロム被暴、吸入と認定障害、肺がん等発症との一般的因果関係の存在(右各障害がクロムによる職業性疾患であること)を認識することを意味すると解される。

したがつて、右〈1〉〈2〉のいずれか一方又は双方を現に認識してはいないが、その認識可能性があつた場合には、本件各公務員には危険状態の認識可能性が存したといえ、〈1〉〈2〉のいずれか一方又は双方につき認識可能性さえない場合には、本件各公務員には危険状態の認識可能性さえなかつたことになる。

(三) 更に、右の〈1〉〈2〉の各事実についての認識、認識可能性の程度としては、一般的類型的に危険状態の存在の認識・認識可能性につながるようなものであれば足りると解される。

3 劣悪な作業環境の認識・認識可能性

(一) 所轄監督官等

前記第三章の認定事実、前記二の認定事実、前記関係証拠及び弁論の全趣旨を総合すると、本件各公務員のうち、道労基局長、岩見沢労基署長、所轄監督官は、いずれも労基法施行後間もなく、栗山工場のクロム酸塩等製造工程の作業環境が前記第三章で認定したように劣悪な状況にあつたことを認識し得べき状況になり、次いで、昭和二〇年代後半には、右製造工程の作業環境が劣悪であることを認識するに至り、その後、昭和三五年以降前記二3(二)の衛生管理特別指導事業場指定などによる行政上の監督実施を経て、著しく劣悪な作業環境であるという認識は持たなくなつたものの、右製造工程において作業員にクロム被暴、吸入があるという劣悪な作業環境の存在自体については、引き続きこれを認識していたものと認められる。

右の指導監督実施後の認識状況については、<証拠略>によれば、昭和四〇年代になつても、右製造工程の作業員中に、前記第四章第四の一2(二)(3)ハのとおりクロム被暴、吸入の指標となる鼻中隔穿孔が多発している状況が、法定の健康診断結果等として、監督機関に報告されていたと認められることからも推認されるのである。

(二) 労働大臣ら

次に、右(一)の各証拠等を総合すると、労働大臣、労働省労基局長については、遅くとも昭和二〇年代後半には、右製造工程の劣悪な作業環境を認識し得べき状況に至り、前記衛生管理特別指導事業場指定による行政上の指導監督が開始された昭和三五年ころには、右製造工程において作業員にクロム被暴、吸入があるという劣悪な作業環境自体は認識するに至り、右指導監督を経た後にも、引き続き、程度の点はともかく、右製造工程の作業環境の劣悪さについての認識は有していたと認められる。

(三) そこで、以下、本件各公務員の前記一般的因果関係の認識状況につき、項を改めて検討する。

五 作為義務存否の検討その二 本件各公務員の一般的因果関係の認識・認識可能性の存否

前記四2(一)で述べたように、本件各公務員の作為義務の一般的前提要件としての一般的因果関係の認識、認識可能性とは、各種の評価を加える前の事実認識の状況であるところ、結局、これは、前記第一節第三で被告会社について検討判断した右因果関係の認識、認識可能性と同レベルのものであると解される。

そこで、以下、本件各公務員の右因果関係の認識状況についても、前記第一節第三で認定説示した事柄を引用しながら検討を進めることにする。

1 因果関係認識・認識可能性の内容等(前記第一節第三の一2、3参照)

(一) 因果関係認識・認識可能性の内容

本件各公務員において、前記第四章で認定説示したクロム被暴、吸入と各種身体障害発生との一般的因果関係の存在について、前記第一節第三の一2(一)の〈1〉ないし〈3〉のような内容の認識、認識可能性があつた場合には、もとより本件各公務員には右因果関係の認識、認識可能性が存したといえ、同〈4〉のような内容の認識、認識可能性があつた場合にも、少なくとも、前記四2(三)で述べた一般的類型的に前記危険状態の認識可能性につながるような因果関係の認識可能性は存したと解される。

右〈4〉のような認識可能性さえなければ、本件各公務員には、右の意味での因果関係の認識はもとより認識可能性もなかつたことになる。

(二) 医学情報、資料の存在と本件各公務員の認識可能性

(1) 本件各公務員の右因果関係の認識可能性に関しても、前記第一節第三の一3(一)、(二)と同様のことがいえる。

(2) 前記第四章の認定事実、前記関係証拠及び弁論の全趣旨を総合すれば、労働大臣、労働省労基局長は、クロム被暴、吸入と各種身体障害発生との因果関係についての産業医学情報、資料を示す文献が存在している場合、国内文献については、当該文献が産業医学の専門家等にとつても極めて入手・参照しにくいものである等の特段の事情が認められない限り、当該文献を入手・閲読・参照することが可能であり、外国文献については、少なくとも米国、ドイツ、フランスなど先進諸国の文献で、我が国の大学や労働衛生の研究機関等が取り寄せ所蔵しているものは、右同様の特段の事情が認められない限り、当該文献を入手・閲読・参照することが可能であつたとそれぞれ推認することができると解される。

(3) これに対し、所轄監督官等については、前記のとおり労働安全衛生行政において果たすべきその役割は重要ではあるが、その任務は、広く法令の定めるところに従い、各種基準等の遵守状況を監督し、その履行を求めるなど、主として実地における行政実務の遂行をなす点にあること、各種化学物質の有害性等の調査研究、工場的生産の場での各種物質の化学的物理的作用の調査研究、各種文献資料の収集分析等自体をその職責とするものではなく、また、所轄監督官等、特に監督官においては組織的な調査研究等を独自に指揮遂行する制度的裏づけがあるわけでもないことなどに鑑みれば、自ら各種有害物質等を産出する工程を管理運営しながら化学工業を営む被告会社や、労働安全衛生行政の適正な執行、制度の改善等につき統括的な行政責務を負い、右目的のために各種調査研究を指揮し得る立場にある労働大臣らと比べて、各種産業医学情報や知見を獲得、取得する能力は格段に低く、また、高度の右情報獲得可能性、知見取得可能性を期待し得る行政上の地位でもないと解されることからも、所轄監督官等の前記関係文献の入手・閲読・参照の可能性に関しては、被告会社や労働大臣らの場合とは異なつて、国内文献、外国文献の双方について、前記のような推認の方法で事実認定を行うことはできず、個々的な判断が必要になると解される。

2 本件各公務員のがん以外の身体障害(認定障害)発生の因果関係の認識・認識可能性(前記第一節第三の二参照)

(一) 本件各公務員の因果関係認識状況の判断が必要な時期

前記第三章、第五章第二の一・二で認定したとおり、被告会社の生存原告らに対する加害行為は、前記昭和二二年一一月から昭和四八年六月までの期間全般にわたつているので、右期間における本件各公務員の前記因果関係の認識状況について検討する。

(二) 争いのない事実

原告らと被告国との間で、本件各公務員がいずれも労基法施行当時(昭和二二年一一月)から、クロム酸塩等製造作業における六価クロムを含むクロム被暴、吸入と前記第四章第四の一1で認定した皮膚炎・皮膚潰瘍、皮膚潰瘍の瘢痕等の皮膚障害の発生、同2(二)(2)で認定した鼻炎、鼻粘膜潰瘍等発症及び同2(二)(3)で認定した鼻中隔穿孔発症との一般的因果関係の存在を認識していたことにつき争いがない。

よつて、以下、別添四九記載の認定障害のうち右以外のもの(以下、ここでも「争いのある認定障害」ともいう。)の発生に関する右一般的因果関係についての本件各公務員の認識状況につき検討する。

(三) 労基法施行当初(昭和二二、三年ころ)から昭和二八年ころまでの状況

(1) 戦前におけるクロム被暴、吸入とがん以外の身体障害発生との因果関係に関する先進諸国での医学的知見の状況は前記第一節第三の二3(一)のとおり、我が国でも、皮膚障害、鼻中隔穿孔発生との因果関係の存在に関する知見が遅くとも大正末期までには確立されていたことなどについては同(二)のとおり、その余の鼻の障害及び気管支・気管・肺の障害(争いのある認定障害)発生との因果関係の存在に関し一定の合理的な推測が可能なことは同(三)(1)のとおり、昭和一三年ころまでに我が国の国内文献において示されたクロム被暴、吸入による右争いのある認定障害発生に関する医学情報、資料の状況は同(三)(2)のとおりである。

(2) 右(1)で引用したところに加えて、前記関係証拠及び弁論の全趣旨によれば、

イ 右(1)で引用した先進諸国の医学的知見を記述した当該外国文献は戦前から我が国の大学・関係研究機関等にも取り寄せられていたこと、

ロ 前記第一節第三の二3(三)(2)の各文献に加えて、昭和一三年ころから昭和二八年までの間に我が国で刊行された、クロム被暴、吸入による争いのある認定障害発生に関する国内文献として、(イ)栗原操の解説書「工場保健衛生」(昭和一七年刊)の中で、クロム中毒として慢性気管支炎、肺炎がある旨の記述が、(ロ)久保田重孝の解説書「職業上疾患の管理(職業病)」(昭和二三年刊)の中で、クロム被暴、吸入によつてじん肺発症があるとの報告がある旨の記述が、(ハ)労働医学心理学研究所編集の労働安全衛生実務の手引書である「労働安全衛生ハンドブツク」(昭和二八年刊)の中で、クロム被暴、吸入により上気道、咽喉頭の炎症が発症する旨が、それぞれ記述されていること、

が認められ、右認定に反する証拠はない。

(3) 検討

イ 労働大臣ら

昭和二二、三年ころ、右(2)イのとおり我が国の大学・関係研究機関等にも取り寄せられていた前記外国文献や前記(1)で引用した前記第一節第三の二3(三)(2)の各国内文献を入手・参照することが、専門家等においても極めて困難であつたことなどを示す証拠はなく、労働大臣らがこれらを入手・参照して、記述されているクロム被暴、吸入による各種身体障害発生に関する医学的知見を取得することは可能であつたと推認され、これに加えて、前記(二)の争いのない事実、(三)(1)で引用した各事実を総合すると、労働大臣らは、昭和二二、三年には、前記皮膚障害、鼻炎・鼻中隔穿孔等(争いのない認定障害)のほか、クロム被暴、吸入と前記第五章第二の三2(二)、6(一)で認定した鼻汁過多・鼻出血等の鼻炎類似の慢性的症状、鼻の全般的機能障害発生との因果関係の存在も認識しており、更に、クロム被暴、吸入と鼻腔腫瘍の発生を含めその余の争いのある認定障害発生との因果関係についても、その存在を認識し得べき状況にあつたと認められる。

ロ 所轄監督官等

(イ) 前記(二)の争いのない事実、前記(三)(1)で引用した前記第一節第三の二3(一)の事実及び前記関係証拠を総合すると、所轄監督官等は、昭和二二、三年には、前記皮膚障害、鼻炎・鼻中隔穿孔等(争いのない認定障害)のほか、クロム被暴、吸入と前記第五章第二の三2(二)、6(一)で認定した鼻汁過多・鼻出血等の鼻炎類似の慢性的症状、鼻の全搬的機能障害発生との因果関係の存在も認識していたと認められる。

しかし、右当時、所轄監督官等において、前記医学的知見を記述する外国文献を自ら閲読・参照することが可能であつたことを示す証拠はなく、また、前記第一節第三の二3(三)(2)の各種国内文献に関しても、そのすべてを閲読・参照し得たと認めるに足りる証拠はなく、前記1(二)(3)で説示したところに照らして前記関係証拠及び弁論の全趣旨を総合考慮すれば、右各国内文献のうちせいぜい同イ、ヘ、トの各文献及び同リで挙げるその他の手引書・解説書についてはこれを閲読・参照し得る状況にあつたと認められるにとどまり、この点に加えて、更に、前記二で認定説示した当時の労働安全衛生行政の状況等をも併せ考察すると、前記(三)(1)で引用した前記第一節第三の二3(三)(1)の合理的な推測が可能であつたことを考慮に入れても、なお、本件全証拠によつても、右当時所轄監督官等がその余の争いのある認定障害発生に関する因果関係の存在についてまで認識し得べき状況にあつたとまで認めることはできない。

(ロ) しかしながら、右認定の国内文献の閲読・参照の可能性や合理的推測の可能なことに加えて、前記関係証拠によれば、前記(2)ロ(ロ)、(ハ)の各文献を含め昭和二二、三年以降もクロム被暴、吸入による争いのある認定障害発生につき記述する手引書・解説書などが刊行され、クロムの催炎性、腐食性、一次刺激性による有害作用が関係者の間に広く認識され得る状態になつていつたことや、前記二で認定説示した昭和二二、三年以降の労働安全衛生行政の推移を総合考慮すれば、所轄監督官等においても、遅くとも昭和二〇年代末までには、クロム被暴、吸入と鼻腔腫瘍の発生を含めその余の争いのある認定障害発生との因果関係についても、その存在を認識し得べき状況になつたことが認められる。

3 本件各公務員の肺がん及び上気道のがん発症の因果関係の認識状況認定の基礎事実等(前記第一節第三の三参照)

(一) 本件各公務員の因果関係認識状況の判断が必要な時期等

(1) 前記第五章第三の一2(二)、3(一)で認定説示したとおり、被告国との間でも、被告会社の被害者たる死亡者に対する加害行為は、前記期間全般にわたつているので、右期間における本件各公務員の前記因果関係の認識状況について検討する。

(2) 上気道のがんたる喉頭がんとしての検討を行う点については、前記第一節第三の三1(二)と同様である。

(二) 本件各公務員の認識状況、認識可能時期等に関する原告らの主張の骨子

(1) 本件各公務員のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん、上気道のがん発症との因果関係の認識状況、認識可能時期等に関する原告らの主張の骨子は次のとおりである。

すなわち、原告らは、まず、〈1〉クロムによる肺がん発症を示すドイツにおける症例報告の存在及びその医学情報の我が国への流入を理由に、本件各公務員には、労基法施行当初の昭和二二、三年ころには右認識可能性が存していたと主張し、仮に、右時期に右認識可能性が存しなかつたとしても、戦後米国において疫学的研究が進み、遅くとも昭和二八年までには右因果関係の存在が確認されるに至つたので右時期までには本件各公務員も右因果関係を認識するに至り、仮にそうでないとしてもその認識可能性は存したと主張する。

(2) 前記第四章第四の二8(一)で認定説示したとおり、我が国において最初になされたクロム被暴、吸入による肺がん等発症に関する原研究としての本格的疫学的研究は、昭和四八、九年になされた渡部真也ら、大崎饒らによる各調査研究であるところ、原告らは、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係に関する原研究の多くはドイツ、米国でなされたことを前提にして、主としてそこで得られた医学的知見に関する情報を(文献の閲読・参照等の形で)獲得することによつて、本件各公務員が右因果関係の認識を得、あるいはその認識可能性が生じるに至つた旨主張するものである。

(3) そこで、以下、被告会社の場合と同様、本件各公務員の前記認識状況認定の基礎事実として、昭和二八年ころまでのドイツ、米国における右因果関係に関する研究報告の状況、右両国における医学情報、資料の我が国への流入等の状況を検討した後に、本件各公務員の右時期における認識状況につき考察することにする。

(三) 外国におけるクロムによる肺がん等の研究報告状況

この点については、前記第一節第三の三3で認定説示したとおりである。

(四) 我が国におけるクロムの発がん性に関する外国の医学情報の流入等(昭和二八年ころまで)

この点については、前記第一節第三の三4で認定説示したとおりである。

4 本件各公務員の因果関係の認識状況の検討判断(前記第一節第三の四参照)

以下、被告会社の場合と同様、まず、本件各公務員の外国における医学情報等の獲得可能性(知見の取得可能性)の存否につき検討した上、前記因果関係の認識可能性の存否につき考察することにする。

(一) 本件各公務員の外国における医学情報、資料の獲得可能性(知見の取得可能性。昭和二八年ころまでの状況)

(1) クロムによる肺がん等に関するドイツの産業医学情報を紹介した戦前の我が国の国内文献の記述内容が否定的なものでないことなどは、前記第一節第三の四1(一)(1)のとおり、昭和二〇年代にクロムによる肺がん発症を肯定する外国の医学情報を紹介した解説書等の文献が、当時の我が国の代表的かつ標準的な一般向けの解説書、労働衛生に関する手引書であり、内容も平易であつたこと、昭和二〇年代まで総合書、解説書、教科書レベルのものでは前記米国の各疫学的研究報告(マツクルら、マンクーソーら、ベイチヤー、米国公衆衛生局のもの)を紹介記述するものはなかつたことなどは、同(二)(1)のとおり、右米国の各疫学的研究報告を掲載した刊行物が、その刊行時から時を移さず我が国へも取り寄せられ、専門家等においてその大半を現に閲読・参照し、その余のものも閲読・参照可能な状況にあつたことなどは、同(二)(2)のとおりである。

(2) 労働大臣ら

前記第一節第三の三4(一)で挙げた各国内文献はもとより、同(二)のとおり、戦前既に我が国にも取り寄せられていたと認められる前記ドイツの産業医学情報を記載した外国(ドイツ)文献、戦後その刊行時から時を移さず我が国にも取り寄せられていたと認められる米国の各疫学的研究報告を掲載した刊行物について、専門家等においてもこれらを入手することが極めて困難であつたことを示す証拠はないから、前記1(二)(2)で説示したとおり労働大臣らは、右各国内文献については戦前のものは昭和二二、三年当時、戦後のものはその刊行後短期間内に、右ドイツの文献については昭和二二、三年当時、右米国の文献についてはその報告発表後短期間内に(これらの時期については、前記第一節第三の三4(二)の認定事実、右(一)の引用事実、前記関係証拠及び弁論の全趣旨によつて認めることができる。)、それぞれ入手・参照することが可能であつたと推認される。

また、前記関係証拠及び弁論の全趣旨によれば、独自の症例研究などとは異なり、当時の「時代的制約」を十分に考慮に入れても、労働大臣らが専門家等に対し外国文献等につき照会などを行うことは容易であつたと認められ、この点と右(1)の引用事実及び前記関係証拠を総合すれば、労働大臣らは、当時、右各国内文献の閲読・参照を契機に専門家等に照会するなどして、右のドイツの産業医学情報、資料や米国の各疫学的研究結果に関する情報、資料を得ることができる状況にもあつたと認められる。

以上によれば、労働大臣らにおいて、昭和二二、三年ころには、前記3(三)で引用した戦前のドイツにおけるクロムによる肺がん等に関する医学的知見を得、昭和二八、九年ころには戦後の米国における前記四疫学的研究結果のすべてを知り得る状況になつていたと認めることができる。

(3) 所轄監督官等

所轄監督官等については、原告ら主張の昭和二八年ころまでの時期において、前記のとおり我が国にも取り寄せられていたドイツや米国の各種産業医学文献を直接入手・閲読・参照することが可能であつたことを示す証拠はなく、前記第一節第三の三4(一)の各種国内文献に関しても、そのすべてを閲読・参照し得たと認めるに足りる証拠はなく、前記1(二)(3)で説示したところに照らして前記関係証拠及び弁論の全趣旨を総合すれば、右各国内文献のうち(3)ないし(6)の各文献を閲読・参照し得る状況にあつたと認められるにとどまる。

また、前記第一節第三の三4(一)で示したとおり、右各国内文献のクロムによる肺がん発症に関する記述自体は簡単なものであり、断片的に戦前のドイツにおける症例報告の一端を紹介するにとどまり、前記(1)で引用したとおり右各国内文献には米国の疫学的研究結果を紹介するものはなく、昭和二〇年代まで、少なくとも総合書、解説書レベルのものでは、前記第一節第三の三3(二)(前記第四章第四の二8(一)(2)ないし(5))の各疫学的研究結果を紹介記述する文献はなかつた。

加えて、前記1(二)(3)の説示、前記二で認定説示した昭和二〇年代の労働安全衛生行政の状況等に照らして前記関係証拠及び弁論の全趣旨を総合考慮すれば、右当時、所轄監督官等において、右各国内文献の閲読・参照を契機に、独自に専門家等に対してクロムによる肺がん等発症に関する外国文献の存否等を照会するなどして、ドイツや米国における産業医学情報、資料を得ることができる状況にはなかつたと認められる。

以上によれば、本件においては、昭和二八年までの段階では、所轄監督官等は、右各国内文献の記載から概括的部分的にドイツにおけるクロムによる肺がん等に関する医学的知見を知り得る状況にあつたとは認めることができるが、右ドイツの医学的知見の具体的内容や前記米国における各疫学的研究結果の内容については、本件各公務員においてこれを知り得る状況にあつたと認めるに足りる証拠はないことになる。

(二) 本件各公務員の因果関係の認識可能性

本件全証拠によつても、本件各公務員が昭和二二、三年当時はもとより昭和二八年当時においてもクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係の存在を認識していたことを示すに足りるものはないところ、以下、これまで認定説示してきたところを前提にして、右当時における本件各公務員の右因果関係の認識可能性の存否につき検討する。

(1) 因果関係の存在認識の状況と認識可能性

クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん、上気道のがん発症との因果関係の存在確認の性格及び右因果関係の存在認識の状況と認識可能性との関係については、前記第一節第三の四2(一)で認定説示したとおりである。

(2) ドイツにおける医学的知見の取得と因果関係の認識可能性

戦前のドイツにおけるクロム酸塩等製造作業者の肺がん等発症に関する医学的知見の状況は前記第一節第三の三3(一)(第四章第四の二7)(前記3(三)で引用)のとおりであり、本件各公務員の右知見の取得可能性については前記(一)(2)、(3)で認定説示したとおりであるところ、右(1)で引用したところをも考慮して当時本件各公務員の右知見の取得可能性が右因果関係の認識可能性に結びつくものであつたかについて検討するに、本件各公務員の認識可能性に関しても前記第一節第三の四2(二)(1)イ、ロと同様のことがいえ、また、同ハについても、右認識可能性が前記のとおり本件各公務員の行政権限等行使の作為義務の一要件である以上、本件各公務員についても「ドイツの症例報告等に客観的証明の要素が欠落してはいても、その内容とするところを信ずることは容易であつたし、信じたところに従つて権限等を行使できたはずである」との見地から右作為義務の一般的要件たる右因果関係の認識可能性があつたとすることはできないと解される。

更に、原告らが請求原因第六章第二節第三の四4(二)(4)イで指摘主張するところが正当でないことも前記第一節第三の四2(二)(2)で述べたとおりである。

以上によれば、前記のとおり労働大臣らが昭和二二、三年ころ前記ドイツにおける医学的知見を得ることができたことをもつて、労働大臣らには当時前記因果関係の認識可能性があつたと認めることはできないことになる。

また、所轄監督官等については、もともと前記のとおり概括的部分的にしか右医学的知見を知り得なかつたのであるが、たとえ前記当時具体的に右知見を知り得る状況にあつたとしても、そもそも右知見取得は右因果関係の認識可能性につながらなかつたことになる。

(3) 米国の各疫学的研究結果の示す知見の取得と因果関係の認識可能性

クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入に起因する肺がん等発症に関し、戦後米国で昭和二八年(一九五三年)ころまでに報告、発表された四つの疫学的研究結果の内容等については前記第四章第四の二8(一)(2)ないし(5)及び前記第一節第三の三3(二)(前記3(三)で引用)のとおりであり、前記(一)(2)のとおり本件各公務員のうち労働大臣、労働省労基局長は、右各研究結果の内容をその発表時から短期間内に知り得る状況にあつたところ、前記(1)で引用したところをも考慮して、当時労働大臣らの右知見の取得可能性が右因果関係の認識可能性に結びつくものであつたかについて検討するに、次のとおりである。

すなわち、まず、右各疫学的研究結果の資料的価値等については、前記第一節第三の四2(三)(2)で認定説示したとおりであるところ、

イ (肺がん発症に関する因果関係の認識可能性)右認定事実と前記第四章第四の二8(一)(2)ないし(5)・(二)、前記第一節第三の三3(二)・(三)の各認定事実を総合考慮すれば、同四2(三)(3)で認定説示したとおり、米国では遅くとも米国公衆衛生局の報告がなされた昭和二八年ころには、疫学的研究の成果の集積によつてクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん発症との間の相当因果関係の存在が、客観的な医学上の知見としてほぼ確立されていた状況にあつたと認められ、したがつて、労働大臣らは、(文献等の参照に必要な時間的経過を考慮しても)遅くとも昭和二〇年代末までには、右の米国で確立された知見を知り得る状態になつたと解され、前記(1)で引用したところに照らせば、昭和三〇年には労働大臣らには右因果関係の認識可能性があつたといい得ることになる。

ロ (上気道のがん発症に関する因果関係の認識可能性)

次に、上気道のがんに関しては、前記第一節第三の四2(三)(4)で認定説示したとおり、昭和二八年前記米国公衆衛生局の報告がなされた段階においては、クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と上気道のがん発症との相当因果関係の存在が確立された医学的知見となるまでには至つていなかつたものの、将来各種研究の進展に伴つて、医学上肯認され得るに至るだけの客観性を持つた知見として、かなりの程度まで右相当因果関係の存在が明らかになつていたと認められ、したがつて、労働大臣らは、前記のとおり遅くとも昭和二〇年代末までには右の米国の知見を知り得る状況になつたと解され、前記(1)で引用したところに照らせば、昭和三〇年には労働大臣らには右因果関係の存在につき前記第一節第三の一2(一)(4)(前記1(一)で引用)の意味で認識可能性があつたといい得ることになる。

(4) 昭和二八年以降の所轄監督官等の因果関係認識可能性

前記(一)(3)、(二)(1)ないし(3)で認識説示したところによれば、所轄監督官等については、昭和二八年ころまでには、前記因果関係の認識可能性があつたとは認めることができないことになるところ、その後の時期においても長く、所轄監督官等が自ら、前記米国の各疫学的研究結果を掲載した外国文献自体を直接検索して入手・閲読・参照することが可能であつたと認めるに足りる証拠はないものの、前記第四章第四の二8(一)・(二)、9の各認定事実、前記第一節第三の三4、四1(二)、2(一)・(三)(2)、3(二)・(四)の各認定説示、前記二、五1(二)(3)の各認定説示を総合考慮すれば、次のとおり認めることができる。

すなわち、昭和三〇年代以降も米国などでクロムによる肺がん等に関し、各種疫学的研究が進められるとともに、各種動物実験も盛んに行われるようになつて、前記因果関係の存在を肯認する医学的知見はより一層確固たるものになつていつたところ、昭和三〇年代には我が国の国内文献でも米国での疫学的研究結果を紹介し、あるいはこれに依拠して右因果関係、特に肺がん発生に係るものの存在を肯定する記述がなされるようになり、別添五一で示すとおり、昭和三〇年から昭和四七年までの間かなりの数を産業衛生、職業病に関する国内文献において右のような記述がなされた。

別添五一からも明らかなように、これらの国内文献の多くは、解説書、総合書、実地調査の報告書、あるいは労働省の部局もその作成に関与して刊行された手引書であり、これらは、所轄監督官等において必ず閲読・参照の機会があつたと認められるものや、入手・閲読・参照が可能であつたと認められるものである。このうち、前記角田報告(別添五一の7)は、所轄監督官等のうち少なくとも道労基局長及び岩見沢労基署長には必ず閲読する機会があつたと認められる文献であるが、前記のとおり、具体的に栗山工場の粉じん多発職場について「近年米国の研究者らによつて報告された肺がん発生の可能性も考慮される。」旨記述していた。

また、昭和三〇年代後半以降になると別添五一の11「職業がん」(昭和三七年刊行)や20「職業がん」(昭和四四年刊行)のように総合的かつ詳細にクロムによる肺がんに関する記述をなすものも刊行されるようになつた。

ただ、右各国内文献のほとんどは、呼吸器系のがん又は肺がん(気管・気管支がんを含む。)発症に係る因果関係の存在を記述し、明示的に上気道のがんの分類レベルで右因果関係の存在を指摘するものはほとんどなかつた。

一方、昭和三〇年代後半から、労働安全衛生行政実務においても、各種化学物質、有害物質による職業病予防等が重視されるようになり、昭和四〇年代になつてこの傾向は一層強まり、労働環境における各種有害物質規制に関する単行法令の制定が続き、前記昭和四五年の全国一せい総点検、基準委員会設置、旧特化則制定へと進んでいつた。

以上のとおり認められ、右認定の事実に、所轄監督官等の労働安全衛生行政における各職責、行政組織上の権限等を併せ考慮すると、少なくともクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん発症との因果関係の存在については、道労基局長においては遅くとも昭和三〇年代後半には、岩見沢労基署長、所轄監督官においては遅くとも昭和四四、五年にはその認識可能性があつたと推認される。

しかし、前記(二)(1)で引用したところ及び前記第一節第三の四2(三)(4)の認定事実に照らせば、米国の疫学的研究結果自体を参照し得ない状況の下で、前記認定事実から直ちに所轄監督官等において上気道のがん発症に関する因果関係の認識可能性もあつたと認めることは難しく、他にこの点を認めるに足りる証拠もない。

(三) 米国の研究結果の普遍性及び我が国の専門家等の評価等と本件各公務員の認識可能性等(被告国の主張について)

被告国が第四編第四の三において詳細に主張するところは、一つは、本件各公務員に作為義務が存したとするためには単に事実認識としての因果関係の認識、認識可能性が存しただけでは足りず、前記四2(一)で挙げたような要素も認められる必要があるとするものであるが、この点に加えて、前記第一節第三の四3(一)で示した被告会社の主張と同趣旨のものも含んでいると解されるところ、本件各公務員の前記因果関係の認識可能性についても、同(二)ないし(六)で被告会社について認定説示したところと同様のことがいえ、右因果関係の存在についての我が国の専門家等の評価、認識状況は、右(二)の本件各公務員の認識可能性の存在に関する認定を妨げるようなものではない。

(四) 原告ら主張の本件各公務員のその余の調査義務等について

最後に、原告らは、請求原因第六章第二節第三の四5において、労働大臣らには大学等の研究機関に委嘱するなどして、症例研究、疫学的研究まで含めて、クロムによる肺がん等発症に係る因果関係を正確に把握すべき義務あるいは職責があり、このような調査研究によつて右因果関係が解明され得た状況があつたとされる限り、労働大臣らには右因果関係の認識可能性が存した旨の主張をもしている。

そこで、これまでの検討によつては右(二)(2)、(3)のとおり、労働大臣らの右因果関係の認識可能性を認めることができない昭和二〇年代において、原告らの右主張のような観点から、労働大臣らに右認識可能性が存したとなし得るかにつき検討するに、前記第一節第三の四4(一)(2)、(二)(1)・(2)で認定説示したところに照らして前記関係証拠及び弁論の全趣旨を総合考慮すると、労働大臣らの労働安全衛生行政における行政責務の重さ、その組織的調査研究能力等を十分考慮に入れても、戦後昭和二〇年代において労働大臣らが、我が国の専門家等を主導して、右因果関係の存在を明らかにし得るような疫学的研究等を推進することは極めて困難であつたと認められ、ほかに、労働大臣らがこのような調査研究を主導することが可能であつたことを示す証拠はない。

(五) 要約

以上のとおり、本件各公務員のうち、労働大臣及び労働省労基局長には、遅くとも昭和三〇年以降クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん、上気道のがん発症との因果関係の認識可能性があり、道労基局長には遅くとも昭和三〇年代後半以降、岩見沢労基署長・所轄監督官には遅くとも昭和四四、五年以降それぞれ右クロム被暴、吸入と肺がん発症との因果関係の認識可能性があつたことになる。

5 本件各公務員の危険状態の認識、認識可能性のまとめ

以上四、五で認定説示したところをまとめると、本件各公務員の前記危険状態の認識、認識可能性については、次のとおりとなる。

(一) 労働大臣ら

(1) 皮膚障害、鼻炎・鼻中隔穿孔等・鼻炎類似の慢性的症状等

右各障害との関係では、昭和二〇年代後半から昭和三五年ころまで一般的危険状態の認識可能性あり。右以降右認識あり。

(2) その余の鼻の障害、気管支・肺の障害

右各障害との関係でも、昭和二〇年代後半以降右認識可能性あり。

(3) 肺がん、上気道のがん

右各障害との関係では、昭和三〇年以降右認識可能性あり。

(二) 所轄監督官等

(1) 皮膚障害、鼻炎・鼻中隔穿孔等、鼻炎類似の慢性的症状等

右各障害との関係では、昭和二二、三年ころから昭和二〇年代後半まで右認識可能性あり、右以降右認識あり。

(2) その余の鼻の障害、気管支・気管・肺の障害

右各障害との関係では昭和三〇年以降右認識可能性あり。

(3) 肺がん、上気道がん

イ 肺がん発症との関係では、道労基局長は昭和三〇年代後半以降、岩見沢労基署長、所轄監督官は昭和四四、五年以降いずれも右認識可能性あり。

ロ 上気道がん発症との関係ではいずれも昭和四八年六月までの間に右認識可能性なし。

(三) 前記四1で説示したところによれば、右で示したように本件各公務員に危険状態の認識可能性さえ認めることができない時期においては、当該障害発生防止との関係では本件各公務員の前記権限等行使の作為義務が認められる余地は全くないことになる。

そうすると、被害者たる死亡者らのうち死亡者小坂との関係では、所轄監督官等の権限等行使の行為義務が認められる余地はないことになり、また、前記第五章第三の一2(二)で説示したように被告国との間でも同人のクロム被暴作業従事期間は昭和三〇年より前に終了しているので、厳密には労働大臣らの右作為義務を認めることもできないことになつて、この段階で同人に係る被告国に対する国家賠償請求は失当となるべきものと解されが、以下、本件各公務員の具体的な作為義務については、上気道がん発症防止との関係でもその存否の検討判断をすることにする。

六 作為義務存否の検討その三 命令権限等行使に関する具体的検討

以上一ないし五の認定説示を前提にして、以下、まず、本件各公務員の前記命令権限等(前記第四の一1(二)(1)の労働大臣らの行政上の措置及び同(2)の所轄監督官等の行政上の措置、強制的権限)について、次に、七で前記省令立法権限(同(一)(1)、(2)の労働大臣らの権限)について、それぞれの行使の作為義務の存否につき検討判断する。

1 命令権限等行使の作為義務に関して考慮すべき事項

前記二、三では本件各公務員の作為義務存否の判断の基礎として、前記各権限等に共通するものにつき説示したが、ここで、命令権限等行使に関し、右各説示に考慮すべき事項につき説示する。

(一) 命令権限等行使と労働災害の事後的救済との関係

(1) 前記命令権限等行使に関する原告らの主張は、労働災害を未然に防止すべき権限等の不行使が、ひいては労働災害の被害者に対する不法行為を構成し、被告国は損害賠償責任を負うという形で被害者の事後的救済の責めを負うとするものである。

しかるところ、前記三2で説示したとおり、本件各公務員は、使用者の国に対する義務を遵守させる措置である右権限等につき、個別の労働者に対して、本来事前の措置としてこれを行使すべき法的義務を負わないが、現実に労働災害が発生(使用者の労働者に対する加害行為が成立)した場合の事後的救済である不法行為責任の成否に関しては、右権限等不行使が作為義務に違反したものとされる余地が残ると考えられる。

(2) ところが、労基法は、前記のとおり労働災害の未然の防止に関して、私法的規律を行うことに加えて、使用者の安全衛生基準違反の是正等を求める行政監督の制度を設ける一方、労働災害によつて労働者が受けた現実の被害の事後的救済についても、災害補償の制度を設けて(法第八章)私法上の救済を強化するとともに、国が労災法に基づき労災保険を管掌運営することによりその行政的救済を図るという制度を採用している。

そうすると、このように労働災害の事前防止に加えて事後的救済についても、国が後見的に関与する行政制度が存することに鑑みれば、少なくとも、制度の立法者としては、事後的救済の場面においても当該公務員の権限不行使が被害者たる労働者の作為義務に違反し、国がその不法行為に基づく損害賠償責任を負う場面は限定的例外的なものであるとする前提に立つていたと解される。

ただし、法的には労災補償制度と不法行為制度が同一のものではないことや、前記二2のようなクロムによる障害の業務上認定に関する行政実務の変遷などを考慮すると、被告国のいうように右の点をもつて、本件各公務員が法的作為義務を負う余地が全くないことになる、とまで断ずることはできない。

(二) 命令権限等行使と他人の加害行為の防止・回避

前記第一の二2(一)で述べたように、原告らの本件国家賠償請求の大きな特徴は、本件各公務員の不作為、それも他人(被告会社)のなした別個独立の加害者の存在を前提として、これを防止・回避するために前記命令権限等を行使しなかつたことをもつて、右権限等不行使は作為義務に違反し、右加害行為の被害者らに対する新たな加害原因行為となり、ひいては被告国はその被害につき損害賠償責任を負うとする点にある。

そこで、前記三で説示したところと右の点とを併せ考慮すると、右権限等不行使が作為義務違反に当たるとされる場面は、次のように限定されたものになると解される。

(1) まず、前記認定のとおり本件の生存原告らや被害者たる死亡者に対する直接的な加害者はいうまでもなく被告会社なのであり、本件各公務員がこの本来別個独立のものである被告会社の加害行為による違法な結果発生防止・回避のため、前記のとおり本来右被害者らにその行使の法的義務を負わない権限等につき、事後的救済に関してであれ、その行使が行政上の責務にとどまらず法的作為義務であつたとするには、当時本件各公務員の右加害行為、あるいは栗山工場の前記製造工程の労働環境管理への行政的介入が非常に強く求められるとともに、現実に本件各公務員に対し、そのような介入を強く期待できる客観的状況が存していなければならないと解される。

確かに、被告会社は、前記のとおり使用者あるいは施設管理者として労基法による公法的規制、監督の対象となる者であるが、労基法に基づく監督取締は、国が後見的立場から行うものであつて、国が個別の労働関係、労働環境を直接的かつ包括的に管理支配しているわけではなく、使用者の各種基準遵守に関しても強度の保障者的立場に立つているわけでもないと解されるのである。

(2) また、この点に関連して、いうまでもなく労働関係は労使の私法上の法律関係であり、労働者に対する関係で安全衛生基準の遵守、労働災害防止の義務を負うのは、本来一次的にも最終的にも使用者であることに鑑みれば、前記製造工程における労働災害発生につき、被告会社と並んで本件各公務員もまた法律上その防止・回避に関して作為義務を負い、ひいてはこの作為義務違反につき国が損害賠償義務を負うとするためには、被告会社における右製造工程の安全衛生管理遂行の意欲や能力の著しい欠如、本件各公務員の権限行使による右防止・回避の相当程度の確実性、本件各公務員による右製造工程の安全衛生管理への介入の容易性等が存する場合などに限られると解される。

(3) 更に、本件各公務員が右製造工程の労働環境改善のためになし得た行政上の措置は前記のとおり右命令権限等行使に限らず、広く行政上の指導監督まで含まれていたこと、法旧五五条や法旧一〇三条の強制的権限は、その行使により右製造工程の稼動自体はもとよりこれに従事する労働者に与える影響も少なくないこと、法旧一〇三条の即時強制権限は法文自体が急迫な危険の存在を要件としていたこと、前記第四の二3(三)で述べたように右強制的権限の行使の要件たる具体的基準の定めが一般的包括的であつたことから、右権限等行使についてはかなり慎重な配慮が求められたと解されることなどに鑑みると、このような強力な権限等行使を選択してまで被告会社の労働環境管理に介入することが、単に行政上の権能あるいは責務であるにとどまらず、本件各公務員の前記被害者らに対する法的作為義務であつたとされる場面は、おのずから限られてくることになると解される。

特に、本件各公務員が被告会社に対し、右権限等行使はもとより他の行政上の指導監督をも全くなしていなかつたというような場合は格別、前記二3のように行政上の指導監督としては各種の措置が実行されている本件においては、行政監督の手法の選択、あるいはその実行程度が前記裁量権の範囲を著しく逸脱したものであるとされた上、右法的作為義務に反するものであつたとされる場面は相当に限定されると解されるのである。

2 検討

(一) 判断要素等

本件各公務員の(各障害に対する関係での)危険状態の認識、認識可能性については、前記五5で要約説示したとおりである。

しかるところ、前記四2(一)で説示したとおり、右認識、認識可能性は、いわば事実認識そのものとしての危険状態の認識状況であり、直接の加害原因行為者である被告会社の場合には、前記第一節第二の二1、第三の一2等で説示したとおり、これが自己の行為によつて生ずる結果発生への予見可能性につながり、直ちにその過失(結果回避義務違反)の一要件となるものであるが、本件各公務員の作為義務に関しては、前記四1のとおり、作為義務を基礎づける一般的前提要件にすぎず、前記二、三、六1で認定説示したところ(以下、ここでは「前記認定説示」ともいう。)によれば、右認識、認識可能性が認められる場合であつても、本件各公務員の命令権限等行使が生存原告らや被害者たる死亡者らに対する作為義務となる場面は、前記のとおり相当に限定されたものになり、本来個別労働者に対し、その行使の法的義務を負わず、また、直接個別労働者の私法上の利益保護を目的としない右権限等につき、その不行使が合理的な裁量の範囲を著しく超えていたと認められるほどの状況、被告会社の加害行為や前記製造工程の労働環境管理への強制的権限行使による行政介入が非常に強く求められ、かつ、現実に本件各公務員に対しこのような介入を強く期待できる客観的状況、行政監督方法として行政上の指導監督だけを行つたことが著しく不当であり、(他の副次的な影響などを無視しても)強制的権限の行使の選択が強く求められた客観的状況のいずれもが認められるような場合(以下、ここでは右のような状況を「限定的状況」ともいう。)に限つて、右権限等行使が本件各公務員の右被害者らに対する法的作為義務になり得ると解されるのである。

そこで、以下、本件各公務員の右命令権限等行使につき右限定的状況が存したかにつき検討することにするが、前記認定説示を総合考慮すると、右検討に当たつては、次のような点がその判断要素になると解される。

すなわち、

〈1〉 権限等行使によつて防止すべきであつたとされる当該被害が、右限定的状況を基礎づけるほどに労働災害に関する重大な危険であつたのか。

〈2〉 本件各公務員において、危険状態、特に当該障害発生の一般的因果関係の認識が容易であり、かつ、現実に差し迫つた重大な危険としての認識を持ち得る状況にあつたのか。

〈3〉 本件各公務員において、当該障害発生の一般的因果関係の認識可能性を前提にして、現実にこれを認識し、更に法的作為義務として強制されるものとして具体的に権限等行使をなすに至ることを期待できる客観的状況、すなわち期待可能性が存していたのか。

〈4〉 当該障害発生との関係で、被告会社の前記製造工程の安全衛生管理遂行の意欲や能力が著しく欠如し、本件各公務員の強制的権限行使によらなければ危険の排除が求められないという状態であつたのか。

〈5〉 右強制的権限行使によつて被告会社の加害行為を防止・回避できる相当程度の確実性があつたのか。

〈6〉 かなり強力なものも含めて行政上の指導監督だけによつて行政監督を行うことが著しく不当であり、強制的権限の行使によらなければ前記製造工程の作業環境改善は到底望めないというような状態であつたのか。

〈7〉 被害者たる生存原告ら、死亡者らにおいて、本件各公務員に対し強制的権限行使を期待し、信頼し得る状況にあり、その期待・信頼が社会的に容認され得るものであつたのか。

以上のような点を総合考慮して、右作為義務の存否が検討判断されるべきことになると解される。

(二) 生存原告らとの関係

(1) 前記第四章第四の一、第五章第二の三の各認定事実、前記関係証拠及び弁論の全趣旨によれば、生存原告らの罹患した前記認定障害のうち、皮膚炎・皮膚潰瘍・皮膚潰瘍の瘢瘍等の皮膚障害、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等・鼻中隔穿孔、鼻汁過多・鼻出血等の鼻炎類似の慢性的症状、鼻の全般的機能障害、慢性副鼻腔炎(慢性篩骨洞炎、慢性上顎洞炎を含む。)は、確かに一般的に軽微な障害であると断ずることはできず、特に、鼻中隔穿孔は極く一部分とはいえ身体の形態的損傷であり、また、右鼻の慢性的症状、鼻の全般的機能障害、慢性副鼻腔炎も長期間にわたつて継続し、苦痛、不快感や各種生活上の不便をもたらすものではあるが、前記(一)〈1〉のような限定的状況を基礎づけるほどに重大な障害であるとまでいえないと認められる。

(2) 次に、右(1)の各障害以外の認定障害発生防止との関係では、前記五5の要約説示によれば、昭和二〇年代後半までの労働大臣らの、昭和二〇年代末までの所轄監督官等の各作為義務を認める余地がないことは明らかであるところ、右各時期より後昭和四八年六月までの間の本件各公務員の右作為義務に関しては、前記関係証拠及び弁論の全趣旨によれば、次のとおりの事実関係を認めることができる。

じん肺を除き、昭和二二、三年から昭和四八年六月までの間に栗山工場で行われた前記各種健康診断においてこれらの障害所見者が発見されたことはほとんど皆無に近く、もとよりこれらの障害の多発というような状況も発見されなかつたこと、

じん肺については、じん肺健康診断によつてわずかな数の作業員にその所見があるとされたが、被告会社が配置転換等によつて対処したこと、

本件の生存原告らの右各障害罹患は昭和五〇年以降、それも昭和五五年ころに初めてその所見が発見されたものがほとんどであること、

昭和四八年六月の栗山工場操業廃止までの間に、生存原告らを含めて前記製造工程の作業員から岩見沢労基署等に対する右各障害罹患を理由にした労災認定申請も全くなく、所轄監督官等に対するその余の申告、指摘等も全くなかつたこと、

我が国の産業医学の専門家等においては、クロム被暴、吸入と右各障害罹患との因果関係の存在を確認してはいたものの、現実に我が国で障害発生例が多く見られるのは、皮膚障害、鼻炎・鼻中隔穿孔等に限られ、前記各障害についてはその多発の事例もないとの認識が一般であり、その発生防止が労働衛生上の緊急の課題であるとの問題意識はほとんどなかつたこと、

前記昭和四五年の全国一せい総点検の結果からも、現実に我が国のクロム酸塩等製造作業者の中に少なからず右障害罹患者が存するというような事態は明らかにならず、前記基準委員会でも、クロムが肺等の呼吸器に対する炎症性疾患をもたらす有害物質であるとの観点からの対策が十分検討された形跡もないこと、

前記二3のとおり、監督機関は、昭和三〇年代には栗山工場に対する行政上の監督を強め、特に、昭和三五年以降同工場を衛生管理特別指導事業場に指定するなどして強力な行政上の指導監督を行つてきたが、これに対し、被告会社の作業環境改善意欲は乏しかつたものの、前記のとおり改善能力は十分にあり、かつ、被告会社は使用停止等の強制的権限が行使されたのではないから全く行政監督に従わないというような態度を示したわけでもなく、前記のとおり、不十分ではあつても、右指導監督の下で各種改善措置自体はとつたこと、

以上の各事実が認められ、右認定に反する証拠はないところ、右認定事実と前記(一)の認定説示を総合考慮して考察すれば、本件各公務員の右各障害発生防止に係る命令権限等行使に関しては、本件各公務員が前記各時期において、前記(一)〈2〉の現実に差し迫つた重大な危険としての認識を容易に持ち得る状況にはなく、同〈3〉の期待可能性にも乏しく、同〈4〉の点も必ずしもそのような状態にあつたとはいえず、同〈5〉についても、そのような状態にあつたとは断じ得ないことが明らかであるといわざるを得ない。

(3) 以上(1)、(2)の認定説示によれば、生存原告らの認定障害防止に関して、本件各公務員には前記命令権限等を行使すべき作為義務があつたとは認めることができないことになるところ、本件全証拠によつても、ほかに、本件各公務員に右認定障害発生の危険状態の認識、認識可能性があつたと認められる時期において、前記の各判断要素に照らして、右権限等行使の作為義務を認めるべき限定的状況が存したと認めるに足りるものはない。

(三) 被害者たる死亡者らとの関係

(1) 被害者たる死亡者らの肺がん等発症防止との関係では、前記五5の要約説示によれば、前記昭和二二年一一月から昭和四八年六月までの期間中、労働大臣らについては肺がん及び上気道のがんの双方に関して昭和二〇年代末までの間において、所轄監督官等について上気道のがんに関して右全期間を通じて、道労基局長について肺がんに関して昭和三〇年代後半より前の時期において、岩見沢労基署長、所轄監督官について昭和四四、五年より前の時期において、それぞれ、前記命令権限等行使の各作為義務を認める余地がないことは明らかであるところ、以下、労働大臣らについて肺がん及び上気道のがん発症防止との関係で昭和三〇年以降の、所轄監督官等について肺がん発症防止との関係で、道労基局長につき昭和三〇年代後半以降の、岩見沢労基署長、所轄監督官につき昭和四四、五年以降の、各時期における右作為義務を認めるに足りるような前記限定的状況が存したかにつき考察する。

(2) 前記(二)(2)でも挙げたところの、監督機関は、昭和三〇年代には栗山工場に対する行政上の監督を強め、特に昭和三五年以降同工場を衛生管理特別指導事業場に指定するなどして強力な行政上の指導監督を行つてきたこと、これに対して、被告会社の作業環境改善意欲は乏しかつたものの、その能力は十分にあり、かつ、被告会社は使用停止等の強制権限が行使されたのではないから全く行政監督に従わないというような態度を示したわけでもなく、前記のとおり不十分ではあつても右指導監督の下で各種改善措置自体はとつたことは、肺がん等発症防止の関係でも、必ずしも、本件各公務員の命令権限等行使につき前記(一)〈4〉、〈6〉のような状態にはなかつたことを示すものである。

しかし、いうまでもなく肺がん等は重篤致命的な疾病であり、前記製造作業におけるクロム被暴、吸入により肺がん等発症をみることは重大な労働災害の危険があることにほかならず、このような重大な労働災害防止・回避のために国の労働安全衛生行政に課せられた責務は重く、被害者が国の各種行政能力に期待し、これを信頼する度合も高いことに鑑みれば、前記の点だけでもつて、直ちに本件では、肺がん等発症防止との関係でも、本件各公務員、特に労働大臣らの命令権限等行使の作為義務を基礎づける限定的状況を欠くものであるとすることは難しいと解される。

(3) そこで、更に検討するに、前記五4で認定したとおり、本件では、労働大臣らは昭和三〇年以降クロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん、上気道のがん発症との因果関係の存在につき、道労基局長は昭和三〇年代後半以降、岩見沢労基署長・所轄監督官は昭和四四、五年以降いずれも右クロム被暴、吸入と肺がん発症との因果関係の存在につき、それぞれ認識可能性があつたと認められるのではあるが、この認識可能性に関して、前記(一)〈2〉、〈3〉のような状況、すなわち、右因果関係の認識の容易性・現実に差し迫つたものとしての認識可能性や、右認識可能性を前提にして現実に右因果関係を認識し、更に法的作為義務として強制されるものとして命令権限等行使をなすに至る期待可能性が認められるか否かが、本件各公務員の右権限等行使の作為義務の存否を決する重要な要素になると解される。

ところで、前記製造工程におけるクロム被暴、吸入による肺がん等発症に関する昭和三〇年代以降の国内文献の記述状況(別添五一)、昭和四八、九年前記渡部ら、大崎らの調査研究がなされるまで、我が国の右製造作業者についてクロム被暴、吸入による肺がん等の症例であるとする症例報告はなかつたこと、昭和三七年土屋健三郎が、我が国で初めてのクロム取扱工場従業者の肺がんに関する疫学的見地からの調査報告と評価し得るものを発表したが、多くの点から見て疫学的研究としては不完全であり、記述疫学としても不十分なものであつたことなどについては、前記第一節第三の四3(四)(1)で認定説示したとおりである。

また、我が国の専門家等が米国の疫学調査結果を評価して、そこに示された前記相当因果関係の存在自体については特段の疑いを差し挟まず、その客観性等自体は広く承認しており、科学的な認識のレベルでは、右相当因果関係の存在を肯定していたものの、現実に我が国ではクロム肺がんの発生報告が存しないことに関して、「我が国にも発症例があるのではないか。」とか「我が国のクロム肺がんは現在『潜伏』期にあるのではないか。」などという形で、右因果関係の存在肯定から更に進んで我が国の前記製造工程でもクロムによる肺がん等の発生が現実に起こり得るという問題提起をした者はほとんどおらず、右因果関係の存在と現実の我が国での発症例報告の欠缺のギヤツプを、単に同義反復的に説明するにすぎない「日本人にはクロム肺がんが起こりにくいのかも知れない。」ということで済ましていたのが実情であり、大規模かつ徹底した実態調査などが提言されたこともないこと、このような状況の下で、我が国の専門家等は、総じて米国の右疫学的研究結果を評価していた反面、クロムによる肺がん等発症の問題に強い関心を示してこれを自己の研究課題として取り組み、問題意識を持つて我が国の右製造作業及びその作業者を対象にして現実の発症状況の調査から始めて症例が発見できなければ、なぜ発見できないかなどにつき、経験科学のレベルで右疫学的研究結果と矛盾なく説明するというような研究をしようとする意欲を示した者はおらず、この研究意欲、問題意識の希薄さは顕著であり、この状況は、産業医学の分野で職業がんについての関心が次第に高まつた昭和三七、八年以降昭和四〇年代になつてもあまり変化せず、有機溶剤によるがん等とは異なつて、クロムによる肺がん等発症に関する我が国独自の研究はほとんどなされた形跡がないこと、したがつて、産業衛生や職業病の専門家等においては、クロムによる肺がんが労働衛生に関する重要な現実的問題であるとの問題意識も極めて希薄であり、労働省が主導した産業の場での有害物質発生等防止対策の総合的検討の場面でもクロムによる肺がん等を取り上げることを提唱した専門家等はおらず、前記基準委員会の検討項目としても取り上げられず旧特化則にもがん原性物質としてのクロム化合物規約は盛り込まれなかつたこと、我が国の専門家等には、前記因果関係の存在を肯定することから本来導かれてしかるべきである「我が国においても前記作業者に肺がん等が多発する可能性がある。」という結論を、実際に研究課題として検証し、あるいは労働行政に対して積極的に警告したり、(その機会が与えられた場面でも)労働安全衛生に関する諸立法作業に反映させていくという姿勢がほとんど見られないままに終わつたこと、右のような問題意識等の希薄さの背景として、一般的な問題のほかに、クロムによる肺がん等発症に関する調査研究に関しては特有の困難な問題も存在しており、専門家等が「症例報告がないこと」について長く受身の姿勢に立つていたことにはそれなりの理由があつたことなどについては、同(四)(2)で認定説示したとおりである。

(4) そうすると、前記のとおり昭和三〇年以降労働大臣らが前記製造作業におけるクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係の存在について認識し得べき状況にあつたとしても、前記第一節第三の四3(四)(1)、(2)で認定説示した事実関係を前提にする限り、労働大臣らが、我が国の労働安全衛生行政に関する現実に差し迫つた危険として、右製造作業者における肺がん等発症の具体的可能性を認識することは極めて困難な状況にあつたといわざるを得ない。

また、道労基局長(昭和三〇年代後半以降)、岩見沢労基署長、所轄監督官(昭和四四、五年以降)については、右のような認識をすることがより一層困難であつたことはいうまでもない。

(5) 次に、前記関係証拠及び弁論の全趣旨によれば、労働安全衛生行政において、新たに一定の化学物質による障害発生の有無を各種省令、通達等で確認し、あるいは当該障害発生防止を理由にしてその製造工程等に対し強制的権限を行使して規制を行おうとする場合には、その行政作用の専門性、技術性に照らして、当該障害発生の具体的状況等に関する専門家等の意見、調査研究結果等を重視し、意見聴取、報告提出などを経て、その内容に依拠して行政機関が判断を行う必要があることが多いと認められ、現に、これまでの労働安全衛生行政においてもこのような手順が踏まれるのが通例であつたと認められる。

本件各公務員が、前記因果関係の存在を具体的に認識し、更に、新たにがん原性物質規制として前記製造工程に対し、前記強制的権限行使による規制を行うためにも、前記五で認定したような意味での一般的因果関係の認識可能性(危険状態の認識可能性)が存するという状況の下で、クロムによる肺がん等に関する文献の集成・記述内容の分析、具体的な発症可性能の度合、我が国での発症状況、あるいは従前発症をみないことの理由づけ、その他各種データの収集等の調査研究をなす作業が必要であり、このような作業がなされることが困難又は不可能な状況の下では、たとえ右の認識可能性が存していても、前記(一)〈3〉の期待可能性がないことになると解されるところ、前記第一節第三の四3(四)(1)、(2)で認定説示した事実関係を前提とする限り、本件各公務員においては、正に右の意味での期待可能性がなかつたと認められるのである。

(6) ところで、労働大臣らにおいて、昭和三〇年以降、米国の文献で示された前記製造作業者におけるクロム被暴、吸入と肺がん等発症との因果関係の存在に関する医学的知見に基づき、自ら主導的、積極的に我が国の専門家等に対して問題提起をし、その研究意欲、問題意識を引き出し、更に、クロムによる肺がん等に関して右(5)で挙げたような各種データ、資料を収集させ、我が国の労働安全衛生行政の上でも各種規制を行う必要性如何、これを行うとしたら如何なる手法でどのような措置をとるべきかなどの調査研究を推進させることが可能な状況にあり、かつ、このようなことをなすことが、労働大臣らの行政責務であるにとどまらず、個別の被害者に対する法的行為義務(調査予見義務)である(これをなさなかつた結果、行政権限等を行使しなかつたことが作為義務違反とされる形で行為義務となる)とされるほどに強く期待できる状況にあつたならば、労働大臣らについては、前記(5)で認定したような状況の下でも、前記(一)〈2〉、〈3〉のような差し迫つた認識可能性、期待可能性が存するのと同様の状況にあつたといい得ることになる。

そこで検討するに、前記第四章第四の二の認定事実、前記第一節第三の四3(四)・4(一)(2)・(二)の認定事実、前記二の認定事実、前記関係証拠及び弁論の全趣旨を総合すると、労働大臣らは、前記館らや鈴木らの各実地調査を後援し、あるいは、各種職業病対策の検討の一環としてクロムによるものの調査研究の委嘱等をなしたことはあるものの、昭和四八年栗山工場の前記製造作業従事経験者に肺がんが多発しているのではないかとの情報を得るまでは、特にクロムによる肺がん等発症の問題を取り上げて、右のような主導的措置をとつたことはないこと、一方、右時点以降は、(専門家会議の設置を含め)クロムによる肺がん等に関する調査研究を推進させるのみならず、各種法制上の規制措置、労災疾病認定基準の改正など積極的、主導的に各種措置をとつたことが認められるところ、昭和三〇年代には、労働大臣らが右のような主導的措置をとり得る状況にはなかつたと認められるが、昭和三〇年代後半以降我が国の産業医学界でも職業がん研究が独立した研究分野として位置づけられるようになつたこと、クロムによる肺がんにつき詳述する国内文献も現われてきたこと、労働安全衛生行政においても、昭和四〇年代には各種有害物質による職業病予防対策が最重要視されるようになつたことなどに鑑みると、昭和四〇年代、特に、別添五一の20「職業がん」が刊行され、また、前記全国一せい総点検がなされた昭和四四、五年には、労働大臣らがクロムによる肺がん等の調査研究に関し、前記主導的措置をとり得る状況にあつたと認めることができる。

しかしながら、右各証拠等によつても、労働大臣らが右認定のように、昭和四八年まで右主導的措置をとらなかつたことが、労働大臣らの本件の被害者たる死亡者らに対する前記のような意味での法的行為義務違反であるとまで認めることは難しい。

確かに、右証拠等によれば、昭和四四、五年当時、我が国ではクロムによる肺がん症例・死亡例は既に相当数存在しており、単にこれが専門家によつて発見されていなかつたという状態にあつたところ、これまで認定説示したところを総合考慮し、更に労働大臣らの労働安全衛生行政に果たすべき役割の大きさに鑑みれば、遅くとも昭和四四、五年には、我が国での症例報告がなされていない状態であつても、労働大臣らには、専門家等に対しクロム肺がんに関する調査研究を委嘱し、あるいは基準委員会での検討項目として考慮を求めるなどするべき行政上の責務があり、かつ、この責務は相当に重たいものであつたと認められるが、当時、労働大臣らが、我が国における各種有害物質による職業病の状況を積極的に調査研究するために、全国一せい総点検を実施し、更に、その結果を踏まえて、新規の規制立法(旧特化則)のためにも徹底的な職業病予防対策等の検討が行われることを期待して、多くの専門家等を委員として設置した基準委員会においても、クロムにつきがん原性物質としての規制を全く打ち出さなかつたことに鑑みると、がん原性物質としてのクロム規制に関しては、労働大臣らの行政上の責任が問われる面があつたことは認められるものの、なお、これをもつて、被害者たる死亡者らに対する法的行為義務違反であつたとまではいえないのである。

(7) 以上(1)ないし(6)の認定説示によれば、死亡者らの肺がん等罹患防止に関して、本件各公務員には前記命令権限等を行使すべき作為義務があつたとは認めることができないことになるところ、本件全証拠によつても、ほかに本件各公務員に右肺がん等発生の危険状態の認識、認識可能性があつたと認められる時期において、前記の各判断要素に照らして、右権限等行使の作為義務を認めるべき限定的状況が存在したと認めるに足りるものはない。

七 作為義務存否の検討その四 省令立法権限に関する具体的検討

1 労働大臣らの前記危険状態に関する認識状況は前記五5で要約説示したとおりであるが、労働大臣らに右危険状態の認識、認識可能性があつたとされる時期においても、前記三2(一)・(三)(3)、3(一)・(三)で認定説示したとおり、労働大臣らが原告ら主張のような一定内容の省令立法をしなかつたことが、個別労働者である生存原告らや被害者たる死亡者らとの関係で作為義務に違反した違法なものになると評価され、不法行為に基づく損害賠償の原因になるような事態は、極めて特殊例外的な場合に限定されると解される。

2 そこで検討するに、右のような限定的場面について、一般的抽象的要件を立てることは困難であり、また必ずしも当を得ていないと解されるところ、これまで本件各公務員の作為義務に関して認定説示したところに加え、前記関係証拠及び弁論の全趣旨を総合考慮すれば、本件においては、少なくとも、労働大臣らが右内容の省令立法をなさないことが法律の委任の趣旨を没却すること著しく、ほぼ完全な法の欠缺状態を招来し、これが、クロム酸塩等製造事業場に対する法旧五五条、旧一〇三条の強制権限行使はもとより、行政上の指導監督をなすにも重大な障害となつていたこと、右省令立法をなさなければ、他に右製造事業に対する規制措置の根拠となる法令がないという状態が長期間にわたつて継続していたこと、右省令立法の欠缺に起因して労働者に肺がん等が多発するなど重大な危険が現に発生し、労働大臣らもこの事実を認識し、又は極めて容易に認識し得る状況にあつたこと、右省令立法がこのような重大な危険の防止・回避のため労働大臣らのとり得るほとんど唯一の手段であり、加えて、具体的な基準の設定等に関して専門家の調査研究も進み、各種データ等も十分整い、省令の規定内容等につき専門家等から積極的に提案、提言等がなされている状態にあつたこと、以上のような事実関係が認められる場合に限つて、労働大臣らの右省令立法権限不行使が生存原告らや被害者たる死亡者らに対する法的作為義務になると解される。

しかし、前記第四の二3、前記二ないし六で認定説示したところに照らせば、本件において、前記昭和二二年一一月から昭和四八年六月までの全期間を通じて、労働大臣らの右省令立法権限不行使につき、右指摘のような状況がなかつたことは明らかであり、労働大臣らに右省令立法権限行使の作為義務があつたとする原告らの主張は失当であることになる。

本件全証拠によつても、ほかに、労働大臣らに右省令立法権限を行使すべき作為義務があつたとするに足りる特殊例外的な状況が存したことを示すものはない。

八 まとめ

以上認定説示してきたところによれば、原告ら主張の本件各公務員の前記各行政権限等不行使による不法行為については、生存原告らの認定障害罹患、被害者たる死亡者らの肺がん等罹患・死亡の双方との関係において、右不法行為が成立するための不可欠の要件である本件各公務員の右各権限等行使の作為義務の存在(前記〈5〉の要件)を認めることができないことになり、本件公務員の右各権限等不行使に起因する右の者らの被害の発生等その余の点を判断するまでもなく、右不法行為がいずれも成立しないことは明らかである。

そうすると、右要約したところと、前記第二の三(死亡者松浦、同山田関係)、第四の一4(生存原告小笠原関係)で各説示したところ(なお、死亡者小坂関係につき前記五5参照)とを併せれば、その余の点を判断するまでもなく、原告らの被告国に対する本件国家賠償請求はいずれも失当であることになる。

第七章  損害賠償請求権の放棄及び消滅時効等の成否〔被告会社の抗弁(第五編)第二、第四章〕

第一これまでの認定と以下の判断順序等

一  これまで第三章から第六章までの検討判断によつて、原告らの被告会社に対する不法行為に基づく損害賠償請求に関し、各生存原告の認定障害罹患(別添四九参照)及び死亡者中村、同櫻庭、同中井、同佐藤、同今西、同池田、同工藤(以下、この七名を「被害者たる死亡者」又は「死亡者中村ら七名」ともいう。)の肺がん罹患・死亡について、被告会社の加害行為及び過失責任の双方が存在することが明らかになつた。

これに対して、原告ら主張の各生存原告らの身体障害(別添二六参照)中右認定障害以外のものに係る被告会社の不法行為及び死亡者小坂、同松浦、同大渕、同山田に対する被告会社の不法行為は、既にその余の点を判断するまでもなくこれが成立しないことが明らかになつた。

次に、原告らの被告国に対する国家賠償請求に関しては、本件各公務員の生存原告ら及び死亡者らに対する違法な加害行為の存在をいずれも認めることができず、その余の点を判断するまでもなく右請求が成立しないことが明らかになつた。

二  したがつて、以下、原告らの本件各請求のうち、生存原告らの認定障害罹患及び死亡者中村ら七名の肺がん罹患・死亡に係る原告らの被告会社に対する不法行為に基づく損害賠償請求権について、原告らと被告会社との間で、損害等のその余の請求原因(請求原因第七章ないし第九章)及び被告会社の抗弁、更に抗弁に対する原告らの再抗弁の当否につき判断すべきことになる。

三  しかるところ、以下、この章では、まず、被告会社の抗弁(以下、被告会社の抗弁のことを単に「抗弁」ともいう。)のうち、損害賠償請求権自体の消滅原因事由として主張されている、一部死亡者の遺族原告に係る請求権放棄合意(被告会社の抗弁第二章)及び消滅時効等(同第四章)の成否について検討判断し、次に、第八章で、損害等のその余の請求原因及び損害の填補等の被告会社の抗弁(同第三章)について検討判断して、原告らの被告会社に対する不法行為に基づく具体的な損害賠償請求権の存否を明らかにした上、最後に、前記第一章第二で述べたところに従つて、右損害賠償請求が全部又は一部棄却される原告らについて、被告会社に対する安全配慮義務違反(債務不履行)に基づく損害賠償請求権の成否につき検討することにする。

なお、右のような順序によつて検討判断をすることから、この章では、死亡者中村ら七名の各遺族原告らが後記第八章で認定するとおり右各死亡者の被告会社に対する不法行為に基づく損害賠償請求権を相続により取得し(右遺族原告らのうち原告アサコを除くその余の者)、あるいは近親者として被告会社に対する右請求権を取得したこと(原告アサコ)を前提にして認定説示を行う。

第二損害賠償請求権の放棄

〔被告会社の抗弁(第五編)第二章、第七編第一部第二章、第八編、再抗弁(第九編)第一章、第一〇編第一章〕

一  はじめに

被告会社は、別添三八記載の死亡者中村ら五名の死亡者の遺族原告(以下、ここでは「関係遺族原告」ともいう。)については、右各死亡者の死亡後、右遺族原告らの被告会社に対する不法行為に基づく損害賠償請求権につき請求権放棄合意及び不行使約諾が成立した旨主張するところ、右の合意と約諾に係る事実関係は双方全く同一であるとした上、請求権放棄合意に関し具体的な事実主張をしているので、以下の認定説示に当つても、主として、請求権放棄合意の成否に関し検討を進めることにする。

なお、被告会社は、右の請求権不行使約諾を、原告らの請求の適法要件の欠缺を示すいわゆる「不起訴の合意」として主張するのかその趣旨を明らかにせず、本件では本案前の申立ても行つていないが、以下の検討によつて右約諾の成立が認められる場合には、その効力に関し、本案前の事由に当たるか否かについても考察することにする。

二  死亡者中村ら五名の妻たる原告ら

1 原告中村キク、同中井ヨシ子、同今西じゆん、同工藤貞子が、それぞれ死亡者中村、同中井、同今西、同工藤の妻であることは被告会社と原告らとの間で争いがない。

2 <証拠略>によれば、原告松田アサコは、死亡者櫻庭の妻であつたが、同人が昭和四七年秋肺がんに罹患して入院するなどし、生活に困窮したことから、生活保護受給の便宜のため、昭和四八年二月七日同人と合意の上協議離婚届をし、離婚自体は有効に成立したものの、その後も同人と夫婦同然の生活を続けて右両名の共同生活の実体は従前と変らず、死亡者櫻庭の死亡(同年九月一五日)後も同人の債務を支払い、その法要も主宰するなどし、右離婚後も同人と内縁関係が継続していたことが認められ、岩見沢労基署長も、同人の死亡に係る労災保険遺族補償年金の受給資格に関して、原告アサコを、労災法一六条の二・一項所定の婚姻の届出をしていないが、事実上同人との間で婚姻関係と同様の事情にあつた者であると認定したことが認められ、右認定に反する証拠はない(以下、これまでと同様、原告キク、同アサコ(内妻)、同ヨシ子、同じゆん、同貞子を「妻たる原告」ともいう。)。

三  確認書の存在、記載内容及び金員の領収等

1 確認書の存在及び記載内容等

被告会社の抗弁第二章第二の一1中被告会社主張の記載のある各確認書が作成され、存在すること自体及び同2(一)ないし(五)は被告会社と原告らとの間で争いがないところ、右争いのない事実及び<証拠略>によれば、右各確認書の記載内容等につき次のとおり認められる。

(一) 作成当事者

被告会社と前記妻たる原告が、合意の双方当事者として表示されている確認書が各別に五通存在する。

被告会社については、「被告会社取締役社長」及びその「代理人」という題名文言の下に電工興産株式会社(以下「電工興産」ともいう。)栗山工場長(原告キク、同アサコ、同ヨシ子各作成分)、栗山興産株式会社取締役社長(同じゆん作成分)又は被告会社徳島工場長(同貞子作成分)の記名があり、その名下に右工場長の印(職印)が押捺され、これと並んで他方当事者たる右各妻たる原告の署名捺印(ただし、原告ヨシ子は記名捺印)がなされている。

妻たる原告については、いずれも他の者の代理人である旨の顕名文言は全く記載されておらず、かつ、その余の関係遺族原告の中で、合意の当事者として表示されている者はいない。

ただし、原告ヨシ子作成分には「立合人」と表示して同輝比古(当時の氏は中井)の署名捺印が、同じゆん作成分には同じゆんの名下に特段の表示なくして「利昭」という署名が、同貞子作成分には、「立合人」と表示して中川輝夫(<証拠略>によれば、同原告の実弟であると認められる。)の署名捺印がなされている。また、原告キクの捺印はその同意を得て同席した原告保彦が代行し、原告じゆんの署名捺印はその同意を得て同席した原告利昭が代署代行した。

なお、<証拠略>によれば、電工興産株式会社は、昭和四八年六月の栗山工場廃止・閉鎖後同年九月、その設備、工場建家・敷地等の移管を受けた会社、栗山興産株式会社は、昭和五〇年一〇月更に右会社から右移管を受けた会社であり、いずれも被告会社の子会社に当たる会社であると認められる。

(二) 作成日付

各確認書の作成日付は、原告キク作成分昭和四九年一〇月七日、同アサコ作成分同年九月二八日、同ヨシ子作成分同年一二月一二日、同じゆん作成分昭和五〇年一二月一〇日、同貞子作成分昭和五一年九月三〇日である。

なお、<証拠略>によれば、実際の確認書作成時点も右日時又はその直近の日時であると認められる。

また、前記第五章第三の二3のとおり、死亡者中村らの死亡日は別添六の「死亡年月日欄」記載のとおりである。

(三) 合意内容

各確認書記載の合意内容は、いずれも、後記金額部分以外は印書されており、次のとおりである。

〈イ〉 被告会社と当該妻たる原告が、「当該死亡者の死亡が職業性疾病によるものとの所轄労基署長の認定に基づき、被告会社が妻たる原告に対し、労災法により給付される法定補償のほかに次の法定外補償を行う。」旨の前文に続き、

〈ロ〉 「被告会社が右妻たる原告に対し、遺族補償金として金何円(具体的な金額は、原告キク作成分四五〇万円、同アサコ作成分三六〇万円、同ヨシ子作成分八〇〇万円、同じゆん作成分一一〇〇万円、同貞子作成分一二〇〇万円)を支払う。」、

〈ハ〉 「右妻たる原告は、被告会社に故人の職業病認定に伴う補償に関し、労災法による法定補償及びこの確認書に基づく法定外補償をもつて、今後一切の補償請求並びに異議申立てはしない。」の二事項を確認する旨の記載がある。

(四) 合意内容として、右〈イ〉ないし〈ハ〉以外に何らの記載事項もなく、被告会社に対する不法行為による損害賠償請求権の放棄や将来右請求権に基づき訴えの提起をしない旨の記載は全くなされていない。

2 金員の領収

<証拠略>によれば、原告キク作成の昭和四九年一〇月七日付け、同アサコ作成の同年九月二七日付け、同じゆん作成の昭和五〇年一二月一〇日付けの、前記1(三)〈ロ〉の各金員を「労災補償として」受領した旨を明記した各領収書及び原告貞子作成の昭和五一年九月三〇日付けの前記1(三)〈ロ〉の金員を「故工藤義雄特別遺族補償一時金として」受領した旨を明記した領収書が存在することが認められる。

右各証拠及び<証拠略>によれば、右日時ころに実際に被告会社から右各原告に右各金員の交付がなされたこと、原告ヨシ子に対しても、「労災補償として」と明示して前記確認書の作成日付ころに前記1(三)〈ロ〉の金員が被告会社から交付されたことが認められる。

四  合意内容の検討その一

被告会社は、前記確認書は、これによつて関係遺族原告の前記被告会社に対する不法行為に基づく損害賠償請求権放棄の合意がなされた処分証書に当たるとし、あるいは右合意の存在を示す重要な証拠書類である旨主張するので、まず、右の確認書の記載内容からどのような内容の合意の存在を導くことができるかについて検討してみる。

1 確認書の記載の前提となる協定及びその適用関係について

(一) 前記三1で認定したとおり、各確認書は、いずれも「法定外補償」に関する合意を記載しているところ、法定外補償とは、一般に労基法や労災法、特に後者所定の各種労災保険給付(法定補償)に加えて、労使間の協定により支給される労働災害に対する補償のことをいう。

しかるところ、<証拠略>によれば、各確認書の作成当時、被告会社とその労働組合との間に締結されていた労働協約の付則として、右の意味での法定外補償等につき定める全二〇か条に及ぶ災害補償協定(以下「協定」ともいう。)が存していたことが明らかであるが、被告会社は原告貞子を除く前記各妻たる原告にはもともと右協定の適用、準用又は類推適用によつて協定に基づく被告会社に対する法定外補償請求権を取得する余地は全くなく、少なくとも被告会社はこのことを確認書作成時点から熟知していた旨主張し、客観的に存在しない権利について確認書記載のような合意をすることはあり得ないという。

もし真実右被告会社の主張どおりであるならば、被告会社は、もともと当該権利が存在せず、しかも自己もこの点につき熟知していたにもかかわらず、後記のとおり自ら文案を作成印書して用意した確認書には、含みとして不法行為に基づく損害賠償請求権放棄の趣旨も入つているか否か、法的効果としてそのような効果を生じるか否かは別として、通常の一般常識的読み方からすれば、少なくとも妻たる原告らに法定外補償請求権があり、これについて一定額を被告会社が履行し、かつ残余については相手方が放棄すること自体は明白な文言によつて記述されていると読まれてしかるべき文章を記載した上、これを相手方に示して応諾するか否かの検討を求めたことになつてしまうのではないかと思われるが、この点はさておき、右協定の具体的内容、その適用関係及び前記死亡者中村ら五名又はその妻たる原告らの右協定に基づく法定外補償請求権取得の可能性等につき検討するに、右各証拠に加えて、<証拠略>によれば、以下のとおり認めることができる。

(二)(1) 協定は、まず、一条で「組合員が業務上の事由により負傷、疾病、廃疾又は死亡したときは、この協定に定めるところにより補償を行う。」旨定めていた。

次に、二条(標題「適用の範囲」)で協定の適用要件たる「業務上の事由」が存する場合を列挙規定(五事由)し、その三号で「職業病と認められたとき」という定めを置いていた。同条の他の号所定の事由(すべて労働災害に当たる事由)と対比すれば、右三号は、一定の疾病罹患につき労災法上の業務上認定を受けた場合に主眼を置いていたことは明らかである。

(2) 協定三条によると、法定外補償の種類は、〈1〉療養補償、〈2〉休養補償、〈3〉障害補償、〈4〉遺族補償、〈5〉特別遺族補償一時金、〈6〉葬祭料、〈7〉長期傷病者補償の七種類とされ、他の関係規定によると、右〈1〉ないし〈3〉、〈7〉の受給権者は当然に当該労働者であるとされ、〈4〉は労災法所定の遺族補償給付の受給権者の資格及び順序に従つて年金又は一時金の支給をするとされ、〈5〉は、〈4〉の支給を受ける者に対し定額を支給するとされ、〈6〉は葬祭をする遺族又は葬祭を行う者に対し支給するとされていた。

右各補償項目のうち、特別遺族補償一時金を除くその余のものは、(当時の)労災法所定の補償項目と重複するものであり、その支給条件、内容等も同法所定のものとほとんど変らないが、右一時金は、同法にない補償項目であり、その金額も大きく(昭和四七年七月二一日改定の協定では七〇〇万円、昭和四八年七月二一日右金額改定により八〇〇万円となる。)、しかも年々増額される傾向にあつた。また、個別の受給権者との間の交渉によつて右金額に更に上乗せした金員が支払われることも少なくなかつた。

前記のとおり、労働者の遺族たる妻又は内妻がいる場合、協定上妻又は内妻のみが右一時金受給権を有し(労災法一六条の二参照)、子その他の親族はこれを有しない旨定められていた。

(3) 協定五条一項は、「二条の補償は解雇によつて変更されることはない。」旨規定していたが、同条の他の項の規定内容や、法定外補償を定める協定において他の事由による退職者よりも解雇者を優遇することの不自然さなどに照らすと、右規定は、要するに当時の労災法二一条一項、労基法八三条一項と同趣旨の規定として設けられたものであつて、解雇の場合のみならず定年退職等を含め、一般に退職によつては協定による受給権に変更はない旨を定めたものであることは明らかであり、被告会社の運用もこのような解釈に従つてなされていた。

(4) ところで、協定には、六条に「法定補償との関係」という標題の下に、「補償を受ける者が同じ理由について、労災法その他の法令によつて給付を受けるときは、会社はその額を本協定の補償額より差し引く。」との規定を置いていたところ、被告会社は右規定と前記(2)で認定したところを併せれば、特別遺族補償一時金を除く前記〈1〉ないし〈4〉、〈6〉・〈7〉の各補償は、その支給条件等が法定補償とほとんど同一なので、法定補償が先に支払われた場合には一切支払われず、法定補償が決定するまでに時間がかかる場合などに右各補償が先に支給されることに協定の意義があるが、この場合でも法定補償を被告会社が立て替えただけであるから、後に当該労働者が受けることになつた法定補償は被告会社が先に受け取つて立替え分に充当するのであり、要するに右六種類の補償は、いずれも法定補償がなされる場合には、一切支払われることはない旨主張する。

しかしながら、仮に右規定が被告会社の主張するように厳格に適用されるべきものであるとするならば、右協定は、右の趣旨の立替え条項と前記一時金の定めの二つをなせば足りるのに、「一見右規定にかかわらず、労働者が法定補償のほかに前記のような法定外補償を受け得る」と期待するのが自然であると見られる精緻な条項を多数盛り込んでいるということに帰し、右各補償に関しては表見的な法定補償協定であるにすぎないことになり、また、右のいつたん立て替えその後被告会社が法定補償を先取りするなどということは、実質的には労働者に不利益を与えかねないものであつて、その適法性さえ疑わしい処理方法であることに加え、現実にも、被告会社は、生存原告高橋や死亡者池田、同中井の例の如く、労災認定された後にも右協定に基づくものとして障害補償給付、休業補償給付等を行つたり、協定に基づく休業補償を支給した後労災の休業補償がなされても、既払の法定外補償給付の返還を全く求めないなどの運用をむしろ通例としていたことに鑑みれば、少なくとも、右規定を厳格に適用すると協定による何らの割増支給も受けることのない前記〈1〉ないし〈3〉、〈6〉、〈7〉の各補償項目(〈4〉については〈5〉が割増給付に当たる。)については、右規定を縮小解釈すべき余地は十分にあると解され、当該労働者又はその遺族が右規定にかかわらずこれらの補償請求権が存すると期待し、あるいは主張することには、それが最終的に正当であるか否かは別として、それ自体としてかなりの合理性があると考えられる。

(三)(1) しかるところ、前記認定のとおり死亡者中村、同中井、同今西、同工藤は、別添五〇記載の期間被告会社栗山工場に勤務して、右協定の適用を受ける者であり、かつ、右四名については、前記各確認書の作成前の時点において既に同工場のクロム酸塩等製造作業による肺がん罹患・死亡につき労災法上の業務上認定がなされていた。

また、死亡者中村、同今西、同工藤は、いずれも、生前に前記休業等に関する法定外補償を受けていなかつた。

(2) そうすると、右(二)の認定説示によれば、原告キク、同ヨシ子、同じゆん、同貞子には、確認書作成当時、自己に固有の権利として協定に基づく特別遺族補償一時金請求権を取得しており、更に、その夫たる各死亡者が有していた生前の法定外補償請求権を相続により取得していたとみるべき可能性は極めて高く、これらの権利について義務者である被告会社との間で確認書記載のような権利確認、給付約束、残余の権利放棄(形成条項)の三者を包含する和解的合意を有効になし得たことは当然である。

(四)(1) 更に、仮に栗山運送の従業員で被告会社の構内作業に携わつた者についても右協定の類推適用を考慮するとすれば、死亡者櫻庭については、前記確認書作成前に既にその肺がん罹患・死亡につき死亡者中村らと同様労災法上の認定がなされていたので、個別的にも協定の類推適用を受け得る状態にあつた。

また、この場合、前記二、四1(二)(2)で認定したところから、原告アサコが前記特別遺族補償一時金の受給権者に当たることになる(労災法一六条の二・一項参照)。

なお、前記第一章ないし第三章、第六章第一節の認定事実、<証拠略>を総合すれば、被告会社が跳出作業員等栗山運送の従業員たる前記製造工程の作業員についても、クロム被暴、吸入による障害、とりわけ肺がん罹患・死亡に関し、前記協定を類推適用して各種法定外補償を行うとすれば、その法的義務の有無の点はともかく、極めて自然なことであり、かつ、合理性もあると考えられる状況にあつたことが認められる。

(2) そうすると、右の類推適用を前提とする限り、前記(二)の認定説示によれば、原告アサコも、確認書作成当時、自己に固有の権利として協定に基づく特別遺族補償一時金請求権を取得していたとみるべき可能性は極めて高く、右(三)の原告キクらと同様この権利につき義務者である被告会社との間で確認書記載のような和解的合意を有効になし得たことは当然である。

2 確認書の記載から直接導かれる合意内容

前記三の認定事実及び右1の認定事実に依拠する限り、確認書の前記記載内容から導かれるのは、「原告キク、同ヨシ子、同じゆん、同貞子作成分については、その文言どおり、被告会社と右各原告との間で、協定所定の特別遺族補償一時金として被告会社が右各原告らに前記金額の各金員を支払い(前記〈ロ〉の条項)、加えて、たとえ、実体的には右各原告に右各金額を超える右一時金請求権や、夫たる死亡者から相続した協定に基づくその余の法定外補償請求権が存するとされる場合があるとしても、右各原告は、右金員以外の請求権はこれを放棄し、今後一切の法定外補償請求をしないということ(前記〈ハ〉の条項)、同アサコについても、協定の類推適用を前提にして、被告会社が前記金員を支払い、同原告が右同様に請求権を放棄し、今後一切の法定外補償請求をしないということ」がそれぞれ合意されたという事実であつて、確認書によつては、右妻たる原告らの右請求権以外の被告会社に対する権利及び右各原告以外の関係遺族原告の被告会社に対する権利の帰すうや処分並びにこれらの権利の訴訟上の行使・不行使については何らの合意もなされておらず、また、確認書はこのような合意の存在を直接に示す書面でもないと見るべきことになる。換言すれば、これらの権利関係は、直接的には、確認書の示す和解的合意の対象たる権利関係にはなつていなかつたと解されるのである。

五  合意内容の検討その二

1 次に、右四の認定説示を前提にして、確認書の記載内容等とあいまつて、又はこれとは別個に前記被告会社主張の請求権放棄合意の存在を認めるに足りる状況事実の存否につき検討するに、<証拠略>を総合すると、労働省は昭和四八年六月、前記第四章第四の二8(一)(11)の渡部真也らの第一次疫学調査結果の速報(中間報告)を受けた後、直ちに栗山工場の前記製造工程の作業員中の肺がん死亡者の業務上認定作業に乗り出し、労働省本省から被告会社本社に対し、岩見沢労基署から同工場の事務の移管を受けていた電工興産に対し、それぞれ栗山運送従業員も含めて右作業員の遺族の労災保険認定請求に十分協力するよう強い指示がなされ、同年八月ころから被告会社担当者が栗山町の現地で各遺族との折衝や右協力を行うことになつたこと、右当時、クロムによる肺がん等発症の事実がマスメデイアによつても大きく報道されるなどして、栗山町及びその周辺では、同工場の元作業員の遺族らを中心として被告会社の責任を追及する動きも急速に高まり、加えて、従前長期間にわたつて同町の各所に投棄、埋設されていたクロム鉱滓(パルプ)による二次公害発生も町民から取り沙汰されるようになつていたこと、このような状況の下で、被告会社としては、肺がんによる死亡者の遺族との間で補償金支払交渉等を円満に遂行・解決させて、これ以上問題が拡大・紛糾することを防止し、でき得れば将来訴え提起等の事態にまで発展することを回避したいと強く期待・希望するようになつたこと、一方、被告会社は、右当時以降新たに肺がん罹患が発見された従業員(多くは徳島工場転勤者)については、その入院加療等への便宜供与、協力態勢を整え、金銭的にもできるだけ助力して行くという方針を打ち出してこれを実行し、更にその者が死亡した場合には、葬祭への全面的協力、遺家族の雇入れによる援助等とともに、協定上の法定外補償の履行に当たつても金銭面で上積みを図るなどしてきたこと、また、この間、昭和五〇年八月東京の日本化工小松川工場跡地のクロム鉱滓公害問題が大きく社会問題化し、クロムによる作業員の被害に関する企業責任追及の動きも再燃して、これがその後被害者や遺族による日本化工を被告とした訴訟提起へと急展開していつたこともあつて、昭和五一年ころには、被告会社としては、右のように少なくともその立場に立つて見る限り、被害者や遺族に対する援助を厚くしてきたという認識の下で、今後事態が紛糾し、自己を被告とする訴訟提起に至ることを避けたいという期待をますます強く抱くようになつていたこと、被告会社は、死亡者中村ら五名のほかにも相当数の栗山工場の元作業員たる肺がん死亡者に関して前記と同様の確認書を締結しており、その遺族との間では被告会社が期待したとおり、確認書による金銭交付をもつて事実上紛争の解決がなされたこと、被告会社が相当程度の助力や相当額の金銭の交付の裏づけの下で、右のような期待を抱くのは自然なことであり、かつ、これを特に不当視すべき状況にもなかつたこと、以上の各事実が認められる。

2 しかるところ、前記各証拠及び弁論の全趣旨を総合すると、右認定の各事実に加えて、更に次のような事実をも認めることができる。

(一) 前記各確認書は、いずれも被告会社の中枢部において熟慮検討した上その文案を作成し、具体的金額・日付・妻たる原告らの署名部分を除いて(原告ヨシ子作成部分については記名まで)あらかじめ印書した上用意しておいたものであり、被告会社において、合意を得やすい法定外補償のみに関する放棄条項(不法行為に基づく損害賠償請求権については含みを残した条項)について妻たる原告らの印をとつておけば、将来法定外補償のみならず右不法行為に基づく損害賠償請求権についても放棄合意があつたとする形で確認書を十分利用できるというような意図の下に意識的に行つたのではないとすれば、被告会社には、各種経済的社会的活動に携わる大企業として、(専門家からアドバイスを受けることを含めて)法的事項に関する高い理解能力、当事者の意思を的確に表現する契約書の起案能力等が当然に備わつていたことに鑑みれば、的確直截に法的な効果を生むべき意思表示として、妻たる原告らに加えて他の関係遺族原告まで含めて、右不法行為に基づく損害賠償請求権の放棄、将来の訴え不提起の合意を求めたいというならば、被告会社としては、これに沿つた明示の条項を確認書に盛り込むべきであると考えるのが当然であり、かつ、これは容易になし得たものであること、

(二) 被告会社は、確認書締結と引き換えに支払つた金銭の金額の算定根拠として、あくまで当該死亡者の在職当時の協定所定の特別遺族補償一時金額を基礎にし、これに退職後の経過年数や遺族の個別的状況、交渉の成り行きなどを加味して具体的金額を算出し、右の点は、確認書締結に至る交渉の過程で、相手方当事者である妻たる原告らにも明示していたこと、

(三) 他方、右交渉の過程では、右金銭が不法行為に基づく損害賠償請求権についての和解金の趣旨をも含むとするなら通常なされてしかるべきである、責任の有無、具体的損害額の根拠等についての一方当事者としての見解の表明さえ、被告会社の側からは行われず、右請求権に関しては、進んで被告会社側から言及した形跡はないこと、

(四) 被告会社は、右交渉の過程で、妻たる原告らに当該死亡者の遺族等と相談すること、金銭授受、確認書締結につきできるだけその全員の賛同を得ることなどを強く希望したものの、あくまで、合意の法的主体(印が必要な者)は妻たる原告らであることを明らかにして話を進めてきたこと、

(五) これに対し、当時経済的にも困窮していた遺家族が多かつたことや、右金員自体が大金であること、妻たる原告らが交渉事に不慣れであつたことなどから、その成人の子らが妻たる原告らの相談相手となり、あるいはその利害を代弁して交渉の窓口となり、更に確認書の「立合人」として署名捺印を行うことなどはむしろ当然の成り行きであつて、この点を把えて、直ちに、前記関係遺族原告でもある右成人の子らが自らの権利について交渉し、合意をしたことにほかならないとするのは、妥当ではないと解されること、

(六) そもそも、被告会社は、もし関係遺族原告すべての不法行為に基づく損害賠償請求権について金銭支払、権利放棄による和解的合意をしようとするならば、死亡者の相続人の範囲の確定、当該遺族と死亡者との具体的身分関係、相続関係の調査などを行うことが最小限度必要になると解されるのに、このような作業を行つた形跡はなく、前記交渉過程においても双方当事者間でこれらが話題になつたこともないし、更には、一般の企業取引の通念からすれば必ず思い浮かぶはずの直接の意思表示者(妻たる原告)に対する授権を示す委任状の作成、確認書への顕名文言の記入などを、被告会社が考慮したこともなかつたこと、

(七) 原告アサコとの交渉過程では、被告会社は、当初から同原告に対し、死亡者櫻庭は栗山運送従業員ではあつたものの、被告会社の協定の定めるところに従つて補償をなす旨言明していたこと、

(八) 妻たる原告らやその他の関係者との実際の交渉には被告会社の課長・係長クラスの担当者が当たつていたが、右担当者に与えられた裁量の幅は極めて狭く、もとより具体的方針についての発案権も与えられておらず、右担当者は、被告会社の中枢で意思決定された事項を忠実に実行していたものであり、以上に示したような事柄が担当者の法的知識の欠如等に帰せられるものではないこと、

以上のとおり認められ、前記<証拠略>右認定に反する供述部分は採用できず、ほかに右認定に反する証拠はない。

3 そこで、前記三、四の各認定説示と右1、2の各認定事実を総合考慮すると、右1、2の各認定事実を前提にして、前記確認書の記載内容等とあいまつて、又これとは別個に前記被告会社主張の請求権放棄合意の存在を認定することは到底できず、むしろ、右総合考慮によれば、被告会社と現実の合意行為(直接の意思表示)を行つた当事者は各妻たる原告だけであり、かつ、その合意内容は、あくまで前記協定所定の特別遺族補償一時金あるいはこれに準ずる法定外補償として被告会社が右各妻たる原告に前記各金員を支払い、更に各妻たる原告が自己の権利として前記四2のような権利放棄をなし、かつ、この放棄された権利については将来行使をしない旨を合意したものであることが明らかであり、本件他の証拠によつても、被告会社主張のような妻たる原告をはじめ関係遺族原告全員の被告会社に対する前記不法行為に基づく損害賠償請求権の放棄、訴え提起を含めてその将来の不行使という合意が、妻たる原告らあるいは他の者を直接の意思表示者(直接の合意当事者)として被告会社との間で締結されたことを示すものはない。

六  まとめ

以上によれば、本件においては、妻たる原告らあるいはその他の関係遺族原告のいずれが直接の意思表示者となる形でも、被告会社との間で、そもそも、妻たる原告らをはじめ、別添三八記載の関係遺族原告の被告会社に対する不法行為に基づく損害賠償請求権を放棄し、あるいは右請求権を行使しない旨の合意がなされたこと自体を認めることができないので、妻たる原告らなどその直接の意思表示者に対する他の関係遺族原告の事前の授権、事後の追認の有無、直接の意思表示者による顕名の有無など代理関係、代理行為成立の要件の存否の判断をするまでもなく、被告会社の抗弁第二章の主張は失当であることになり、前記関係遺族原告の被告会社に対する不法行為に基づく損害賠償請求権が放棄され消滅したものとは認めることができず、また、その不行使約諾があるため、権利行使が許されないものであるとも認めることができないことになる。

第三消滅時効等

〔被告会社の抗弁(第五編)第四章、第七編第一部第四章、再抗弁(第九編)第二章、第一〇編第二章第一節〕

一  はじめに

被告会社は、生存原告ら全員について別添四二記載のとおりその障害罹患時期を起算点として、生存原告福士、同竹田、同大橋、同渡邊、同加藤、同小笠原、同高橋、同末田について別添四三記載のとおり労災認定日を起算点として、被害者たる死亡者ら(前記第一の一の死亡者中村ら七名)のうち死亡者今西、同工藤の各遺族原告らについて別添四四記載のとおり労災認定日を起算点として、それぞれ被告会社に対する本件不法行為に基づく損害賠償請求権につき民法七二四条前段の短期消滅時効が完成し、右請求権が時効消滅した旨援用主張する。

また、被告会社は、生存原告亡水口、同亡高川、同小笠原について、別添四五記載のとおり退職日を起算点とする民法七二四条後段の除斥期間の経過により被告会社に対する右請求権が当然消滅した旨(被告会社の主張の趣旨からすれば、権利未発生の間に除斥期間経過の場合には権利の不発生が確立した旨)主張する。

そこで、以下、被告会社の右消滅時効等の主張について検討判断する。

二  民法七二四条前段の短期消滅時効

1 起算点等

(一) 民法七二四条前段の短期消滅時効の起算点

民法七二四条前段は不法行為に基づく損害賠償請求権は、被害者が「損害及ヒ加害者ヲ知リタル時ヨリ三年間」これを行使しなければ、時効消滅する旨規定するところ、右の「損害を知る」とは、加害行為と損害の双方、すなわち、当該加害者による違法な加害原因行為の存在に加えて、これと事実的因果関係にある被害発生(以上が権利侵害=加害行為に当たる)及びこれに起因する損害の発生を知ることを意味するが、右の事実的因果関係の機序等、被害や損害の程度、数額、あるいは当該身体障害の病理学的意義等を正確、具体的に知ることまでは必要ではない。

要するに、右の規定は、加害者に対する損害賠償請求権の行使が可能な程度に、すなわち、被害者において権利行使に着手することを期待できるほどに、当該被害者が各種資料、状況事実等に基づいて、加害者の加害原因行為とこれに起因する被害発生(加害行為)及びこの加害行為による損害を認識した時点を起算点として、右加害行為に係る不法行為に基づく損害賠償請求権は三年の短期消滅時効にかかる旨定めるものであると解される。

なお、右規定の「被害者」には、当該不法行為の直接被害者のみならず、その損害賠償請求権を承継した相続人が含まれることはいうまでもない。

(二) 本件における具体的認識対象

しかるところ、これまで認定してきたとおり、本件における被告会社の生存原告らや被害者たる死亡者らに対する加害行為とは、具体的には、右の者らが栗山工場の劣悪な作業環境下でクロム酸塩等製造作業に従事し、その際クロムを含有する粉じん、ミスト等に被暴し、これを吸入した結果、認定障害や肺がんに罹患し、死亡者らは死亡するに至ったということである。

そうすると、本件においては、生存原告らや遺族原告らが、右(一)で説示したところの「被害者において権利行使に着手することが可能なほどに」、〈1〉生存原告らの場合当該障害罹患の事実、遺族原告らの場合死亡者の死亡の事実(遺族原告らの主張する不法行為は、「死亡による損害発生」に係るものである。)、を知り(以下「障害罹患の事実認識」のようにもいう。)かつ、〈2〉右障害罹患、死亡が同工場の右製造作業従事に起因するものであることを知った(以下「クロム被爆、吸入との因果関係の認識」のようにもいう。)場合には、被告会社の生存原告ら及び被害者たる死亡者らに対する不法行為につき、民法七二四条前段所定の「加害者及び損害を知った」ことになると解され、右〈1〉、〈2〉の認識を得た時点を起算点として、当該損害賠償請求権につき三年の消滅時効が進行する。

(三) 障害罹患の認識について

ところで、右〈1〉の一定の障害罹患の事実認識に関しては、生存原告らにおいて、当該疾患の医学上の病名等を正確に知ることまでは必要ないと解されるが、当該疾患罹患を身体の具体的な病変として同定できる程度の認識は必要であると解される。

更に、この点に関しては、専門的知識がなくても五感の作用により当該疾患に特有のものであると容易に同定できる外的表徴を呈する疾患や、十分古い時期から一定の自覚症状等と当該疾患との結びつきが明らかにされ、世間的常識のレベルでもこれが相当程度無前提的に承認されているような場合は格別、多くの疾患、特に内科的疾患については、後日結果的には一定時期において患者が既に当該疾患に罹患していたと認められ、あるいはその自覚症状であると医学上評価される症状を呈していたと認められる場合であっても、医師の診断又はこれに準ずるような専門的判断によって当該疾患罹患が判明するまでは、当該患者には右疾患罹患の認識はなかったというべきであり、生存原告らの右〈1〉の事実認識についても、このような前提に立った上その存否が検討判断されなければならないと解される。

2 生存原告らの損害賠償請求権に係る短期消滅時効

(一) クロムによるがん以外の身体障害の特性等

(1) 前記第四章で認定説示したとおり、クロム酸塩等製造作業における慢性的暴露の下でのクロム(過剰)被暴、吸入は、皮膚、鼻・咽喉頭、気管支・気管・肺、胃・十二指腸の各障害、更には、肺がん、上気道のがんを引き起こし、呼吸器を中心に広範な健康被害をもたらすものであるところ、前記第五章第二の三で認定したように、生存原告らが右クロム被暴、吸入に起因して罹患したがん以外の身体障害も、別添四九記載のとおり、皮膚炎・皮膚潰瘍等の皮膚障害、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等、鼻汁過多・鼻出血等の鼻炎類似の慢性的症状、鼻の全般的機能障害、鼻中隔穿孔、慢性副鼻腔炎、慢性篩骨洞炎、慢性上顎洞炎、嗅覚障害、鼻腔腫瘍、じん肺、続発性気管支炎・慢性気管支炎、肺機能障害、肺気腫(認定障害)と呼吸器を中心とした広範な部位、器官に及び、その程度も比較的軽度のものから重度疾患まで含み、生存原告らは、クロム被暴、吸入により多種多様な健康被害を受けたものである。

(2) そうして、前記第四章第一ないし第三、第四の一、第五章第二の三の各認定事実及び<証拠略>を総合すれば、生存原告らが罹患したものも含めて、クロムによるがん以外の身体障害は、いずれも、水に可溶性の六価クロムが強力な酸化力(その意義については前記第三章第二の一3(二)(6)で説示した。)を有し、これが人体の皮膚や上気道、気管支・気管・肺等の組織に作用して、当該部位を刺激して炎症を起こし、また当該組織のタンパク質等の化学的変性、腐食作用を惹起するという六価クロムの一次刺激性、催炎性、腐食性が直接間接に原因となって(多くの場合直接的な原因となる。)引き起こされるものであること、前記製造作業従事者において、クロム被暴、吸入の結果、これらの障害のうち一種類のもののみに罹患するという例は極くわずかであり、ほとんどの場合、いくつかの障害に複合的に罹患すること、クロム被暴作業期間が長くなればこれに従って六価クロムによる身体障害の及ぶ範囲が広がり、より重たい疾患に罹患する傾向が強いこと、右各障害はいずれも慢性的疾患であり、多くの場合病変の進行は不可逆的であって、クロム被暴作業従事期間が長くなるにつれ、早い時期に罹患した障害の症状に重畳的に後に罹患した障害の症状が加わっていく傾向が強く、右作業従事が長期間に及ぶと前記各部位、器官にクロムによる広範な病変が見出されるに至ることが認められ、以上の認定事実によれば、これらの身体障害は、進行性クロム中毒症候群、クロムの一次刺激性病変群とでもいう形で包括同定し得るような共通性、相関性を具有した障害群であると評価しても、必ずしも的はずれではないと認められる。

(3) 右(1)、(2)の各認定事実に照らせば、生存原告が複数の認定障害に罹患している場合、その各障害につき個々的に当該原告に前記1(二)〈1〉、〈2〉の認識があればそれに係る損害賠償請求権の短期消滅時効が各別に進行すると解するのは妥当ではなく、右(2)で認定した趣旨で共通性を持ち広範囲に及ぶ多様な進行性拡大性の病変群を構成する各認定障害のうち主要な部分が既に出現し、加えて当該原告に右主要部分につき右〈1〉、〈2〉の各認識が生じた時、あるいは、そこまで至らなくても、各認定障害のうち主要でない部分が既に出現しており、少なくとも、当該原告において、今後、クロム被暴、吸入に起因するものとして、更に主要な部分の出現を見、又はそれに罹患していることが判明する可能性があるとの認識が生じた時から、当該原告が罹患した全認定障害について一律に右短期消滅時効が進行すると解すべきである。

というのも、そもそも、右(2)で述べた如くいわば一つの症候群中に包括されると見ても必ずしも不当ではないような病変群について、個々的に損害賠償請求権の時効消滅を考慮することは、被害の実態を無視したものであり、当を得ていないと解されることに加え、右主要な部分が出現判明せず、かつ、その出現・判明の可能性の認識もなく、又は右主要部分について右〈2〉の認識もない間には、当該原告において、クロム被暴、吸入による被害(損害)全体についての賠償請求は不可能であり、また既に出現している重要でない一部の症状のみに関する賠償請求に着手すべきことを当然には期待できないからである。

(二) 具体的検討その一

各生存原告の前記製造作業におけるクロム被暴、吸入に起因する身体障害罹患状況は別添四九記載のとおりであるが、前記(一)(2)の各証拠に加えて、<証拠略>によれば次のとおり認められる。

(1) クロム取扱作業従事労働者に発生したがん以外の各種身体障害に関する労災法上の業務上認定基準等に関する行政解釈、法令の規定の推移等については前記第四章第四の一で認定したとおりであるが、原告阿部、同今井、同石川、同熊谷、同齊藤、同谷内、同平原、同松島、同吉田、同亡水口、同畠中、同中川、同亡高川、同福士、同大橋、同渡邊、同加藤は昭和五〇年一二月一九日に、同上原は昭和五一年二月九日に、同田中は同年七月二〇日に、同沼崎は同年二月一九日に、同舘山は昭和五〇年一二月二四日に、同竹田は昭和五一年二月六日に、同高橋、同末田は昭和五〇年一〇月二七日に、それぞれ皮膚障害、鼻中隔穿孔等の鼻の障害について、栗山工場のクロム酸塩等製造作業従事に起因するものであるとの労災の業務上疾病認定を受けた。

しかるところ、別添四九記載の右各原告らの罹患障害中、皮膚炎・皮膚潰瘍、皮膚潰瘍の瘢痕、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等、鼻汁過多・鼻出血等の鼻炎類似の慢性的症状、鼻の全般的機能障害、鼻中隔穿孔、嗅覚障害については、右各認定日までに既に発症・出現し、かつ、右各原告は右各障害罹患の事実を知つており、加えて、右労災認定により右各障害罹患につきクロム被暴、吸入との因果関係も知るに至った(前記1(二)の〈1〉、〈2〉の認識の存在)。

また、原告小笠原も右労災認定請求をしていたところ、右請求は、同人の前記製造作業従事時期が労災法施行前であることを理由に、昭和五〇年一二月一九日却下されたものの、同原告についても右各障害は右日時までに既に発症・出現しており、かつ、同原告は右罹患の事実を知つており、加えて、前記原告らに対する業務上疾病認定の状況を知ることにより、右日時ころには右各障害罹患につきクロム被暴、吸入との因果関係も知るに至つた。

(2) 昭和五四年一二月ころから昭和五七年五月ころまでの間(一部の原告については昭和五八年二月、四月)、原告亡水口を除く生存原告らについて、一回又は二、三回にわたつて、医師によるクロム被暴、吸入に起因する各種身体障害罹患状況の精密検査が行われたところ、別添四九記載の各種身体障害のうち右(1)の各障害及び原告中川の鼻腔腫瘍、同亡高川の慢性気管支炎、同小笠原の副鼻腔炎、同高橋の肺気腫を除くものの罹患状況が右医師の診断によって新たに判明し、原告亡水口を除く各生存原告は、(遅くとも右診断時までに罹患していた)右各障害罹患の事実を認識するに至った(前記(1)1(二)〈1〉の認識)。

右診断は、原告阿部、同今井、同上原、同熊谷、同齊藤、同平原、同松島、同吉田、同舘山、同大橋、同渡邊について昭和五五年二月と昭和五七年二月の二回にわたって、同田中、同谷内、同沼崎、同畠中、同亡高川、同福士、同加藤、同高橋については昭和五七年二月に、同竹田、同小笠原、同末田については同年五月に、同石川については昭和五八年四月に、同中川については同年二月に、それぞれ実施された。

右原告らは、遅くとも昭和五三年三月前記第四章第四の一で認定した、労基法施行規則三五条の全面改正及びこれに基づく労働省告示により、右各障害の多くについて前記製造作業におけるクロム被暴、吸入による業務起因性が規定されたころには、右クロム被暴、吸入により前記各障害が生じ得ることを認識しており、前記診断によつて前記各障害罹患が判明したことによつて、自己の当該障害罹患についてもクロム被暴、吸入との因果関係の認識(前記1(二)〈2〉の認識)を持つに至った。

(3) 原告中川は、昭和五六年一一月ころ、医師の診断により鼻腔腫瘍罹患を知った。

同原告は、右障害罹患について、昭和五七年六月四日前記製造作業従事に起因するものであるとの労災の業務上疾病認定を受けたことによつて、クロム被暴、吸入との因果関係の認識を持つに至つた。

(4) 原告亡高川は、昭和五一年九月ころ、医師の診断により慢性気管支炎罹患を知った。

同原告は、前記(2)の各原告と同様、昭和五三年三月ころには前記クロム被暴、吸入により右障害が生じ得ることを認識するようになり、かつ、自己の右障害罹患についてもクロム被暴、吸入との因果関係の認識を持つに至つた。

(5) 原告小笠原の副鼻腔炎罹患時期及びその罹患判明・認識時期を具体的に示す証拠はないが、同原告はどんなに遅くとも昭和五七年五月までには既に右障害罹患を知つていた。

前記(2)の各原告と同様の経緯によつて、同原告も遅くとも右時期には自己の右障害罹患についてクロム被暴、吸入との因果関係の認識を持つに至つた。

(6) 原告高橋は、昭和五三年一〇月ごろ、医師の診断により肺気腫罹患を知った。

同原告は、右障害罹患について、昭和五六年一一月三〇日前記製造作業従事に起因するものとの労炎の業務上疾病認定を受けたことによつて、クロム被暴、吸入との因果関係の認識を持つに至つた。

肺気腫が重い疾患であり、クロム被暴、吸入に起因して発生する例も多くはない状況にあつたこと、改正労基法施行規則三五条に基づき具体的に業務上疾病の範囲を定める労働省告示(昭和五三年三月三〇日同省告示三六〇号)も、クロムによる肺の疾患名を具体的に挙げず、単に「気道障害」とのみ規定していたことなどに鑑みると、本件では、同原告が前記昭和五三年の右規則改正時ころにクロム被暴、吸入により肺気腫が生じ得ることを知つていたとまで認めることはできない。

(三) 具体的検討その二

各生存原告の被告会社に対する本件訴え提起日が別添四二記載のとおりであることは本件記録上明らかであるところ、以下(一)、(二)の認定説示を前提にして、各生存原告の前記損害賠償請求権につき前記短期消滅時効の成否を検討するに、次のとおりとなる。

(1) 右(二)の各認定事実を総合すると、別添四九記載の各認定障害のうち、各生存原告が最も早く前記1(二)〈1〉、〈2〉の各認定を得、「加害者及び損害を知る」に至つたのは、いずれも右(二)(1)の各障害であることになる。

(2) そうすると、まず、別添四二の1原告阿部から17同舘山までの一七名の原告については、いずれも前記(二)(1)の各障害に係る右認識時点から三年が経過する前に訴えを提起していることになるから、前記(一)(3)で述べた主要な罹患障害如何の検討をするまでもなく、右各原告の前記損害賠償請求権につき民法七二四条前段の短期消滅時効が完成していないことは明らかである。

(3) 次に、別添四二の18原告福士から25同末田までの八名の原告については、最も早く「加害者及び損害を知った」前記(二)(1)の各障害に係る右認識時点からいずれも三年経過後に訴えを提起していることになる。

しかし、前記(一)(2)の各証拠によれば、別添四九記載の右各原告の認定障害の中で、前記(一)(3)で説示した意味において主要な部分に相当するものであるとみられるのは、原告福士、同大橋、同小笠原では続発性気管支炎・肺機能障害、原告竹田、同渡邊、同加藤ではじん肺・続発性気管支炎・肺機能障害、同高橋では肺気腫、同末田ではじん肺・続発性気管支炎であると認められる。

そうして、右各証拠と前記(二)(2)の認定事実とを併せ検討すると、原告大橋、同渡邊は前記最初の診断がなされた昭和五五年二月ころに、原告福士、同竹田、同加藤、同小笠原、同末田についても、自らが前記診断を受けたのは昭和五七年二月又は同年五月ではあるものの、本件二五名の生存原告中一一名につき右最初の診断がなされた右昭和五五年二月ころには右原告大橋らと同様に、それぞれ、前記(一)(3)で述べた、少なくとも、今後、クロム被暴、吸入に起因するものとして右各主要な部分に相当する障害罹患が判明する可能性を認識するに至つたと認められる。

したがつて、右各原告については、いずれもその各全認定障害につき一律に右昭和五五年二月から前記消滅時効が進行することになる。

また、原告高橋については、前記(二)(6)のとおり、労災認定前にはクロム被暴、吸入と肺気腫罹患との因果関係を認識し得ない状況にあつたのであるから、右認定前に前記(一)(3)で述べた「クロム被暴、吸入に起因するものとしての」主要な障害部分の出現・判明の可能性の認識を持ち得なかつたと認めざるを得ず、したがつて、結局同原告が肺気腫罹患につき前記1(二)〈1〉、〈2〉の双方の認識を得た昭和五六年一一月三〇日からその全認定障害につき一律に前記消滅時効が進行すると解するほかない。

そうすると、右八名の原告らは、いずれも右各起算点から三年が経過する前に訴えを提起していることになるから、右各原告についても前記損害賠償請求権につき民法七二四条前段の短期消滅時効が完成していないことは明らかである。

(4) なお、前記のとおり生存原告らの本件訴え提起日は別添四二記載のとおりであるが、前記(二)で認定したように、生存原告らのうち多数の者について、本件訴え提起後に一定の障害罹患が新たに判明し、右障害罹患につき主張が追加されるという経過をたどって、最終的には、本件で主張された生存原告らの障害罹患の状況が別添二六記載のとおりになったものである。

3 死亡者今西、同工藤の各遺族原告らの損害賠償請求権に係る短期消滅時効

(一) 被告会社は、別添四四記載のとおり、死亡者今西、同工藤の各遺族原告らの不法行為に基づく損害賠償請求権について、その肺がんによる死亡の労災認定日を起算点とする前記短期消滅時効の完成を主張するところ、死亡者今西、同工藤に係る右労災認定時期がそれぞれ昭和五〇年一一月(<証拠略>によれば一一月二五日であると認められる。)、昭和五一年九月二七日であることは被告会社と原告らとの間で争いがなく、前記第四章第四の二2(二)の認定説示に照らせば、死亡者今西に対する認定は、前記昭和五〇年八月二三日基発五〇二号労働省労基局長通達に基づき、同工藤に対する認定は、昭和五一年一月三一日基発一二四号同局長通達に依拠してなされたことは明らかである。

(二) 前記1(二)で説示したとおり、死亡者の遺族原告が民法七二四条前段所定の「加害者及び損害を知る」というのは、当該死亡者が栗山工場のクロム酸塩等製造従事に起因して死亡するに至ったこと、すなわち当該死亡者が右製造作業においてクロムに被暴し、これを吸入した結果、(右クロム被暴、吸入とその発症との間に一般的因果関係があるとされる)肺がんに罹患して死亡したことを知ることにほかならない。

(三) そこで、右原告らが前記各労災認定日当時右(二)のような認識、とりわけクロム被暴、吸入と肺がん発症との一般的因果関係の存在についての認識を有していたかにつき検討するに、

(1) 前記第四章第四の二で認定説示した、クロムによる肺がん発症の具体的機序解明による証明の不存在、原因物質が同定されていないこと、昭和四八、九年にクロムによる肺がんに関する我が国での最初の疫学的研究結果が報告された後の業務上疾病認定基準に関する行政通達等の推移、昭和五〇年九月の専門家会議の設置、その中間報告が昭和五一年一月一六日になされた後検討結果報告は昭和五九年三月になされたこと、右各報告書の記述内容、前記第六章第一節第三の四で認定説示した、クロムによる肺がん発症の因果関係の存在認識の性格、右因果関係の存在確認の状況と認識可能性の関係、クロムによる一次刺激性疾患発生を前提にするクロムによる肺がん発生の推測の合理性の欠如、我が国の国内文献の記述状況など、

(2) 前記2(一)(2)の各証拠によれば、前記各遺族原告らの中に医学、とりわけ産業医学の専門的知識を有していた者やこれに関係する職業に就いていた者、あるいはクロム酸塩等製造業における労働安全衛生関係者などがいたわけでもなく、また、昭和五〇、五一年当時右原告らが専門家等に前記各死亡者の死因となった肺がんが前記製造作業におけるクロム被暴、吸入に起因するか否かを問い合わせ、又は自ら各種専門的文献資料を収集・閲読・参照することなどほとんど不可能に近い状況にあり、更に当時被告会社の企業責任を追及しようとしていた研究者、法律家等から積極的に右の点に関する知見を与えられた形跡もないことが認められること、

(3) 加えて、前記第四章第四の二で認定説示したように昭和五〇年以降前記各通達によって前記製造作業におけるクロム被暴、吸入による肺がん発症の業務起因性を肯定する行政解釈が示され、更に昭和五三年前記労基法施行規則三五条の改正により右の点が法令上規定され、現実に労災認定例が続いていたにもかかわらず、前記請求権の義務者である被告会社は一貫して、右業務起因性は主として労災保険上の救済の見地から肯定されたにすぎず、右請求権の要件である因果関係の存在は証明されていないとの立場を堅持し、本件訴訟においても、前記第四章第四の二3(二)のとおり、(決して否認のための否認ではなく)専門家会議の検討結果報告書に対する批判的見解まで含め多くのしかるべき理由を挙げて右一般的因果関係の存在を全面的に争うとともに、被害者たる死亡者に係る個別的因果関係の存在も、全員についてその肺がんの原発性を争うことまで含めてこれを否認してきたものであること、

(4) 更に加えて、前記第四章第四の二3(一)で説示したとおり、前記労災認定を行つた当の被告国でさえ、検討結果報告書が提出されるまでは、不法行為の要件としての前記因果関係の存在は確立されていないという見解をとつていたこと、

以上の点を総合考慮して検討すれば、本件においては、前記各原告が当該死亡者の肺がんによる死亡につき労災認定を受けたことをもつて直ちに前記(二)のような認識を有するに至つたと認めることはできず、ほかに右労災認定日当時右原告らが右認識を有していたことを示すに足りる証拠はない。

(四) 死亡者今西の遺族原告らが本件訴え提起時(記録上昭和五四年一一月一二日であると認められる。)までには前記(二)のような認識を持つに至つたとしても、本件においては、右(三)で述べたような状況の下で、右各原告が遅くとも昭和五一年一一月までの段階で前記(二)のような認識を持つに至つたことを示す証拠もない。

(五) また、死亡者工藤の遺族原告らが本件訴え提起時(記録上昭和五九年一〇月二九日であると認められる。)までには前記(二)のような認識を持つに至つたとしても、本件においては、右(三)で述べたような状況事実の下にあつても、右各原告が遅くとも昭和五六年一〇月までの段階で前記(二)のような認識を持つに至つたと導き得るような事実関係は、ほかに、何ら主張立証されていない。

(六) そうすると、死亡者今西、同工藤の各遺族原告らの前記請求権については、いずれも前記短期消滅時効は完成していないことになる。

三  民法七二四条後段の長期消滅時効

1 起算点等

(一) 被告会社は、民法七二四条後段の二〇年の期間は除斥期間を定めたものであるとした上、不法行為に基づく損害賠償請求権は、加害原因行為時から二〇年の経過をもって当然「消滅」するという前提に立つて、別添四五記載のとおり生存原告亡水口、同亡高川、同小笠原の栗山工場退職時(加害原因行為終了時)を起算点として、右二〇年の除斥期間経過により右各原告の右損害賠償請求権は「消滅」した旨主張する。

(二) ところで、被告会社が右期間を除斥期間であるとする趣旨は、時効中断を避けるとか、援用不要ひいては援用権の濫用主張から免れるということを考慮したものではなく、加害原因行為時を起算点とする解釈を前提にする場合、同条後段が消滅時効を定めたものであるとすれば、当該加害原因行為に起因する被害・損害が発生せず、したがつて不法行為に基づく損害賠償請求権が発生成立しない間にその権利の消滅時効が進行するという矛盾が生じ、かつ、権利未発生の間に二〇年が経過して権利が消滅するという背理も生じて、民法一六六条一項所定の消滅時効は権利が法的に行使可能になつた時から進行を開始するとの一般原則にも反することになることから、同条後段所定の二〇年の期間が、単に権利の消滅原因としての意義のみならず、権利不発生原因、あるいは免責原因としての意義をも持ち得るとされる除斥期間であるとすれば、加害原因行為時を起算点とする権利消滅(免責)という主張と齟齬をきたさないですむという点にあると窺れる。

したがつて、問題は、始めに消滅時効か除斥期間かの観念的区別をなす点にあるのではなく、同条後段の定める二〇年が経過したらとにかく前記請求権の行使ができなくなるという、その起算点をいかなる時点に定めるかにある。除斥期間であるといえば加害原因行為時を起算点とすることと相容れないというような事態は起こりにくいかも知れないが、逆に除斥期間であれば必ず加害原因行為時を起算点とすべきことにもならないのである。

(三) そこで考察するに、不法行為に基づく損害賠償請求権につき権利末発生の間に将来の権利不発生を確定させるような解釈をとるべき実質的必要性が高いとは解されないこと、現に本件におけるように、加害原因行為時から二〇年を経過した後被害が発生するような不法行為について、(それが重篤な被害である場合も少なくないのに)一律に加害者を免責することは妥当ではないこと、もしこのような免責の意義をも含む除斥期間制度を採用するのならば、より明確な法文上の根拠があつてしかるべきであり、民法七二四条の文理からたやすくこのような解釈を導くことはできないことなどに鑑みれば、右二〇年の期間の起算点は、少なくとも、不法行為の要件の中で根幹的なものである権利侵害すなわち加害行為成立の要件が充足された時点とすべきであると解される。

この「加害行為」は、これまで度々述べてきたとおり、加害原因行為及びそれと事実的因果関係ある被害の発生があれば成立するので、反面、加害行為が成立していれば、これに起因する(金銭的)損害の範囲、数額が定まらない時点においても右期間は進行すると解される。

これを本件に即していえば、「前記製造作業におけるクロム被暴、吸入によつて当該身体障害が発生した」という時点から右期間が進行すると考えられるのである。

そうすると、右のような見解に立つ限り、右期間を時効期間であると解しても、前記(二)のような矛盾、背理はほとんど生じないことになり、殊更これを除斥期間であるとする必要もないと考えられ、以下、同条後段は不法行為に基づく損害賠償請求権につき二〇年の消滅時効を定めた規定であることを前提にして検討を進める。

(四) しかるところ、被告会社は、その主張の全趣旨に照らすと、前記(一)のような主張をなすとともに、訴訟上、二〇年の長期消滅時効としての時効の援用をもしていると解されるので、その起算点について前記のような解釈をとつた上、以下、具体的に前記三名の原告につき右長期消滅時効の成否を検討判断することにする。

2 具体的検討

(一) 前記2(一)(1)、(2)で認定説示したところに照らせば、生存原告が複数の認定障害に罹患している場合、民法七二四条後段の長期消滅時効との関係でも、その各障害につき個々的にそれに係る損害賠償請求権の消滅時効が進行すると解することは妥当ではなく、当該複数の障害がすべて出現・顕在化し、かつ、いずれの障害も当該障害自体としては進行拡大が止まり、固定化したと認められる時点において、(時効との関係では)当該原告に対する被告会社の加害行為が成立し、右時点を起算点として、当該原告の罹患している全認定障害について一律に右長期消滅時効が進行を開始すると解すべきである。

(二)(1) そこで検討するに、まず、原告亡高川、同小笠原の本件訴え提起日が、それぞれ昭和五三年二月九日、昭和五七年八月一八日であることは記録上明らかであるところ、前記二2(二)(2)、(4)、(5)の各認定事実によれば、右両原告については、右各訴え提起日から二〇年前の時点より後に前記製造作業におけるクロム被暴、吸入に起因する新たな身体障害が出現したことは明らかであり、したがって、右(一)で説示したところ照らせば、右両原告の認定障害全部に係る前記損害賠償請求権につき民法七二四条後段の長期消滅時効が完成していないことになる。

(2) 次に、原告亡水口が昭和二六年一二月三一日栗山工場を退職したことは被告会社と原告らとの間に争いがなく、同原告が前記製造作業におけるクロム被暴、吸入により、別添四九記載のとおり、皮膚炎・皮膚潰瘍、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等、鼻汁過多・鼻出血等の鼻炎類似の慢性的症状、鼻の全般的機能障害、鼻中隔穿孔に罹患したことは前記第五章第二の三で認定したとおりであり、同原告の本件訴え提起日が昭和五二年五月三〇日であることは記録上明らかであるところ、前記二2(一)(2)の各証拠及び弁論の全趣旨によれば、同原告の右各認定障害のうち、皮膚炎・皮膚潰瘍、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等、鼻中隔穿孔は遅くとも右退職時までには発症出現し、かつ顕在化した後、皮膚炎・皮膚潰瘍等、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等は遅くとも右退職後二、三年の間には症状が固定化しあるいは治癒し、鼻中隔穿孔もそのころまでにはその病変自体の拡大進行は止まつていたと認められる。

しかし、右各証拠及び弁論の全趣旨によれば、鼻汁過多・鼻出血等の鼻炎類似の慢性的症状、鼻の全般的機能障害は、右退職後も緩慢ながら次第に進行拡大していき、その症状自体は同人死亡時(昭和五三年九月一三日)まで継続発現しており、右障害がそれ自体としても進行拡大を止め、固定化したのは少なくとも右退職後一〇年は経過したところであつたと認められる。

そうすると、同原告については、その訴え提起日から二〇年前より後に前記クロム被暴、吸入に起因する各罹患障害が固定化したことになり、前記(一)で説示したところに照らせば、その認定障害全部に係る前記損害賠償請求権につき民法七二四条後段の長期消滅時効が完成していないことになる。

四  まとめ

以上のとおり、被告会社が生存原告ら及び被害者たる死亡者今西、同工藤の各遺族原告らの被告会社に対する不法行為に基づく損害賠償請求権につき援用主張する民法七二四条前段の短期消滅時効、同条後段の長期消滅時効のいずれもが完成しておらず、右各原告に対する被告会社の消滅時効の抗弁は、その余の点(再抗弁)を判断するまでもなく、いずれも失当であることになる。

第八章  損害等〔請求原因第七章ないし第九章、被告会社の抗弁(第五編)第三章〕

第一はじめに

前記第七章第一で述べたとおり、以下、被告会社の加害行為及び過失の双方が認められた生存原告ら及び被害者たる死亡者ら(死亡者中村、同櫻庭、同中井、同佐藤、同今西、同池田、同工藤)の遺族原告らについて、請求原因第七章ないし第九章の損害、相続関係等の主張、被告会社主張の損害の填補等につき検討判断して、右各原告の不法行為に基づく損害賠償請求権の数額を確定させ、最後に、必要な者について選択的併合請求の成否につき検討する。

なお、以下の事実認定に行たつては、次の各証拠を総合考慮した認定を行うので、あらかじめここに掲記しておき、後の記述ではこれらの証拠を「前記関係証拠」という呼称で引用摘示することにする。

<証拠略>

第二原告らの損害状況

〔請求原因第七章第二・第三、第二編第七章第一節第二・第三〕

一  生存原告ら

生存原告らの罹患した別添四九記載の各認定障害の発生機序、クロム被暴、吸入との結びつきの強弱、病理、症状、発生状況等については前記第四章第一ないし第三、第四の一、第五章第二の三で詳しく認定説示したとおりであり、また、これらの各障害が広範囲に及ぶ複合的な健康被害であり、呼吸器を中心とした広範な部位、器官に及び、その程度も比較的軽度のものから重度疾患まで含み、多様な進行性、拡大性の病変群を構成するものであることなどについては前記第七章第三の二2(一)で認定したとおりであるところ、右各認定事実に加えて、前記関係証拠によれば、原告らが請求原因第七章第二で主張する生存原告らの右各疾病の症状等について、更に次のとおり認めることができる。

1 皮膚障害

生存原告らは、これに罹患して、その痛み、かゆみ、湿疹化に苦しみ、患部から出る膿に悩まされ、また、現在皮膚潰瘍の瘢痕のある原告らは、掻痒感等不快感に悩まされ、醜状を示す外見に強い精神的苦痛を受けている。

2 上気道の障害

(一) 鼻炎・鼻粘膜潰瘍等、鼻汁過多・鼻出血等の鼻炎類似の慢性的症状、鼻の全般的機能障害

生存原告らは、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等に罹患して、粘液性又は粘液膿性の鼻漏や頭重感、集中力注意力減退などに悩まされた。特に、鼻粘膜潰瘍によつて粘膜表面が萎縮し、繊毛が消失すると、ほとんど正常な粘膜に回復することがない。

また、生存原告らはいずれも、慢性的な鼻汁過多、鼻閉、鼻痛、鼻出血などの鼻炎類似の症状が進行継続し、あるいは鼻の全般的な機能障害の状態にあり、原告石川、同亡水口、同亡高川を除く二二名の生存原告は別添二七記載のとおり、原告石川については前記第五章第二の三6(二)のとおり現在に至るまで多様な症状に悩まされており、原告亡水口、同亡高川についても前記各死亡時までこれと同様であつた。

更に、右各障害は、現に生存原告らの日常生活の様々な局面で、かなりの不便を強いている。

(二) 鼻中隔穿孔

この疾患はそれ自体身体の一部の欠損状態である(この点は原告らと被告会社との間に争いがない。)ことから、生存原告らは強い精神的苦痛を受けるとともに、他の鼻の障害と複合して、鼻漏過多、鼻痛、鼻閉やかぜをひきやすくなるなどの症状に悩まされてきた。

(三) 慢性副鼻腔炎(慢性篩骨洞炎、慢性上顎洞炎を含む。)

これに罹患した原告らは、膿汁貯留又は前頭洞の陰圧のため前頭部中心に常時頭痛を覚えたり、粘液膿性の鼻漏過多となるほか、強い鼻閉塞感を覚え、その結果、注意力散慢、記憶力減退、睡眠不足などの症状に悩まされてきた。

(四) 嗅覚障害

嗅覚障害は、いうまでもなく五官の機能の一つが減退又は脱失してしまうものであり、これに罹患した原告らは、日常生活において多大の不便や精神的苦痛を強いられるだけではなく、就業できる職種が制限されるなどの不利益を受けている。

(五) 鼻腔腫瘍

原告中川の罹患した鼻腔腫瘍はそれ自体として重度の疾患であるが、同原告は、再度にわたる手術後も、頭痛や呼吸障害、鼻や口のしびれなどに悩まされてきた。

3 気管支・気管・肺の障害

じん肺や続発性気管支炎・慢性気管支炎・肺気腫は、いずれもそれ自体として重度の疾患であり、これらの疾患自体の罹患には至らない肺機能障害も、かなり重たい疾患であるといえる。

右各障害に罹患した原告らは、肺気能の低下や呼吸障害をみ、胸痛、咳嗽、喀痰、更には頭痛などの慢性的症状に悩まされてきた。

二  被害者たる死亡者ら

被害者たる死亡者らの肺がん罹患状況等については前記第四章第一ないし第三、第四の二、第五章第三の二で認定説示したとおりであるが、右各認定事実に加えて、原告らが請求原因第七章第三で主張する肺がんの症状等、右各死亡者の個別的事情等について、更に次のとおり認めることができる。

1 肺がんの症状等

原告らの請求原因第七章第三の一1の主張中肺がんの症状等自体については、原告らと被告会社との間で争いがないところ、右争いのない事実及び前記関係証拠によれば、次のとおり認められる。

(一) 肺がんは、いうまでもなく、重篤致命的な疾患であり、いつたん罹患すると、証人大崎が「死刑を宣告されたようなもの」という如く、その病状の進行は非常に速く、極めて早い時期に発見され外科的治療を受けた場合などのほか、ほとんどの患者が助からず、それも短期間のうち死に至ることが多い。

昭和四〇年代以降各種肺がん診断技法の改善、開発が一段と進み、従前に比べかなり進歩してきたが、現在でも肺がんは早期発見、診断の困難な疾患であり、特に、クロムによる肺がんはほとんどが肺門型に属し、一般の肺がんに多い肺野型のものと比べても発見が困難で、胸部エツクス線写真による陰影識別可能な状態になった時には手遅れという症例が極めて多い。

また、肺がんは、腫瘍が他臓器に血行性に転移することが多く、肺がん罹患後短期間内に全身にがんの転移を見ることも、肺がんの致死率を極めて高いものにしている。

現在肺がんの治療法として、外科療法、化学療法、放射線療法、免疫療法の四種類があるが、極く早期の外科療法が比較的有効とされるほかは、いずれも確実なものとはされていない。

(二) 肺がんに冒されると、がん細胞は周辺の組織を圧迫、破壊し、炎症を生じさせ潰瘍を形成し、また、がんによって生体の構造が破壊され、末稍神経が浸潤される。このような中で、肺組織を中心として極度の破壊を受け、患者は激痛に襲われる。

また、化学療法や放射線療法はその副作用も著しく、各種の病変、組織破壊を引き起こす。

(三) 被害者たる死亡者らも、右のような状況の下で肺がんに罹患し、有効的確な治療法もないまま、非常な苦痛の下に闘病生活を送り、死亡するに至つたものである。

2 個別的事情

(一) 被害者たる死亡者らの死亡時年令は別添五〇記載のとおり、いずれも四〇、五〇歳代であり、別添四が示すように、当時いずれも家族を抱えて経済的にも精神的にも一家の主柱たるべき立場にあつた者である。

したがつて、右各死亡者の死亡によりその家庭、家族が受けた経済的、精神的打撃は極めて大きく、右死亡者らにとつてもその死亡は無念の窮みであつたものと推察される。

(二) そこで、原告らが請求原因第七章第三の三1、3、4、7ないし9、11で主張する各被害者たる死亡者に関する個別的事情につき検討するに、同1、3、4、7ないし9、11の各(一)の右死亡者らの勤務期間等については前記第五章第三の二で認定したとおり(別添五〇)であり、1(四)、3(二)のうち退職日・死亡日・死因・死亡時年令、3(三)のうち協議離婚の事実、4、7、8の各(二)のうち死亡日・死因・死亡時年令、9(二)のうち入退院、勤務の状況、死亡日・死因・死亡時年令、11(二)のうち死亡日・死因・死亡時年令は、いずれも原告らと被告会社との間で争いがないところ、前記関係証拠によれば、1、3、4、7ないし9、11の各(二)で原告らが右死亡者らの病歴として主張するところ及び7、9、11の各(三)の各事実を認めることができる。

また、原告らの右のその余の主張についても、前記各証拠によれば、死亡者中村のため学費捻出が続けられず、原告保彦、同豊彦が大学を中退したこと、前記第七章第二の二2のとおり原告アサコは協議離婚後も死亡者櫻庭と内縁関係を続けていたが、同人死亡時原告香都枝は高校生、同秀樹は中学生であり、生活は極度に困窮するに至つたこと、原告ヨシ子は、死亡者中井の看病疲れや夫死亡に伴う精神的苦痛も影響してパーキンスン病に罹患、その治療を受けていること、死亡者佐藤の死亡のため原告佐藤公彦は大学進学を断念せざるを得なかったこと、死亡者今西の死亡により原告利昭は家族扶養のため東京での生活をやめて帰郷したこと、死亡者池田死亡時原告外美彦は一七歳、同久美は一五歳であつたこと、死亡者工藤死亡時原告章人は高校生、同利加子は中学生であつたことが認められる。

第三具体的損害及び死亡者の相続

〔請求原因第七章第四、第八章第二、第二編第七章第一節第四、第八章第二〕

一  慰謝料額

1 本件において原告らは、被告会社の不法行為に基づく損害賠償として、各生存原告につき五〇〇万円の、各被害者たる死亡者につき五〇〇〇万円(死亡者櫻庭については、同人の損害と原告アサコの損害を合算して五〇〇〇万円となる。)の慰謝料請求をしているところ、右慰謝料のほかに、財産的請求として休業損害、逸失利益等の個別的損害項目を明示して各項目ごとに数額を算出し、これを積み上げて損害額を明らかにするという主張立証は行つていない。

そうして、原告らの右慰謝料請求、とりわけ死亡者に係るものについては、被告会社指摘のとおり、「慰謝料」という費目の下に、実際には各種損害項目の積上げによる個別的算定方式によらない形で被害者の財産的損害をも含めて請求するものなのか、それとも個別的算定方式による財産的損害のほかに認められる「本来の慰謝料」の請求をするものなのか、必ずしも鮮明でないことは否定できない。

しかるところ、原告らの右慰謝料請求が、被告会社が第二編第七章第一節第四の一3で述べるような財産的損害自体又はこれを含む全損害につき個別的算定方式を全く媒介させずに「慰謝料」の費目の下に直接的、包括的に把握するという請求を典型的な形で行っているものであるとすれば、民法七〇九条等の損害賠償法規範の定める損害概念に関し、これまで実務上定着してきた解釈に反する面があるといわざるを得ない。

しかしながら、原告らの右慰謝料請求、とりわけ死亡者に係るものの趣旨は、合理的に解釈すれば、まず、被害や加害の状況等に鑑みれば、本件においては、「本来の慰謝料」としての慰謝料額自体も高額に定められてしかるべきであるとし、加えて、本訴において、被告会社の加害行為による損害賠償として財産的損害項目の個別的算定による請求はしないものの、本訴はこれまで認定してきた加害原因行為、被害発生という発生原因によって特定される不法行為に基づく損害賠償請求権に係る全部請求を行うものであることを前提にした上、被害を金銭的に評価して損害額の認定を行う場合に、その非財産的損害の面における評価、すなわち慰謝料額の裁量的算定に当たつては、明白に「慰謝料に名を借りた異質の損害の全面的取り込み」とまでは認められない限界まで、最大限度の考慮を求めるというものであると解され、この限りにおいては、現に原告らの本訴請求が(選択的併合に係る安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求も含め)右のような意味での全部請求であることは明らかである以上、損害填補の場面でも右趣旨に見合った考慮をすることを前提にして、原告らの右態様の慰謝料請求は全く許されないわけではないと解される。

2 そこで、生存原告ら及び被害者たる死亡者の具体的慰謝料額について検討判断する。

前記第三ないし第五章、第六章第一節、第七章及び前記第二で認定してきた各事項、すなわち、昭和一二年六月から昭和四八年六月までの全操業期間における栗山工場のクロム酸塩等製造工程の具体的状況、特にその劣悪な作業環境、生存原告ら、右死亡者らの勤務関係・作業内容、被告会社の管理下での労務提供に起因する各種身体障害罹患、加害者と被害者の相互関係(互換性の欠如等)、右の者らが罹患した肺がんを含むクロムによる身体障害の症状・病理・特性等、被告会社の結果予見・予見可能性の状況、結果予見義務違反の内容・程度、結果回避可能性の状況、結果回避義務違反の内容・程度、右死亡者らの病歴・家族関係、生存原告ら、右死亡者らの年令(死亡者については死亡時年令)、更には前記関係証拠から認められる右の者らのその余の個別的事情等を総合考慮すると、本件においては、被告会社の前記加害原因行為に起因して右の者ら、とりわけ右死亡者らが被った被害に対する慰謝料額の判断につき、前記1の許容限度内における最大限の考慮をなし得ると解され、更に、その具体的慰謝料額として次のとおり定めることが相当であると認められる。

なお、前記第七章第三の二2(一)(1)、(2)で認定説示したところに照らせば、原告亡水口、同亡高川を除く生存原告らの慰謝料額は各認定障害全体につき、本件口頭弁論終結時を基準時にして、原告亡水口、同亡高川については同様にその死亡日を基準時にしてそれぞれ定めるほかないと解される。

これに対し、被害者たる死亡者らや原告アサコの慰謝料額については右のような事情になく、一般原則どおり各死亡者の死亡日を基準時にして定めるべきことは当然である。

(一) 生存原告ら

(1) 皮膚炎・皮膚潰瘍・皮膚潰瘍の瘢痕、鼻炎・鼻粘膜潰瘍等、鼻汁過多・鼻出血等の鼻炎類似の慢性的症状、鼻の全般的機能障害又は鼻中隔穿孔の罹患者であって他の認定障害罹患が認められない者  三〇〇万円

別添四九記載のとおり、右に該当するのは原告亡水口のみである。

(2) 右(1)の障害に加えて、気管支・気管・肺の障害の罹患者四〇〇万円

別添四九記載のとおり、右に該当するのは原告渡邊のみである。

(3) 前記(1)の障害に加えて、右(1)で挙げたもの以外の上気道(鼻)の障害及び気管支・気管・肺の障害の罹患者 五〇〇万円

別添四九記載のとおり、右に該当するのは、原告亡水口、同渡邊を除くその余の生存原告二三名である。

以上(1)ないし(3)で認定した慰謝料額については、「別紙慰謝料関係一覧表(一)」(以下「別添五二」という。)記載のとおりである。

(二) 死亡者中村、同中井、同佐藤、同今西、同池田、同工藤いづれも三五〇〇万円が相当である。

(三) 死亡者桜庭

二三三三万三三三三円が相当である。

(四) 原告アサコ

原告アサコの身分関係等については、前記第七章第二の二2で認定したとおりであり、同原告は死亡者櫻庭の死亡につき民法七一一条所定の近親者としての慰謝料請求権を有するところ、その金額は、一一六六万六六六六円が相当である。

以上(二)ないし(四)で認定した慰謝料額については別紙「慰謝料関係一覧表(二)」(以下「別添五三」という。)記載のとおりである。

二  被害者たる死亡者らの相続関係

死亡者中村、同櫻庭、同中井、同佐藤、同今西、同池田、同工藤の死亡の事実及び死亡日については別添五〇記載のとおりであるが、右各死亡者とその遺族原告らとの間の身分関係が別添四の「死亡者との続柄」欄記載のとおりであることは原告らと被告会社との間で争いがない。

したがって、右各遺族原告(原告アサコを除く)は、右欄記載の共同相続人とともに当該死亡者を共同相続して、それぞれ右各死亡者の被告会社に対する前記金額の慰謝料請求権を法定相続分に従って相続したところ、その相続慰謝料額は別添五三記載のとおり(円未満切捨て)である。

第四損害の填補等〔被告会社の抗弁(第五編)第三章、第七編第一部第三章〕

一  労災保険給付

1 労災保険付受給状況

(一) 生存原告ら

生存原告らのうち原告小笠原を除く二四名が栗山工場のクロム酸塩等製造作業におけるクロム被暴、吸入による鼻の障害等の発生について労災の業務上疾病認定を受け、これまで別添三九記載のとおり労災保険給付を受けたことは、被告会社と原告らとの間で争いがない。

(二) 被害者たる死亡者

被害者たる死亡者の遺族原告(以下「関係遺族原告」ともいう。)らのうち、各妻たる遺族原告が、それぞれ当該死亡者の肺がんによる死亡につき前記製造作業におけるクロム被暴、吸入によるものとして労災の業務上死亡認定を受け、これまで別添四〇記載の各給付項目のうち、障害補償一時金、障害特別支給金、休業補償給付、休業特別支給金を除くものの給付を受けたことは被告会社と原告らとの間で争いがなく、前記関係証拠によれば、被害者たる死亡者らが生前その肺がん罹患につき右同様業務上疾病認定を受け、右の障害補償一時金等の四種類の給付を受けていたことが認められる。

2 具体的な控除

(一) 既受給分の控除

被告会社は、妻たる原告らは今後も労災の遺族年金給付を受給する者であるとして、右1(二)の労災保険給付既受給分及び右将来受給分の合計額は、当該死亡者がクロムによる肺がんで死亡したという損害と同一の事由を原因として受ける利益であるから、(厳密な意味での)損益相殺の対象となる利益であり、各妻たる原告らは、その相続した前記慰謝料額(原告アサコはその固有のもの)からあらかじめ右合計額を控除したもののみを自己の損害額としなければならない旨主張する。

他方、これとは正反対に、原告らは、右将来受給分はもとより、労災法一二条の四の保険代位が働かない使用者災害の場合には、生存原告らや妻たる原告らが受けた既受給分の労災保険給付額も、その損害額から控除されるいわれはない旨主張する。

しかるところ、右各主張はいずれも相当ではなく、労災法に基づく保険給付の実質は、使用者の労基法上の災害補償義務の履行を政府が保険給付の形式で行うものであつて、受給権者に対する損害の填補の性質をも有するから、現実に政府が受給権者に対し労災法に基づく保険給付をしたときには、使用者を含め損害賠償義務者はその既給付分の金額の限度で責めを免れると解するのが相当である。

(二) 控除の対象となる遺族原告

被告会社は右(一)の主張のほかに、抗弁としては、既受給分の控除のみの主張をもしているところ、死亡者に係る労災保険給付については、当該給付を受給した妻たる原告らについてのみ損害填補による控除を主張しているが、(死亡者生前の受給分も妻たる原告らについて控除するとする点は別にして)この点は正当であり、妻たる原告ら以外の関係遺族原告につき右控除を行うべきではない。

(三) 労働福祉事業としての支給金の不控除

別添三九記載の生存原告らへの給付項目のうち障害特別支給金、障害特別一時金、休業特別支給金、別添四〇記載の前記各死亡者に係る給付項目のうち遺族特別年金、遺族特別支給金、労災就学援護費、障害特別支給金、休業特別支給金は、いずれも労災法二三条一項に基づく労働福祉事業の一環として支給されるものであり、その支給額を損害額から控除すべきでないと解される。

(四) 具体的控除項目

原告らは、本件では生存原告ら及び妻たる原告らは慰謝料請求をしているのであつて、非財産的損害の填補を目的としない労災保険給付額を右慰謝料額から控除すべきではないと主張するが、前記第三の一1で述べたところに照らせば、同2で認めた慰謝料額から右保険給付額を全く控除しないとすることはできず、別添三九、四〇記載の各給付項目のうち、右(三)で指摘した労働福祉事業に係るもの以外のものの控除の可否については次のとおりになると解される。

(1) 別添三九記載の生存原告らに対する給付項目中障害補償一時金は、その法的性質に照らして控除すべきであるが、生存原告中川の前記慰謝料額の算定に当たつては、その休業損害をも実質的に賠償させるほどには、前記「最大限の考慮」をしていないので、同原告に対する休業補償給付は、これを控除すべきではない。

(2) 別添四〇記載の妻たる原告らに対する給付項目中遺族補償年金、遺族補償年金前払一時金、葬祭料は、いずれも被害者たる死亡者らの死亡に起因する損害を填補するものであるからこれを控除すべきであるが、その生前に右死亡者らに給付された障害補償一時金、休業補償給付はこれを妻たる原告らの相続慰謝料額から控除すべきではない。

二  厚生年金保険給付

1 厚生年金保険給付受給状況

被害者たる死亡者らの妻たる原告らが、当該死亡者の妻(原告アサコは内妻)として、被告会社がその抗弁第三章第二の二1、2で主張する各金額の厚生年金保険遺族年金の給付を受けたことは被告会社と原告らとの間で争いがない。

2 具体的な控除関係について

原告らは、厚生年金法に基づく保険給付も右妻たる原告らの損害額から控除すべきではないと主張するが、右保険給付も労災保険給付と同様に、受給権者の損害填補の実質を有するので、既受給分をその損害額から控除すべきである。

また、原告らは厚生年金法に基づく遺族年金には被保険者(当該死亡者)の負担部分(掛金)があるので、少なくともその対価となる部分は控除すべきでないとも主張するが、厚生年金保険給付は被保険者の負担する保険料と対価性を有しないと解されるから、右主張は採用できない。

右年金既受給額の控除の対象となる遺族原告は、労災保険給付の場合と同様当該給付を受給した妻たる原告らのみであると解され、また、妻たる原告らが相続取得したのは慰謝料請求権ではあるが、前記第三の一1で述べたところに照らせば、妻たる原告らの前記相続慰謝料額(原告アサコはその固有のもの)からも、右年金既受給額を控除すべきであると解される。

三  会社支給金(法定外補償金)

1 生存原告高橋、同小笠原

被告会社の抗弁第三章三の1、2は被告会社と原告らとの間で争いがないところ、右争いのない事実と前記第三の一1で説示したところを併せると、被告会社が原告高橋に支給した九〇万円、同小笠原に支給した二八万円の各法定外補償金等は、それぞれ右各原告の前記各慰謝料額から控除すべきであると解される。

2 被害者たる死亡者

被告会社から、別添四一記載の各死亡者の妻たる原告(原告美恵を除く。)に対し同表「支給額」欄記載の各遺族補償金が交付されたこと、原告じゅん、同喜美子に対し同欄記載の付添料、付添看護料が、同喜美子、同貞子に対し同欄記載の各弔慰金が交付されたことは被告会社と原告らとの間で争いがないところ、右争いのない事実、前記第七章第二の認定事実及び前記関係証拠によれば、右同欄記載の「遺族補償金」とは、前記第七章第二の四で認定した被告会社とその労働組合との労働協約の付則である災害補償協定所定の特別遺族補償一時金又はこれに準ずる法定外補償として、被告会社からその主張の時期に当該妻たる原告らに対し支給されたものであること、同欄記載の付添料、付添看護料、弔慰金、退職金割増金(分)が、被告会社からその主張の時期に当該妻たる原告らに支給されたこと、同欄記載の「見舞金」とは、死亡者中井生存中に、被告会社からその主張の時期に同人に対し右協定に基づく休業補償金として支給されたものであること、また、同欄記載の「障害補償金」も死亡者池田生存中に、被告会社からその主張の時期に同人に対し右協定に基づく障害補償金として支給されたものであることが認められるところ、同欄記載の各支給金が、妻たる原告らを含め関係遺族原告に対する本件不法行為に基づく損害賠償債務の弁済として支払われたことはないと認められるものの、前記第三の一1の説示に照らせば、右各支給金のうち各遺族補償金、付添料、付添看護料、退職金割増金(分)、弔慰金については、当該妻たる原告に対して支払われた支給金であつて、かつ、その損害を実質的に填補するものであると解されるから、その相続慰謝料額(原告アサコについては固有の慰謝料額)から当該支給金額を控除すべきであると解される。

しかし、前記見舞金、障害補償金については、当該死亡者の死亡に起因するものとしての妻たる原告らの右慰謝料額から控除すべきではないと解される。

更に、前記いずれの会社支給金も、別添四一記載の妻たる原告ら以外の関係遺族原告らの前記相続慰謝料額から控除すべきものではないと解される。

第五損害填補後の慰謝料額(認容額)及び生存原告亡水口、同亡高川の死亡、承継

一  損害填補後の慰謝料額

前記第三で認定した各生存原告及び原告アサコの慰謝料額、原告アサコ以外の関係遺族原告が相続取得した慰謝料額から右第四で説示した各損害填補額を控除する過程を示せば、別添五二、五三記載のとおりになるが、別添五三から明らかなとおり、原告キク、同アサコ、同ヨシ子、同貴美恵、同じゆん、同喜美子、同貞子については、その相続慰謝料額の全額が填補されたことになり、この段階で、右各原告の被告会社に対する不法行為に基づく損害賠償請求権は消滅して現存せず、その本訴請求は失当であることが明らかになる。

そして、生存原告らのうち同亡水口、同亡高川を除く二三名の原告については、別添五二記載の各損害填補後の各慰謝料額が、関係遺族原告のうち右七名の(妻たる)原告以外の者については、前記第三で認定した各相続慰謝料額そのものが、それぞれ本訴における被告会社に対するその慰謝料請求認容額であることになる。

二  生存原告亡水口、同亡高川の死亡、承継

1 生存原告亡水口が昭和五三年九月一三日死亡し、その妻である原告水口キクヱ、長女である同水口タヨが原告亡水口を共同相続(訴訟承継)したことは、原告らと被告会社との間で争いがないところ、右両原告は別添五二記載の原告亡水口の損害填補後の慰謝料額を法定相続分に従って相続し、この相続慰謝料額が右両原告の本訴における被告会社に対する慰謝料請求認容額となる。

2 生存原告亡高川が昭和五七年四月二四日死亡し、その二男である原告高川宇一が原告亡高川を単独相続(訴訟承継)したことは、原告らと被告会社との間で争いがないところ、原告高川宇一は別添五二記載の原告亡高川の損害填補後の慰謝料額を全額相続し、この相続慰謝料額が同原告の本訴における被告会社に対する慰謝料請求認容額となる。

三  慰謝料請求認容額

以上の各原告の被告会社に対する慰謝料請求認容額が、別紙「認容金額一覧表」(一)、(二)の各「慰謝料額」欄記載の金額となる。

第六遅延損害金及び弁護士費用

〔請求原因第九章、第二編第九章〕

一  遅延損害金

1 生存原告ら

前記第三の一2で述べたところに照らせば、生存原告亡水口、同亡高川以外の二三名の生存原告らの前記損害賠償請求権については本件口頭弁論終結時である昭和六〇年三月二九日から、原告亡水口、同亡高川に係る右請求権については、前記各死亡時から、それぞれ遅延損害金を付すべきことになる。

2 関係遺族原告ら

前記第三の一2で述べたところに照らせば、被害者たる死亡者らの損害賠償請求権については、一般原則どおり不法行為の時、すなわちその死亡日から遅延損害金を付すべきことになり、(妻たる原告らを除く)被害者たる死亡者の遺族原告らの前記相続に係る右請求権についても同様になる。

二  弁護士費用

本件訴訟の難易度、審理の経過、認容額等諸般の事情を考慮すると、以上認定の各原告の慰謝料請求認容額に対する一割の額(円未満切捨て)が被告会社の本件不法行為と相当因果関係のある損害に当たる弁護士費用であると認められる。

したがって、右慰謝料額に別紙「認容金額一覧表」(一)、(二)の各「弁護士費用」欄記載の金員を加えた額が同表(一)、(二)記載の前記各原告の被告会社に対する請求認容合計額となる。

第七選択的併合請求成否の判断

最後に、以上の認定により、その不法行為に基づく損害賠償請求が一部又は全部棄却されるべきことになる原告らについて、前記第一章第二で述べたところに従つて、本件の選択的併合請求たる被告会社の安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の成否につき検討する。

一  生存原告らの認定障害以外の障害罹患に係る右請求権は、前記第五章第二の認定説示に照らせば、そもそも右障害罹患につき被告会社の債務不履行の事実が認められないことに帰することから、これを認容し得ないことが明らかであり、また、認定障害に係る慰謝料額及びその遅延損害金の起算日については、前記第三の一1、2の説示に照らせば、不法行為の場合と同額、同様になる(右起算日は訴状送達の日の翌日ではないと解される。)と解するほかなく、損害の填補についても、不法行為の場合と別異のものになるわけではない。

二  死亡者松浦、同大渕、同山田の死亡に係る右請求権は、前記第五章第三の認定説示に照らせば、そもそも右各死亡者の死亡につき被告会社の債務不履行の事実が認められないことに帰することから、これを認容し得ないことは明らかであり、また、死亡者小坂の死亡に係る右請求権は、前記第五章第一節第一の三、第三で認定説示したところに照らせば、被告会社の同人に対する安全配慮義務違反には過失がなかつたことに帰することから、これを認容し得ないことは明らかである。

更に、前記第三の一1、2の説示に照らせば、被害者たる死亡者の死亡に係る慰謝料額、損害の填補等についても、不法行為の場合と同額、同様になると解される。なお、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権としては、原告アサコに固有の前記慰謝料請求権はむしろこれを認容し得なくなり、遅延損害金の起算日も前記各死亡日よりも後の日になる。

三  以上によれば、本件においては、更に右請求権の成否につき具体的に判断するまでもなく、被告会社に対する不法行為に基づく損害賠償請求が一部又は全部棄却されるべきことになる原告らの中には、右一部認容額を超え、又は新たに被告会社に対する安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求が認容されるべき者はいないことは明らかである。

第九章  結論

以上、第一章ないし第八章で認定説示したところによれば、別紙「認容金額一覧表」(一)、(二)記載の原告らの被告会社に対する請求は、同表「認容金額」欄記載の各金員及びこのうち同表「慰謝料額」欄記載の各金員に対する同表「遅延損害金の起算日」欄記載の日からそれぞれ各完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるのでこれを認容し、右原告らの被告会社に対するその余の請求及びその余の原告らの被告会社に対する請求はいずれも失当であるからこれを棄却することにし、原告らの被告国に対する請求はいずれも失当であることからこれを棄却することにする。

よって、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条を適用し、仮執行宣言について同法一九六条一項を適用し、仮執行免脱の宣言は相当でないので、これを付さないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判官 伊藤博 中山一郎 出口尚明)

別紙 <略>

別表 <略>

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